第12話 旧街道に残る、名もなき味
雨の季節が過ぎて、旧街道の土は乾いていた。
新道はもう直っている。
荷車の多くは、また新道を通るようになった。速く、平らで、宿場の数も多い。大きな商隊も、急ぎの馬車も、ほとんどはそちらへ戻った。
旧街道に残ったのは、乾いた轍と、低い草と、時々通る旅人の足音だった。
それでも、以前とは少し違っていた。
朝、ロアンの食堂には火が入っていた。
客は多くない。
壁際の席に、旅人が2人。戸口近くに、荷を軽くした商人が1人。湯気の上がる椀を前に、黙って匙を動かしている。
戸口の看板は、まだ外していない。
紐は固く結ばれたままだった。風が吹くと、古い板が小さく鳴る。
「今日は開いてるのか」
旅人の1人が聞いた。
ロアンは鍋を混ぜながら答えた。
「火が入ってるだけだ」
旅人はもう慣れたように、何も言わなかった。
ロアンは鍋の底から、ゆっくり混ぜ返した。
豆は崩れすぎていない。根菜は、腹に残る大きさに切ってある。肉は硬くならないよう、先に湯で起こしてある。
香辛料の匂いは、強すぎない。
薄すぎもしない。
くすんだ黄金色が、鍋の中で重く揺れていた。
昼前、ロアンは火を小さくして、宿場へ向かった。
旧街道の宿場には、小さな木札が出ている。
キャレイあり。
字は少し曲がっていた。
最初に見た時より、板の端が少し黒ずんでいる。何度か雨を浴び、何度か日を浴びたのだろう。それでも、文字はまだ読めた。
厨房では、ミロが若い手伝いに鍋を見せていた。
手伝いは、まだ十代半ばほどに見える。火の前で肩に力が入りすぎている。匙を持つ手も、少し硬い。
ミロはその横に立ち、鍋をのぞいていた。
ロアンは厨房の入り口で足を止めた。
ミロは気づいたが、声をかけなかった。
手伝いが匙で煮込みをすくう。
匙の縁に乗った煮込みは、ほとんど残らず落ちた。
ミロが短く言った。
「速い」
手伝いは慌てて鍋を見た。
「どれくらいですか」
ミロは少し黙った。
ロアンは何も言わなかった。
ミロはもう1度、匙を持ち上げた。
「匙の縁に、ひと息だけ残る」
手伝いは目を細める。
「ひと息……」
「でも、皿を見るな」
ミロは客席を見た。
年寄りの旅人が、椀を両手で持っている。荷運びの男は、穀物を前にして待っている。戸口の近くでは、若い馬車番が薄焼きパンを手にしていた。
「食う人を見る」
手伝いは客席を見た。
それから、自分の鍋を見た。
火を強めようとした手が、一度止まる。
ミロはうなずかなかった。
ただ、手伝いの手元を見ていた。
ロアンは厨房に入らず、その場を離れた。
宿場の外では、セオが荷車の横に立っていた。
荷台には豆の袋と根菜の籠が積まれている。香辛料袋は、湿気を避けるためか、布で包まれていた。
セオは荷主と短く話し、袋の数を確かめている。
「多すぎます」
セオが言った。
荷主は眉をひそめた。
「足りなくなるよりいいだろう」
「余れば湿気を吸います。来週の分まで死なせることになります」
荷主は舌打ちしたが、袋を1つ下ろした。
セオはそれを確認し、帳面に何かを書いた。
ロアンが近づくと、セオは顔を上げた。
「先の宿場は、豆を少し減らしました」
「足りるのか」
「足ります。あそこは薄焼きで出る方が多いので」
ロアンは荷台を見た。
「大きくはならねえな」
セオは少しだけ笑った。
「はい。大きくはなりませんね」
「大きくするもんじゃねえだろ」
「そう思います」
セオは帳面を閉じた。
「最初は、もっと売れると思っていました」
「お前は商人だからな」
「今も商人です」
「なら、売ればいい」
「売りすぎると、たぶん残りません」
ロアンは返事をしなかった。
セオは旧街道の先を見た。
「この道で回る分だけでいいんだと思います。足りなさすぎず、余りすぎず。火が消えないくらいに」
「面倒な商売だな」
「面倒です」
セオは以前と同じように、あっさり認めた。
ロアンは鼻を鳴らし、食堂へ戻った。
午後、客足が切れた頃、ロアンは棚の上に置いた古い紙を手に取った。
黄ばんだ紙だ。
角は丸まり、折り目は深い。
宿屋。
軍の炊事場。
商隊。
倉庫番。
屋台。
貴族屋敷。
そこに並ぶ文字は、前と変わらない。
続かなかった仕事の名だった。
紙の横には、豆の袋がある。
使いかけの香辛料袋もある。
古い木匙と、薄焼きパンを包む布も置いてある。
ロアンは紙をしばらく見た。
笑わなかった。
吐き捨てもしなかった。
木箱には戻さない。
炉にもくべない。
ただ、元の場所へ置いた。
その上に、軽く布をかけた。
夕方近く、若い旅人が1人、食堂に入ってきた。
