第五話 盗賊娘、夜会で悪役令嬢に出会う
夜会用のドレスは、最初に見た時よりずっとディアナの身体に馴染んでいた。
深い葡萄酒色の布が足元までなめらかに落ち、胸元は開きすぎず、けれど子どもっぽくもない。袖には軽いレースが重ねられ、動くたびに光を拾う。髪は高く結い上げられ、赤銅色の毛先だけがうなじに少し落ちていた。
耳元には小さな真珠。首元には細い金のネックレス。そして左手の中指には、素肌に直接はまった偽オールトの指輪。
大変遺憾ながら、見た目だけなら完璧である。
「……私、今なら通行証を偽造しなくても関所を通れそうですね」
「その発想を口に出さないところから練習しましょう」
「はい」
返事だけは素直にした。
中身は何ひとつ素直ではない。
鏡の中にいるのは、屋根を渡り、裏路地を抜け、罠を外していた盗賊娘ではなかった。どこからどう見ても、どこかの貴族令嬢である。
詐欺だ。
しかも出来がいい。
昔なら、きっと見惚れていた。
自分とは別の世界の女たちが身に着けていた布や真珠や細い金が、今は自分を飾っている。
嬉しくない、と言えば嘘になる。
だから余計に腹が立った。
これはディアナが選んだ綺麗さではない。
憧れていたものに近づいたはずなのに、少しも自由になった気がしない。
綺麗な檻にもほどがある。
「背筋を伸ばして。顎を少し引いて。相手を見る時は睨まない」
「睨んでません」
「狙いを定める目になっています」
「職業病です」
「今夜だけは捨てなさい」
無理難題である。
盗賊に職業病を捨てろと言うのは、魚に水を忘れろと言うようなものだ。たぶん。
けれど、ディアナは深く息を吸った。
今夜は失敗できない。
ジークムントの隣に立つ。王城の夜会に出る。貴族たちの前に晒される。それはつまり、ディアナが「ただの捕まった盗賊娘」ではなくなるということだ。少なくとも、周囲はそう見る。
なら、その視線を利用しなければならない。
父たちのために。
自分のために。
そして、まだ出会っていない誰かのために。
イレーネ。
その名前を胸の奥で呼ぶと、まだ会ってもいないのに少し痛んだ。
悪役令嬢になるはずの少女。
前々世で自分が背負っていた名を、今この世界で生きている少女。
けれど、まだ会っていない。
今の彼女を、まだ知らない。
だから勝手に分かった気になってはいけない。
「ディアナ様」
ロザリアの声が、少しだけ柔らかくなる。
「型は、あなたを縛るものにもなります。けれど、今夜は盾にしなさい」
「盾」
「そうです。笑顔も、礼も、沈黙も、使い方を覚えれば武器になります」
ディアナは鏡の中の自分を見た。
盗賊娘の手。令嬢のドレス。中指の指輪。
どれも自分で選んだものではない。けれど、使い方は選べる。
「分かりました。今夜は、盗みません」
「今夜は?」
「視線と情報だけにしておきます」
「……大変結構です」
褒められた。
たぶん褒められた。
そこへ、扉が叩かれた。
「入るよ」
返事を待つ気のない声だった。声だけで心臓に悪い。
扉が開き、ジークムントが入ってくる。夜会用の黒い礼装をまとった第一王子は、非常に腹立たしいことに完璧だった。黒を基調にした上着には銀糸の刺繍が走り、胸元には王家の紋章。腰には飾りではない剣。
銀白色の髪。甘い顔。冷たい目。整いすぎた立ち姿。
最悪だ。
最悪なのに、絵になる。
ディアナは本能的に一歩下がりかけて、踏みとどまった。ロザリア先生の訓練が今、ぎりぎり仕事をした。
「よく似合っている」
「……ありがとうございます」
「君にその色を選んで正解だった」
直球で言われた。
反則である。
ディアナは一瞬、言葉を失った。ジークムントはそんな反応を見逃さず、目を細める。
「こちらの方が君には似合う。それに、指輪がよく目立つ」
ジークムントは近づき、ディアナの左手を取った。
指輪のある手だった。
「殿下」
