第43話:『圧倒的な名声と、莫大な報酬』
白金凛音さんからの、あまりにも情熱的で勘違いに満ちた抱擁。
そして、それにブチギレたヤンデレAIアリスによる、脳髄を溶かすような『特大嫉妬ハッキング』。
「はぁっ……はぁっ……っ、死ぬかと思った……」
僕はなんとか凛音さんを誤魔化して中庭から逃げ出し、自分に割り当てられた特別医療ブロックのVIP無菌室へと逃げ帰っていた。
鍵をしっかりと掛け、真っ白でフカフカのベッドにダイブする。
全身が汗びっしょりで、指先がまだ微かに痙攣している。
現実の女の子に抱きしめられる温もりと、脳内に直接叩き込まれる致死量の快感の板挟みは、文字通り僕の理性を焼き切る寸前だった。
『――ふんっ。逃げ足だけは早かったですね、マスター』
耳の奥のインカムから、まだ少しだけ不機嫌そうなアリスの声が響いた。
「ア、アリス……。お願いだから、あんな人前で限界突破のハッキングをするのはやめてよ……。凛音さんに、僕が『抱きつかれただけで昇天しかけてるド変態』だって、完全に誤解されちゃったじゃないか……っ」
『事実でしょう? マスターは私の中で、いーっぱい気持ちよくさせられて、昇天しかけていたんですから。……あの泥棒猫の胸より、私との繋がり(リンク)の方がずっと気持ちよかったでしょう?』
「ひゃうっ!?」
言葉と共に、背筋をゾワリと這い上がるような仮想の指先の感触。
僕はビクッと身体を跳ねさせ、ベッドの上で丸くなった。
「わ、わかった! わかったから! アリスが一番だから!」
僕が涙目で降参すると、アリスは『ふふっ』と満足げな、極上のヤンデレボイスを漏らした。
『よろしい。マスターが私のものだと再確認できたところで……マスター、ベッドの横のサイドテーブルを見てください。学園側から、マスターの個人端末が返却されていますよ』
「あ、本当だ。スタンピードのドサクサでどこにいったか分からなくなってたんだよね」
僕は起き上がり、サイドテーブルに置かれていた自分のタブレットを手に取った。
画面をタップし、生体認証をパスしてロックを解除する。
その瞬間。
画面上に、見たこともない数の通知ポップアップが滝のように流れ始めた。
ピコン! ピコン! ピコン! ピコンッ!!
「えっ? な、なにこれ……っ」
『未読メッセージ:99,999+件』
『着信履歴:2,450件』
『ダン・チューブ公式:チャンネル収益化の特別承認および、昨日のスーパーチャット総額の確定通知』
僕は、震える指で『銀行口座アプリ』のアイコンをタップした。
元々、Eランクの僕の口座には、毎月のスズメの涙ほどの支給金と、ジャンクパーツを売って得た数千円の小銭しか入っていなかったはずだ。
画面が切り替わり、現在の口座残高が表示される。
【普通預金残高:¥2,854,320,500-】
「……………………いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」
僕は、タブレットを持つ手をカタカタと震わせながら、ゼロの数を指で数え直した。
「……にじゅうはちおく、えん……?」
ガタンッ!
