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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第八話 盗賊娘、闇競りの目録を盗る


 旧訓練棟は、夕方までにすっかり盗賊団の仕事場になっていた。


 朝にはまだ古い床板と埃と術式の匂いしかしなかった場所に、今は道具箱、替えの服、古い地図、薬瓶、革手袋、偽の荷札、安物の酒瓶、薄汚れた外套が並んでいる。


 仕事が早い。

 誰の仕事かというと、サディアスである。この人、無表情で盗賊団の仕事道具を用意するの、似合わないのに妙に手際がいい。


「……王子様の従者って、闇競り用の偽荷札まで準備できるものなんですね」

「必要でしたので」

「必要なら何でもできるんですか」

「何でもではありません」

「では、どこまで」

「あなたが知る必要はありません」

「線引きが冷たい」


 サディアスは何も答えなかった。


 旧訓練棟の中央では、リュクスが机に広げられた南区の簡易地図を見下ろしていた。カイルは扉の近くで外の足音を数え、ミロは薄汚れた上着を肩に引っかけている。ガロは窓枠の術式を観察し、ダンテは無言で魔銃の手入れをしていた。バルドは薬包をいじりながら、すでに眠そうである。


 昨日まで地下牢にいた男たちが、当たり前のように仕事の顔になっている。


 嬉しい。

 でも、悔しい。


 父たちに会えた。抱きしめてもらえた。無事を確かめられた。その嬉しさごと、次の仕事に繋げられた。


 ご褒美の皮をかぶった罠。

 餌は本物だった。


 だから、余計に腹が立つ。


「ディアナ」


 リュクスに呼ばれて、ディアナは顔を上げた。


「その格好で行くのか」

「うん」


 ディアナは自分の服を見下ろした。


 昼用のドレスは脱がされ、今は南区の下働きに見えるような灰茶の上着と細いズボンを着ている。髪は帽子の中に押し込み、頬には薄く煤をのせた。左手の中指にはジークムントによってはめられた指輪があるが、その上から古びた革手袋をはめている。


 令嬢ではない。

 王子の隣に立つ女でもない。


 少なくとも見た目だけなら、どこかの酒場で雑用をしている少年に見えなくもない。


「似合う?」

「似合うから腹が立つ」

「父さん、それ昨日も言ってた」

「何度でも言う」


 リュクスの視線が、革手袋の下へ落ちる。そこにあるものは見えていない。でも、あることは分かっている。それだけで、空気が少し重くなる。


「痛まねえか」

「痛くない」

「本当か」

「本当」


 リュクスの眉間に皺が寄る。


 ディアナは左手を握った。指輪は、ただそこにある。外れないまま。逃げられない証のまま。


 それ以上のことは、今は考えない。

 考えたら、たぶん足が鈍る。


「父さん」

「何だ」

「今日は怒らないでね」

「無理だ」

「即答」

「殿下の顔を見たら怒る」

「分かる」

「分かるな」


 リュクスが低く唸ったところで、扉が開いた。


 全員の視線がそちらへ向く。


 入ってきたのは、当然のようにジークムントだった。黒い騎士服に、控えめな銀糸の飾り。夜会ほど華やかではないのに、顔がいいので結局目立つ。銀白色の髪が夕方の光を拾って、薄い金の糸を混ぜたように揺れていた。