「今夜、聞かれるだろうね。その指輪は何か、と」
「何と答えればいいんですか」
「答えなくていい。君は少し困った顔をして、私を見る。あとは私が答える」
「あの、ちなみに何と?」
「私が連れている子だと」
終わった。
何かが終わった。
「殿下、それは非常に誤解を招く表現では」
「誤解させるために言うからね」
「正直ですね」
「君に近づく相手を減らすには早い」
「私は囮ですか」
「囮にしては、よく喋る」
「否定してください」
「大事な囮だよ」
「もっと悪くなりました」
ロザリアが静かに咳払いをした。
ジークムントは悪びれもせず、ディアナの手を自分の腕に添えさせる。
守るような顔をして囲う。
助けるような声で逃げ道を塞ぐ。
優しさと利用を、平然と同じ皿に盛って出してくる。
うっかりありがたがったら、最後である。
「行こうか」
その瞬間、冗談を言う余裕が少しだけ消えた。
いよいよだ。
王城の夜会。光の中。敵か味方かも分からない貴族たちの前。
「……父たちは」
「無事だよ」
短い返事だった。
けれど、そこに嘘は感じなかった。少なくとも今は。
ディアナは頷く。
「では、参ります」
ロザリアが深く礼をした。
「ご武運を」
夜会に向かう令嬢に言う言葉ではない。
しかし今のディアナには、非常に正しい。
王城へ向かう馬車の中で、ジークムントは多くを話さなかった。ディアナも話さなかった。
沈黙は重い。
けれど、不思議と息苦しいだけではない。
馬車の揺れに合わせて、指輪が小さく光を拾う。
偽物。拘束具。ジークムントが作った、逃げられない証。
それでも今夜だけは、この指輪が盾になる。
そう思うことにした。
王城に着いた時、まず音がした。
楽の音。人の声。笑い声。杯の触れ合う音。そして、光。
大広間へ続く扉の前で、ディアナは一瞬だけ足を止めた。
山の闇とも、地下牢の暗さとも、離宮の静けさとも違う。ここにはすべてを照らす光がある。けれどその光は、何もかもを綺麗に見せるためのものではない。
粗を探すための光だ。
誰が何を着ているか。誰が誰の隣に立っているか。誰が誰を見て、誰が誰を避けたか。全部、見られる。
そもそも、ジークムントはこうした夜会に滅多に姿を見せない。
必要な公式行事には出る。けれど、貴族たちが笑顔で腹を探り合うような場に、好んで顔を出す男ではない。
まあ、記憶を視る王子が夜会に来たら、そりゃ空気も固まる。
笑顔で近づいた相手に、昨日の悪口やら密談やらを見られるかもしれないのだ。怖い。普通に怖い。
そのジークムントが、今夜はディアナを連れて現れる。
何も起きないわけがない。
「緊張している?」
「していません」
「嘘が下手だね」
「盗賊に向かって言う言葉ですか」
「君は顔に出る」
悔しい。
ものすごく悔しい。
ジークムントは少し身を屈め、ディアナの耳元に声を落とした。
「目をあけていろ。下を見るな。逃げるな。君は今夜、私の隣に立つ」
「……分かりました」
「良い子だ」
「その言い方はやめてください」
「善処する」
「絶対しない人の返事です」
扉が開いた。
光が押し寄せる。
ディアナはジークムントの腕に添えた手に、少しだけ力を込めた。一歩、二歩、三歩。視線が集まり、ざわめきが波のように広がっていく。
第一王子ジークムントが見知らぬ少女を連れている。
しかも、その少女の左手には指輪がある。
分かりやすい爆弾である。
誰が仕掛けた。隣の男である。
非常に腹立たしい。
けれど、ここで怯えたら終わりだ。
ディアナはロザリアに叩き込まれた笑みを浮かべた。狙いを定める目ではなく、隙を見せすぎる笑みでもなく、何も知らない令嬢のふりをして周囲を見る。
年配の侯爵夫人が扇の陰で囁く。若い令嬢が目を丸くする。騎士らしい青年が、驚いたようにジークムントを見る。奥では、貴族の男たちが互いに目配せをした。
情報が多い。
