表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/39

第三話 盗賊娘、飼い猫として朝を迎える


 昨日までは盗賊団の娘だった。

 今日からは、王子の飼い猫である。


 意味が分からない。

 いや、本当に意味が分からない。


 ――けれど、意味が分からないで済ませていい状況ではなかった。


 ディアナ・アディンセルは、離宮の一室に置かれたベッドの端に腰かけ、自分の左手を見下ろしていた。中指には、昨夜ジークムントによってはめられた指輪がある。


 外そうとして左手に力を込めるたび、鎖に引き倒された時に打った肩が、じくりと痛んだ。腕は動く。命に関わるほどではない。けれど、痛みまで綺麗さっぱり消えるわけではなかった。


 起きてすぐ部屋の扉へ向かった時、左手の指輪がひやりと冷えて、足が止まった。痛いほどではない。けれど、それ以上進むなと言われているようで、ものすごく腹が立った。


 宝石のひとつもない、緩やかなV字を描く白金色のリング。見た目だけなら上品で美しい。

 けれど実態は、外れない拘束具である。たぶん、逃げようとしたらろくなことにならない。


 美しい拘束具。

 言葉の並びが最悪だった。


「……外れない」


 引いても、押しても、回しても、やっぱり外れない。昨夜から何度試したか分からない。指が赤くなるほど引っ張っても、指輪は最初からそこにあったかのようにぴたりとはまっている。


 痛みはない。締めつけもない。

 ただ、外れない。


 つまり、非常に腹が立つ。


「腹が立つのに綺麗なのも腹が立つ……」


 ぽつりと呟いたところで、部屋の扉が叩かれた。


「入ります」

「返事を待つ文化は?」


 言い終わる前に、扉は開いた。


 ないらしい。

 ここには、返事を待つ文化がないらしい。


 入ってきたのは、黒髪の青年だった。

 濡れたような黒髪に、冷えた灰色の吊り目。無表情。無慈悲。ついでに顔がいい。


 ジークムントの腹心、サディアス・ロウズである。


 彼は銀盆を片手に、ディアナを見るなりほんのわずかに眉を寄せた。まるで、朝から床に落ちている謎の毛玉を見つけた人間の顔だった。


 心が少し削れた。


「朝食です」

「ありがとうございます。あと、私は毛玉ではありません」

「何も言っていませんが」

「目が言ってました」

「では、以後気をつけます」

「否定はしないんですね」


 サディアスは答えなかった。


 銀盆をテーブルに置き、手際よく朝食を並べていく。白いパン。温かそうなスープ。果物。薄く切られた肉。昨日まで下水道で息を潜めていた盗賊娘には、あまりにも場違いな食事だった。


 ディアナは思わず身を乗り出す。


「……食べていいんですか?」

「毒味済みです」

「毒の心配ではなく」

「では何を?」

「捕虜にしては待遇が良すぎません?」


 サディアスは一瞬だけ黙った。


「殿下の飼い猫ですので」


 ディアナも黙った。


 朝の柔らかな陽射し。豪華な朝食。白亜の離宮。美青年の従者。

 そのすべてを、たった一言が台無しにした。


「……その呼び方、正式採用なんですか?」

「殿下がそう仰せでしたので」

「そこは止めてくださいよ」

「私が殿下を止められるとでも?」

「無理そうですね」

「はい」


 即答だった。


 ディアナは頭を抱えた。


 昨夜、ジークムントの膝の上で「はい」などという情けない返事をしてしまった記憶が蘇る。あれは事故だ。不可抗力だ。推しの二面性を真正面から浴びた人間の反応としては、むしろよく耐えた方ではないだろうか。


