第六話 盗賊娘、ご褒美を要求する
ジークムントが、何でもないことのように手を差し出した。
「一曲、踊ろうか」
ぎくりとした。
ここで、今。
第一王子にダンスへ誘われる意味くらい、ディアナにも分かる。
断れば目立つ。受けても目立つ。
そしてジークムントは、どちらに転んでも自分の都合のいい方へ使う。
「……今ですか」
「今だよ」
「情報を盗むって決めたところなんですけど」
「踊りながらでも、目は使えるだろう?」
「使えますけど」
「なら問題ないね」
問題しかない。
けれど差し出された手を前にして、断るという選択肢はなかった。ここは夜会で、ディアナはジークムントの隣に立つ女として見られている。しかも、さっきイレーネの周りに落ちていた小さな悪意を潰したばかりだ。
ここで逃げたら、負けである。
何に負けるのかは分からない。
たぶん、社交界という名の化け物に。
「……一曲だけです」
「そうだね」
ディアナはジークムントの手に、自分の手を重ねた。
素肌の手が触れる。
それだけで心臓に悪い。
ジークムントは踊りの型へ移る前に、わざわざディアナの左手を取った。左手の中指には、偽オールトの指輪が直接はまっている。彼はそれを隠すどころか、よく見える角度で一度だけ支え、それから自然に手を導いた。
視線が集まる。
第一王子が、家名も名乗らない少女をダンスへ誘ったのだ。しかも、その左手には国宝に似た指輪がある。
扇の陰の囁きが、細い波のように広がっていく。
分かりやすい爆弾である。
また隣の男が火をつけた。
ジークムントの視線は、会場を見ているようで、時々ディアナにも戻ってくる。
誰が何に反応するか。そしてディアナが何に食いつくか。それを見ているのだと、嫌でも分かった。
楽の音が変わる。
ジークムントの手が腰に添えられ、ディアナは息を止めかけた。
「息をして」
「しています」
「止まっているよ」
「止まりますよ」
この距離で平然としていられる人間がいるなら連れてきてほしい。
しかも相手は最推しである。最推しで、悪役王子で、自分を拘束具付きで連れ歩いている危険人物である。
情報量が多すぎる。
一歩。二歩。回る。
ロザリアに叩き込まれた足運びが、ぎりぎりで身体を支えた。ジークムントは上手かった。腹立たしいほど自然にディアナの動きを拾い、乱れそうになる寸前で流れを変える。
逃げ道を断たれているのに、支えられている。
悔しいのに、踊りやすい。
最悪だ。
最悪なのに、ちゃんと上手い。
「顔」
「はい?」
「今、かなり悔しそうだ」
「気のせいです」
「そう」
「笑いました?」
「少し」
「笑ったな。今、笑いましたね」
ジークムントは答えず、ディアナを一度ゆるやかに回した。
視界が動く。
光。人の輪。扇。杯。笑顔。探る目。少し離れた場所にいるクリス。
その先に、イレーネがいた。
クリスが何かを言い、イレーネが静かに目を伏せる。親しげに笑い合っているわけではない。けれど、二人の間には妙なぎこちなさもなかった。並ぶ位置、視線を交わす間、言葉を受ける角度。どれも、婚約者として何度も同じ場に立ってきた人たちの距離だった。
あれが、今の二人。
ゲームで見た関係とは違う。
まだ何も壊れていない。まだ、イレーネは悪役令嬢ではない。クリスも、彼女を断罪する側の王子ではない。
菫色の瞳を持つ少女が現れれば、物語は動き出す。
それは知っている。
けれど今、目の前にいる二人は、簡単に誰かが入り込めるほど薄い関係には見えなかった。
だから余計に怖い。
一瞬だけ、イレーネと目が合った気がした。
氷青の瞳が、静かにこちらを見ている。
ディアナは笑みを崩さなかった。
たぶん今、少しは令嬢に見えたはずだ。
四秒目から何かを盗みそうだとしても。
「よくできました」
「ロザリア先生みたいな言い方やめてください」
「では、私らしく言おうか」
「嫌な予感しかしません」
「上出来だよ、ディアナ」
低すぎず、甘すぎず、けれど耳に残る声だった。
ずるい。
この男は、本当に声の使い方がずるい。
曲が終わる。
ジークムントは最後まで優雅にディアナを導き、礼を終えると、そのまま左手を取った。指輪のはまった中指を軽く支えるようにして、会場の視線から隠さない。
また見せている。
ディアナは笑顔のまま、心の中で盛大に頭を抱えた。
社交界に放り込まれた初日。
第一王子に連れられて登場し、弟王子に探られ、悪役令嬢予定の少女の罠を潰し、その婚約者との距離を観察し、最後に第一王子と踊った。
もう十分すぎるほど燃えている。
「今日はここまでだね」
ジークムントが、あまりにも自然に言った。
ディアナは耳を疑った。
「……はい?」
「帰るよ」