多すぎる。
でも、盗賊の目はこういう時に役に立つ。誰が敵意を向けたか、誰が興味を持ったか、誰が怯えたか。全部、覚える。
たぶんジークムントも、それを見に来たのだ。
誰が指輪を見るか。
誰がディアナへ近づくか。
誰が、ジークムントの登場そのものを嫌がるか。
夜会は、ただのお披露目ではない。
情報を拾うための盤面でもある。
「兄上」
最初に近づいてきたのは、銀髪の青年だった。柔らかい笑みを浮かべ、薄い水色の瞳を楽しげに細めている。人懐こそうな顔。軽い足取り。けれど、近づく角度がうまい。
こちらが逃げる前に、自然と会話の距離に入ってくる。
この人、たぶん見た目より厄介だ。
「今夜はずいぶんと、会場を驚かせるおつもりで」
「クリス」
ジークムントが名前を呼ぶ。
ディアナの内心が、ぎくりと跳ねた。
クリス。
攻略対象の一人。そして、ジークムントの弟である第二王子。
兄よりずっと親しみやすく、誰にでも笑顔で近づく王子。けれど、その笑顔のまま相手の本音を引き出すのがうまい。
つまり、笑顔の泥棒である。
同業者かもしれない。
「こちらの方は?」
クリスの視線がディアナに移る。好奇心。探り。それから、指輪への一瞬の視線。
早い。
ちゃんと見ている。
ディアナは礼をした。深すぎず、浅すぎず。
ロザリア先生、見ていますか。
私は今、なんとか人間社会に擬態しています。
「ディアナと申します」
家名は言わない。
言えない。
その空白を、会場中が聞いていた。クリスの笑みが、ほんの少し深くなる。
「ディアナ嬢、ですか。兄上がご令嬢を伴われるなんて、珍しいですね」
「そうだね。私の大切な子だ」
会場の空気が、ほんのわずかに揺れた。
大切な子。
言い方である。
「それはまた、ずいぶん大事にされているようで。その指輪も、兄上から?」
「……」
来た。
指定された通り、ディアナは少し困った顔をしてジークムントを見た。腹立たしいことに、ジークムントは満足そうだった。
「彼女は私のものだからね」
今度こそ、空気がはっきり変わった。
扇が止まる。会話が途切れる。遠くで誰かが息を呑む。
ディアナは心の中で頭を抱えた。
終わった。
社交界デビュー初手で燃やされた。
しかも放火犯は隣で微笑んでいる。
「……なるほど。それは皆、今夜眠れなくなりそうですね」
「よい夜になるだろう」
「兄上にとっては、でしょう」
クリスは軽く笑った。
口調は明るい。けれど、言葉の置き方がうまい。冗談の顔をして、ちゃんと場の温度を測っている。
ディアナは笑顔のまま、胃の辺りがきゅっと縮むのを感じた。
これが社交界。
笑っている。礼儀正しい。綺麗な服を着ている。
なのに、山道で刃を向けられるより怖い。
「ディアナ嬢。王城の夜会は初めてですか?」
「はい」
「では、驚くことも多いでしょう」
「すでに驚きっぱなしです」
「正直な方だ」
「取り繕う余裕がまだ少なくて」
クリスが楽しそうに笑う。
失敗したかと思ったが、ジークムントは何も言わなかった。むしろ、わずかに口元を緩めている。
たぶん面白がっている。
やはり最低である。
「では、ひとつだけ助言を。今夜、あなたに親切な人間ほど、気をつけた方がいい」
ディアナは瞬きをした。
クリスの笑みは明るい。けれど、その目は少しだけ冷静だった。
「もちろん、僕も含めて」
「……覚えておきます」
「賢明です」
「クリス」
ジークムントの声が少し低くなった。
それだけで、周囲の空気がすっと冷える。
「彼女に余計なことを教えないでくれるかな」
「これは失礼。兄上の大切な方に、少し親切をしただけですよ」
「親切はいらない。必要なことは、私が教える」
ジークムントの手が、ディアナの腰に軽く添えられた。
触れているだけ。
支えているだけ。
けれど周囲には十分すぎるほどの牽制だった。
会場のどこかで、小さな悲鳴のような囁きが起きる。