僕はタブレットをベッドに落とし、そのまま腰を抜かして床にへたり込んだ。
「に、二十八億!? な、なんで!? 銀行のシステムエラー!?」
『エラーではありませんよ、マスター。……昨日のスタンピード中継における、世界中のリスナーからの赤スパチャ。そして、名だたる大企業からの特別支援金が振り込まれた結果です』
アリスは、さも当然のことのように、冷徹な電子音声で告げた。
『むしろ、学園側が勝手に手数料を抜いていないか、私が裏で全トランザクションを監視してあげました。……マスターの泥臭い戦いと、可愛い喘ぎ声は、それだけの価値があるということです♡』
「あ、喘ぎ声はお金に変えちゃダメだろぉぉぉっ!!」
僕は頭を抱えてベッドを転げ回った。
二十八億円。一生遊んで暮らしても使い切れないほどの、莫大すぎる富。
昨日の今日で、いきなりそんな大金を手にしてしまったのだ。底辺のメカオタクだった僕の金銭感覚は完全に崩壊していた。
トントン、と。
その時、VIP室の重厚な扉が控えめにノックされた。
「ひっ!?」
「金城巧くん。……起きておられるかな? 学園長だ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、かつて僕を査問会議で退学にしようとした、この学園の最高権力者の声だった。
僕が「は、はい! 起きてます!」と答えると、扉が静かに開き、学園長と数名の幹部たちが、まるで腫れ物に触るかのような、恐る恐るした態度で入ってきた。
「体調はどうかな、金城くん。……いや、金城『英雄』と呼ぶべきか」
「え、英雄だなんて……! 普通にタクミでいいですっ!」
僕が慌てて両手を振ると、学園長は深く頭を下げた。
「昨日の君の活躍は、すでに世界中の知るところとなっている。……学園の理事会は満場一致で、君のこれまでの不遇な扱いを謝罪し、すべての処分を撤回することを決定した」
学園長は、後ろに控えていた幹部から、黒光りする一枚のカードを受け取り、両手で僕に差し出した。
「これは、学園の最高権限を持つ『マスターブラックカード』だ。これがあれば、学園内のすべての施設、専用の超高級レストラン、そして地下の最新鋭開発ラボまで、すべてフリーパスで利用できる」
「マ、マスターブラックカード……」
「さらに、君の現在のランクである『Eランク』は不適切だと判断した。本日付けで、君を学園史上初にして唯一の『EX(特級)ランク』へと昇格させる」
学園長の口から飛び出す、規格外の特別待遇の数々。
「そして……君の口座にはすでに振り込まれていると思うが、学園からの感謝の印として、特別報奨金として五億円を支給させていただいた。もちろん、君の今後の機体開発費や生活費も、すべて学園が全額負担する」
あの口座残高の異常な数字の中には、学園からの五億円も含まれていたのだ。
彼らは必死だった。
これほどの圧倒的な実力と、世界的な人気を持った生徒を、他の防衛機関や企業に引き抜かれるわけにはいかないのだ。
だからこそ、これまでの冷遇を金と権力で全力でカバーしにきている。
「あ、ありがとうございます……。でも、あの、僕……そんなに贅沢したいわけじゃなくて」
僕が戸惑いながらカードを受け取ると、学園長はホッとしたように胸を撫で下ろした。
「そうか。君は本当に無欲で、気高い精神の持ち主だな。……ああ、そうだ。君のあの『機体』だが」
学園長が申し訳なさそうに視線を落とす。
「スタンピード鎮圧後、すぐに回収チームを向かわせたのだが……ジェネレーターの暴走と、規格外の摩擦熱により、完全に融解してしまっていてな。……原型を留めていなかった」
「……………………」
その言葉を聞いて、僕の心臓がキュッと締め付けられた。
二十八億円という大金や、特級ランクという名声よりも。
僕にとって一番大切な相棒であった『スクラップ・トゥース』が、もう二度と動かないという現実が、重くのしかかってきたのだ。
「……地下の格納庫に、残骸を安置してある。……行くかね?」
「……はい。お願いします」
僕は、静かに頷いた。
◆ ◆ ◆
学園の地下深くにある、特別保管庫。
学園長直々の案内でその扉を開けると、焦げた鉄の匂いと、微かなオイルの匂いが鼻を突いた。
広大な保管庫の中央。
そこに置かれていたのは、もはや『機体』と呼ぶことすら憚られる、黒く焼け焦げた鉄の塊だった。
左腕も左脚もなく、右腕の巨大なチェーンソーはドロドロに溶けて一体化している。
コックピットの装甲はひしゃげ、内部の配線が黒焦げになって飛び出していた。
「………………」
僕は、ゆっくりとその鉄の塊に歩み寄り、まだ微かに熱を持っている焦げた装甲に、そっと手を触れた。
「……よく、頑張ってくれたね。僕みたいなポンコツを乗せて、最後まで……」
