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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第七話 盗賊娘、ご褒美の裏を知る


 左手の中指が、朝からやけに重かった。


 父に会える日なのに、ディアナはその指を何度も膝の上で握り込んだ。白金色の輪は、昨日と同じ顔でそこにある。

 逃げられない証みたいに。


 父たちに会えるのは嬉しい。嬉しいに決まっている。

 けれど、これを見たリュクスがどう反応するかを考えると、胃のあたりが重くなる。


 怒る。

 絶対に怒る。

 そしてたぶん、ジークムントを殴ろうとする。


 止める役は、私だ。

 責任重大。胃が痛い。


 昨夜の夜会については、朝食の席でサディアスが淡々と報告してくれた。

 第一王子が珍しく夜会に姿を見せたこと。家名も名乗らない少女を連れ、その左手に国宝に似た指輪があったこと。そして第二王子や公爵令嬢と関わった末、早々に退席したこと。


 以上が、今朝までに王城内で広がっている噂らしい。


「私、社交界に放り込まれた初日から燃えすぎでは?」

「殿下の隣に立った時点で、燃えない選択肢はありません」

「先に言ってほしかったです」


 椅子に座る。立つ。窓辺まで行く。戻る。

 三回目で、サディアスが言った。


「床板に罪はありません」

「気持ちを整えています」

「整っている人間は、同じ場所を何度も往復しません」


 ディアナは仕方なく椅子へ戻り、膝の上で両手を握った。


「サディアスさん」

「なんですか」

「父さんたち、本当に元気ですか」

「捕縛時の軽傷程度です。治療済みです。ただし、態度は最悪です」

「それは元からです」

「血筋ですね」

「今、私もまとめて悪口言われました?」

「事実確認です」


 朝から容赦がない。

 けれど、父たちは生きている。ひどい怪我もしていない。今はそれだけで充分だった。


 扉の外から足音がした。

 サディアスが横へ退く。扉が開き、ジークムントが入ってくる。


 黒い上着に控えめな銀糸の飾り。夜会ほど華やかではないのに、顔が強いので結局ずるい。朝の光を背負って立たれると、悪役王子というより、美術品のふりをした罠である。


 ディアナは立ち上がった。


「おはよう、ディアナ」

「おはようございます、ジーク様」

「よく眠れた?」

「眠れたことにしておきます」

「正直だね」


 ジークムントは笑い、ディアナの左手に視線を落とした。

 やはり、そこを見る。


「今日は、それを隠さない」

「隠せるんですか」

「隠せない。だから最初から諦めたほうがいい」

「最低の助言ですね」

「現実的な助言だよ」


 言い返せないのが腹立つ。


「面会は半刻。場所はこちらで決めた。私とサディアスが同席する。扉の外には騎士を置く」

「騎士だけですか?」

「もちろん、それだけではない」

「でしょうね」


 普通の騎士だけなら、父たちは抜ける。

 だからこそ、ジークムントが騎士だけで済ませるはずがなかった。


「旧訓練棟には障壁を張っている。出ようとすれば弾く。破れば、私に分かる」

「……用意がいいですね」

「リュクスたちを、ただの騎士で止められるとは思っていない」


 悔しいが、正しい。

 父たちは扉があれば開けるし、隙があれば抜ける。檻の中でも出口を探す。ジークムントは、それをもう分かっている。


「それと、逃がそうとしたら終わり。合図を交わしても終わり。私に聞かれたくない話をしてもいいけれど、聞こえる場所ですることになる」

「つまり、全部聞く気ですね」

「必要なら」

「悪趣味」

「安全管理と言ってほしい」

「言いません」


 ジークムントは楽しそうに目を細めた。


 今日は余計なことを考えすぎない。

 父たちに会う。無事を確かめる。それが最優先だ。


 夜会で見た氷青の瞳は、胸の奥にしまう。

 捨てるのではない。今は、しまうだけだ。


「行こうか」


 ジークムントが手を差し出した。

 ディアナは一瞬だけ迷い、その手を取った。


 逃げるためではない。

 父たちに会うためだ。


 面会場所は、離宮北側の旧訓練棟だった。


 高い窓から白い朝光が差し込み、傷だらけの床板を斜めに照らしている。壁には剣掛けを外した跡が残り、古い石と埃の匂いがした。扉や窓枠には、薄く光る術式が沈んでいる。


 逃げ道は、ない。

 分かりやすすぎて、逆に笑えてくる。


「すごいですね。逃がす気がまったくない」