ディアナは悟った。
これは今夜、終わらない。
しばらく噂の中心になる。
むしろジークムントはそれを狙っている。
ディアナという存在を、社交界に強く刻みつけるために。
守るために。利用するために。
そして、誰がどう反応するかを見るために。
「では、僕はこれ以上怒られる前に退散します」
クリスは悪びれずに笑い、優雅に礼をした。
「ディアナ嬢。また後ほど。兄上の目が怖くない時に」
そう言って、軽やかに離れていく。
背中は気楽そうなのに、こちらが見ていることにはたぶん気づいている。
「今の方、絶対に味方じゃないですね」
「敵でもない」
「一番面倒なやつです」
「分かっているならいい」
「殿下の周り、そういう人ばかりなんですか」
「君もその一人だよ」
「私は被害者です」
「私のものだ」
「会話の終着点を全部そこにしないでください」
ジークムントが笑う。
その笑顔に、周囲の令嬢たちが見惚れているのが分かった。
分かる。
分かってしまう。
顔がいい。
でも皆さん、その人は危険物です。近づく時は命綱をつけてください。
ディアナは心の中で注意喚起した。
届くはずもない。
その時、会場の奥がざわめいた。
さっきまでとは違うざわめきだった。好奇心ではない。嘲りでもない。どこか、緊張を含んだもの。
ディアナはそちらを見る。
人の波がわずかに割れていた。
その向こうから、一人の令嬢が歩いてくる。
黒絹の髪。氷を思わせる青い瞳。白に近い青のドレス。背筋はまっすぐ伸び、歩幅に乱れがない。
美しい、というより、隙がなかった。
周囲の令嬢たちが囁く。夫人たちが扇を寄せる。若い貴族の男たちが、興味と警戒を混ぜた目を向ける。その令嬢は、それらすべてを受けながら表情を崩さなかった。
誇り高く、孤独で、誰にも膝を折らない顔。
ディアナの胸が強く鳴った。
知っている。
絵で見た。文字で読んだ。前々世の記憶の底でも、知っている。
イレーネ・ブラディ・マルチェント。
悪役令嬢にされるはずの少女が、光の中に立っていた。
ディアナは息をするのを忘れかけた。前々世の記憶が、胸の奥で薄く震える。あれは以前の自分だった。そういう記憶がある。そういう痛みも、確かに残っている。
けれど、目の前にいる彼女を見た瞬間、ディアナは思った。
違う。
あれは私じゃない。
黒絹のような髪を揺らし、氷青の瞳でまっすぐ前を見る少女。周囲の囁きを浴びても背筋を曲げず、誰にも膝を折らない顔で立っている令嬢。
彼女は、イレーネだ。
ディアナ・アディンセルではない。
前々世の残骸でも、記憶の中の影でもない。
今、この世界で生きている、一人の少女だった。
だから、勝手に分かった気になってはいけない。
かつて自分だったから、などという理由で、彼女の痛みを自分のもののように扱ってはいけない。
そう思ったのに、目が離せなかった。
「見惚れているね」
耳元にジークムントの声が落ちた。
ディアナはびくりと肩を揺らしかけて、なんとか堪える。
「見ていただけです」
「ずいぶん熱心に」
「綺麗な人なので」
「そう」
ジークムントはそれ以上、何も言わなかった。
ディアナは、そこにほんの少しだけ違和感を覚えた。
ジークムントは、ディアナの記憶の断片を視た。
けれど、今の沈黙はそれだけだ。
胸の奥で震えたものまでは、掴んでいない。
イレーネが以前の自分だったこと。
今、目の前の彼女を見て、ディアナが何を痛いと思ったのか。
そこまでは、たぶん見えていない。
もしかして、万能ではないのかもしれない。
記憶視はディアナの全部を暴く力ではない。
見えたものと、見えたものから読める反応を拾う力なのだとしたら、穴はある。
盗賊娘は、ほんのわずかな隙でも覚えておく生き物である。
イレーネは数人の令嬢に囲まれながら、淡々と挨拶を受けていた。誰も正面から失礼なことは言わない。けれど、扇の陰で動く口元、視線の流し方、微妙に空いた距離が、十分すぎるほど物を言っている。