「今からもっと情報を盗めそうなんですけど」
「だから帰る」
「なぜ」
思わず素で聞いた。
ジークムントは穏やかに微笑んでいる。けれど、ディアナの左手を取る指には、逃がす気がまったくなかった。素肌の中指で、偽オールトの指輪が光を拾っている。
「君は今、やる気になりすぎている」
「良いことでは?」
「今の君が長くここにいれば、それだけ余計な反応を見せる。イレーネ嬢だけでなく、クリスのことまで見始めただろう」
「……見てました」
「だから帰る」
言い返せなかった。
扇の陰から向けられる視線。こちらを見て笑う令嬢たち。どこかで何かを数えているような貴族の男たち。
そして、人の輪の向こうにいるイレーネとクリス。
まだ見ていたい。
まだ知りたい。
まだ、何か盗めるかもしれない。
そう思った瞬間、ジークムントの声が少し低くなった。
「ディアナ」
「……はい」
「今の顔で、もう十分だ」
今の顔。
それがどんな顔だったのか、自分では分からない。
けれど、ジークムントが引き上げを決めるくらいには、分かりやすかったのだろう。
ロザリア先生に知られたら、表情筋から叩き直される。
「それに、クリス相手にあれ以上話せば、君はもっと情報を抜かれる」
「もう抜かれました?」
「家名を名乗らなかったこと、指輪の話題で私を見たこと、私との関係を隠しきれていないこと、イレーネ嬢に興味があること」
「多い!」
初夜会から、だだ漏れである。
いや、笑いごとではない。
クリスは笑顔の泥棒だ。あのまま二度目に捕まったら、もっと自然に、もっと軽く、こちらの反応を拾っていくに違いない。
同業者として非常に嫌な相手である。
「帰るよ」
「……はい」
ディアナはジークムントの腕に手を添えた。
会場を出るまで、背中に視線が刺さり続けた。
第一王子が、国宝に似た指輪をはめた謎の少女を連れて、早々に夜会を去る。これもまた噂になるのだろう。
もう何をしても燃える気がする。
誰が火をつけた。
隣の男である。
王城の廊下を抜け、馬車に乗り込む。扉が閉まった瞬間、外の光と音が遠ざかった。
ディアナは背もたれに沈み込みそうになったが、寸前でロザリアの声が脳内に響いた。
背筋。
恐ろしい。
本人がいないのに姿勢を直させてくる。
ディアナはぎりぎりで背を伸ばした。向かいに座ったジークムントが、それを見て小さく笑う。
「疲れた?」
「疲れていません」
「嘘が下手だね」
「疲れました」
「素直でよろしい」
腹立たしい。
けれど、言い返す気力はあまりなかった。
馬車が動き出す。窓の外で、王城の光が少しずつ遠ざかっていく。あの中では笑っていた。歩いていた。立っていた。踊っていた。けれど離れてしまうと、身体が一気に重くなる。
夜会は戦場だった。
剣はない。血も流れない。けれど、視線と笑顔と噂で人が刺される場所だった。
「生きて帰れました」
「大げさだね」
「大げさじゃありません。あれは社交界という名の罠床です」
「よく見ていた」
「盗賊娘なので」
胸を張って言うことではない気もする。
だが、事実である。
ディアナは左手を見る。素肌の中指で、偽オールトの指輪が静かに光っていた。
拘束具。逃げられない証。ジークムントの庇護を示す盾。今夜は、その全部だった。
便利なのが腹立たしい。
「何を考えているのかな」
ジークムントの声が落ちる。
ディアナは顔を上げた。
青灰色の瞳が、こちらを見ている。微笑んでいるのに、目の奥が読めない。
ジークムントは、ディアナの記憶の断片を視たのだろう。
けれど心を読んでいるわけではない。視たのは、きっと映像と文字と、そこにまとわりついた感情の断片だけだ。
人の記憶は整理された本ではない。ましてディアナの中には、今のディアナと、前世の自分と、前々世のイレーネの記憶が混ざっている。
綺麗に読めるはずがない。
ジークムントは鋭い。怖いくらいに鋭い。
けれど、全部を読めるわけではない。
なら、試す価値はある。
盗賊娘は、鍵穴を見つけたら覗く生き物である。
「父たちのことを考えていました」
ディアナは、あえてそう言った。
嘘ではない。
夜会の間も、ずっと頭の隅にあった。父たちは無事か。ひどい扱いをされていないか。いつ会えるのか。
けれど、それだけではない。
ジークムントがどう拾うか、ディアナは見た。
「リュクスたちか」
「はい」
「条件通り、手は出していないよ」
「分かっています」
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
ジークムントの目がわずかに細くなる。
「君は今夜、他にも考えることができただろう」
「夜会が怖かったです」
「それも嘘ではないね」
「嘘はついていません」