「褒め言葉として受け取っておく」

「褒めてません」

「知っている」


 ジークムントが軽く手を上げた。

 扉が開く。


 最初に入ってきたのは、リュクスだった。


 赤みのある茶髪。無精髭。荒っぽい歩き方。捕まっているはずなのに、檻に入れられた獣みたいな目をしている。


 続いて、カイル、ミロ、ガロ、ダンテ、バルド。

 全員いる。全員、生きている。


 その瞬間、ディアナの足が勝手に動いた。


「父さん!」


 リュクスも同時に動いた。


 騎士が一歩踏み出す。

 ジークムントが手で制した。


 次の瞬間、ディアナはリュクスの腕の中にいた。


 痛い。息が詰まる。背中が折れる。

 でも、温かい。


「ディアナ」

「父さん」

「お前、無事か」

「無事」

「本当にか」

「本当」

「痛いことはされてねえか」

「今、父さんの腕が一番痛い」

「我慢しろ」

「理不尽」


 リュクスの腕に、さらに力がこもった。文句を言いたいのに、喉の奥が熱い。

 ディアナはリュクスの服を握った。いつもの革と煙草と土の匂いがする。


 帰りたい。


 その言葉が胸まで上がってきて、止まった。

 言えば、リュクスは本気で連れて帰ろうとする。


 その言葉だけは、飲み込んだ。


「ディアナ、顔見せろ」


 カイルの声がした。

 リュクスの腕が少し緩み、ディアナは顔を上げた。


 カイルはいつもより険しい顔で、ディアナの頬や首元を見ている。兄貴分の目だ。心配と怒りが混ざっている。


「痩せたか?」

「たぶん変わってない」

「嘘つけ。顔色が悪い」

「それは朝からサディアスさんに精神を削られたせい」

「失礼ですね」


 扉のそばからサディアスが即座に返した。

 ミロがひゅう、と小さく口笛を吹く。


「おお、返しが速い。噂の監視役さん?」

「噂にしないでください」

「してないしてない。今からするところ」

「やめなさい」


 ミロは肩をすくめ、にやにや笑った。

 いつもの軽口だ。その軽さに、ディアナは泣きそうになった。


 ガロは足元を、ダンテは周囲を、バルドは顔色を見ていた。誰も何も言わないのに、全員がディアナの無事を確かめている。


「お前、そんな服を着るようになったのか」


 リュクスの声が低くなった。


 ディアナは自分の服を見下ろした。

 今日の服は、夜会ほど派手ではない。淡い葡萄色の昼用のドレス。動きにくすぎないようにしてもらったが、盗賊団の服とはまったく違う。


 髪も整えられている。

 礼儀作法も叩き込まれた。

 たぶん、立ち方も変わっている。


 それが父たちには見える。


「似合わない?」

「似合うから腹が立つ」

「父さん、正直」

「笑うな」


 リュクスは低く言って、ディアナの左手を見た。


 空気が変わった。

 さっきまでの温かさが、鋭く冷える。


「……まだ外れてねえのか」


 ディアナは左手を引きそうになって、耐えた。

 逃げると余計に悪い。


「うん」

「痛むのか」

「今は痛くない」

「今は、か」


 リュクスの目が、ジークムントへ向いた。


 殺気。


 分かりやすすぎる殺気だった。


 騎士が身構え、サディアスの指が剣の柄に触れた。

 ジークムントだけが、涼しい顔をしている。


「外す理由がない」


 リュクスが一歩出た。ディアナはその腕を掴んだ。


「父さん」

「離せ」

「離さない」

「ディアナ」

「今怒ったら、会える時間が減る」


 リュクスが止まった。

 止まっただけで、怒りは消えていない。腕の筋肉が硬い。呼吸も荒い。

 それでも、止まってくれた。


 ディアナはリュクスの手を両手で握った。


「私、大丈夫だから」

「大丈夫な奴は、そんなもんをはめられてねえ」

「それはそう」

「認めるな」

「でも、生きてる。ご飯も食べてる。寝床もある。殴られてない。父さんたちも生きてる」


 それを大丈夫と呼ぶには、少し無理がある。


 でも、最悪ではない。

 最悪にしないために、今ここでリュクスを暴れさせるわけにはいかない。


「お前は、どうしたい」


 リュクスが聞いた。その問いは、乱暴ではなかった。

 父の声だった。


 ディアナは唇を結んだ。


 逃げたい。帰りたい。父たちと戻りたい。

 でも、それだけでは終われない。


 夜会で見た、氷青の瞳の令嬢が胸をよぎった。


 あの人を、悪役のまま終わらせたくない。


「帰るよ」


 ディアナは言った。


「いつかちゃんと帰る。でも、今じゃない」