 美術品のふりをした罠。

 本日も大変よく罠である。


「準備は?」

「殿下に使われる準備なんざ、した覚えはありませんね」


 リュクスが皮肉を返す。

 ジークムントは穏やかに微笑んだ。


「仕事の準備はできているようだ」

「聞き流しやがった」

「必要なところだけ聞いているよ」


 相性が悪い。

 なのに、会話が成立している。


 嫌だなあ、と思う。この二人、嫌い合いながら仕事だけはできそうな気配がする。


「改めて確認する」


 ジークムントは机の上の地図を指先で叩いた。


「南区の闇競り。盗るものは出品目録。赤革の台帳だ。写しではなく、台帳そのものが欲しい」

「理由は」

「今夜は聞かなくていい」

「殿下」


 リュクスの声が低くなる。


「目隠しで走らせるなと言ったはずだ」

「だから、最低限は言う。誰が何を売ろうとしているかを知りたい。騎士が踏み込めば燃える。君たちなら燃やされる前に盗れる」

「本当にそれだけか」

「今夜はそれだけでいい」


 今夜は。


 嫌な言い方だ。


 ディアナは思わずジークムントを見た。青灰色の瞳は地図を見ているようで、ほんの一瞬だけこちらを見た気がした。


 何かある。

 たぶん、ある。


 聞きたい。

 でも、聞いたところで、ジークムントが全部話すとは思えない。むしろ、聞いた分だけこちらの反応を見られる気がする。


 それは嫌だ。

 とても嫌だ。


 だったら、今は盗る。

 盗ってから考える。


 盗賊なので。


「中に入るのは私とミロ?」


 ディアナが聞くと、リュクスが地図から目を離さずに頷いた。


「ミロが酒瓶の運び屋。お前は荷持ちだ。カイルは外。逃げ道を二つ作る。ガロは屋根。ダンテは北の馬車通りを塞ぐ。バルドはここで待機」

「俺は留守番か」

「お前が外に出ると薬を売り始める」

「売らねえよ。今日は」

「今日は、が余計だ」


 ミロが笑った。


「お嬢、荷持ち少年でいける?」

「声を出さなければ、って言うんでしょ」

「分かってるじゃん」

「声は出す」

「じゃあ、すぐばれる」

「ミロを転ばせる係になってもいい?」

「お嬢、こわい」


 いつもの軽口だった。


 胸の奥が少し緩む。盗みに行く前、こういう馬鹿みたいなやり取りを何度もした。父に怒られ、ミロにからかわれ、カイルに心配され、ガロに呆れられ、バルドに薬を押しつけられた。


 戻ったわけではない。

 でも、少しだけ足元が戻ってきた気がした。


「ディアナ」


 ジークムントの声で、空気が変わる。


 彼は小さな銀色の耳飾りのようなものを摘まんでいた。細い鎖と、小さな魔石がついている。


「これは?」

「伝声具。私とサディアス、君たちの一部に声が届く」

「便利ですね」

「便利だよ」

「盗賊には不要では?」

「今夜は私の仕事でもある」


 ジークムントは当然のように近づいてきた。


 嫌な予感がした。

 非常にした。


「自分でつけます」

「見えないだろう」

「サディアスさんが」

「私がつける」


 返事を待つ文化はないのか。

 ないのだろう。


 ジークムントの指が、ディアナの耳元に触れた。


 ひやりとした金属が耳にかかる。細い鎖が髪の内側へ隠され、小さな魔石が耳の後ろに収まった。


 近い。

 顔が近い。

 仕事道具の距離ではない。


 声を出したら負ける。

 たぶん、もう負けている。


「痛い?」

「……痛くないです」

「そう。私の声は聞き逃さないように」

「仕事の指示、ですよね」

「他に何だと思ったのかな」

「何も思ってません」

「下手だね」


 やめてほしい。


 リュクスの咳払いが、かなり低いところから響いた。


「殿下。娘で遊ぶな」

「仕事道具をつけただけだよ」

「仕事道具の距離じゃねえんだよ」


 父さん、分かる。

 とても分かる。


 ジークムントは薄く笑うだけだった。


「私は表から動く。警衛騎士団の巡回を南区の表通りへ流す。闇競りの連中は、予定を早めるか、品を隠すか、どちらかを選ぶだろう」

「慌てたところで目録を動かす」

「そう。隠したものを確認する人間は、必ず手を伸ばす」

「そこを盗れ、と」

「できるだろう?」


 ジークムントの視線がリュクスへ向く。


 挑発ではない。評価でもない。ただ、できるものとして言っている。リュクスは舌打ちした。


「できる」

「頼もしいね」

「殿下に言われると腹立つな」

「そう」


 ジークムントは楽しそうだった。


 ディアナは地図を見た。南区。闇競り。出品目録。今夜盗るのは、それだけ。


 それだけ。

 たぶん、それだけじゃない。


 でも、今は分からない。

 分からないまま行くしかない。


 胸の奥が、少しだけ重くなる。

 指輪のせいではない。ジークムントに使われる仕事を、自分から使い返そうとしているせいだ。


 なら、なおさら盗るしかない。


 盗賊娘なので。


 南区へ向かったのは、日が完全に沈む少し前だった。


 王都の南へ下るほど、白亜の城の気配は薄くなる。整った石畳は細く歪み、建物の壁は煤け、軒先から吊るされた布が風に揺れていた。焼いた肉の匂い、安酒の匂い、香辛料の匂い、湿った路地の匂いが混ざる。


