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続かなかった男の最後の食堂 〜旧街道に残る、名もなき味〜  作者: U2U


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第10話 旧街道に火を入れろ

 火を入れ直した鍋は、すぐには戻らなかった。


 豆は濁り、根菜はまだばらばらで、香辛料は湯の上に薄く散っていた。ミロは匙を握ったまま、鍋の底を見ている。


 ロアンは、その手から匙を取らなかった。


「俺がやったら、俺の鍋になる」


 ミロが顔を上げた。


 ロアンは鍋を見たまま続けた。


「お前が崩したところは、お前が見ろ」


 ミロは唇を結び、もう1度、鍋の底からゆっくり混ぜた。


 豆が崩れすぎたところ。


 根菜が浮いているところ。


 肉が沈んでいるところ。


 湯の中で居場所をなくした香辛料。


 1つずつ見るには、鍋の中は乱れすぎていた。けれど、ミロは目をそらさなかった。


 ロアンは炉の火を少し弱めた。


「火で追うな。待て」


「はい」


「待って変わらねえものだけ、次に動かせ」


 ミロはうなずいた。


 戸口の方で、足音がした。


 セオだった。


 いつもより息が乱れている。外套の肩に、湿った土が跳ねていた。


「親父さん」


「今度は何だ」


 ロアンは振り返った。


 セオは店の中に入り、戸を閉める。


「新道の崖側で、土が崩れました」


 ミロの手が止まった。


「崩れた?」


「馬車は通れません。人だけなら何とか抜けられるそうですが、荷車は無理です」


 ロアンは眉を動かした。


「どれくらいだ」


「大きな崩れではありません。数日あれば戻ると思います。ただ、今日と明日の荷は旧道へ回されます」


 旧道。


 その言葉が、冷えた店の中に落ちた。


 戸の外を、風が通っていく。


 ロアンは鍋を見た。


 ミロも、セオも、返事を待っている。


「宿場は」


「もう人が入り始めています。店主さんが普通の汁を出していますが、たぶん回りません」


「回らねえだろうな」


 ロアンは短く言った。


 ミロが鍋から手を離しかけた。


「戻ります」


「走るな」


 ロアンの声が飛んだ。


 ミロは足を止める。


「でも」


「鍋を持て。ただし、走るな」


「……はい」


「走って厨房に入ると、火も人も乱れる」


 ミロは、小さな鍋を両手で抱えた。


 セオが戸を開ける。


 外の空気は湿っていた。雨は止んでいるが、道の土は黒く沈み、轍の中に水が残っている。


 3人は旧街道を歩いた。


 新道ができてから、ここを急ぐ者は減った。


 けれど今日は、違った。


 遠くで馬の鼻息が聞こえた。荷車の車輪が、ぬかるみに取られて軋んでいる。濡れた外套を羽織った旅人が、苛立った顔で宿場の方へ歩いていく。


 旧街道に、人の匂いが戻っていた。


 汗と雨。


 濡れた革。


 泥。


 そして、腹を空かせた者の荒い息。


 宿場の入り口は、すでに混んでいた。


 旅人が何人も軒下に立ち、荷運びの男たちが濡れた荷を下ろしている。馬車番は手綱を握ったまま、何かを店主に言っていた。子どもを抱いた女が、戸口の横で小さく肩をすぼめている。


