3.フィクション
「実はさ」
フードコートの硬い椅子に腰をおろすなり、ダイチは切りだした。
「ちょっと前から、バイト探してたんだけど——」
厳密にいえば、ダイチは「ウッス」くらいの挨拶をしたかもしれないし、ユズキも片手をあげて応えるくらいのことはしたかもしれない。だがいずれにせよ、それはたいした問題ではない。
「どんな?」
ユズキがきくと、ダイチは、待ってました! と内心思ってはいるが、それが表に出ないように、というくらいの抑制的な調子で、
「シュークリームの人気を水増しする仕事」
ユズキはくちびるをにわかに動かした。笑いを我慢しているときの、特有の動かし方で。
平日昼間のショッピングモールは、いつもとは違う場所みたいに見える。
「いや、前からな、あるはずだとは思ってたんだ、そういう仕事が」とダイチは続ける。「エクレアってあるじゃん。俺はもともと、『シュークリームの方がメジャー』みたいな風潮が疑問だったわけ。スペックとしては完全にエクレアの方が上だろ、論理的に考えて。チョコついてるし。細長くて食べやすいしさ、シュークリームより全然ユーザーフレンドリー。普通にやったら勝負になんねえよ」
「だから、誰かがシュークリームの人気を不正に水増ししてると」
「そ、シュークリームみたいな三下が、エクレアを差し置いてこんなデカい顔してんの、これもう大人が仕事としてやってるだろ。だって、食えばわかるわけじゃん。『あ、こっちの方が美味えな、チョコついてるし』つって。完全にスペックで負けてんのに、売り方で勝つみたいな」
「それで、求人はあったの?」
「それがさあ、話はここからなんだよ」ダイチは、重要なトピックに傍線を引くようにいった。「逆だったんだ」
「逆? なんの?」
「つまり、シュークリームの人気を水増ししてるわけじゃなくて、エクレアの人気を下げてたんだ。エクレアアンチを金で雇って、エクレアの陳列だけちょっと雑な感じにしたりとか——」
さて、わざわざ断るまでもないが、この話はまったくの嘘である。
ダイチはバイトを探していないし、エクレアの陳列を雑に見せる求人も確認されていない。少なくとも、今のところは。
彼の話にいくばくかの真実が含まれているとすれば、エクレアに比べてシュークリームが不当に高く評価されているということくらいだ。
「似たような話……いや、どうかな……食べ物つながりなんだけど……」
ユズキが慎重に言葉を選びながら、いった。
「豆腐に刺激を加えて、生命を生み出す研究があって」
と、スマホの画面で見せた論文風のPDFも、彼女がつくった完全なる捏造である。
——現在、工場で生産されているチーズの約3割が、醗酵の過程で意識を獲得している(Pynchon,2025)というのは周知の事実であるが——
ダイチは顔を背けて小さく咳払いをした。作り込んできたな、と思わず吹き出してしまうところだったのを、すんでのところで誤魔化すように。
ユズキはこのチーズの事例を援用して、豆腐に光や振動といった刺激を加えることで、生命を生み出す研究について説明した。
これはトマス・ピンチョンの小説『Shadow Ticket』から着想を得たものだが、ダイチはそんな小説どころか、ピンチョンという作家さえ知らない。しかし、きっとなにかの本から題材を見つけてきたのだろう、と見当をつけている。つけていながら、「えー、俺もうチーズ食えねえんだけど」などと驚いて見せるのである。
週に2、3度、ふたりは特に示し合わせるでもなく、こうしてショッピングモールのフードコートに嘘を持ち寄って、互いに披露しあっている。
この奇妙な習慣が始まったのは、彼らが高校に入学してからひと月ほど、5月の連休が明けてまもなくというくらいのことではなかったか。
ユズキは幼いころから、休み時間といえばひとり教室の隅で本を読んでいるような子どもで、だれかに不愉快な思いをさせたとか、させられたとかいうのでもなしに、自然と孤立していった。
ああ、この子はひとりで本を読むのが好きなのだな、という、いわば周囲の人たちによる善意からの孤立で、彼女はその孤立を愛していたし、そうしたゆるやかな孤立を許す周囲の人たちを愛していた。
授業が終わると、彼女はすぐに学校を出る。
部活のような集団行動に自分は向いていないと自覚していたし、学校という教師たちの支配圏と、家という両親の支配圏——それがとり立てて理不尽でも強権的でもなかったにせよ——の間に、ぽっかりと空いた時空間で、なにか自由みたいなものを味わってみたかった。
限られた時間と小遣いの中で、彼女が彼女なりの自由を精いっぱい謳歌しようと考えた結果たどり着いたのが、家からも学校からもほどよく離れたショッピングモールのフードコートだった。
さて一方、小学生のころから地元クラブチームの優秀なミッドフィルダーとして活躍したダイチがサッカーを辞めたのも、特に理不尽な目にあったとか、誰かと揉めたというようなことではない。
