第九話 盗賊娘、箱の行き先を盗む
赤革の台帳を開いた夜、ジークムントは「特別品。白い箱。香の名は伏す」と書かれた行で指を止めた。
けれど、説明はしなかった。
「今日はここまで」
「この流れで?」
「この流れだからだね」
意味が分からない。
白い箱。香の名は伏す。特別品。どう考えても引っかかる言葉を目の前に置いておいて、閉じた。閉じたのである。
性格が悪い。
知っていた。
「説明する気はねえのか」
リュクスの声が低くなる。
「今説明しても、君たちは箱そのものを追いたくなる」
「追えばいいだろ」
「追わせるために置かれた箱なら?」
リュクスが口を閉じた。
ジークムントは閉じた台帳の上に指を置いたまま、ディアナを見た。深い青灰色の瞳が、灯りを受けても底を見せない。
「箱を盗れば、相手は気づく。流れだけを抜けば、しばらく気づかない」
「……つまり?」
「次に盗るのは、箱ではないよ」
ジークムントは甘く笑った。
「箱がどこへ行くはずだったか。その向きを盗む」
言い方。
盗賊向けに言い直したつもりなのだろうか。
腹が立つくらい分かりやすかった。
翌朝、旧訓練棟にはまた別の衣装が用意されていた。
昨日は南区の下働き少年。今日は、古香舗に出入りする小間使いの娘らしい。灰色の長いエプロン、古びた頭巾、袖口の少し擦り切れた上着。派手さはないが、汚れすぎてもいない。商家の裏口で働いていても、香料問屋に荷を取りに行っても、不自然ではない。
相変わらず、用意が細かい。
「サディアスさん、盗賊じゃない人は偽の身分札を三種類も用意しません」
「必要でしたので」
「必要なら何でもできる説、強まってません?」
「強まっておりません」
即答だった。
サディアスは今日も無表情で、偽の身分札を差し出してくる。この人、絶対に何かを隠している。だがサディアスが隠しているものを盗むのは、今ではない。
「似合っているよ」
横から、ジークムントの声がした。
ディアナは頭巾を押さえたまま振り返る。ジークムントは机のそばに立ち、こちらを見ていた。笑っている。いや、笑っているのは口元だけだ。
「小間使いの格好がですか」
「そう。どこに紛れても、君は目を引くね」
「褒めてます?」
「困っている。今日の仕事は、目立たないことだから」
「仕事の話に戻すの、ずるくないですか」
「仕事の話だよ」
絶対に違う。
リュクスの低い咳払いが、旧訓練棟の端から飛んできた。
「殿下。朝から娘で遊ぶな」
「褒めただけだよ」
「その声で褒めるな」
父さん、分かる。非常に分かる。
今は白い箱だ。いや、白い箱ではない。
白い箱を盗らない仕事だ。
難しい。
今日、表に出るのはディアナとカイルだった。ミロは外で噂を流し、リュクスは通りの端で馬車を見る。ガロとダンテは外側を押さえ、バルドは旧訓練棟で待機する。全員集合ではない。必要な人数だけが、必要な場所へ動く。
ジークムントは机の上に、薄い木札を置いた。白い蝋で留める荷札だ。表には古香舗の印。裏には何も書かれていないように見える。
「南区の闇競りで、昨夜出されなかった白い箱が、今日の昼過ぎに香料問屋通りへ戻される。そこから別の荷に混ぜて運ばれる予定だ」
「ずいぶん早いな」
「騎士が表を動いたからね。隠すなら早い方がいい」
「お前が動かしたんだろうが」
「そうだよ」
悪びれない。
ジークムントは本当に悪びれない。
「君たちに頼むのは、箱の奪取ではない。箱につく荷札を一度抜き、こちらの偽札と入れ替えること。本物の札は持ち帰る。箱はそのまま運ばせる」
「箱の中身は」
「見なくていい」
「また目隠しか」
リュクスの声がさらに低くなった。
「中身を見ると、君たちは箱を盗りたくなる」
「盗賊だからな」
「だから盗らせない」
ジークムントは穏やかに返した。
「今日欲しいのは中身ではなく、送り先だ。箱を失わせるより、その方が多く盗れる」
多く盗れる。
その言い方はずるい。