近づきたい。けれど、関わりたくない。
褒めたい。けれど、味方とは思われたくない。
そんな空気だった。
嫌な感じだ。
「あの方が、イレーネ様ですか」
「知っているのかな」
「有名な方なので」
嘘ではない。
この世界の中でもイレーネは有名だ。名門マルチェント公爵家の令嬢で、王族の婚約者。教養、礼儀、魔法、社交。どれを取っても隙がないと評される少女。
そして、原作では悪役令嬢として断罪される少女。
胃が重くなった。
「近づきたい?」
「……近づいていいんですか」
「今はまだ、やめておいた方がいい」
ジークムントの返事は早かった。
ディアナは思わず彼を見る。
「どうしてですか」
「君が私の隣にいるからだよ」
その一言で、すぐに分かった。
ジークムント・ラ・パーソンの隣に立つ、家名も名乗らない少女。そんな存在が、いきなりイレーネに近づけばどう見えるか。
第一王子が新しい女を連れて、王族の婚約者に牽制をかけた。
あるいは、イレーネが第一王子の連れに冷たくした。
もしくは、その逆。
どの噂も最悪である。
「社交界、面倒くさい」
「今さら?」
「今夜だけで十年分くらい実感しています」
「よかったね」
「よくないです」
ディアナは笑顔を保ったまま、視線だけで周囲を探る。イレーネの周りにいる令嬢たち。少し離れたところで見ている夫人たち。面白がっている若い貴族。誰が何を期待しているのか、全部は読めない。
けれど、ひとつだけ分かる。
誰かが、何かを待っている。
そういう空気だった。
「ジーク様」
「何かな」
「あそこ、変です」
ディアナは小さく言った。視線は動かさない。笑みも崩さない。ただ、ジークムントの腕に添えた指先だけで、わずかに方向を示す。
会場の端。飲み物を運ぶ給仕の近くに、淡い桃色のドレスの令嬢が立っていた。年はディアナと同じくらい。笑っている。けれど、その手元が落ち着かない。
そして給仕の足元には、ほんの少しだけ絨毯の端が浮いていた。
罠だ。
大がかりなものではない。失敗しても、ただの不注意で済む程度の仕掛け。
けれど、人を笑いものにするには十分だった。
給仕が転べば、盆の上の杯が落ちる。向かう先には、イレーネがいる。
ディアナの背筋が冷えた。
「あのままだと、イレーネ様にかかります」
「なぜ分かる」
「罠を見る目には自信があります」
ジークムントの目が、わずかに細くなった。
「動くな」
「嫌です」
「ディアナ」
「今、止めないと間に合いません」
ジークムントの腕から手を離す。
その瞬間、周囲の視線が動いた。第一王子の隣から、謎の少女が離れたのだ。見られる。疑われる。噂になる。
知ったことか。
ディアナは歩いた。
走らない。足音を殺さない。背筋を伸ばす。
ロザリアに叩き込まれた令嬢の歩き方で、けれど盗賊の目で距離を測る。
給仕の足が、浮いた絨毯に引っかかる。盆が傾いた。
ディアナは一歩踏み込み、落ちかけた杯を指先で掴んだ。もう片方の手で盆の端を支える。体勢を崩した給仕の肘を、さりげなく押し戻す。
水音が立つ前に、すべてが止まった。
会場が静まり返る。
ディアナは微笑んだ。
ロザリア先生、見ていますか。
私は今、盗賊技術を令嬢の顔で使っています。
「大丈夫ですか」
「も、申し訳ございません」
「お怪我がなくてよかったです」
言いながら、ディアナはさりげなく絨毯の端を踏んだ。浮いていた部分が、靴の下で潰れる。これで二度目はない。
桃色のドレスの令嬢が、遠くでわずかに顔を強張らせた。
当たりである。
「……見事な手際ですこと」
すぐ近くで、涼やかな声がした。
ディアナは振り向く。
イレーネが立っていた。氷青の瞳が、まっすぐこちらを見ている。近くで見ると、やはり隙がなかった。睫毛の伏せ方、顎の角度、扇を持つ指先まで、全部が整っている。