ぼんやりした要素がいくつもあるのだろうけれども、チームスポーツ特有のノリみたいなものに飽きてしまった、というのがいちばん近いかもしれない。
ところが辞めてみて気づいたのは、自分には退屈に対する耐性がないらしいということだった。
空いた時間を愉快に過ごすというのは案外難しいもので、似たような連中と街に繰り出したりもしてみたが、二言目には「マジだりぃ」「女の子呼ぼ」「このメンツ優勝」みたいなコミュニケーションが、陳腐に思えて肌に合わない。
そんなわけで、ふらふらと街をさまよった挙句、なんとなく立ち寄ったのがショッピングモールのフードコートだった。
この人好きのしそうな愛想のいい男子生徒は、放課後のフードコートで、ふと集中をきらして小説から目をはなしたユズキの分厚いメガネのレンズに、彼女の愛すべき孤独を脅かす存在として映った。
文庫本の向こうにクラスの人間模様をそれとなく観察していたユズキは、彼を同じクラス内でもヒエラルキーの上位で独特の立ち位置を確立している男子と見ていて、そういうタイプの人間と会話するための語彙を持ち合わせていなかった。少なくともそう自認していた。
フードコートのBGMに息づかいを隠し、ハンバーガーやラーメンを盆に乗せて行き交う人々に気配を紛れこませ、周囲の風景に擬態することに精を出した。
私は風景の一部。世界の大きなうごめきの中の、ほんのささいな、ひとつの蠕動。宇宙の中の地球の中のニホンの中のこの街の中の、とるにたらぬひとつの点。
だからこちらに気づかないで。気づくな、気づくな気づくな気づくな……——
念じる視線にダイチが気づく。
ユズキはさっと視線を小説に落とす。しかしなにが書いてあるのか分からない。
視界の端にダイチをとらえ、目の前の本からなにか情報を拾い上げようと苦心すればするほど、意識はバベルの図書館に迷い込む。
こっちに来ないで。来るな、来るな来るな来るな来るな……——
ダイチはこちらに近づいて来る。
彼の目が、輝く。単なる好奇心というよりは、もっと切実な、砂漠の中で死に瀕する者が、蜃気楼の中にキャラバンの影を見たような、希望の光に。
しかしその希望に報いる言葉が、ユズキにはない。
心は1.9560399掛ける10の1834097乗冊の本の中から、意味ある言葉を探して膨大な数の六角形の閲覧室を、あちらからこちらへとさまよう。
ほんの1分にも満たない時間のなかで——
「うっす」
ダイチはなんの気負いもなくユズキに声をかけた。厳密にいうなら、彼もほとんど話したことのないクラスメイトに学校の外で話かけるには、相応の勇気を必要とする。しかしその勇気を瞬間的に捻出する術に長けていた。
「その本、どんな? 俺、本ってちゃんと最後まで読んだことないや。面白い?」
ユズキに電撃走る。
ソノ・ホン・ドンナ? イタリア語? ドンナかムッシュか聞いているのか? いやムッシュはフランス語? シニョーレ? 本の性別? 作者の? オレ、とかいってたから、サッカーをやる人だから、マイボマイボ! ああ、もうダメだ、わけが分からない。なにか言わなければ。言語線を切れ! どうせ本なんか読んだことないんだから、サッカーやる人なんて、ほとんど字が読めないんだから、いや、字は読めるか、ちょっとくらいは、なにか言わなければ——
頭の中でユズキがぐるぐるとなにか考えている——しかし彼女自身なにを考えているかわからない——うちに、ダイチはテーブルを挟んで彼女の向かいに腰をおろしている。
「文豪が、出てくるんだけど……列車に乗って——」
あ、本の話だな、とダイチは気づいた。
「その文豪が、死んで——なんで死んだかは、わからないんだけど——、文豪の奥さんが遺品の整理をしてるところに文豪の秘書がやってきて、文豪は秘書と不倫してたらしいってことがわかるんだけど、奥さんとその秘書が急に恋仲になって、2人でマヨルカ島に行って、それで、場面は変わって哲学者のところに青年がやってきて、文豪の目の色についてたずねてるところに、今度は黒いプードルがやってきて、爆発して——ええと……そんな話」
ユズキはそこまでいうと、手にした文庫本に目を落とした。ぜんぜんそんな話ではなかった。
さすがに嘘だとダイチは思ったが、これがまったくのデマカセというのでもなかった。
いや、口から出るにまかせてついた嘘という意味で、デマカセには違いないのだけど、これはユズキが読んできた中でいちばん変テコだと思った小説、ステファン・テメルソンの『缶詰サーディンの謎』から冒頭数十ページ、今ユズキが手元で開いている文庫本のページ数と、おおむね対応するであろうというところまで、あらすじを並べたのだった。
ただ、どうしてそうしたのかということは、本人にもまったく説明ができなかった。
ダイチは、ほう、と思った。
感心したときに、ほう、と思ったことは、これまでの人生で一度もなかったが、このときばかりは思った。