 リュクスの眉が動いた。

 カイルも、ミロも、ガロも、ダンテも、バルドも黙っている。


 ジークムントの視線を感じた。

 見られている。探られている。


 けれど、ここだけは譲れなかった。


「父さんたちを守るために、使える手を増やしたい。そのために、今はここにいる」

「俺たちを守るために、人質のままでいるってか」

「そう」

「馬鹿か」

「父さんの娘なので」

「そこは似なくていい」


 リュクスが顔を歪めた。

 怒りか、悔しさか、寂しさか。たぶん、全部だ。


 ディアナは息を吸った。


「それと、助けたい人ができた」

「誰だ」

「まだ言えない」

「俺にもか」

「うん」

「お前な」

「ごめん」


 ここで詳しく話せば、ジークムントに拾われる。

 名前も、事情も、感情の根っこも。まだ早い。


 リュクスはディアナを睨んだ。怖い顔だった。昔なら、その顔だけで盗み食いの白状をしていた。

 だが、今回は黙った。


 黙って、ディアナの頭を乱暴に撫でた。


「変な顔になった」

「元から変な顔では」

「ミロ、あとで蹴る」

「俺、今の流れで蹴られるの?」


 ミロが胸を押さえて大げさにのけぞる。

 カイルが苦笑し、ガロが小さく息を吐いた。ダンテの口元も、ほんの少しだけ緩む。


 空気が少しだけ戻った。


 ディアナは、その一瞬に救われた。


「ディアナ」


 カイルが膝を折り、目線を合わせてきた。


「俺たちは生きてる。だから、お前も生きろ。変なところで意地張るな」

「うん」

「返事が軽い」

「重くすると泣く」

「なら軽くていい」


 カイルはそれ以上言わず、いつものように乱暴に笑おうとして、失敗した。

 その優しさで、目の奥が熱くなる。


 泣くな。泣いたら、たぶん止まらない。


「少し、いいかな」


 その声に、空気が変わった。

 ジークムントが、穏やかに口を開いた。


 面会の時間はまだ残っている。

 それなのに、ディアナは嫌な予感がした。


 この人が、ただ父たちに会わせてくれるだけで終わるはずがない。

 そんなこと、少し考えれば分かったはずなのに。


「君たちに仕事を頼もうと思う」


 あまりにも自然に言われて、ディアナは一瞬、意味が分からなかった。


「……仕事?」


 先に反応したのはリュクスだった。

 低い声だった。


 さっきまでディアナの肩に置かれていたカイルの手が、ゆっくり下がる。


「殿下、人の娘を人質に取っておいて、今度は俺たちを使う気か」

「そうだよ」


 あっさり認めた。


 父に会えた。声を聞けた。抱きしめてもらえた。

 その嬉しさごと、次の鎖に変えられている。


 本当に、この人は人の心を踏むのがうまい。


「ジーク様」


 ディアナの声は、自分で思ったより低かった。


「これは、ご褒美じゃなかったんですか」

「ご褒美だよ」

「どこが」

「君は会いたい相手に会えた。私は使える相手を動かせる」

「ご褒美の皮をかぶった罠じゃないですか」

「罠でも、餌は本物だろう?」


 言い返したかったのに、喉の奥で言葉が止まった。

 違う。得なんかじゃない。

 けれど、父に会えたことは、本当に嬉しかった。


 その嬉しさを否定できないことが、余計に悔しかった。


「で、俺たちに何をさせる気だ」


 リュクスが低く問う。

 ジークムントは、サディアスに目を向けた。


 サディアスが地図を広げる。

 王都南区。表通りから外れた、古物商と酒場と質屋が入り混じる一帯。


 ジークムントの指が、その一角を軽く叩いた。


「南区で、今夜、小さな闇競りが開かれる」

「南区の闇競りか」


 リュクスの目つきが変わった。

 知らない場所を聞いた顔ではない。面倒な獲物の匂いを嗅いだ盗賊の顔だった。


「表に出せない品を、名を出せない相手へ流す場所だ」

「知ってる。貴族の盗品、横流しされた薬、古い儀式具。ろくでもねえものほど高く売れる場所だ」

「話が早くて助かる」

「殿下がそこまで詳しい方が笑えねえよ」

「表の治安を預かっているからね。裏を知らないとは言っていない」


 ジークムントは穏やかに言った。


「踏み込むことはできる。だが、正規の騎士が動けば、その前に目録も帳簿も燃える。売り主も買い手も消える。残るのは、何も知らない下働きだけだ」

「だから、俺たちに盗れってか」

「そう。出品目録を抜いてほしい」


 盗賊団の空気が、ほんの少し変わった。


 牢の中にいる男たちではない。

 仕事の匂いを嗅いだ盗賊たちの目だった。


