表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/43

第四話 盗賊娘、令嬢の型を盗む


 逃亡計画を立てるより先に、令嬢教育を受けることになった。

 しかも、期限は一週間。


 どう考えても無茶である。


 そこから数日間、ディアナ・アディンセルは、王宮から呼ばれた礼儀作法の教師ロザリア・メイベルに徹底的に叩き直されることになった。


 淡い金髪をきっちり結い上げ、濃紺のドレスを隙なくまとった四十代半ばの女性。背筋は定規のように伸び、目元には一切の甘さがない。女神のように微笑む令嬢を量産する王宮教育の鬼、と言われても納得できる迫力である。


 ジークムントとは別方向に怖い。


「あなたがディアナ・アディンセルさんですね」

「はい」

「本日より、夜会に出ても恥をかかない程度の礼儀作法を身につけていただきます」

「恥をかかない程度」

「それ以上を望むには、時間が足りません」


 初手から容赦がなかった。


 部屋の隅では、サディアスが無表情で控えている。たぶん監視役だ。いや、確実に監視役である。


「肩の具合は」

「動かすと少し痛みます」

「無理に隠さないように。痛みで姿勢が崩れます」

「礼儀作法って、傷口にも厳しいんですね」

「夜会は怪我の事情まで考慮してくれません」

「夜会、怖い」


 ロザリアは眉ひとつ動かさなかった。


 父たちに会う許可は、まだ出ていない。

 だから今は、夜会で失点しないことが、彼らを守る一番近い道だった。


「まず、歩いてみてください」

「歩く?」

「はい。あちらの窓際まで」


 歩くくらいなら簡単だ。

 盗賊娘として十七年、裏路地も屋根も塀も森も走ってきたのである。歩くなど、基礎中の基礎。むしろ得意分野と言っても過言ではない。


 ディアナは窓際へ向かって歩き出した。


「止まりなさい」


 三歩だった。

 まだ何もしていない。いや、歩いた。歩いただけで止められた。


 ロザリアは淡々と告げる。


「足音を殺しすぎです」

「そこですか?」

「それから、重心が逃走前提です」

「逃走前提」

「視線が出入口と窓と天井裏を確認しています」

「…………」


 ばれている。


 ディアナはそっと視線を逸らした。ロザリアの目が細くなる。


「その目は、今も逃走経路を探していますね」

「探してません」

「窓枠の鍵の形を見ましたね」

「見ました」


 嘘はつけなかった。


 サディアスがわずかに息を吐いた気がする。

 笑ったのか。今、笑ったのか。


「盗賊としては優秀なのでしょう」

「褒められてます?」

「令嬢としては論外です」


 褒められた気がした。

 一瞬だった。


 ロザリアはディアナの周囲を一周した。

 視線が鋭い。まるで値踏みされているようだった。いや、値踏みされている。歩き方から姿勢から呼吸まで、全部見られている。


 居心地が悪い。

 でも、不思議と雑には扱われていなかった。


「背筋は悪くありません。体幹もある。足運びも軽い。問題は、すべてが潜入と逃走に最適化されていることです」

「人生がそうだったので」

「なら、今日から用途を増やしましょう」

「用途」


 言葉の選び方が道具っぽい。


 だが、ジークムントに言われる時ほど腹は立たなかった。ロザリアの目には、こちらを面白がる色も、支配する色もない。ただ、必要なものを見極めているだけだった。


「令嬢の歩き方とは、美しく見せるためだけのものではありません」

「違うんですか?」

「場を支配するためのものです」


 ディアナは瞬きをした。

 ロザリアは静かに続ける。


「速く歩けば焦って見えます。足音を殺せば後ろ暗く見えます。目を動かしすぎれば怯えて見えます。背を丸めれば侮られます。逆に、姿勢と歩幅と視線を整えれば、言葉を発する前に相手へ伝えられます」