やるやん。
ダイチはすこし考えて、それから慎重に口を開いた。
「訪問販売ってのが、あってさ」いいながら考えた。「いや、昔はあったらしい、ってか、今どきそんなもんねえと思ってたんだけど、こないだ、来て。『壺を、見ていただきたくて』っていうんだわ」
ユズキに再び電撃走る。
この人は、そういう遊びだと解釈したのだ。つまり、互いに嘘をつきあう遊びだと。
否定したい。しかしそのための語彙が浮かばなかった。
たくさんの本を読んできた。周りの同級生より、ずっと多くの言葉に触れてきた。なのに、今いうべき言葉が見当たらないのだ。
「いや、壺なんか実際売ってるとこ見たことねえわ。あれ、なにに使うの?」とダイチはつづける。「怖っ、て思って、『今、お母さんいないから、わかりません』つったんだけど——」
ダイチは、そこでほんの短いあいだ、言葉をとめた。ユズキが、すこし笑ったように見えたからだ。それはひょっとすると彼の勘違いかもしれなかった。それくらい、かすかな表情の変化だった。しかし、それでもいいと思った。
「なんか俺もだんだん気になってきて、『まず、なにに使うんすか』って聞いたらさ、インターホン越しに、『うちのは、他とは違いますんで、いや本当に、他とは違いますんで』の一点張り。もう知りてえと思って、逆に。『いや、どう違うか教えてくんないと』っていったら、『うちのは、もう別世界ですんで』って。比喩だと思うじゃん。だけど、よくよく聞いたら、壺の中が、本当に別世界につながってるっていうわけ。もう、開けたよね、玄関」
ユズキは思わず感心してしまった。確かめようのないことだが、嘘の話に違いない。よくこれほどスラスラ出てくるものだ。
ダイチはがぜん勢いづく。
「玄関開けたら、背中に木の箱背負ってて、あの、薬売り? みたいな感じ、明治時代の。小柄なおっさんでさ、かわいそうに。で、俺ももう気になっちゃってるから、おっさんがその箱から壺出すの見てて。大きさでいうと、炊飯器くらい。白い布で包んであって、その包みを剥がしたら、まあ、壺なんだわ。なんつうか、まあ、壺だな、って感じ。で、おっさんがこっち見て、『手だけでも、入れてみてください』っていうんだよ。『別世界なので』って。怖えなとは思ったけど、気にはなるじゃん。だから、いや、恥ずかしい話、かなりおそるおそるって感じにさ、ゆっくり、手を入れてみたんだよ」
と、ダイチはおそるおそる、壺に手を突っ込む様子をジェスチャーで表す。
「どうだった?」
ユズキは思わずそうたずねた。それほど真に迫っていた。
「ひんやりした」
一体なんだったんだ、この話は、と思うと、ユズキの唇の間から、小さく、ふふッと息が漏れた。そうしてから、自分が笑ったのだと気づいた。
ダイチはそれを見ると、心地よい充足をおぼえた。だが、だから次の約束をしようとか、ラインを交換しようとか、そういうことではないような気がした。
静かに席をたって、「じゃ、また」とだけいった。
それからというもの、もう1年以上、このフードコートで互いに嘘をつきあうだけの関係が続いている。
「こないだ、メルカリにモンゴリアン・デスワームの幼虫が出品されてて——」
「雅楽『越天楽』の再録MVにケンドリック・ラマーがゲスト出演するんだって——」
放課後、ふたりはいつものフードコートで、嘘の話を交わす。またときどき休日の昼間に。あるいは今日みたいに、学校が爆発した日には。
「お経のBメロでアドリブ入れた坊さんが謹慎くらったとかで——」
「親戚のお兄さんがお見合いに行ったら、相手がメスのフンボルト・ペンギンだった話したっけ——」
ユズキはいつか、これらの話をまとめて、本にしたいと考えている。そのときにはもちろん、ダイチと連名で。いつか、それを言い出せるだろうか。
「母さんがバンド始めたんだけど、『アジアン・カンフー・ジェネレーションのバッタもん』って酷評されて——」
「うちのお婆ちゃんが駆け出しのネクロマンサーだったころ——」
ふたりは互いに、どうして相手がこのフードコートにたどり着いたのかを知らない。どんな気持ちで、自分と嘘の会話を続けているのかも。
「中学んときの先輩が、歌って踊れる珍味売りに弟子入りしたらしいんだわ——」
「小さいころこども相撲でぼろ負けして、リベンジする機会をずっとうかがってるんだけど——」
ときどきふたりは、本当の話がしたいな、と思う。本当の話が聞きたいな、と思う。
店内には5年から10年くらい前に流行ったであろうポップスが、安っぽいアレンジで流れている。
「姉ちゃんが美容の専門学校出てんだけど、学校から紹介された求人が牛角だったって——」
「紫陽花の花びらについた朝露だけを小さなビンに集めて、一晩小窓に置いておくと、願いが叶うんだって。でもね、うち、まず小窓がないの——」
ふたりは思う。
たくさんの言葉をもっているのにな。
嘘の話なら、いくらでもできるのにな。




