4.ラテックスの甲羅
ベッドの下からゾウガメが這い出てきたので、思わず動作を止めた。
たぶん、フェルナンディナゾウガメだと思う。
なぜそう思ったかといえば、甲羅の前の方が、上方向に弧を描いて首と頭を覆う“サドルバック型”だったからで、また、一度注意が逸れてしまうと、自分のしていた動作がひどく滑稽でばかばかしいものに思えたからでもある。
というより、僕はそもそもその行為にあまり集中していなかった。
理由を端的にいうとすれば、僕の下になっている女の子が、なんかチクチクしたから。
正直なところ、サボテンと寝ているのではないかというくらいだった。
単に毛深いということではない。剃られた毛が硬く鋭く伸びて、それが結果として僕に刺さるのだ。
そんなふうに考えていること自体が、ひどく不道徳に思えた。
いや、この言い方は十分ではない。
つまり、——この上でなお言葉を選ぶことは、かえってさもしい自己弁護に聞こえるだろうし——率直にいうなら、僕は彼女がチクチクすることを不快に思った。
まず第一に、相手の身体的特徴に快不快の価値判断をくだすという傲慢さ。
——ゾウガメはベッドの下からすっかり這い出て、そのことに自分でもびっくりしたみたいに首をすくめる——
彼女は、僕の美的感覚に照らして、かなりの美人だった。
薄橙色のチークが乗った頬骨のなだらかな起伏であったり、左右3つずつ(しかし左右でそれぞれ位置の違う)ピアスをつけた耳の形であったり、手首の骨の微妙な膨らみの具合であったり、ローライズのジーンズをひっかけた、腰からお尻にかけてのカーブの描き方であったり、そういう外見的な特徴が、僕のなかで具体的な欲望を惹起させたのだ。
つまり、僕は彼女の身体を欲望し、その身体に幻滅して、しかもその責任を彼女自身に負わせている。まるで目を覆うような加害性!
——ゾウガメは、おそるおそるといったていで、ゆっくりと首を持ち上げ、あたりの様子をうかがう——
彼女は僕の腰に手を回して、それを自分の方へと強く引きつけた。
思わず声が漏れる。それは、おろし金の上の大根の気持ちを代弁したものだったけれど、彼女は違う解釈をしたかもしれない。勢いを得たように上体をむくりと起こして、逆に僕を押し倒し、ベッドに押し付けたので。
そもそも——と、僕は考える。
「女性は体毛がない方が衛生的で美しい」というのは、ジェンダー化された美的規範がメディアかなんかによって増幅されたものであって、本来、人間というのは女性でもある程度の体毛が生えているものだろう。
それともなにか? 僕は、彼女が脱毛サロンでしっかり手入れをしていたら満足だったのか? 彼女にはしばらくそういう相手がいなかった、というのを知って、俄然アクセルを踏み込んだくせに?
それは、とんでもない自己矛盾ではないか。
——伸ばしていたゾウガメの首が、高く隆起した甲羅の陰に隠れた。首を引っ込めたというより、自然な位置に落ち着いたという感じで。僕の位置からは、はっきり見えなかったけれど——
君、ゾウガメ飼ってるの? そう聴きたい気持ちもなくはなかった。たぶん、飼っちゃ駄目な種類だと思うし。けれど、彼女はほとんど切実とさえ思えるような真剣さで、僕の下腹部を一生懸命すりおろしている。とてもそんな雰囲気ではない。
だけど、彼女の方がよほど生き物らしいなと思った。僕たちは猿の親戚に過ぎない。交尾のために体毛を始末するなんて、そんな反自然的な、馬鹿げた動物が他にいるだろうか。
僕の「美しい」という感覚はどこからくるのだろう?
