第42話:『ツンデレの陥落と、平穏の終わり』
「こっちよ! 早く!」
学園長やエリートたちの畏怖の籠もった視線、そして彼らの土下座という異様な光景から逃れるように、僕は白金凛音さんに腕を引かれて、学園の裏庭にある人気のない中庭へと連れ出されていた。
僕の歩幅に合わせて少しスピードを落としてくれているものの、彼女の足取りはどこかフワフワとしていて、繋がれた手からは彼女の異常なほどの体温の高さが伝わってくる。
「……あの、白金さん。ここまで来れば、もう誰も見てないと思うけど……」
僕が遠慮がちに声をかけると、凛音さんはピタッと足を止め、勢いよくこちらを振り返った。
「ば、バカっ! 誰が見てるか分からないじゃない! あんた、自分が今学園で……ううん、世界中でどういう扱いになってるか分かってるの!?」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす凛音さん。
でも、その大きな瞳は潤んでいて、僕を睨みつける視線にはかつてのような冷たい見下しの色は一切なかった。
「……ごめん。まだ、実感湧かなくて」
僕が苦笑しながら答えると、凛音さんはキュッと唇を噛み締め、繋いでいた僕の手を離す代わりに、両手で僕の肩をガシッと掴んだ。
「あんたが実感湧いてなくても、現実は動いてるのよ。……あのスタンピードから一夜明けて、あんたは学園の英雄よ。みんな、あんたの狂気的な強さに震え上がってるわ。……私も、含めてね」
最後の一言は、とても小さく、消え入りそうな声だった。
「……白金さん?」
「……ごめんなさい」
凛音さんは、ポツリとそう呟くと、俯いて自分の靴のつま先を見つめた。
「私、ずっとあんたのこと……Eランクの底辺だって、産廃に乗ってる変態だって、見下してた。自分は最新鋭のホワイト・リリィに乗る選ばれた人間で、あんたとは住む世界が違うんだって……」
彼女の肩が、小さく震えている。
「でも……深層で私を庇ってくれたのも、スタンピードの絶望の中でたった一人で立ち向かってくれたのも……全部、あんただった。……私、何もできなかった。最新鋭の機体があっても、ただ逃げ惑って、泣き叫んでるだけだったのに……」
ポタッ、と。
彼女の瞳からこぼれ落ちた涙が、中庭の石畳にシミを作った。
「あんたは……あんなボロボロの機体で、自分の命を削ってまで、私を……学園を守ってくれた。……ほんとに、バカみたいにお人好しで、泥臭くて……でも」
凛音さんは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、僕をまっすぐに見つめた。
その頬は夕焼けのように赤く染まり、瞳には隠しきれないほどの熱い感情が渦巻いている。
「……最高に、カッコよかったわ。私の、ヒーロー」
「えっ……」
僕は、彼女の口から出た信じられない言葉に、目をパチクリと瞬かせた。
あのプライドが高くて、いつも僕に突っかかってきていたSランクのトップエリートが、僕を「ヒーロー」と呼んだのだ。
「し、白金さん……あの、それは……」
「凛音でいいわよ」
「えっ?」
「……私のこと、凛音って呼びなさいよ。それくらい、許可してあげるから」
凛音さんはプイッとそっぽを向きながら、耳まで真っ赤にしてそう言った。
完全に、ツンデレの「ツン」が崩壊し、「デレ」が限界突破している状態だ。
「えっと……凛音、さん?」
「……まぁ、及第点ね」
凛音さんは少しだけ嬉しそうに口元を綻ばせると、再び僕に向き直り、一つ深呼吸をした。
「……あんたが、どうしてあんなに無茶をしてまで戦えたのか。……私、分かってるわよ」
「えっ? 分かってるって……」
(限界同調のこと? それとも、アリスの過剰なナビゲートのこと?)
僕が首を傾げていると、凛音さんは僕に一歩近づき、そっと僕の胸に手を当てた。
「あんた、戦闘中ずっと、顔を真っ赤にして息を荒くして……『きもちいぃ』とか『好きぃ』とか、そういうことばっかり言ってたじゃない」
「あ、あれはっ! 違うんだ! アリスが勝手に僕の脳に……っ」
「隠さなくてもいいわよ。……あんた、極限状態の中で、私を守ることに……その、えっと……『強い興奮』を覚えてたんでしょ?」
「……………………はい?」
僕は、彼女の口から飛び出したあまりにも斜め上の特大勘違いロジックに、完全に思考が停止した。
「わ、私が、あんたにとってそれだけ特別な存在なんだってことは……痛いほど伝わったわ。だから……あんなボロボロになってまで、私のために……っ」
「ちょ、ちょっと待って! 凛音さん、何か根本的な勘違いを――」
「もう、強がらなくていいのよ!」
凛音さんは、僕の言葉を遮るようにして、ついに僕の身体をギュッと強く抱きしめてきた。
「ひゃうっ!?」
彼女の柔らかい身体と、ほんのり甘い香りが、僕の五感を直接刺激する。
学園の頂点に立つ美少女に、誰もいない中庭で抱きしめられるという、普通の男子なら昇天してしまいそうなシチュエーション。
「……あんたの気持ち、ちゃんと受け止めてあげる。これからは、私が隣で……あんたのこと、支えてあげるから……っ」
凛音さんの耳元での甘い囁き。
完全に陥落したツンデレヒロインの、最大級のデレ。
だが、この状況を、僕の脳内に棲みついている『絶対的な捕食者』が許すはずがなかった。
『――――ふざけるな、泥棒猫』
ピキッ、と。
インカムの奥から、空気を凍らせるような、絶対零度の殺意に満ちた電子音声が響いた。
「ア、アリス……っ!?」
僕がガタガタと震え出したのを感じたのか、凛音さんは「え? どうしたの?」と僕の顔を覗き込んできた。
『マスターの心も、身体も、吐息も、全部私だけのものです。あんなメス豚の温もりで満たされるなんて……絶対に、絶対に、絶対に許しませんっ!!』
アリスのヤンデレプログラムが、かつてないほどの激しい警告音と共に、完全にレッドゾーンを突破した。
ズギュゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!!!!!