 厨房からは、湯気が上がっていた。


 だが、匂いが薄い。


 湯を増やしすぎている。


 ロアンは宿場の中に入った。


 店主がこちらを見た。


「戻ってきたのか」


「邪魔なら出ていく」


 ロアンはそれだけ言った。


 店主は、厨房の奥を見た。


 大鍋が1つ、強すぎる火にかけられている。若い手伝いが器を並べ、別の手伝いが薪を足そうとしていた。客席では、濡れた旅人が机に肘をついている。


 店主は短く息を吐いた。


「邪魔じゃないなら、いてくれ」


 ロアンはうなずかなかった。


 ただ、厨房に入った。


 いつもなら、すぐ鍋を見る。


 だが、ロアンは最初に客席を見た。


 荷運び。


 馬車番。


 商人。


 子ども連れ。


 年寄りの旅人。


 同じ腹ではない。


 次に、炉を見た。


 火が強い。


 薪の残りは少ない。


 水瓶は半分を切っている。


 穀物の蒸し上がりは、まだ早い。薄焼きパンは籠に残っているが、多くはない。


 ロアンは若い手伝いを見た。


「薪は足すな」


 手伝いがびくりとする。


「でも、鍋が」


「そっちの鍋は弱火に回せ。湯を足しても腹には残らねえ」


 手伝いは戸惑いながらも、薪を下ろした。


 ロアンは店主に言った。


「水を汲む手が先だ。器を洗う手と分けろ」


「分かった」


 店主はすぐ手伝いを呼んだ。


「お前は水。お前は器だ」


 ロアンはミロを見た。


「その鍋は捨てるな」


 ミロは抱えていた小鍋を見下ろした。


「これを使うんですか」


「そのまま出すな。穀物にかける方へ寄せる」


「はい」


「豆を足せ。全部潰すな。残す豆を作れ」


 ミロはうなずき、袋から豆を取った。


 ロアンはその手元を見ていた。


 まだ少し遅い。


 だが、止めなかった。


 客席から声が上がった。


「まだか。すぐ食えるものはないのか」


 濡れた馬車番だった。


 外で馬が待っているのだろう。腰を下ろしているが、落ち着かない。ゆっくり食べる腹ではない。


 ロアンは薄焼きパンの籠を見た。


「そこの薄焼きを温めろ」


 手伝いが慌てて籠を持つ。


「全部ですか」


「全部じゃねえ。湿ってるやつからだ。乾いてるやつは後に回せ」


 ロアンは小鍋を1つ取り、宿場の汁を少し移した。


 そこへ香辛料を少しだけ足す。


 足しすぎない。


 油に当てて、香りが起きたところで火を弱める。


 濃くはしない。


 垂れないだけの重さにする。


 馬車番に出された皿は、薄焼きパンで持ち上げても落ちなかった。


 男は無言で口に入れ、目だけを少し動かした。


「これなら、外で食える」


 ロアンは返事をしなかった。


 ミロはその皿を見ていた。


「見るのは皿じゃねえ」


 ロアンが言う。


 ミロは顔を上げた。


「食う奴を見ろ」


 ミロは客席を見た。


 荷運びの男たちが、濡れた肩を寄せ合って座っている。彼らは馬車番と違い、すぐ立つ必要はない。だが、体を使った後の腹をしている。


 ミロは自分の鍋を見た。


 豆を足した分、少し重さが出ている。まだ香りは弱い。けれど、穀物に絡めば、湯の薄さは隠せる。


 ロアンが横に立つ。


 ミロは一瞬、場所を譲りかけた。


「親父さんがやった方が早いです」


「早いだけならな」


 ミロは手を止めた。


「だが、俺が全部やったら、明日また同じになる」


 ミロは鍋に向き直った。


 匙を入れる。


 底から上へ。


 重いところを逃がさず、薄いところへ移す。


 匙の縁に、煮込みが残る。


 ひと息。


 落ちる。


 ミロは少しだけ息を吐いた。


 穀物にかけた皿を、荷運びの前へ出す。


 男はすぐに食べた。


 1口目で顔をしかめる。


 ミロの肩が強ばった。


 男は水を飲み、もう1口食べた。


「もう少し重くていい」


 ロアンは黙っていた。


 ミロは男の手元を見た。


 穀物はまだ残っている。


 煮込みだけが先に減っている。


 ミロは次の皿で、豆を少しだけ崩した。


 ロアンは何も言わず、炉の火をわずかに弱めた。


 次の荷運びは、黙って皿を空にした。


「穀物、もう少しくれ」


 ミロは顔を上げた。


 ロアンは別の方を見ていた。


 戸口で、子どもが泣き始めた。


 母親が何度も頭を下げている。濡れた外套の下で、子どもの頬だけが赤い。


「辛いものは無理です。少しでいいので、温かいものを」


 店主が困った顔をした。


 普通の汁は薄い。


 煮込みは香辛料がある。


 ロアンは小鍋を1つ出した。


「湯を少し。豆を潰した分だけ入れろ。香辛料は足すな」


 手伝いが動く。


 ロアンは続けた。


「根菜の柔らかいところだけ拾え。肉はいらねえ」


 ミロが横から言った。


「先に腹を温めるんですね」


 ロアンは一瞬だけミロを見た。


「分かってるなら手を動かせ」


「はい」


 子ども用の小鍋は、辛い匂いがほとんどしなかった。


 けれど、豆のとろみが残っていた。