「全部は言っていない」
当たりである。
見えている。けれど、全部ではない。
言葉や表情や、表に出た反応から探っている。少なくとも、今この瞬間の考えをそのまま覗かれている感じはしない。
ディアナは内心で小さく印をつけた。
この男の力には、見えない場所がある。
「イレーネ嬢が気になる?」
そこまでは来る。
ディアナは膝の上で指を握った。
「気になります」
「君の知っている筋書きで、彼女が悪い役を負うから?」
「……それもあります」
「それも」
ジークムントの声が、少しだけ低くなる。
ここから先だ。
この人が、どこまで踏み込んでくるか。
以前の自分だったから。
前々世の痛みがあるから。
イレーネを見た時、自分ではないと分かったから。
そこまで言われたら終わりだった。
けれど、ジークムントは言わなかった。
ただ、ディアナを見ている。興味深そうに。探るように。逃げ道を塞ぐように。
でも、確信はしていない。
やっぱり、そこまでは見えていない。
「理由は、まだ言えません」
「私に?」
「はい」
ジークムントは、少しだけ目を細めた。
もっと踏み込まれると思った。甘い声で逃げ道を塞がれ、知っていることを全部吐かされると思った。
けれど、ジークムントは何も言わなかった。
ただ、こちらを見ている。過去に視た記憶の断片と、今の表情と、沈黙を並べているような目だった。
「聞かないんですか」
「聞いても、君は言わないだろう」
「……はい」
「なら、今はいい」
意外だった。
優しい、とは思わない。
この人が引いたのは、きっと優しさではない。今ここで踏み込むより、泳がせた方が面白いと思っただけかもしれない。
それでも、分かったことがある。
ジークムントは全部を見ているわけではない。
でも、見えていない場所があることには気づいている。
やはり、厄介だ。
全部読めるから怖いのではない。全部は読めないのに、見えたものだけで近づいてくるから怖い。
ディアナは息を整えた。
これ以上イレーネの話を続けるのは危ない。今夜の自分は、もう十分すぎるほど反応を見せた。
なら、話を変える。
逃げるためではない。もう一つ、大事なことを取り返すために。
「ご褒美をください」
「……ご褒美」
ジークムントの声に、ほんの少しだけ笑いが混じった。
「今夜、私は逃げずに夜会へ出ました。ジーク様の隣で笑って、踊って、見世物にもなりました」
「見世物」
「違いますか」
「否定はしない」
「してください」
してくれなかった。
ディアナは続ける。
「だから、ご褒美をください」
「何が欲しい?」
「父たちに会わせてください」
今度は、ジークムントが黙った。
馬車の中の空気が変わる。
甘い微笑みはそのままなのに、温度だけが少し下がった気がした。
ディアナは目を逸らさなかった。
「無事だとは聞いています。でも、私は自分の目で見たいんです。父さんたちが本当に怪我をしていないか、ひどい扱いをされていないか、ちゃんと確かめたい」
「私の言葉では足りない?」
「足りません」
即答した。
怖い。
でも、ここは譲れない。
「ジーク様は私を利用します。私もジーク様を利用します。なら、私が頑張った分くらい、ください」
言い方が少し子どもっぽい気もした。
けれど、これが本音だった。
父たちに会いたい。
リュクスに、カイルに、ミロに、ガロに、ダンテに、バルドに。
無事だと聞くだけではなく、顔を見たい。声を聞きたい。生きていると確かめたい。
イレーネのことを考えている。
それは本当だ。
でも、父たちを忘れたわけではない。
守りたいものが、増えただけだ。
「君は欲張りだね」
「盗賊娘なので」
「それも便利な言葉だ」
「事実です」
ジークムントはしばらく黙っていた。
ディアナは息を殺して待つ。
返事によっては食い下がるつもりだった。泣き落としは使えない。顔が崩れる。脅しも弱い。こちらの手札は少ない。
それでも、引く気はなかった。
「いいよ」
あまりにもあっさり言われて、ディアナは一瞬固まった。
「……いいんですか」
「ご褒美が欲しいんだろう?」
「欲しいです」
「なら、明日。時間は短く、場所はこちらで決める。私かサディアスが同席する。逃がそうとしたら、その時点で終わりだ」
条件は厳しい。
当然だ。
でも、会える。
父たちに会える。
胸の奥が一気に熱くなった。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。
悔しい。けれど、嬉しい。
ジークムントはそれを見逃さなかったように、目を細める。
「よかったね」
「はい」
「ずいぶん素直だ」
「父たちのことなので」
ここは、素直になるところだ。