 悔しいくらい、父たち向きの仕事だった。

 騎士よりも、盗賊の方が上手くできる。


 ジークムントはそれを分かっている。


「目録だけか」

「できれば帳簿も。無理なら目録だけでいい。名前、品、符丁、経路。どれか一つでも抜ければ、次に繋がる」

「目的は」

「まずは、誰が何を売ろうとしているかを知ること」


 まずは。


 その言い方が引っかかった。


 ディアナはジークムントを見る。

 彼の青灰色の瞳は、地図ではなく、ほんの一瞬だけディアナの左手を見た。


 指輪。


 オールトの指輪に似せた、偽物の拘束具。


 けれど、ジークムントはそれ以上を言わなかった。


「……その目録に、何かあるんですか」


 ディアナは尋ねた。

 ジークムントは微笑む。


「あるかもしれない」

「はっきり言ってください」

「はっきりしていたら、君たちに盗ませる前に潰しているよ」


 正論で刺してくる。

 嫌な正論だった。


「騎士には見えないものがある。盗賊なら拾えるものがある。君たちは、それを盗ってくればいい」


 ジークムントは、あくまで軽く言った。


 南区の闇競り。

 出品目録。

 誰が何を売ろうとしているか。


 それだけだ。

 今は、それだけ。


 なのに、左手の中指が、少しだけ重くなった気がした。


 ディアナは指輪を見ないようにした。

 見れば、反応したと思われる。見なくても、見なかったことを見られている気がする。なんだこの心理戦。父との感動の再会直後にするものではない。


「断ったら」

「牢へ戻る。食事と治療は最低限。面会も、次がいつになるかは分からない」

「殿下は人質の使い方が上手いな」

「価値のあるものを使うのは当然だろう?」


 穏やかな声だった。

 怒りも、熱もない。


 だから余計にひどい。


「受けるなら、この旧訓練棟を拠点として使わせる。寝床、食事、治療、必要な道具も用意する」

「ずいぶん親切だな」

「使える駒を腐らせる趣味はない」

「殿下らしい優しさだ」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「褒めてねえ」


 リュクスの顔がさらに渋くなった。

 ディアナも渋くなった。


 だが、筋は通っている。

 腹立たしいくらい、筋は通っている。


「外出は任務時のみ。監視付き。報告義務あり。勝手に逃げれば、この条件はすべて消える」

「牢より広い檻か」

「そうだね」


 否定しない。

 そこがまた腹立つ。


「ただし、檻の中で腐るよりは動ける」


 リュクスが黙った。


 ディアナは左手の指輪を握った。

 父たちが生きていること。また会えるかもしれないこと。それは支えで、同時に鎖でもある。


 ジークムントは、それを分かったうえで使っている。


 悔しい。


 けれど、転がされたままで終わる気はなかった。


「父さん」


 ディアナはリュクスを見た。


「受けて」

「ディアナ」

「嫌なのは分かる。でも、牢に戻るより動ける方がいい。父さんたちが動けるなら、私も知れる。知れたら、選べるものが増える」

「お前を鎖にされて、俺たちがその鎖を引っ張る仕事をしろって話だぞ」

「うん」

「うんじゃねえ」

「だから、鎖のまま終わらせない」


 リュクスの目が細くなった。


 ディアナはジークムントを見た。

 青灰色の瞳が、静かにこちらを見ている。


 記憶を視て、反応を拾い、逃げ道を塞ぐ目。


 怖い。

 でも、今は引かない。


「ジーク様が父さんたちを使うなら、私もその仕事を使います」


 ジークムントの瞳が、楽しそうに光った。


「何に?」

「まだ秘密です」

「私にも秘密?」

「はい。使い道まで全部渡したら、盗賊じゃなくなります」

「悪くないね」

「褒められても、渡しません」


 ミロが吹き出した。


「お嬢、膝震えてんのに口は達者だな」

「震えてない」

「震えてる」

「……ちょっとだけ」

「正直」

「盗賊娘、正直に生きてます」

「盗賊は正直に生きる職業じゃねえだろ」


 リュクスが低く突っ込んだ。

 その声に、少しだけいつもの色が戻っている。


 ジークムントは声を立てずに笑った。


「いいね。盗賊らしい」

「褒められている気がしません」

「褒めているよ」


 その声は甘かった。

 でも、油断はしない。


 甘い声で逃げ道を塞ぐ男だ。


 リュクスは深く息を吐いた。


「条件がある」

「聞こう」

「俺たちは殿下の飼い犬じゃねえ。仕事として使うなら、報酬を払え。道具も寄越せ。情報も出せ。こっちだけ目隠しで走らせるな」