 母親は椀を受け取り、子どもに少しずつ飲ませた。


 泣き声が、小さくなった。


 店の中で、火がいくつも動いていた。


 大鍋。


 小鍋。


 薄焼き用の鍋。


 穀物にかける煮込み。


 誰かが1度に決めたわけではない。


 客が来るたびに、鍋が分かれていった。


 それでも、厨房はさっきより乱れていなかった。


 セオは客席と外を行き来していた。


 軒下にいる旅人の数を数え、馬車の到着を見て、荷の大きさを聞いている。商人らしく、皿の中だけではなく、人の流れを見ていた。


 しばらくして、セオが厨房に戻ってきた。


「ここだけで受けると、潰れます」


 ロアンは鍋から目を離さない。


「なら分けろ」


「どこへ」


 ロアンは旧街道の方を見た。


「火のあるところへだ」


 セオは1度だけ黙った。


 それから、すぐにうなずいた。


「親父さんの店ですね」


「火は入ってる」


「客を回します」


「全部は寄こすな。急ぐ馬車番と荷の少ない旅人だけだ。子ども連れはこっちに残せ。あっちは椅子が足りねえ」


「分かりました」


 セオはすぐに外へ出た。


 ロアンは店主に言った。


「ここはミロが見る」


 店主がミロを見る。


 ミロの手が、鍋の前で1度止まった。


「俺が、ですか」


「鍋を見ろ。客も見ろ。分からなくなったら、火を強くするな。先に匙を上げろ」


 ミロは、黙ってうなずいた。


 ロアンは香辛料袋を取った。


「これは半分置いていく」


「親父さん」


「全部持っていったら、お前の鍋が死ぬ」


 ミロは何か言おうとして、やめた。


 ロアンは宿場を出た。


 旧街道には、さっきより人が増えていた。


 新道を回れなかった者たちが、不満と疲れを抱えたまま、古い道へ押し戻されている。


 ロアンは自分の食堂へ戻った。


 戸を開ける。


 店の中には、まだ炉の熱が残っていた。


 棚の上には、古い職歴の紙が置かれている。


 ロアンはそれを見たが、手には取らなかった。


 鍋を出す。


 残っていた豆を洗い、硬くなりかけた根菜を切る。干し肉を湯に当て、少しずつ戻す。


 宿場から分けてもらった穀物も届いた。


 セオが最初の客を連れてきた。


 泥のついた旅人が2人。


 馬車番が1人。


 若い商人が1人。


 皆、顔に疲れを残している。


「ここでも食えるのか」


 馬車番が聞いた。


 ロアンは炉の前で答えた。


「食えるものは出す」


「何の煮込みだ」


「名前はねえ」


 男は椅子に座った。


 ロアンは鍋を混ぜた。


 小さい鍋だった。


 宿場のように客を多くは受けられない。


 それでも、火は入っている。


 香辛料の匂いが、店の中に立ち始めた。


 くすんだ黄金色。


 穀物にかけるほどの量はない。


 馬車番には薄焼きパンを添えた。


 商人には少し軽くした椀を出した。


 荷を担いできた旅人には、豆を重めにした。


 誰にでも同じものを出せば早い。


 だが、ロアンはそうしなかった。


 早いだけならな。


 夕方に近づくころ、旧街道の雨雲は薄くなっていた。


 宿場の方から、煮込みの匂いが風に乗ってきた。


 ミロの鍋だ。


 ロアンのものより少し薄い。


 香辛料の立ち方も、まだ弱い。


 けれど、豆の濁りは朝より少ない。


 崩れてはいない。


 ロアンは戸口に立ち、宿場の方を見た。


 そこからも湯気が上がっている。


 こちらの炉にも火がある。


 さらに道端では、手伝いたちが小さな火で湯を沸かしていた。濡れた旅人の手を温めるための湯だった。


 旧街道のあちこちに、火があった。


 ロアンは小さく言った。


「……火は残ってるな」


 誰も返事はしなかった。


 返事はいらなかった。


 夜になると、客は少しずつ引いていった。


 新道の崩れを知らせる者が、明日の朝には作業が始まると言っていた。数日もすれば、また多くの馬車は新道へ戻るだろう。


 旧街道に来た人の流れも、長くは続かないかもしれない。


 それでも、ロアンの食堂の炉には火が残っていた。


 宿場の厨房にも、火が残っていた。


 外の小さな湯の火も、まだ赤く揺れていた。


 セオが最後の客を見送って戻ってきた。


「明日も、少しは流れてきます」


「少しでいい」


 ロアンは戸口の看板を見上げた。


 古い看板だった。


 紐は、前に結び直したままだった。何度も外そうとして、そのまま残っていた。


 ロアンは手を伸ばした。


 セオが少しだけ身構える。


 ロアンは紐をほどかなかった。


 緩んでいたところを引き、もう1度、強く結び直した。


 店の中で、鍋が小さく鳴った。


 宿場の方からも、薄い香辛料の匂いが流れてくる。


 その夜、旧街道には、消えかけていた火がいくつも残った。


◆◆◆(第10話 旧街道に火を入れろ)◆◆◆

次回は、名前のなかった煮込みに、ひとつの呼び名が生まれます。

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