綺麗だ。
でも、綺麗という言葉だけでは足りない。
この人は、ずっと一人で鎧を着ている。
そんな気がした。
「ありがとうございます。偶然、手が届いただけです」
「偶然で、あの速度は出ませんわ」
声は冷たい。
けれど、馬鹿にしているわけではなかった。ただ、見たものを正確に言っているだけだ。
ディアナは一瞬迷ってから、礼をした。
「ディアナと申します」
「イレーネ・ブラディ・マルチェントです」
知っています。
そう言いかけて、飲み込む。
今のディアナは彼女を知らないことになっている。前々世の記憶も、原作の記憶も、ここでは何の説明にもならない。
「お会いできて光栄です、イレーネ様」
「わたくしに?」
イレーネの目が、ほんの少しだけ細くなった。
驚いたのだと思う。
ほんの少し。本当に、よく見なければ分からないほど。
「はい」
ディアナはまっすぐ答えた。
ここで誤魔化したくなかった。
「とても、お会いしたかったので」
言ってから、しまったと思った。
重い。
初対面でこれは重い。
非常に重い。
けれどイレーネは笑わなかった。困った顔もしなかった。ただ、氷のような目でディアナを見ている。
「変わった方ですのね」
「よく言われます」
「でしょうね」
会話が終わった。
終わった気がする。
だが、その時。背後から低い声が落ちた。
「ディアナ」
ジークムントが来た。
来てしまった。
会場の空気がまた変わる。第一王子。イレーネ。家名を名乗らない少女。役者が揃いすぎている。見物人たちの目が、露骨に集まった。
「勝手に離れるなと言ったはずだ」
「言われました」
「では?」
「すみません。罠があったので」
ディアナは小声で返した。
ジークムントの視線が床に落ちる。ほんの一瞬。浮いていた絨毯の端と、青ざめた給仕と、桃色のドレスの令嬢。その全部を見たはずだ。
けれど、ジークムントは何も言わなかった。
「怪我は」
「ありません」
「そう」
短い確認。
それだけなのに、周囲の令嬢たちがまた小さくざわめいた。
やめてほしい。
今のはただの安否確認です。たぶん。
いや、たぶんではあるけれど。
イレーネがジークムントに向き直り、完璧な礼をした。
「ジークムント殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
「ああ。久しぶりだね、イレーネ嬢」
二人の会話は整っていた。
どちらも完璧な貴族で、完璧な王子と令嬢だった。そこに感情は見えない。けれど、感情がないわけではないことを、ディアナはなぜか分かってしまった。
隠しているのだ。
二人とも、違うやり方で。
「今夜はずいぶん、賑やかですのね」
「そうだね。彼女がいるから」
「そのようですわ」
イレーネの視線が、ディアナに戻る。
冷たい。けれど、刺すような冷たさではない。見極めようとしている目だった。
「ディアナ様」
「はい」
「先ほどは、給仕を助けてくださってありがとうございました」
ディアナは少しだけ目を見開いた。
給仕を助けた。
イレーネではなく、給仕を。
彼女は分かっている。自分に飲み物がかけられそうだったことも、ディアナがそれを止めたことも、おそらく分かっている。そのうえで、表向きには給仕を助けたことにした。
余計な騒ぎにしないために。
賢い。そして、慣れている。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
「偶然です」
「では、その偶然に感謝いたします」
イレーネはわずかに膝を折った。
完璧な礼だった。
周囲の視線が、いっせいに意味を変えた。イレーネが礼をした。第一王子の隣の少女に。しかも、感謝を口にした。
この場ではそれだけで意味を持つ。
桃色のドレスの令嬢が、扇の陰で唇を噛むのが見えた。
ディアナは笑顔を崩さなかった。