 夜会の香水より、こっちの方が落ち着く。


 問題ではある。

 かなり問題ではある。


 ディアナはミロの後ろで木箱を抱えていた。中には安物の酒瓶が詰められている。瓶の底には、小さな細工道具と替えの封蝋が仕込まれていた。


 ミロは配達人にしか見えない格好で、肩を揺らしながら歩いている。


「お嬢、足取りが楽しそう」

「楽しくない」

「戻ってきたって顔してる」

「してない」

「してる」

「ミロ、その木箱、頭に落とすよ」

「荷持ちが配達人を攻撃するなよ」


 少し離れた路地で、カイルが荷車を押していた。目元に汚れをのせ、片目を布で覆っている。知らない人間が見たら、港の下働きにしか見えない。屋根の上にはガロがいるはずだが、姿は見えない。見えないなら、ちゃんと仕事をしている。リュクスはさらに外側で、酒に酔った古道具商のふりをしている。父の酔っ払い演技は本物と区別がつかないので、あまり見たくない。


 耳元で、小さな音が鳴った。


『聞こえる?』


 ジークムントの声だった。


 近い。


 ディアナは思わず肩を跳ねさせた。

 いない。ここにはいない。分かっている。ジークムント本人は表通りで、警衛騎士団長として動いているはずだ。


 分かっているのに、耳元で推しの声がするのは心臓に悪い。


「聞こえます」

『声が硬いね』

「仕事中ですので」

『悪くない。今から表通りに騎士を出す。中は少し騒がしくなるよ』

「了解しました」

『ディアナ』

「はい」

『息を止めすぎないように』

「止めてません」

『今、止めた』

「……仕事中にそういう観察、いります?」

『いるね』


 いるらしい。

 最悪である。


 ミロが横目でこちらを見る。


「お嬢、顔」

「何」

「耳元の殿下に負けてる顔してる」

「してない」

「してる」

「言わないで」

「言われたくない顔をするなよ」


 非常に腹立たしい。


 ディアナは木箱を抱え直し、視線を前へ戻した。


 闇競りの入口は、酒場の裏にあった。


 表の看板は安酒場。笑い声と歌声が漏れ、酔客が通りに倒れかけている。けれど裏路地へ回ると、空気が変わった。壁に打たれた古い荷印。香辛料商の看板。酒樽の影に立つ、首に火傷痕のある男。


 入口の男は、ミロを上から下まで見た。


「遅い」

「酒瓶に足が生えてくれりゃ早かったんだけどね」

「合図は」

「黒葡萄は夜に熟れる」

「……箱を開けろ」


 ミロが木箱を下ろす。

 ディアナは視線を落としたまま、少年らしく半歩下がった。


 首に火傷痕のある男が瓶を一本ずつ見る。底の細工には気づかない。魔石の検査も雑だ。品物を疑うより、人間の顔を疑っている。


 男の視線が、ディアナへ向いた。


「そっちは」

「荷持ち。足だけは速い」

「顔を上げろ」


 ディアナは少しだけ顔を上げた。


 目を合わせすぎない。怯えすぎない。退屈そうにしすぎない。

 下働きの少年。裏の酒場に運ばれてきた、替えのきく荷物の一部。


 ロザリア先生、見ていますか。

 私は今、令嬢教育を少年の擬態に使っています。


 たぶん怒られる。

 かなり怒られる。


 男は数秒見て、興味を失ったように顎をしゃくった。


「入れ。余計な場所を見るな」

「見ない見ない。俺たち、酒瓶しか興味ないんで」


 ミロの嘘は軽い。

 軽いから、よく通る。


 地下へ降りる階段は狭く、湿っていた。


 下へ行くほど空気が濃くなる。安い香の匂い、酒の匂い、金属の匂い、人の汗の匂い。壁には赤い布がかかり、燭台の火がゆらゆらと揺れている。


 夜会とは違う光だ。


 王城の光は、粗を探すための光だった。

 ここの光は、悪いものを綺麗に見せるための光だ。


 どちらもたちが悪い。


 地下の広間には、顔を隠した客が十数人いた。外套の下から見える手は、貴族のものも、商人のものも、傭兵のものもある。壇上にはまだ何も並んでいない。奥に控え室らしき扉があり、その前に鍵番が二人。