 ロザリアは一歩、ゆっくりと歩いてみせた。


 たったそれだけだった。

 けれど空気が変わる。この部屋の主が、彼女になったように見えた。


「私は怯えていない。私はこの場に立つ資格がある。私はあなたに見下される者ではない。そう伝えるための型です」

「……型」

「型は檻にもなります。けれど、使い方を覚えれば、自分を守る武器にもなります」


 その言葉に、ディアナは黙った。


 型は檻にもなる。


 前々世のイレーネは、その檻の中にいた。

 王妃になるための教育。完璧な令嬢であること。微笑み方、歩き方、食事の仕方、話す順番、黙るべき場面。


 全部、知っている。

 全部、覚えている。


 でもそれは、自分を縛るものでもあった。


 ディアナは左手の指輪を見る。

 外れない拘束具が、朝の光を受けて冷たく光っていた。


 ロザリアの声が落ちる。


「あなたが何者であれ、夜会では見られます。値踏みされます。侮られます。ならば、侮られない立ち方を覚えなさい」

「……はい」


 思ったより素直な声が出た。

 ロザリアは初めて、わずかに目元を緩める。


「では、もう一度」

「はい」


 ディアナは息を吸った。


 足音を殺さない。逃げ道を探さない。窓を見ない。天井裏を見ない。

 背筋を伸ばす。顎を引く。歩幅を揃える。視線はまっすぐ。


 前々世の記憶が、身体の奥で薄く反応する。


 イレーネ・ブラディ・マルチェントなら、できた。

 けれど今の自分は、ディアナ・アディンセルだ。


 同じようにする必要はない。でも、使えるものは使う。


 盗賊娘なので。


 ディアナは歩いた。


「止まりなさい」

「……また三歩ですか」


 また三歩だった。


 ロザリアは無情に告げる。


「今度は意識しすぎです。全身が『私は令嬢です』と叫んでいます」

「……難しいです」

「当然です。一朝一夕で身につくなら、私の仕事は不要です」

「説得力がありすぎます」


 そこから、数日間にわたる地獄が始まった。


 歩く。止められる。

 戻る。礼をする。止められる。

 椅子に座る。止められる。


 屋根の上を走る方がまだ楽だった。


「肩」

「はい」

「顎」

「はい」

「視線」

「はい」

「手」

「はい」

「笑顔」

「笑顔までですか」

「当然です」


 当然らしい。

 夜会は足だけでなく、顔まで使うらしい。


 ディアナは鏡の前に立たされ、口角を上げた。


「違います」


 秒だった。

 ロザリアは容赦なく首を横に振る。


「その笑顔は、盗みに入る前の顔です」

「盗みに入る前の顔って、そんなに駄目ですか?」

「令嬢としては最悪です」

「盗賊としては?」

「おそらく上々です」

「ありがとうございます」

「褒めていません」

「ですよね」


 鏡の中のディアナは、赤みを帯びた髪をきちんと結われ、慣れない室内着を着せられていた。昨日まで屋根と裏路地を行き来していた人間とは思えない姿である。


 ただし、中身は盗賊娘のままだ。


 笑えと言われると、目が獲物を探す。

 礼をしろと言われると、もう取り上げられたはずのナイフの位置を確認しそうになる。

 姿勢を正せと言われると、近くの窓の鍵を見てしまう。


 癖が強い。


 自覚はある。


「微笑みとは、相手へ敵意がないと示すものです」

「なるほど」

「同時に、相手へ隙を見せないためのものでもあります」

「急に物騒」

「社交界とは、そういう場所です」


 ロザリアは淡々と言った。


 それが冗談ではないことくらい、ディアナにも分かる。

 前々世のイレーネは、その場所で生きていた。笑顔の角度ひとつ、視線を伏せる長さひとつで、好意も拒絶も侮蔑も伝わる場所。


 剣も銃もないのに、やたらと血を見る場所である。


 比喩的に。


「では、夜会で殿下に紹介されたと仮定しましょう。微笑んで、礼を」

「はい」


 ディアナは息を吸った。


 背筋を伸ばす。顎を引く。笑いすぎない。

 獲物を見る目をしない。逃げ道を探さない。


 そして、礼。


 前々世の記憶が、足元から薄く立ち上がるような感覚があった。