ディアナは頭巾を手にしたまま、机の上の偽荷札を見た。箱そのものではなく、流れを盗む。命じられた物ではなく、相手の油断を盗む。
なるほど。少し面白い。
「俺とディアナか」
カイルがこちらを見た。
「大丈夫か」
「大丈夫」
「まだ何も言ってない」
「顔が心配してる」
「心配くらいするだろ」
カイルは軽く眉を寄せた。
昔からそうだ。カイルは言葉にしない心配が顔に出る。盗みに行く前も、逃げる時も、ディアナが一人で先に走る時も、だいたい同じ顔をする。
「私、昨日ちゃんと盗ったよ」
「だから心配してる」
「なんで?」
「調子に乗るだろ」
「失礼」
否定しきれないところが腹立たしい。
ジークムントが、少しだけこちらを見た。笑っている。いや、笑ってはいない。口元だけが薄く甘い。目は笑っていない。たぶん、カイルとの距離を観察している。
やめてほしい。
今そこではない。
「ディアナ」
「はい」
「今日は、昨日より騒がせないように」
「昨日も好きで騒がせたわけではありません」
「そうだね。君は好きで騒がせなくても、結果として騒がしくなる」
「それ、私のせいですか」
「半分は」
「もう半分は?」
「私かな」
自覚がある。最悪だ。
ミロが吹き出し、リュクスが低く舌打ちした。今度は咳払いではない。舌打ちである。圧が増した。
昼前の香料問屋通りは、南区の夜とは違っていた。
細い通りに、干した薬草や香辛料の袋が吊るされ、店先には色の違う粉や乾いた花びらが並んでいる。甘い匂い、苦い匂い、つんと鼻を刺す匂い。夜の闇競りが悪いものを綺麗に見せる場所なら、ここは綺麗なものの中に悪いものを混ぜる場所だった。
問題は、どちらも慣れてしまうと見分けがつきにくいことだ。
ディアナは頭巾を深くかぶり、籠を抱えて歩いた。カイルは少し離れて、荷車を押している。布で片腕を隠し、古香舗から雇われた運び手のふりをしていた。昨日の港下働きよりも、少しだけ品がある。そこが腹立つ。
「カイル、似合うね」
「嬉しくない」
「分かる。私も嬉しくない」
「お前、そういう格好だと昔より小さく見えるな」
「喧嘩?」
「感想」
「もっと悪い」
小声で言い合いながらも、足は止めない。
香料問屋通りの中央に、古い看板の店があった。褪せた金文字で、ラザル香舗と書かれている。表は普通の店だ。白い小瓶、乾いた花、香木の欠片。けれど裏口には、昨日の闇競りで見たのと同じ荷印があった。
繋がっている。
考えそうになる。
でも、今は考えない。
盗るのは荷札。
箱ではない。
店の裏手へ回ると、荷置き場には木箱がいくつも積まれていた。茶色い箱、黒い箱、布で覆われた細長い箱。その中に、一つだけ白い箱があった。
白い、といっても真新しい白ではない。古い骨のような、光を吸った白だ。大きさは両腕で抱えられるほど。表面は布で覆われているが、角のあたりに白い塗りが見える。箱そのものから、かすかに甘い匂いがした。
花のような。
菓子のような。
でも、どちらでもないような。
嫌な甘さだった。
「見つけた」
ディアナが小さく言うと、カイルが荷車の陰から視線だけで頷いた。
白い箱のそばには、男が二人いる。店の者だろう。一人は帳面を持ち、もう一人は紐を結び直している。箱の上にはまだ荷札がついていない。札は帳面を持った男の腰にある袋の中だ。
荷札は箱につく前。
今なら抜ける。
ただし、近づく理由がいる。
ディアナは籠を抱え直し、裏口へ向かった。
「すみませーん。乾いた香草を取りに来ました」
出た声は、少し高めの小間使いの声だ。
昨日は少年。今日は小間使い。盗賊って忙しい。
帳面の男がこちらを見る。
「香草? どこの家だ」
「東三番通りのメルザ様のお屋敷です。昨日の夕方に、若い奥様が香袋用にって」
「聞いてないな」
「ええと、言われたのは旦那様の方かも。奥様、よく伝え忘れるので」
知らない奥様に失礼な設定をつける。
ごめんなさい、見知らぬ奥様。
男は面倒そうに舌打ちした。
「表に回れ」
「表、混んでいて。お屋敷の使いで遅れると怒られるんです」
「知らん」