「いいよ」

「即答か」

「仕事には対価を払う」

「人質を取ってるくせに、仕事の筋は通す気か」

「その方が長く使える」


 リュクスは舌打ちした。


 善意ではない。

 施しでもない。


 ジークムントらしい、ひどく現実的な線引きだった。


「それと、ディアナを勝手に危ない場所へ連れていくな」

「内容による」

「殿下」

「彼女はもう、危ない場所の中心にいる」


 ジークムントの声が、少しだけ低くなった。


「何も知らずに置いておく方が危ない。少なくとも私は、彼女が何を見て、何に反応するかを知りたい」

「人の娘を検分するみてえに言うな」

「検分ではないよ。観察だ」

「悪化しました」


 正直すぎる。

 優しさがない。


 でも、嘘ではない。

 ジークムントは見守っているのではない。見ている。観察している。


 分かっているのに、あの顔で楽しそうに覗き込まれると、心臓が余計な仕事を始める。


「時間です」


 サディアスの声が落ちた。

 早い。早すぎる。半刻など、まばたきと同じだった。


 リュクスの手が、ディアナの肩を掴む。


「ディアナ」

「うん」

「泣くな」

「泣いてない」

「泣きそうな顔はしてる」

「父さんもね」

「俺は怒ってるだけだ」

「嘘つき」


 リュクスは何か言い返そうとして、やめた。

 その代わり、ディアナの額に自分の額を軽くぶつけた。


 昔からの、必ず帰るための合図。


「生きてろ」

「父さんも」

「当たり前だ」

「みんなも」


 カイルが頷き、ミロが片手を振り、ガロが短く頷いた。ダンテは拳を胸に当て、バルドは渋い顔のまま目を逸らす。


「ディアナ、次はもうちょい笑える場所で会おうな」

「うん。次は、ちゃんと笑う」


 リュクスたちが扉へ向かう。

 ディアナは追いかけそうになって、足を止めた。


 走らない。叫ばない。令嬢の礼も、しない。

 ただ、背筋を伸ばして見送った。


 リュクスが扉の前で振り返る。


「変わったな」


 胸が、少し痛んだ。

 ディアナは笑った。


「悪い方に?」

「いいや」


 リュクスは苦い顔で言った。


「俺の娘のままだ」


 扉が閉まった。

 音が、やけに大きく響いた。


 ディアナはしばらく動けなかった。


 泣いていない。

 泣いていないが、喉の奥が痛い。


 左手の指輪が冷たい。


「よく我慢したね」


 ジークムントの声がした。

 ディアナは振り返った。


「褒められても嬉しくありません」

「そう?」

「はい」

「なら、事実だけ言おう。君の父親は、思ったより理性的だった」


 ぞっとした。

 やはり、ぎりぎりだったのだ。


「理性的じゃなかったら?」

「面会はその場で終わっていた」

「……父さんが止まってくれてよかったです」

「君が止めたからだろう」


 その言い方は、少しだけ嫌だった。

 大事なものを、鎖の形で見せられた気がしたからだ。


「ジーク様って、人の大事なものを使うのが上手ですね」

「君も盗賊なら分かるだろう。鍵のかかったものほど、開け方を考える」

「人を鍵扱いしないでください」

「では、何と?」

「呼ばなくていいです」


 サディアスが扉の方を確認し、戻ってきた。


「面会対象の移送準備に入ります。騒ぎはありません」

「ご苦労」


 ディアナは力なく肩を落とした。

 胸の奥には、温かいものと苦いものが混ざって残っていた。


 父たちに会えたことは、本当に嬉しかった。

 けれど、そのご褒美はただのご褒美ではない。ジークムントにとっては、盗賊団を値踏みし、次の鎖をかける場でもあった。


 それでも、転がされたままで終わる気はない。


「ジーク様」

「なに?」

「南区の闇競り、私も関わるんですよね」

「そのつもりだけど」

「なら、私にも情報をください。父さんたちだけに渡して、私からは反応だけ盗むつもりなら嫌です」

「条件に入れる?」

「入れます」

「いいよ。君がどう使うのか、私も見たいからね」


 やはり見られている。

 記憶だけではない。選んだ言葉まで、きっちり並べられている。


 ディアナは左手を胸の前で握った。


 南区の闇競り。

 出品目録。


 ジークムントが父たちを使うなら、ディアナはその仕事ごと盗む。


 まだ何も盗めていない。

 けれど、次の獲物は見えた。


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