 イレーネなら、これくらい当然のようにできた。けれど、今のディアナが同じ顔をする必要はない。


 盗賊娘らしさを全部殺す必要はない。

 令嬢の型を、使えばいい。


 ディアナはゆっくり微笑み、軽く膝を折った。


 ロザリアが少しだけ目を細める。


「今のは及第点です」

「本当ですか」

「三秒ほどなら令嬢に見えます」

「三秒」

「四秒目から何かを盗みそうです」

「盗みません。たぶん」


 たぶん。

 いや、場による。


 ロザリアの視線が鋭くなったので、ディアナは慌てて目を逸らした。


「今、場によると思いましたね」

「心を読まないでください」

「顔に出ています」


 令嬢への道は遠い。

 かなり遠い。


 ディアナは頭を抱えた。


 令嬢教育が始まってからの数日は、驚くほど早く過ぎた。

 歩き方。微笑み方。礼の角度。仮合わせ。ダンス。

 逃亡計画を立てる暇など、ほとんどなかった。


 その三日目の午後、針子たちが離宮へやって来た。手には衣装箱や補正道具を抱えている。

 嫌な予感がした。


「今度は何ですか」

「仮合わせです」

「仮合わせ」

「夜会用のドレスを、あなたの身体に合わせます」

「夜会用のドレス」


 言葉の意味は分かる。

 分かるが、現実味がない。


 ディアナは自分の身体を見下ろした。

 盗賊団で育った身軽な身体。走る、登る、蹴る、逃げるに特化した身体である。


 ドレス。


 つまり、布でできた行動制限具。


「夜会まで数日しかないのに、間に合うんですか」

「一から仕立てるわけではありません。殿下があらかじめ用意されたものを、あなたに合わせて直します」

「用意が良すぎる」

「殿下ですので」

「説明になっているようで、なっていない」


 捕まった翌日には、夜会行きが決まっていた。そして三日目には、ドレスが用意されている。

 つまりジークムントは、最初からディアナを夜会へ出すつもりで動いていたということになる。


 用意周到すぎる。


「今、嫌な顔をしましたね」

「しました」

「素直なのは結構です。ですが、逃げないように」

「逃げませんよ」

「窓を見ました」

「見ました」


 嘘はつけなかった。


 サディアスが扉の前へ移動する。逃走経路がひとつ塞がれた。

 完全に読まれている。


「では、腕を上げてください」


 針子の一人が補正用の巻き尺を伸ばす。

 ディアナは言われた通り腕を上げた。けれど、腰に巻き尺が触れた瞬間、反射的に相手の手首を掴んでいた。


 沈黙。


 針子が固まる。

 ロザリアが目を閉じる。

 サディアスが無言でこちらを見る。


「……すみません。反射で」

「今の反応速度は見事です」

「ありがとうございます」

「令嬢としては最悪です」


 褒められて落とされた。

 本日二回目である。


 ディアナは慌てて手を離した。


 そこから仮合わせは、なかなかの地獄だった。

 腕を上げる。下ろす。回る。止まる。腰を測られる。肩幅を見られる。針の位置に反応するなと言われる。


 無理である。


 針である。

 反応するに決まっている。


「刺さりません」

「刺さるかもしれないじゃないですか」

「私どもは職人です」

「私も盗賊です」

「誇らしげに言わないでください」


 ロザリアに叱られた。


 しばらくして、衣装箱から濃い布地のドレスが取り出された。


 深い葡萄酒のような色だった。

 赤すぎず、紫すぎず、光の角度でほんのり黒を含む。


 派手ではない。

 けれど、目を引く。


「……綺麗」


 思わず声が漏れた。


 針子が微笑む。ロザリアも、ほんの少しだけ頷いた。


「あなたの髪と瞳には、この色が合うでしょう」

「私に?」

「はい。菫色は避けます。あれは女神と王家の色として扱われますので」

「なるほど」


 菫色。

 女神オールトの瞳の色。

 そして、まだ見ぬ原作ヒロインの色。


 ディアナは胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 考えるのは早い。今は、自分が夜会で転ばないことの方が先である。


