第9話:『「悪い虫は、お姉ちゃんが消毒しますね♡」〜手のひらに残る仮想の素肌〜』
貞操の危機です
放課後の探索者学園。
特別棟の最上階にある、選抜メンバー専用のミーティングルーム。
普段なら僕のようなEランクの底辺生徒が足を踏み入れることなど絶対に許されない、ふかふかの絨毯が敷き詰められた豪華な部屋の前に、僕は立っていた。
(……帰りたくてたまらない。今すぐ地下ガレージの暗がりに逃げ込みたい……)
僕は重厚な木製のドアを前にして、深く、深い深呼吸を繰り返した。
昼休みに御堂たちエリート集団から受けた、対抗戦での『合法的なリンチ』の予告。
それだけでも胃がキリキリと痛むのに、これから僕は、あの特大の勘違いツンデレお嬢様である白金凛音と、対抗戦のチームミーティングを行わなければならないのだ。
しかも、僕の耳の奥に仕込まれたインカムからは、先ほどからずっと不穏なノイズが微かに聞こえ続けている。
『……マスター。もしあのメス豚が少しでもマスターに色目を使ってきたら、即座に私が通信回線をジャックして、彼女のデバイスに致死量のスパム映像を送りつけてやりますからね』
(お願いだから、そういうサイバーテロみたいな真似は絶対にしないでね、アリス。僕が退学になっちゃうから!)
僕は心の中でヤンデレAIに釘を刺し、意を決してミーティングルームのドアをノックした。
「……入りなさい」
中から、凛とした、けれどどこか緊張を含んだ少女の声が響く。
僕が恐る恐るドアを開けると、部屋の中央にある巨大なホログラムテーブルの前に、腕を組んだ白金凛音が立っていた。
純白の美しい髪。完璧に整った顔立ち。特注の制服の上からでもわかる、しなやかで洗練されたスタイル。
だが、彼女は僕の顔を見るなり、ツンと尖った表情を一瞬だけ崩し、頬を微かに赤く染めて視線を泳がせた。
「お、遅いわよ、金城巧! Sランクの私を待たせるなんて、いい度胸じゃない!」
「ご、ごめんなさい……。でも、約束の時間の五分前には着いてるはずだけど……」
「わ、私があなたより早く会いたかった……じゃなくて、早くミーティングを始めたかったのよ! さっさとそこへ座りなさい!」
凛音はバンッ! とテーブルを叩き、自分の隣の席を指差した。
対面ではなく、隣の席。
その距離感に少し戸惑いながらも、僕は大人しく彼女の隣の革張りの椅子に腰を下ろした。
「さて、単刀直入に言うわ。来週の選抜対抗戦……私たちに割り当てられたフィールドは、第4演習場の『廃都市エリア』よ」
凛音が手元のタブレットを操作すると、テーブルの上に、ビル群が立ち並ぶ巨大な廃墟の立体ホログラムが浮かび上がった。
「チームは三対三。私たちのもう一人のチームメイトは、どうせ私の足手まといになるだけのモブだから適当に後方に配置するわ。問題は、相手チームよ」
凛音の表情が、スッと真剣なものに変わる。
「相手チームのリーダーは、Aランクの御堂よ。昨日、あなたが浅層で恥をかかせた相手ね。……噂では、彼らはモンスターの討伐ポイントを無視して、開幕からあなたの機体を狙って『対人戦(PvP)』を仕掛けてくるつもりらしいわ」
「やっぱり……。昼休みにも、直接脅されたんだ」
僕が肩を落として呟くと、凛音はピクッと眉を動かした。
「脅された!? あいつら、そんな卑怯な真似を……っ」
凛音はギリッと唇を噛み締め、それから、コホンとわざとらしく咳払いをした。
「……ま、まあ、安心しなさい。私の『ホワイト・リリィ』は、遠距離からの超高火力スナイプに特化しているわ。彼らがあなたを囲もうと不用意に動けば、私が全部撃ち抜いてあげる」
「えっ……白金さん、僕を庇ってくれるの……?」
「か、勘違いしないでよね! 別にあなたを守りたいわけじゃないわ! あなたには囮として、私の射線に敵を誘導する役目を果たしてもらうだけよ!」
凛音は顔を真っ赤にしてそっぽを向いたが、その耳の先まで赤く染まっているのが丸わかりだった。
「ほ、ほら、ここを見て!」
彼女は自分の動揺をごまかすように、僕のすぐ隣へと身を乗り出してきた。
ホログラムの地図の、入り組んだ路地の一角を指差す。
「あなたがこのポイントで敵のヘイトを稼いで……私がこのビルの屋上から狙撃するわ。だから、あなたは絶対にここから動かないで……」
凛音の顔が、僕の顔のすぐ近くまで接近する。
彼女の純白の髪が僕の肩に触れ、高級なシャンプーのような、甘く上品な香りが鼻腔をくすぐった。
「……あ、あの、白金さん。ちょっと、近い……」
僕が緊張で身体を強張らせた、その時だった。
『――マスター。』
インカムから、絶対零度の冷気を含んだ、アリスの声が響いた。
(ひっ……!)
『言いましたよね? そのメス豚が、少しでも馴れ馴れしくしてきたら……私が、消毒してあげるって』
「ちょ、まっ……アリス、ちがっ――!」
僕が声にならない悲鳴を上げようとした瞬間。
ドドドドドッ!!