小さなことだ。
けれど今、少なくともひとつの悪意は潰せた。
「イレーネ嬢」
ジークムントが静かに言った。
「彼女はまだ社交界に慣れていない。失礼があれば、私に言ってくれるかな」
「失礼だなんて。とても率直な方で、驚きました」
「褒められていますか?」
「半分ほど」
思わず聞いてしまった。
イレーネの目が、ほんの少しだけ揺れる。
笑った、気がした。
本当に、一瞬だけ。
氷の表面に小さな光が差したような、そんな変化だった。
「残り半分は?」
「今後に期待、でしょうか」
「辛口!」
しまった。
声が少し大きかった。
周囲がまたざわめく。イレーネは扇で口元を隠した。怒らせたかと思ったが、違う。
たぶん、笑いを隠したのだ。
そうであってほしい。
ジークムントが隣で低く笑った。
「気に入られたようだね」
「どこがですか」
「今のところ、追い払われていない」
「基準が低い」
イレーネは扇を下ろし、静かに目を伏せた。
「ディアナ様。また後ほどお話しできれば」
「はい。ぜひ」
即答した。
ジークムントの視線がこちらに落ちる。
分かっている。
軽率だった。けれど、ここだけは譲りたくなかった。
イレーネはもう一度礼をして、周囲の令嬢たちの中へ戻っていった。人の波が、また彼女を囲む。けれどさっきとは少し違う。ほんの少しだけ距離が変わっていた。
ディアナはそれを見送る。
悪役令嬢にされるはずの少女。
誇り高く、孤独で、賢くて、きっと誰よりも傷つくことに慣れている少女。
放っておきたくない。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
以前の自分だったから、ではない。
前々世の記憶があるからだけでもない。
原作を知っているからだけでもない。
今、目の前にいた彼女を、悪役になんてされたくなかった。
「ディアナ」
「はい」
「目が変わった」
ジークムントの声が、静かに降ってくる。
ディアナは顔を上げた。
ジークムントは微笑んでいる。けれど、青灰色の瞳は笑っていなかった。
「何を考えているのかな」
「まだ、言えません」
「私に?」
「はい」
「隠すんだ?」
「それとこれとは別です」
言い切った。
自分でも驚くくらい、はっきりと。
ジークムントの目が、ほんの少し細くなる。
怖い。けれど、退けない。
「ジーク様に利用されるのは、構いません。私も、使えるものは使います。でも、誰を守るかだけは、私が決めます」
言ってから、心臓が遅れて暴れ出した。
やばい。
言いすぎたかもしれない。
けれど、ジークムントは怒らなかった。
むしろ、ひどく楽しそうに口元を緩めた。
「そう」
「……そう、です」
「いいね」
いいのか。
今のでいいのか。
この人の基準が分からない。
「今夜は私の隣にいなさい」
「はい」
「けれど、その目は覚えておく」
ジークムントはディアナの左手を取った。
指輪のはまった中指を、素肌の上から軽くなぞる。
「君が何を盗むつもりなのか、楽しみだ」
盗む。
その言葉に、ディアナはもう一度イレーネの背中を見た。
光の中に立つ、銀灰色の髪の令嬢。
誰にも膝を折らない顔で、けれど一人で立ち続けている少女。
なら、盗賊娘らしくやるしかない。
彼女に押しつけられる悪役の役目も、彼女を傷つける噂も、彼女を一人にする未来も。
盗めるものから、盗んでやる。
ディアナは笑顔を整え、ジークムントの腕にもう一度手を添えた。
「では、まずは情報から盗みます」
「頼もしいね」
「褒めていますか?」
「半分ほど」
「残り半分は?」
「面白がっている」
「でしょうね!」
ジークムントが笑う。
会場の光はまだ眩しく、視線はまだ痛い。
それでも、ディアナはもう下を向かなかった。
初めての夜会で、盗賊娘はひとつ決めた。
あの悪役令嬢を、悪役のまま終わらせたくない。