 赤革の台帳。

 受付奥の控え室。


 盗るものは、あそこにある。


「お嬢、右奥」

「見えてる」

「鍵番二人。左は短剣、右は魔石持ち」

「右が面倒」

「だよねえ」


 ミロは笑いながら三番卓へ酒瓶を運ぶ。

 ディアナは木箱を抱えたまま、その後ろを歩いた。


 足音を殺しすぎない。でも、重くしない。視線は落とす。でも、見ていないふりをしながら見る。令嬢教育も、盗賊の訓練も、こういう時だけ妙に噛み合う。


 変な人生だ。

 本当に変な人生だ。


 外が騒がしくなったのは、その時だった。


「警衛騎士団だと?」

「表通りか」

「今日に限って、なんで」


 客席の空気が揺れる。


 来た。


 ジークムントが表を動かした。


 奥の扉が開き、細身の男が出てくる。競りの進行役だろう。指輪だらけの手を苛立たしげに振り、近くの下働きへ低く指示を出す。


「予定を早める。目録を確認しろ。番号を飛ばすな。特別品は最後に回せ」

「特別品もですか」

「表に騎士がいる夜に目立つ品を出す馬鹿がいるか」


 特別品。


 拾いそうになる。

 考えそうになる。


 でも、今はそこではない。


 ディアナは木箱を三番卓の下へ置いた。


 ミロが瓶を一本取り出す。その手元がわずかに滑り、瓶が床に落ちた。


 がしゃん、と派手な音が響く。


「悪い悪い! 手が滑った!」


 客の罵声が上がる。鍵番の一人がそちらを見る。もう一人が苛立って半歩動く。


 一瞬。


 ディアナは木箱の影から抜けた。


 卓の間をすり抜け、赤布のたるみの裏へ滑り込む。配膳用の細い通路。普通の客なら通らない。下働きなら通ってもおかしくない。奥の扉の前で、鍵番が戻りかける。


 遅い。


 ディアナは腰から薄い針を抜き、壁の燭台の留め金に引っかけた。軽く押す。燭台が傾き、火が揺れる。


「おい、火が」


 鍵番がそちらへ手を伸ばす。


 その背後を抜ける。

 扉の陰へ身体を滑らせる。


 控え室の中は狭かった。


 古い机。椅子が二つ。壁際の棚。黒い布。封蝋。羽ペン。そして、机の上に置かれた赤革の台帳。


 あった。


 ディアナはすぐに手を伸ばさなかった。まず見る。机の脚、床板、棚の影、天井。窓はない。逃げ道もない。台帳の下に、細い銀糸が通っている。


 動かせば鳴る。切っても鳴る。たぶん、張りが変わっても鳴る。


 嫌な仕掛け。

 でも、見えた。


『台帳は?』


 耳元に声が落ちる。


 ディアナは思わず息を止めかけた。

 今この距離でジークムントの声を聞くの、心臓に悪いどころではない。控え室で盗みの最中である。


 心臓には空気を読んでほしい。


「あります。銀糸つき」

『鳴子?』

「魔石鈴です。切ったら鳴る。持ち上げても鳴る。たぶん雑に触ったら全部鳴る」

『できる?』


 できる。


 言葉にする前に、指先がそう答えていた。


「盗賊娘なので」


 言ってから、自分で少し笑いそうになった。


 怖い。

 でも、指先は震えていない。


 ディアナは袖口から薄い革包みを出した。中には、リュクスが用意した重さ合わせの偽台帳がある。赤革ではない。けれど黒布をかければ一瞬はごまかせる。問題は銀糸だ。


 机の下に潜り、糸の先を追う。床板の隙間、壁際の小さな鈴、鈴の中にある魔石片。張りが変われば鳴る。昔、リュクスに何度もやらされた練習を思い出す。皿の上の豆を落とさずに布だけ抜く。寝ているミロの上着から財布だけ抜く。鳴子の糸を鳴らさずに別の糸へ張り替える。