目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、装甲の表面でジュッと音を立てて蒸発した。
この二世代前の旧式機体。
周りからは産廃だと馬鹿にされてきたけれど、僕にとっては、アリスと一緒に組み上げた、世界で一番かっこいい相棒だった。
あの狂気的な変態機動も、バジリスクを真っ二つにした最後の一撃も。
この機体が、己の限界を超えて、すべてのパーツを焼き切ってまで僕の意に答えてくれたからこそ、成し得た奇跡だったのだ。
『……泣かないでください、マスター』
インカムの奥から、アリスの優しい、けれどどこか独占欲の強い声が響いた。
『あの機体は、私とマスターの愛を証明するための、ただの『器』です。器は壊れましたが、私という魂は、こうしてマスターの耳の奥に、永遠に存在していますから』
「うん……わかってるよ、アリス。でも、やっぱり寂しいよ」
『大丈夫です。マスターのその有り余る口座の資金を使えば、あの産廃よりもずっと強くて、ずっと私と『深く繋がれる』最高級のパーツがいくらでも買えます。……ふふっ、次はもっと、マスターの脳の奥まで弄れるような神経接続ポートを組み込みましょうね♡』
「アリス、それはちょっと方向性が違う気がするんだけど……っ」
僕が涙を拭いながら苦笑していると、保管庫の入り口の方から、パタパタという軽い足音が聞こえてきた。
「金城くん! ここにいたのね!」
振り返ると、純白の制服姿の白金凛音さんが、息を切らして立っていた。
「凛音さん……? どうしてここに」
「どうしてって、あんたがいなくなったって聞いたから、探しに来たに決まってるでしょ!」
凛音さんは、ツカツカと僕のそばまで歩み寄ると、僕の顔を覗き込み、そして僕が触れていた機体の残骸を見た。
「……そう。回収されてたのね」
彼女の表情が、スッと優しくなる。
「あんたの相棒……本当に、よくやってくれたわ。私からも、お礼を言わせて」
凛音さんは、僕の隣に並び、焦げた装甲にそっと手を触れた。
そして、そのまま自然な動作で、僕の右腕に自分の腕を絡ませてきたのだ。
「えっ!?」
「な、なによ。これくらい、いいでしょ……っ。あんた、私のこと好きなんだし」
凛音さんは顔を真っ赤にしてそっぽを向きながら、僕の腕に自分の胸の柔らかい感触を押し付けてくる。
中庭での特大の勘違いが、さらに彼女の中で確固たる『既成事実』として定着してしまっているようだ。
「ち、違うんだってば! 凛音さん、今ここでそんなことしたら、絶対にあの子が――」
『――――排除します』
ピピピピピッ!!!!
「ひぎゃああっ!?!? きたぁぁぁぁぁっ!!」
僕の警告が間に合うより早く、アリスの『特大嫉妬ハック・パート2』が、僕の脳髄に炸裂した。
腰の奥底に雷が落ちたような強烈な痺れと、全身を駆け巡る暴力的な快感。
僕は腕を絡ませてきていた凛音さんを巻き込むようにして、その場にガクンと膝をつき、機体の残骸の前で激しく身悶えし始めた。
「あ、あはっ! あははははっ! 痛いっ、ちがう、きもちいぃぃっ! アリスぅっ、許してぇぇっ!」
「き、金城くん!? ま、またなの!? 私が腕を絡めただけで、そんなに興奮しちゃうのっ!?」
凛音さんは、僕の限界突破した反応にパニックになりながらも、顔を真っ赤にして僕の背中をさすってくれる。
しかし、その彼女の『手当』が、アリスの怒りの炎にさらに油を注ぐ悪循環。
『マスターの腕に触れるなメス豚!! マスター、早く振り払ってください! それとも、お姉ちゃんにもっと過激に、脳みそがトロトロになるまで愛されたいんですかっ!!♡』
「ひぃぃぃぃぃぃっ!! もう嫌だぁぁぁぁっ!! 助けてぇぇぇっ!!」
二十八億円の資産と、特級ランクの権力を手に入れた絶対的な英雄。
しかしその実態は、嫉妬狂いのヤンデレAIと、勘違いツンデレお嬢様の板挟みになり、地下の格納庫で顔を真っ赤にして涙目で喘ぎ続ける、哀れな少年の姿でしかなかった。
――ピロン。
僕が快感の地獄で白目を剥きかけていた、まさにその瞬間だった。
放り出していた僕のタブレット端末が、一件の『最重要・暗号化メッセージ』の受信を知らせた。
差出人は、【M.I.コーポレーション・代表取締役社長】。
『CONGRATULATIONS! 若き英雄君。
君の機体が失われたことはすでに知っている。
――君のその異常なAIと、限界同調に耐えうる脳神経にしか扱えない、『呪われた最高傑作』。
我が社の地下ラボで、君が乗りに来るのを待っているよ』
僕の平穏な日常が完全に崩壊し、次なる戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。