「お願いします。少しだけでいいので」
ディアナは籠を抱えたまま、困った顔で少しだけ頭を下げた。
ロザリア先生に教わった令嬢の礼ではない。だが、使う筋は同じだ。相手が面倒だと思う角度。早く追い払うために、少しだけ許したくなる間。視線を下げすぎず、逆らうほど強くも見せない。
型は、使い方で武器になる。昨日も思った。今日も思う。
男は苛立ったように帳面を閉じた。
「早くしろ。香草はそこの棚だ」
「ありがとうございます」
入れた。
ディアナは裏口の内側へ半歩入る。棚には乾いた香草の束、香木の欠片、白い花を乾かしたものが並んでいた。白い花がある。そう思った瞬間、台帳の文字が頭の奥でちらつく。
白い箱。
香の名は伏す。
今は、盗る。
棚へ手を伸ばすふりをして、視線を横へ流す。
帳面の男が袋に手を入れた。荷札を取り出す。白い蝋を温める。
今だ。
ディアナは棚の紙包みを一つ落とした。
「あっ」
乾いた香草が床に散る。
「何してる!」
「す、すみません!」
男がこちらを向く。もう一人が舌打ちして、散った香草を見た。白い箱から視線が外れる。
同時に、荷車が裏口の前で大きく揺れた。
「悪い、車輪がはまった!」
「そこを塞ぐな!」
「分かってるって。押すから手を貸してくれ」
「ふざけるな、忙しいんだぞ」
荷置き場が一瞬だけ騒がしくなる。
ディアナはしゃがんで香草を拾う。指先は香草ではなく、男の腰の袋へ伸びた。袋の口は緩い。荷札は二枚。片方に白い蝋の跡。もう片方は控え札。
抜く。
偽札を入れる。
袋の重さを戻す。
一呼吸。
できた。
簡単ではない。でも、父に叩き込まれた技術に比べれば、まだ優しい。寝ているリュクスの懐から鍵を抜く練習の方が、何倍も怖かった。起きた時の父が怖いからである。
「拾いました。すみません」
「もういい。表から出ろ」
「はい」
ディアナは紙包みを籠に入れ、頭を下げて裏口から離れる。
走らない。急がない。成功した時ほど、普通に歩く。
背中に男たちの声が聞こえた。
「荷札は」
「ここにある。早く蝋を」
「白い箱は何番だ」
「名前は出すな。上からそう言われてる」
名前は出すな。
まただ。
ディアナは籠を抱えた指に力を込めた。
出したくない名前がある。出せない相手がいる。台帳にも書かず、現場でも呼ばせない。
なら、なおさら盗りたくなる。
盗賊娘なので。
通りの角を曲がったところで、カイルが荷車を押しながら合流した。
「取れたか」
「取れた」
「箱は」
「盗ってない」
「えらいな」
「子ども扱い?」
「我慢できると思ってなかった」
「喧嘩?」
「感想」
「さっきから感想が全部悪い」
カイルは少し笑った。
昔から、こういう時のカイルはずるい。心配して、からかって、ちゃんと逃げ道を見ている。盗賊団の家族距離というものは、たぶん外から見ると近すぎるのだろう。
ふと、ジークムントの目を思い出す。
違う。
今はそこではない。
「ミロは?」
「先に噂を流してる。白い箱の荷が一つ増えたとか、北へ回る馬車が遅れたとか、適当に」
「適当で通るの?」
「ミロの適当は、変に通る」
「分かる」
とても分かる。
香料問屋通りの出口へ向かう途中、ディアナは一度だけ振り返った。
白い箱は、もう荷車に乗せられていた。男が白い蝋で札を留めている。あれは偽札だ。本物ではない。でも、見た目はほとんど同じ。箱は奪われていない。運び手たちは、箱がまだ自分たちの手の中にあると思っている。
盗っていないのに、盗れている。
不思議な感じだ。
箱そのものを抱えて走るより、ずっと静かで、ずっと気持ちが悪い。
通りの外れで、リュクスが古道具を眺めるふりをして立っていた。
「無事か」
「うん。荷札、取れた」
「箱は」
「盗ってない」
「えらいな」
「父さんまで」
なんで全員、盗らなかったことを褒めるのか。
盗賊団としてどうなのだろう。
リュクスはディアナの頭巾の上から軽く頭を叩いた。
「盗らねえ仕事の方が難しい時もある」
「……そうなの?」