「この色、ジーク様が選んだんですか?」

「殿下のご指定です」


 ロザリアが答えた。

 その瞬間、ディアナの心臓が跳ねた。


 推しが。

 私のドレスの色を。

 選んだ。


 いや、落ち着け。

 これは恋愛的な意味ではない。せいぜい連れて歩く相手の装いを整えた、くらいの話である。


 なのに嬉しいのが腹立たしい。


「顔が緩んでいます」

「緩んでません」

「緩んでいます」

「……緩みました」


 認めるしかなかった。


 その時、背後から柔らかな声がした。


「気に入ったかな?」


 ディアナはびくりと肩を跳ねさせた。


 いつの間にか、扉のそばにジークムントが立っていた。

 黒い騎士服姿のまま、優雅に微笑んでいる。登場の仕方がいちいち心臓に悪い。


「扉を叩くのは、開ける予告ではありません」

「扉は叩いたよ」

「だから開けていいとは言ってません」


 絶対に分かってやっている。


 ロザリアと針子たちが一礼する。サディアスも静かに控えた。

 ディアナだけが、仮合わせ途中で腕を半端に上げたまま固まっている。


 非常に間抜けだった。


「そのままでいいよ」

「よくないです」

「私は面白い」

「私の問題です」


 腕を半端に上げたまま、推しに見られている。

 かなりの問題だった。


 ジークムントは楽しげに笑った。

 その視線が、広げられたドレスへ向かう。


「やはり、その色で正解だね」

「……どうしてこの色なんですか」

「君の髪と瞳に合う」

「…………」


 直球で言われた。

 反則である。


 ディアナは一瞬、言葉を失った。ジークムントはそんな反応を見逃さず、目を細める。


「それに、私の隣に立たせるなら、軽すぎる色は似合わない」

「見栄えの問題ですか」

「そうだね」

「否定してください」

「する理由がない」


 この人はいつだって、ひどいことをさらりと言う。


「夜会では、その指輪が見えるようにする」

「え」

「手元は隠さない。その方がよく目立つ」

「見せ物ですか」

「牽制だよ」


 声が少しだけ低くなった。


 ディアナは顔を上げる。

 ジークムントは微笑んでいる。けれど、その目は笑っていなかった。


「君は王家の国宝を狙った盗賊団の娘で、私が連れ歩く女だ。興味を持つ者は多い。利用しようとする者も、傷つけようとする者もいる」

「……それで、指輪を見せるんですか」

「私の庇護下にあると分かれば、簡単には手を出せない」


 言い方は穏やかだった。

 だが、やっていることはかなり強引だ。


 守るためでもある。

 同時に、牽制するためでもある。


 この人はいつも、その二つを混ぜる。


「便利ですね、庇護って言葉」

「便利だよ」

「やっぱり否定しない」

「君も使えばいい」

「何にですか」


 ジークムントは微笑んだ。


「夜会で困ったら、私の名を使いなさい」

「いいんですか」

「私の庇護下にある、と言えばいい」

「……それ、利用していいんですか」

「そのために連れていくんだよ」

「便利なのが余計に腹立ちます」


 ディアナは左手の指輪を見た。


 拘束具。人質の鎖。ジークムントが自分を縛るためにはめたもの。

 けれど、社交界では盾にもなる。


 腹立たしい。本当に腹立たしい。

 でも、使えるものなら使うべきだ。


 盗賊娘なので。


「分かりました。使います」

「素直だね」

「利用されるなら、こっちも利用します」

「いいね」


 ジークムントは、楽しそうに笑った。


 その笑みはやはり危険だった。

 けれど、昨日より少しだけ、怖さの奥に別の熱が見える気がした。


 気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。


 心臓に悪いので。


 夜会を二日後に控えた午後、ついにダンスの訓練が始まった。


 離宮の広間は、朝から磨き上げられた床が光っている。

 ロザリアに基本の足運びを叩き込まれたあと、ジークムントが当然のように相手役として現れた。


「手を」

「……はい」


 差し出された白い手袋の手に、ディアナは恐る恐る自分の手を重ねた。次の瞬間、腰に手が添えられる。


 近い。

 推しが近い。


 何度近づかれても心臓には悪い。


「力を抜いて」

「抜いたら死にます」

「ダンスで?」

「心が」

「君は本当に忙しいね」


 ジークムントは楽しそうに笑った。