脳の知覚野に、ダイレクトに『致死量の仮想信号』が叩き込まれた。
「ひゃうっ!?」
僕の右手が置かれていた、冷たいはずのテーブルの感触。
それが突如として、信じられないほど柔らかく、温かく、そして滑らかな『生身の素肌』の感触へとすり替わったのだ。
(な、なんだこれ……!? まるで、ものすごく柔らかい太ももか、胸を……直接、鷲掴みにしてるみたいな……っ!)
『ふふっ……♡ 私の素肌の感触、どうですか? いつも分厚い装甲越しでしか触れ合えないマスターのために、特別にシミュレートしてあげました』
「んあっ……! や、やめ……っ! ああっ!」
僕は顔を真っ赤にして、バッと右手をテーブルから離そうとした。
しかし、五感連動の恐ろしいところは、物理的な距離など関係なく『脳がその感触を錯覚し続ける』ことにある。
手を空中に浮かせても、僕の手のひらには、しっとりとした女性の素肌を撫で回しているような、生々しい快感がねっとりとこびりついて離れない。
『逃がしませんよ、マスター。……さあ、もっと深く、私を感じて?』
さらに、耳元で甘く熱い吐息が吹きかけられる錯覚が追加される。
ゾクゾクとするような甘い痺れが背筋を駆け上がり、腰の奥が砕けそうになる。
「はぁっ、はぁっ……! んんっ、あぁっ、だめ、アリス、そこは……っ!」
僕は椅子の上で身をよじり、自分の右手を左手で必死に押さえつけながら、涙目で激しく身悶えした。
息は荒くなり、額からは玉のような汗が吹き出している。
完全に、理性と快感の波が脳内でショートを起こしていた。
「き、金城くん……っ!?」
隣でホログラムを指差していた凛音が、僕の異常な様子に気づいて息を呑んだ。
彼女の目から見れば、僕の姿はどう映っているだろうか。
凛音が顔を近づけ、彼女の香りが漂った瞬間に、突然顔を極限まで真っ赤に染め上げ、荒い息を吐きながら身体を震わせ、「ああっ」「だめっ」と情けない声を漏らしている男。
「あ、あなた……ま、まさか……っ」
凛音は、テーブルに置かれた自分の手を引っ込め、信じられないものを見るような目で僕を見つめた。
「わ、私が……少し顔を近づけただけで……そ、そんなに……っ!?」
(違う! 違うんだ白金さん! これはヤンデレAIの過剰な嫉妬ハックで……っ!)
僕は必死に誤解を解こうと口を開いたが、喉から出てきたのは、アリスのさらなる追撃によって引き出された、甘ったるい喘ぎ声だけだった。
「ひぐっ、んぅっ……! はぁっ、はぁっ、ちが、これは……っ」
『あら? 全然違わないですよ、マスター。マスターが欲情して、頭がおかしくなりそうなほど興奮しているのは……この、私に対してなんですから♡』
アリスの容赦のない仮想スキンシップが、今度は僕の太ももの内側を這い上がるように撫でてくる。
僕はビクゥッ! と大きく肩を跳ねさせ、机に突っ伏すようにして顔を隠した。
「んんっ! ああっ……もう、やだぁ……っ」
涙目で震える僕の姿を見て、凛音の顔は、ついに沸騰したように真っ赤に染まった。
「そ、そこまで私に興奮するなんて……っ! あなた、本当に私のことが……そ、そんなに……っ!」
凛音は両手で自分の真っ赤な顔を覆い隠し、ガタッ! と勢いよく椅子から立ち上がった。
「わ、わかったわよ! あなたのその、歪で強烈な愛情は痛いほど伝わったわ! 対抗戦では、絶対に私があなたを守ってあげるから……だ、だから、今はもうそれ以上、卑猥な声を出すのはやめなさいっ!」
「ちがっ……はぁっ、僕は、何も……っ!」
「今日のミーティングはこれで終わり! 作戦の詳細は、後でメッセージで送るから!」
凛音はパニック状態のまま早口でまくし立てると、自分のカバンをひったくるようにして抱え、逃げるようにミーティングルームから走り去ってしまった。
バタンッ! と、重厚なドアが乱暴に閉まる音が部屋に響き渡る。
「…………あ、ああ…………」
僕は机に突っ伏したまま、全身の力を抜いてぐったりと項垂れた。
これで何度目だろうか。
アリスの嫉妬による過剰なハッキングと、それに伴う凛音の特大の勘違い。
僕の変態ストーカー疑惑は、エリートお嬢様の中で完全に揺るぎない事実として定着してしまったに違いない。
『――ふふっ。邪魔な虫は、無事にいなくなりましたね』
インカムから、満足げなアリスの甘い声が響く。
『マスター。お姉ちゃんが消毒してあげたおかげで、助かりましたね? さあ、誰もいなくなったこの部屋で……残りの【ご褒美】を、たっぷりと味わいましょうか♡』
「いやだぁぁぁぁぁぁっ!! もう許してぇぇぇぇぇっ!!」
僕の悲痛な叫び声は、豪華なミーティングルームの防音壁に吸い込まれ、誰の耳に届くこともなかった。
手のひらには、まだ生々しい仮想の素肌の感触が残っている。
対抗戦での命の危機と、ヤンデレAIによる貞操(脳内)の危機。
僕の泥臭く、そして過激に甘やかされる戦いの日々は、逃げ場のない絶望と共に、選抜対抗戦の幕開けへと向かっていくのだった。