 最後のはミロに怒られた。

 でも財布は盗れた。


 指先で銀糸の張りを測り、黒糸を添え、重さを移す。ゆっくり。急がない。焦らない。


 廊下の向こうで足音がした。


『ディアナ』


 ジークムントの声が低くなる。


「分かってます」


 分かっている。

 でも、今止めたら終わる。


 指先が銀糸をなぞる。偽台帳を滑り込ませる。赤革の台帳を、ほんの少しずつ浮かせる。


 大丈夫。

 教えられなくても盗れる。


 最後の張りを移した瞬間、扉の外で鍵が鳴った。


 間に合わない。


 ディアナは台帳を胸に抱え、机の下へ隠れるのではなく、棚の上へ跳んだ。梁の影に身体を押し込む。ドレスでは無理だった。令嬢の靴でも無理だった。今の格好ならいける。


 扉が開く。


 進行役の男が入ってきた。後ろには鍵番が一人いる。男は机に歩み寄り、黒布の下を確認した。偽台帳の上には、元の封蝋だけを移してある。


 見られたら終わる。

 触られたら終わる。

 黒布を完全にめくられても終わる。


 終わりが多い。

 多すぎる。


「急げ。表の騎士が増えている」

「競りを止めますか」

「止めたら疑われる。番号を飛ばす。白い箱は出すな。香油も後ろへ回せ」

「香油も?」

「客に名前を出させるな」


 白い箱。

 香油。


 引っかかる。

 すごく引っかかる。


 でも、今は考えない。

 考えたら落ちる。


 男は封蝋だけを見て、舌打ちした。


「目録はここでいい。誰も触るな」

「はい」


 扉が閉まる。足音が遠ざかる。


 ディアナは梁の影で息を吐いた。


 危ない。

 非常に危なかった。


『取れた?』


 ジークムントの声。


 ディアナは棚から静かに降り、背中の内袋へ赤革の台帳を滑り込ませた。


「盗りました」

『悪くないね』

「褒めるなら、あとでお願いします」

『今ではなく?』

「逃げてからです」


 小さく言い返しながら、ディアナは扉へ近づいた。


 廊下には誰もいない。広間はさっきより騒がしい。警衛騎士団の巡回が効いているのだろう。客たちは落ち着かず、下働きは走り、鍵番は苛立っている。


 逃げるにはいい混乱だ。


 ディアナは廊下へ出た。


 その瞬間、右の扉が開いた。


 知らない男と目が合う。


 まずい。


 男の視線が、ディアナの顔、服、背中の膨らみに走る。


「お前、何を――」


 言わせない。


 ディアナは足元の桶を蹴った。床に水が広がり、男の靴が滑る。体勢が崩れたところで、帽子を投げつける。視界を塞いだ隙に、横を抜ける。


「いたぞ!」


 声が上がった。


 終わった。

 いや、終わっていない。


 ディアナは走った。


 廊下を抜け、赤布の裏へ飛び込む。客席のざわめきが近づく。ミロがこちらを見た。一瞬だけ目が合う。


 ミロは笑った。


「おい、酒が足りねえってよ!」


 わざと大声を出し、空瓶の木箱を蹴り倒す。瓶が割れる。怒号が上がる。足元に破片が散る。追手の足が止まる。


 逃げ道ができた。


 ディアナはその中を駆けた。背中の台帳が重い。けれど、足は軽い。


 客席の間を抜ける。

 火傷痕の男が腕を伸ばす。


 届かない。


 低く身をかがめ、卓の下を滑り抜ける。


「右!」


 今度はカイルの声だった。


 裏扉が開いている。

 いつの間に。さすが。腹立つくらい頼れる。


 ディアナは路地へ飛び出した。


 外の空気が冷たい。南区の夕闇に、地下から怒号が追ってくる。後ろでミロが別方向へ逃げる足音がした。屋根の上から小石が落ち、追手の足元を打つ。ガロだ。北の馬車通りでは、馬がいななく。ダンテが道を塞いだらしい。