ジークムントの指が、指輪の縁を軽く叩いた。
「ただし、忘れないように」
「何をですか」
「君はまだ、私の手の中にいる」
低い声だった。
甘くない。ただの確認だった。
ディアナの背筋が伸びる。
「分かっています」
「分かったら、明日は余計なことをしない」
「余計なことの範囲が広そうです」
「君が思っているより広い」
「やっぱり」
ジークムントが笑った。
少しだけ空気が戻る。
「でも、私もひとつ覚えておくよ」
「何をですか」
「君が私の目の届かない場所を探していること」
心臓が跳ねた。
ばれている。
全部ではない。
でも、試したことには気づかれている。
ディアナは笑顔を作った。
「何のことでしょう」
「その顔は下手だね」
「令嬢の笑顔は三秒までなので」
「ロザリアに報告しておこう」
「やめてください!」
ジークムントは楽しそうに笑った。
怒ってはいない。少なくとも今は。
だが、油断はできない。
この人は、穴を探されても面白がる。
そして次からは、その穴の周りに罠を張るかもしれない。
非常に厄介である。
馬車が離宮へ着く頃には、ディアナの身体は完全に重くなっていた。
扉が開き、夜気が入り込む。冷たい空気が頬に触れた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。
離宮は静かだった。王城の光とは違う。燭台の灯りは控えめで、廊下の影は深い。
やはり人間には適した明るさというものがある。
盗賊娘には特にある。
「お帰りなさいませ」
玄関広間で待っていたのはサディアスだった。
黒に近い髪。薄い灰色の目。いつも通りの無表情。夜中でも顔色ひとつ変わらない。
この人、寝ているのだろうか。
少し不安になる。
「ただいま戻りました」
ディアナは一応、令嬢らしく返した。
サディアスの視線が上から下まで静かに動く。
「転倒、逃亡、破損、流血はなし。最低限の成果はあったようですね」
「報告項目が物騒!」
「殿下の隣に立つには必要な項目です」
「殿下の隣、危険地帯すぎませんか」
「今さらですね」
辛辣だった。
ジークムントは楽しそうに見ている。助ける気はないらしい。
知っていた。
「サディアス」
ジークムントが呼ぶ。
「明日、彼女をリュクスたちに会わせる」
「承知しました。監視は私が?」
「ああ」
「待ってください、今、当然のように監視が決まりました」
「当然です」
「当然だった」
サディアスは淡々と頷く。
「面会時間と場所はこちらで調整します。逃走補助の可能性もありますので、接触距離は制限します」
「厳しい!」
「緩くする理由がありません」
「正論が痛い!」
ディアナは頭を抱えかけたが、髪が崩れるのでやめた。
ロザリアの幻が怖い。
それでも明日は、顔を見られる。
そう思うだけで、足元が少しだけしっかりした気がした。
「今日は休みなさい」
ジークムントが言った。
「明日、君は忙しい」
「はい」
「夜会の噂についても、朝に聞かせる」
「休ませる気あります?」
「朝までは休める」
「短い!」
サディアスが無表情で続ける。
「夜会後としては十分です」
「味方がいない」
ディアナは深く息を吐き、ジークムントに向き直る。
「ジーク様」
「何かな」
「明日の約束、破らないでくださいね」
「君が約束を破らなければね」
「破りません」
「今のところは信じておこう」
「信用が薄い」
「積み上げていきなさい」
それはそう。
悔しいが、それはそうだった。
ディアナは小さく礼をして、自室へ向かった。
廊下を歩きながら指輪へ触れる。冷たい感触が、指先に返ってきた。
ジークムントは全部を見ているわけではない。
でも、見えない場所を探したことには気づいた。
父たちには会える。
イレーネのことは、まだ何もできていない。
それでも、手に入れたものはある。
まったく、人生が忙しい。
部屋に戻り、ようやくドレスから解放された時、ディアナは深く息を吐いた。髪飾りが外れ、首元のアクセサリーが外れ、重い布が身体から離れる。
生き返る。
寝間着に着替えたディアナは、ベッドに座って左手を見た。
指輪は外れない。当然だ。夜会を一回乗り切ったくらいで外れるなら、苦労していない。
でも、今夜は少しだけ分かった。
ジークムントの記憶視は、心を読む力ではない。
この指輪も、社交界も恐ろしい。だが、使えるところはある。なら、使う。
父たちを守るために。
自分が守ると決めたものを、手放さないために。
ディアナは布団にもぐり込んだ。
目を閉じると、王城の光と、氷青の瞳と、リュクスたちの顔が順番に浮かぶ。
明日、父たちに会える。
その事実だけを抱えて、ディアナはようやく眠りに落ちた。