液晶画面をひとたび覗き込めば、女優やモデルやアーティスト、インフルエンサーたちが美で殴り合っている。
僕の感じる「美しさ」は、ああいうメディアによって作られたものではなかったか。
——ゾウガメは平らな床の上で、むしろその平坦さをかえって訝しむように、一歩一歩足下を確かめながら歩く——
僕は自分の注意が散漫なことを悟られないように、“その状態”を維持するよう努めた(幸い、僕はそれについてちょっとしたコツを心得ている)。
彼女のざらざらした両腕が僕の頭を抱え込んだ。耳元でささやく声と、彼女の身体のわななきが、その行為において僕が負った責任の、たぶん半分くらいが果たされたことを告げる。
それが彼女の演技でなければの話だけど。
ドラマでは顔の良い男と女が、しかしその外見的な美しさには言及しないという不思議なルールで、「私たちは互いの内面的な美しさに惹かれ合うのです」なんて白々しい芝居をする。
「この人の前では自然体でいられる」とか、「この人とならお互いを高めあえる」とか、そういうことって、「個性を尊重する御社の社風に共感し、ここなら社会に貢献しながら自分も成長していけると感じ——」というのと似ているな、と思う。
——ゾウガメはのっそりと右へ、そしてまた左へ、向きを変えながらコツコツと床にくちばしをあてる——
僕はさも欲望に突き動かされているかのようなていで、ぐったりと脱力した彼女をベッドの上に組み敷いて、この際チクチクするくらいのことは引き受けるにしても、せめて痛くはないというポジションを探す。
——床の素材が食べられないことに気づいたのか、ゾウガメは首を上に伸ばして、ローテーブルをかじる。硬い音がする——
僕には、このゾウガメがオスなのかメスなのか分からなかった。
僕はゾウガメが百年以上生きることを知っていた。しかしこのゾウガメが何歳なのか分からなかった。
アメリカのピザみたいに大きいな、と思った。だけど実際にアメリカのピザを見たことはなかった。
食べ物を探しているみたいではあったけれど、それも「あったらいいな」というくらいの真剣さにしか、僕には見えなかった。
彼、あるいは彼女は、ひょっとしたら地球で最後のフェルナンディナゾウガメなのかもしれなかった。けれど、彼、または彼女は、そのことについて特に悲観しているふうでもなかった。
「君が地球で最後の一匹なんだよ」と言われても、
「ああ、言われてみれば、最近見ないね」で済ましてしまいそうな。
——僕はベッドの上で彼女に覆い被さり、単調な動作を繰り返しながら、ゾウガメを眺めている——
ゾウガメの皮膚は、ゴツゴツして、ザラザラして見えた。背を覆う甲羅はもちろん、手足の質感もそんなで、岩でできた生き物が歩いているみたいな、不思議な感じだった。
——彼女は僕の身体に両脚を絡め、僕の動作と同じリズムで、短くくぐもった声を漏らす——
その声が、快楽から出るのか、苦痛から出るのか、僕にはわからない。
——「大丈夫?」と聞いてみる——
——「続けて」と彼女はいう——
けれど、心地いいから続けてほしいのか、はやく終わらせたいから続けてほしいのか、やはり僕にはわからない。
僕の動物性は、そう遠くないうちに、ラテックス製の袋の中に回収されるだろう。
ゾウガメは首を高く伸ばして、パクパク口を動かす。食べているふりをして空腹をまぎらわすみたいに。それから、のそり、のそりとあたりを歩いて、こちらを向く。
目が合う。
ゾウガメはゆっくりと姿勢を低くして、お腹を床にくっつけ、それから四肢と頭を甲羅の中に引っ込めた。上方向に湾曲したサドルバック型の甲羅の中から、ゾウガメはこちらをじっとうかがっている。
彼、あるいは彼女の表情からは、まったく感情を読み取れなかった。
こちらを警戒しているといわれればそうなのかもしれないし、休んでいるだけだといわれればそんなふうにも見えた。
あるいは僕の方を向いているだけで、実はぜんぜん違うものを見ている、というふうにも。
たとえば、ラテックス製の孤独に隔てられた、僕たちの未来を。