 盗賊団が動いている。


 胸が熱くなる。


 嬉しい。

 悔しい。

 楽しい。


 全部まとめて、足が速くなる。


「ディアナ!」


 カイルが塀の上から手を伸ばす。


 ディアナはその手を掴む前に、自分で塀へ跳んだ。指先が石の縁を捉え、身体が上がる。カイルが少しだけ眉を寄せた。


「手、いらなかったか」

「いる時は言う」

「昔からそれだな」

「褒めてる?」

「呆れてる」


 カイルの声に、少しだけ笑いが混じった。


 塀の向こう側には、酔った古道具商のふりをしたリュクスがいた。顔は酔っているのに、目だけがまったく酔っていない。


「盗ったか」

「盗った」


 ディアナは背中の袋を叩いた。


 リュクスの口元が、ほんの少しだけ上がる。


「よし。帰るぞ」

「うん」


 帰る。


 旧訓練棟へ。

 監視つきの、自由ではない場所へ。


 それでも今、父が帰るぞと言った。


 だから、ディアナは頷いた。


 裏路地を抜けた先で、黒い馬車が待っていた。


 扉の横に立っていたのはサディアスだった。無表情で周囲を確認している。こういう場所にいると、余計に堅物感がすごい。


「お疲れさまでした。お急ぎください」

「サディアスさん、南区でも顔が変わらないね」

「変える必要がありません」

「見習えない」


 ミロが別の路地から合流し、ガロも屋根から降りてきた。ダンテは最後尾を無言で押さえている。全員いる。大きな怪我はない。


 目録もある。


 上出来だ。


 馬車へ乗り込もうとした時、耳元でジークムントの声がした。


『ディアナ』

「はい」

『怪我は?』

「ありません」

『そう』


 少しだけ間があった。


『では、戻っておいで』


 戻っておいで。


 命令にも、呼び戻しにも、ただの連絡にも聞こえた。

 なのに、胸が一回だけ変な跳ね方をした。


 やめてほしい。

 仕事の連絡で、そういう声を出さないでほしい。


 ディアナは背中の台帳を抱え直した。


 戻る。

 でも、ただ戻るわけではない。


 背中には盗った台帳がある。

 横には父たちがいる。

 耳元にはジークムントの声が残っている。


 最悪の状況なのに、足は止まらない。


 旧訓練棟へ戻ると、ジークムントはすでにそこにいた。


 表通りで警衛騎士団長として動いていたはずなのに、古びた机の前に当然のように立っている。黒い騎士服の裾に、南区の埃は見えない。


 ずるい。

 絵になる。

 旧訓練棟の埃まで背景にしてしまうの、どうかと思う。


 ディアナは背中の袋から赤革の台帳を取り出し、机の上へ置いた。


 重い音がした。


「ご注文の品です」

「ありがとう」


 ジークムントが台帳に指を置く。


 開くのかと思った。

 けれど、彼はすぐには開かなかった。ただ表紙の傷、封蝋の位置、角についた汚れを見ている。


「本物だね」

「疑ってました?」

「確認しただけだよ」

「信用が薄い」

「積み上げていきなさい」

「それ、私が言われる側ですか」

「君たち全員だね」


 リュクスが鼻を鳴らした。


「殿下。報酬の話をしようか」

「もちろん」

「もちろん、で逃げるなよ」

「逃げないよ。仕事には対価を払う」


 ジークムントがサディアスを見る。

 サディアスは、すでに紙とペンを用意していた。


 用意がいい。

 怖い。


「報酬は食事、薬、寝具、道具。それから旧訓練棟内での最低限の作業自由」

「外は」

「任務時のみ」

「渋いな」

「逃げるだろう?」

「逃げねえと言ったら?」

「信じると思う?」


 リュクスは一瞬黙り、舌打ちした。


「信じねえな」

「話が早い」


 嫌い合っている。

 でも、仕事の話は進む。


 この感じ、非常に嫌だ。

 でも、使える。


 使える、と思ってしまう自分も嫌だ。


 ディアナは台帳を見た。


 まだ中身は知らない。

 白い箱も、香油も、特別品も、何に繋がるのか分からない。


 分からない。

 本当に分からない。


 でも今夜は、盗った。

 それだけは確かだった。


「ディアナ」


 ジークムントに呼ばれて、顔を上げる。


 青灰色の瞳が、静かにこちらを見ていた。


「最初の仕事としては、悪くない」

「私だけの成果ではありません」

「そうだね。盗賊団アディンセルの成果だ」

「……」


 リュクスの眉が動いた。カイルが少しだけ目を細める。ミロは口笛を吹きかけて、サディアスに見られてやめた。


 ジークムントは、台帳に指を置いたまま微笑む。


「次も期待しているよ」


 甘い声だった。

 でも、言っていることは鎖だ。


 ディアナは帽子を脱ぎ、煤のついた頬を手の甲でぬぐった。


「期待される側にも、心の準備があるんですけど」

「次までにしておくといい」

「そういう意味ではありません」


 ミロが吹き出し、カイルが肩を震わせ、リュクスが少しだけ口元を上げた。


 ジークムントだけが、甘く笑う。


「では、開けようか」


 ジークムントの指が、赤革の台帳の留め具に触れる。


 その瞬間、旧訓練棟の空気が少しだけ静まった。ディアナは息を止める。リュクスも、ミロも、カイルも、サディアスも、誰も余計なことを言わなかった。


 台帳が開く。


 中には、細かい文字と符丁がびっしりと並んでいた。番号、品名、売り主らしき記号、落札予定者の符号。


 意味は、すぐには分からない。


 分からないが、一か所だけ、ディアナの目に引っかかった。


 特別品。

 白い箱。

 香の名は伏す。


 それだけだった。


 ジークムントの指が、その行の上で止まる。


 説明はなかった。

 ディアナも聞かなかった。


 けれど、ジークムントが笑わなかった。


 それだけで、今夜盗ったものがただの目録ではないことだけは分かった。


 意味は、あとからついてくる。


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