「盗りたい手を止めるのも、盗賊の腕だ」
それは少し、胸に残った。
盗るだけが盗賊ではない。盗らないことで、もっと大きいものを盗む。
父が言うと、妙に説得力がある。悔しいくらい。
旧訓練棟へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
南区の夜と違い、今日は大きな騒ぎにはならなかった。怒号もない。追手もない。割れた酒瓶もない。ミロが流した噂だけが、今ごろ香料問屋通りの裏をじわじわ走っているはずだ。
つまり、昨日より静かに盗めた。
成長である。たぶん。
旧訓練棟の机には、ジークムントがいた。
当然のようにいる。今日は表を騎士団で動かしていたわけではないはずなのに、やっぱり絵になる位置にいる。黒い騎士服ではなく、少しだけ軽い外套姿だった。銀白色の髪が昼の光を受けて、白金色に見える。
顔がいい。
腹が立つ。
「戻ったね」
「ご注文の品です」
ディアナは籠の底から本物の荷札を取り出した。
ジークムントが受け取る。その指が、白い蝋の跡をなぞった。
「箱は盗らなかった?」
「盗ってません」
「偉いね」
「皆それ言うんですけど、私は子どもですか」
「盗賊としては、我慢できて偉いという意味だよ」
「嬉しくない」
「そう?」
嬉しくない。
少しだけ嬉しいのが余計に腹立つ。
ジークムントは荷札を裏返した。一見、何も書かれていない。だが彼が蝋の欠片を外し、机の上に置かれた小さな粉を指先で散らすと、薄い文字が浮かび上がった。
ディアナは思わず身を乗り出した。
名前ではない。
屋敷名でもない。
そこにあったのは、短い行き先だった。
白花施療院、寄付分。
「……施療院?」
声が落ちた。
闇競りの特別品。
白い箱。
香の名は伏す。
それが、施療院への寄付分?
意味が分からない。
いや、分かりたくない。
白花施療院。
綺麗な名前だった。
祈りと施しの場所に向かう荷札だった。
なのに、ジークムントは笑わなかった。
昨日と同じだ。
笑わないだけで、空気が変わる。
「殿下」
リュクスが低く言う。
「今度こそ説明するんだろうな」
「明日、見に行こう」
「説明は」
「行けば分かることもある」
「行っても言わねえこともあるだろ」
「そうだね」
否定しない。
最悪だ。
ジークムントは荷札を台帳の横へ置き、ディアナを見た。
「明日、白花施療院へ行く。盗賊としてではなく、第一王子の同行者として」
「……令嬢の顔ですか」
「そう。見舞いと寄付の顔で入る」
「盗るものは?」
「まだ決めなくていい」
ジークムントは、静かに言った。
「まずは見る。祈りの場所で、誰が何を隠しているのか」
祈りの場所。
その言葉が、妙に重く聞こえた。
ディアナは自分の手を見下ろした。今日は小間使いの手。昨日は下働き少年の手。夜会では令嬢の手。どれも本当で、どれも嘘だ。
盗賊娘として盗る。
令嬢の顔で見る。
ジークムントの隣で、相手の油断を拾う。
忙しい。非常に忙しい。
でも、足は止まらない。
「分かりました」
ディアナは顔を上げた。
「ただし、見舞いと寄付の顔をするなら、ちゃんとそれっぽい服を用意してください。昨日も今日も変装ばかりで、私の服が忙しいです」
「では、明日は可愛らしく整えようか」
「そういう言い方をするから嫌なんです」
「嫌?」
ジークムントが少し首を傾げる。
「似合うと思うよ」
やめてほしい。
仕事の話の途中で、そういう声を出すのは本当にやめてほしい。
リュクスの低い咳払いが響いた。
「殿下」
「仕事の話だよ」
「どこがだ」
「相手に油断させる装いは重要だ」
「顔で娘を揺らす必要はねえだろ」
父さん、分かる。
本当に分かる。
白花施療院。
闇競りの白い箱。
香の名は伏す。
昨日盗った目録の一行は、今日の荷札に繋がった。
今日盗った荷札は、明日の施療院に繋がる。
なら次は、その意味が隠れている場所へ行く。
盗賊娘は、白い箱を盗らなかった。
かわりに、箱が向かう祈りの場所を盗んだ。