 その笑みがまた近い。


「まずは私に合わせて」

「合わせる」

「逃げる足ではなく、ついてくる足にしなさい」

「言い方」

「できるだろう?」

「できるかどうかと、やりたいかどうかは別です」

「では、やりなさい」

「命令ですよね、それ」


 一歩目。


 ジークムントが動く。

 ディアナは反射的に距離を取ろうとした。


 腰に添えられた手が、逃がさない程度に引き寄せる。


「逃げない」

「逃げてません。戦略的撤退です」

「撤退しない」

「退路がない」


 二歩目。


 今度は足を踏みそうになった。

 慌てて避けると、ジークムントが少しだけ笑う。


「踏んでもいいよ」

「踏めるわけないじゃないですか!」

「遠慮?」

「恐怖です」

「正直だね」

「嘘をつく余裕がありません」


 三歩目。


 少しだけ合った。


 ディアナは思わず目を瞬かせる。

 ジークムントの手が、腰と指先でほんの少しだけ方向を示す。力任せではない。命令でもない。けれど、逆らいにくい。


 この人は、相手を動かすのが上手い。


 怖いくらいに。


「上手だ」

「褒められてます?」

「褒めているよ」

「信用できない」

「疑い深いね」

「誰のせいだと」


 言い返した瞬間、足が乱れた。


 ジークムントが軽くディアナを支える。

 身体が近づく。鼻先に、彼の服から漂う冷たい香りがかすかに届いた。


 無理である。

 非常に無理である。


「ディアナ」

「はい」

「息をして」

「してます」

「止まっているよ」

「してます」


 答えると、ジークムントはまた笑った。

 ロザリアが咳払いをする。


「殿下。からかいすぎです」

「そうかな」

「そうです」

「先生が味方に」


 ディアナは感動した。

 ロザリアはすぐに続ける。


「ディアナさんも、殿下の顔を見るたびに動揺しないように」


 味方はいなかった。


 もう一度、音もないまま足運びが始まる。

 今度はディアナも、必死でジークムントの動きに集中した。


 逃げ道を探さない。

 床の軋みを拾わない。

 窓を見ない。

 相手の手の動きを読む。


 読む。読んで、合わせる。


 それは盗賊の動きにも少し似ていた。

 相手の呼吸。重心。足の向き。次にどこへ動くか。全部を見て、先に身体を置く。


 逃げるためではなく。

 ぶつからないために。

 立つために。


 ディアナの足が、少しだけ自然に動いた。


「今のは良かった」

「本当に?」

「うん。君はやっぱり覚えがいい」

「……ありがとうございます」


 素直に礼を言ってしまった。


 悔しい。

 けれど、嬉しい。


 ジークムントはそれに気づいた顔で微笑む。

 やめてほしい。見抜かないでほしい。


「ただ」

「ただ?」

「顔が必死すぎる」

「無理です」

「夜会では微笑んで」

「踊りながらですか」

「踊りながら」


 社交界は、要求が多すぎる。


 ディアナは悲鳴を上げた。

 ロザリアは涼しい顔で告げる。


「次は微笑みながら」

「鬼ですね」

「夜会は待ってくれません」

「それ、何度も聞きました」

「何度でも言います」


 そうして地獄の二段階目が始まった。


 微笑む。

 足を動かす。

 息をする。

 推しを直視しない。

 でも相手を見る。

 逃げない。

 踏まない。

 転ばない。


 やることが多すぎる。


 それでも、何度か繰り返すうちに、少しだけ形になってきた。

 身体は覚えるのが早い。盗賊娘としての身軽さと、前々世の令嬢としての記憶。その二つが、ぎこちなくも噛み合い始めている。


 ディアナは息を整えながら、ふと左手を見た。

 指輪がある。


 外れない拘束具。ジークムントに縛られている証。

 けれど夜会では、彼の庇護を示す盾にもなる。


 気に入らない。

 気に入らないが、使う。


 令嬢の型も、使い方次第だ。


「何を考えているのかな」

「盗み方が、少し分かりました」

「盗み方?」


 ジークムントが楽しげに目を細める。


「礼儀作法って、綺麗に見せるためだけじゃないんですね。相手の目を誘導して、隙を隠して、立つ場所を選べる」

「そう」

「逃げ道ではないけど、立ち位置は盗める」

「面白い言い方をするね」


 ジークムントは一瞬だけ黙った。

 それから、どこか満足そうに笑う。


「いいね」

「……いい?」