外套には乾いた土がついている。靴の先は擦れていて、肩の荷は小さい。道に迷ったのか、急ぎの旅ではないのか、顔には疲れが見えた。
「何か、食べられますか」
旅人は戸口で聞いた。
「火は入ってる」
ロアンは答えた。
若い旅人は、少し戸惑いながら席についた。
ロアンは鍋から煮込みをよそった。
穀物の皿ではなく、少し軽い椀にした。旅人の顔色と、手の動きがそう見えたからだ。
椀を置く。
若い旅人は湯気を見た。
「これ、何ですか」
「煮込みだ」
「名前は」
ロアンは少しだけ間を置いた。
「客はキャレイと呼ぶ」
旅人は匙を取った。
1口食べる。
すぐには何も言わなかった。
もう1口食べる。
それから、肩を少し落とした。
「これなら」
旅人は椀を見た。
「もう少し歩けますね」
ロアンは鍋の蓋を少しずらした。
「なら食え」
若い旅人は、黙って食べた。
食べ終わると、椀を両手で戻した。
「先の宿場にもありますか」
「ある」
「同じ味ですか」
「同じじゃねえ」
旅人は少し笑った。
「でも、キャレイなんですね」
ロアンは答えなかった。
旅人は代金を置き、食堂を出た。
旧街道を先へ向かって歩いていく。
夕方の光が、背中の荷を細く照らしていた。
道の途中で、その旅人は別の旅人とすれ違った。
相手は年上の男で、荷を背負い直しながら、ロアンの食堂の方を見ていた。
「この先に食えるところはあるか」
男が聞いた。
若い旅人は振り返った。
「あります。キャレイを食べていくといいです」
「キャレイ?」
「腹が温まる煮込みです」
男は首を傾げた。
若い旅人は少し考え、言い直した。
「もう少し歩ける味です」
男は、食堂の方へ歩いていった。
若い旅人は、そのまま先の宿場へ向かった。
先の宿場にも、小さな木札が出ていた。
キャレイあり。
こちらの字は、宿場のものよりさらに下手だった。けれど、道からは読めた。
厨房では、若い手伝いが小鍋を見ている。
ミロほど手つきはよくない。
ロアンほど香りも立たない。
それでも、鍋には火が入っていた。
客席には、さっきの若い旅人と、別の商人が1人座っている。
若い旅人の前に、薄焼きパンと小さな椀が置かれた。
ロアンの食堂のものとは違う。
宿場のものとも違う。
少し軽く、少し粗い。
けれど、豆のとろみはあった。
香辛料も、湯の上で散ってはいなかった。
若い旅人はそれを食べた。
商人が、椀の中を見て聞いた。
「これ、どこの料理なんですか」
店の者は少し考えた。
それから、肩をすくめた。
「さあな」
商人は眉を上げた。
店の者は鍋の火を見た。
「どこへ行っても続かなかった男がいてな。その男が、この道に置いていった味らしい」
若い旅人は、椀から顔を上げた。
「その人は?」
店の者は小鍋を混ぜた。
「まだ、どこかで火を見てるんじゃねえか」
商人は黙って、椀を手に取った。
夜が来るころ、ロアンの食堂では客が帰っていた。
炉にはまだ火がある。
鍋には、少しだけキャレイが残っていた。
外の旧街道は暗い。
けれど、遠くに宿場の火が見える。
もっと先にも、かすかな明かりが1つある。
ロアンは戸口の看板を見上げた。
紐は緩んでいない。
外すには、少し強く引く必要がある。
ロアンは手を伸ばさなかった。
棚の上には、古い職歴の紙が置いてある。
木箱には戻していない。
捨ててもいない。
そこにある。
ロアンは炉の前に戻った。
鍋を混ぜる。
底から上へ。
重いところから、薄いところへ。
焦らず、急がず。
香辛料の匂いが、静かに立つ。
ロアンは何も言わなかった。
遠くの宿場でも、誰かが鍋を混ぜている。
別の火の上で、別の皿のために、少し違うキャレイが揺れている。
旧街道の小さな火の上で、くすんだ黄金色は、まだ静かに揺れていた。
◆◆◆(第12話 旧街道に残る、名もなき味)◆◆◆
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
全12話、これで完結です。
続かなかった男が、最後に何かを成し遂げる話ではなく、
続かなかった時間の中にあったものが、ひとつの味として残っていく話でした。
ロアンの名前ではなく、旧街道の火と、鍋と、キャレイが残る。
そんな終わりになりました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
もしよろしければ、感想や評価をいただけたら嬉しいです。
どんな味として残ったか、少しでも聞かせていただけたら励みになります。
(後書き修正加筆させて頂きました。)