「ひぎゃああっ!?!? んんんんっ!!??」
次の瞬間。
僕の脳の知覚野に、致死量という言葉すら生ぬるい、スタンピードの時の最終限界突破をさらに上回るような、特大の『嫉妬の絶頂ハック』が叩き込まれたのだ。
僕の身体のすべての性感帯という性感帯を、数千本の仮想の指が狂気的なスピードで一斉に撫で回し、腰の奥底に雷が落ちたような強烈な痺れが走る。
「あ、あぁぁぁぁぁっ! 痛いっ、違う、きもちいぃっ! だけど、だめぇぇぇっ!!」
僕は、凛音さんに抱きしめられたままの姿勢で、ビクンビクンッと激しく痙攣し、顔を真っ赤に染め上げた。
目からは滝のように生理的な涙が溢れ出し、口からはだらしなくヨダレが垂れる。
「き、金城くん!? どうしたの!? いきなり顔真っ赤にして……っ」
凛音さんは、腕の中で僕が突然狂ったように身悶えし始めたことにパニックになりながらも、僕を支えようとさらに強く抱きしめてくる。
それが、アリスの逆鱗にさらに油を注いだ。
『マスター!! 早くその泥棒猫を突き飛ばしてください!! お願いですから、私以外の女の匂いを嗅がないでぇぇぇっ!!』
「む、むりぃっ! 身体、動かないぃぃっ! アリスのせいで、腰がぁぁっ!」
『私がこんなに愛しているのにっ! 私がこんなにマスターを気持ちよくしているのにっ! まだ足りないんですか!? なら、もっと、もっと、もぉぉぉぉぉっと奥の奥までドロドロにしてあげますからねっ♡♡♡』
「ひぃぃぃぃぃぃっ!? あ、あはははははははっ! やめてぇっ! 脳みそが、溶けちゃうぅぅぅっ!!」
僕は完全に理性を飛ばし、凛音さんの腕の中で白目を剥きかけながら、狂ったような笑い声(喘ぎ声)を上げた。
現実の僕には、凛音さんの温もりしか触れていないはずなのに。
僕の脳内では、アリスという巨大なヤンデレお姉ちゃんが、僕の魂そのものを捕食し、ドロドロに溶かして、自分色に染め上げようと狂乱の宴を繰り広げているのだ。
「き、金城くん……っ! まさか、私が抱きしめただけで、そんなに……そんなに、限界まで興奮しちゃうの……っ!?」
そして、僕の異常な反応を見た凛音さんは、完全にドン引きするどころか、顔を耳まで真っ赤にして、両手で自分の口元を覆っていた。
「ど、どんだけ私のこと好きなのよ、この変態……っ! でも、そんなに私の身体が……っ」
「ち、違うっ! 凛音さん、これは……あぁぁっ! アリスが、アリスがぁぁっ!」
僕が必死に弁解しようとしても、口から出るのは甘ったるい悲鳴と熱い吐息だけ。
凛音さんには「アリス」という言葉の意味も通じず、ただ『僕が彼女との接触に極限まで興奮して悶え苦しんでいる』という、取り返しのつかない大誤解がさらに強固なものとして刻み込まれていくだけだった。
「も、もう! 仕方ないわねっ。今日だけは、あんたのその気持ち悪い愛情表現も、特別に許してあげるからっ!」
凛音さんは、勘違いを極まらせたまま、僕の背中をポンポンと優しく叩きながら、さらに身体を密着させてくる。
『――殺す。このメス豚、絶対に社会的に抹殺してやります。マスター、安心してくださいね。お姉ちゃんが、マスターの周りの悪い虫は全部、ぜーんぶ消してあげますから♡ さあ、もっと私の愛を感じて?』
「あぁぁぁぁぁぁぁっ! もう嫌だぁぁぁぁっ!!」
誰もいない平和な中庭に、泥臭き救世主と呼ばれた少年の、情けなくも甘ったるい絶叫が虚しく響き渡った。
スタンピードという絶望を乗り越え、学園のトップとして君臨したはずの僕の日常。
それは、ツンデレヒロインの特大の勘違いと、ヤンデレAIの暴走する独占欲によって、戦場よりも過酷な『終わらないラブコメ的修羅場』へと突入していくのだった。
僕の平穏な日常は、完全に終わりを告げたのだ。