「君は本当に、盗賊のまま令嬢になろうとする」

「褒めてますか」

「かなり」

「信用できない褒め方です」

「夜会でそれができれば、少なくともただの飾りにはならない」

「飾り扱いだったんですね」

「違うの?」

「違うと言わせるために頑張ります」


 ジークムントは満足げだった。


 この人は本当に、守る言葉と利用する言葉を同じ顔で並べる。

 そこが一番厄介だ。


 夜会前日。


 ディアナは最後の仕上げとして、ジークムントと一曲分を通して踊らされることになった。

 音楽はない。けれどジークムントが動くと、不思議と流れができた。


 一歩。二歩。回る。戻る。


 最初よりは、逃げなくなった。

 最初よりは、足元を見なくなった。

 最初よりは、ジークムントの顔を見ても心臓が即死しなくなった。


 いや、即死しないだけで瀕死ではある。


「少しは慣れた?」

「少しだけ」

「なら、夜会では私から離れないように」

「離れたい気持ちはあります」

「離れたら食われるよ」

「言い方」

「事実だ」


 ジークムントの声が少しだけ低くなった。

 ディアナは口を閉じる。


「君は珍しい。盗賊団の娘で、私が連れ歩く女で、妙な記憶を持っている。好奇の目も、悪意も、必ず向く」

「……はい」

「だから、私の隣にいなさい」

「守るためですか」

「利用するためでもある」

「そこは隠してください」

「隠してほしい?」

「……隠される方が怖いので、いいです」


 ジークムントは喉の奥で笑った。

 正直な悪役は、厄介である。ディアナは小さく息を吸った。


「分かりました。夜会では、ジーク様の隣にいます」

「良い子だ」

「だからそれ、効くからやめてください」


 言ってから、しまったと思った。

 効く、と自白した。


「効くなら使うよ」

「そういうところです」


 声を上げた瞬間、足がもつれた。


 今度こそ転ぶ、と思った。けれどジークムントの腕が、当然のようにディアナを支える。


 背中に回された腕。近い顔。青灰の瞳。

 心臓が、また負けそうになる。


「夜会では、転ぶ前に支えるよ」

「……それは、ありがとうございます」

「ただし、逃げるなら捕まえる」

「台無しですね」

「どちらも本当だ」


 ジークムントは、優しく微笑んだ。


 最悪だ。

 でも、嘘ではない。


 この人は守ると言いながら逃げ道を塞ぐ。

 捕まえると言いながら、転ぶ前には支える。


 どちらも本当だから、余計にたちが悪い。


「そこまで」


 ロザリアの声で、ようやくジークムントの手が離れた。


 ディアナはその場で深く息を吐く。

 足が痛い。背中も痛い。心臓が一番痛い。


「及第点です」

「本当ですか」

「殿下が相手でなければ、もう少し良かったでしょう」

「それは本当にそうです」

「私は邪魔だったかな?」

「顔が邪魔でした」

「顔」

「良すぎて邪魔です」


 言ってから、ディアナは固まった。


 やらかした。


 サディアスが目を伏せた。ロザリアが静かに視線を逸らした。

 ジークムントだけが、楽しそうに笑っている。


「そう。では夜会では、せいぜい邪魔をしよう」

「しないでください」

「努力はするよ」

「しない人の言い方です」


 ジークムントは笑いながら、ディアナの左手を取った。

 指輪のはまった中指を軽く持ち上げる。


「明日の夜会で、君を紹介する」

「……明日」

「うん。まずは私の隣で立てるところを見せなさい」


 明日。


 その言葉で、急に現実味が増した。

 夜会。王族。貴族。社交界。ゲームで見た攻略対象たち。


 そして、前々世の自分だった少女。


 ディアナは指輪を見つめ、そっと息を吐いた。


 怖い。面倒くさい。逃げたい。

 でも、逃げない。


「分かりました」

「いい返事だ」

「ただし、もし変なことになったら窓から逃げます」

「逃げ道を探すなと習わなかった?」

「探すなとは言われました。探さないとは言ってません」

「盗賊らしい」


 ジークムントは、満足そうに目を細めた。


 こうして盗賊娘は、悪役王子に踊らされながら、夜会前日の仕上げを終えた。


 明日、ディアナは初めて社交界へ出る。

 ジークムント・ラ・パーソンの隣に立つ女として。


 逃げ道のない、光の中へ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