 そう思いたい。

 思わせてほしい。


「……父さんたちは」


 ぽつりと漏らした瞬間、サディアスの手が止まった。

 ディアナは顔を上げる。


「父さんたちは、どうなりましたか。リュクス・アディンセルと、盗賊団の仲間たちです」


 昨日から、ずっと気になっていた。


 指輪が外れないだの、飼い猫とは何事だの、騒ぎたいことは山ほどある。けれど一番大事なのはそこではない。

 父たちが生きているか。傷つけられていないか。裁かれるのか。解放される余地はあるのか。


 ディアナがここにいる理由は、それだ。


 サディアスは無表情のまま、わずかに視線を伏せた。


「生きています。昨夜の時点で、処刑命令は出ていません」

「怪我は」

「捕縛時の軽傷のみです。治療はされています」

「食事は」

「出されています」

「拷問は」

「殿下が禁じています」


 その言葉に、ディアナは息を止めた。


「本当に?」

「少なくとも、殿下がそう命じたことは事実です」


 少しだけ、力が抜けた。


 信じ切るには早い。ジークムントは善人ではない。優しく見える言葉の裏で、平然と人の弱みに鎖をかける男だ。

 けれど、昨夜の条件をいきなり壊すつもりはないらしい。


 それだけで、今は十分だった。


 心配が消えたわけではない。

 けれど、あの父である。牢に入れられたくらいで大人しく泣いている姿は、まったく想像できなかった。


 むしろ牢番の方が心配である。


 カイルも、ガロも、ミロも、ダンテも、バルドも、そう簡単に潰れる連中ではない。だから今は、自分ができることをするしかない。


「会えますか?」

「殿下の許可が必要です」

「じゃあジーク様に聞きます」

「殿下は現在、警衛騎士団長として王城へ出向いておられます」

「帰ってくるんですか?」

「昼前には一度こちらへ戻られる予定です」


 早い。


 いや、第一王子で、警衛騎士団長で、昨日の夜に国宝泥棒を捕まえたばかりの男である。忙しくないはずがない。

 それなのに、昼前には戻るらしい。


 嫌な予感しかしない。


「……何のために?」

「あなたが昨夜からどれほど指輪を外そうとしているか、確認するためでしょう」

「監視ですね」

「想定内では?」

「想定内ですけど、言われると腹が立ちます」


 ディアナは左手を見下ろした。


 指輪は何食わぬ顔でそこにある。いや、指輪に顔はない。けれど、何食わぬ顔をしているように見える。それくらい腹立たしいほど馴染んでいた。


「これ、ずっと外れないんですか」

「殿下の許可があれば外れるのでは」

「許可をもらうには?」

「殿下の気が向けば」

「絶望的ですね」

「はい」


 そこは少し迷ってほしかった。


 ディアナは肩を落とした。けれど、落ち込んでばかりもいられない。指輪がある限り逃げられない。なら、この離宮でできることを探すしかない。


 まずは情報だ。


 ジークムントが何をどこまで知っているのか。自分に何をさせるつもりなのか。父たちの処分をどうする気なのか。そして、本編開始まで二年あるこの時間を、どう扱うつもりなのか。


 考えることは山ほどある。


「なら、朝食食べます」

「急に素直ですね」

「お腹が空きました」

「でしょうね」

「でしょうねって何ですか」

「昨夜から落ち着きがありませんでしたので」

「否定できない」


 ディアナは大人しく椅子に座った。

 パンをひと口かじる。


 美味しい。

 悔しいほど美味しい。


「美味しい……」

「それは何よりです」

「拘束されてるのにご飯が美味しいの、情緒が混乱するんですけど」

「食欲があるなら問題ありません」

「サディアスさん、冷たいようで微妙に世話焼きですね」

「職務です」

「職務で飼い猫の世話を?」


 サディアスが黙った。


 勝った。

 いや、勝ってはいない。


 けれど、一瞬だけ黙らせたのは確かだった。ディアナは心の中で小さく拳を握る。


 そのとき、廊下の向こうから規則正しい靴音が聞こえた。

 サディアスがすっと姿勢を正す。


 嫌な予感がした。

 いや、来た。


 扉が叩かれることはなかった。

 そのまま開いた。


「朝から元気そうだね、ディアナ」


 柔らかな声が、部屋に落ちる。


 ジークムント・ラ・パーソンが、そこに立っていた。


 朝の光を受けて淡く輝く銀白色の髪。黒を基調にした騎士服。完璧に微笑むその姿は、まるでゲームの立ち絵がそのまま現実へ抜け出してきたようだった。


 ディアナは固まった。


 口の中には、パン。

 手にも、パン。


 人生で推しに見られたくない姿の上位に入る。


「……おはようございます」


 もご、とした声が出た。


 ジークムントは目を細める。


「食事中だったかな」

「はい。おいしいです」

「それはよかった」

「ついでに拘束具を外してください」

「朝食の感想に混ぜる要求ではないね」

「流れでいけるかと」

「却下」

「流れが死にました」


 分かっていた。

 それでも早かった。


 ジークムントは楽しげに笑いながら部屋へ入ってくる。サディアスが一礼して脇へ下がった。

 ディアナは椅子に座ったまま、じり、と少しだけ後ろへ引こうとする。


 その動きを、ジークムントは見逃さなかった。


「逃げなくてもいい」

「逃げてません。椅子の位置を調整しただけです」

「そう」

「そうです」

「では、もう少し近くにおいで」

「調整は完了しました」

「おいで」


 声は柔らかい。

 けれど、逆らいにくい。


 昨日の夜に聞いた、あの低い命令口調ではない。今は穏やかな王子の声だ。

 それなのに、奥に同じものが潜んでいる気がする。


 ディアナは悔しさを噛みしめながら、椅子を少しだけ戻した。


 ジークムントは満足そうに微笑む。


「良い子だ」

「その言い方、やめてください」

「どうして?」

「……腹が立つからです」

「正直だね」

「正直に言ったので、配慮してください」

「考えておこう」

「それ、しない人の言い方です」


 ジークムントは笑った。


 サディアスは無表情だった。だが、ほんの少しだけ「何を見せられているのだろう」という空気を出していた。


 分かる。

 ディアナもそう思う。


 ジークムントはディアナの向かいに座ると、長い脚をゆったりと組んだ。


「ところで、今朝は部屋を出ようとしたそうだね」


 来た。


 ディアナは肩を跳ねさせた。

 ジークムントは、左手の指輪へ視線を落とす。


「外へは出られなかっただろう」

「出られなくていいわけではないです」

「そう。それ以上無理をしていたら危なかったね」

「……危なかった?」


 嫌な言い方だった。


 ディアナは思わず左手を見下ろす。白い指輪は、何食わぬ顔で中指にはまっている。いや、指輪に顔はない。けれど、今は絶対に何かを知っている顔をしている気がした。


「この指輪は、君を飾るためだけのものではないよ」

「知っています。拘束具です」

「正解。私の許可なく離れようとすれば、止める」

「止める、とは」

「痛みで済むうちに止まれてよかったね、という意味だよ」


 外れないだけでも十分腹立たしいのに、逃走防止機能までついているらしい。


 美しい拘束具。

 高性能版。


 言葉の並びがさらに最悪になった。


「私の許可なく地下牢へ向かおうとした?」

「父さんたちが心配だったので」


 そこだけは、逸らさずに答えた。

 ジークムントの青灰色の瞳が、静かにディアナを見る。昨日のような甘さはない。探るような、試すような目だった。


 ディアナはパンを置き、膝の上で拳を握った。


「ジーク様。父さんたちに会わせてください」

「今は無理だね」

「どうしてですか」

「君が会えば、彼らは君を連れて逃げようとする。君も逃げようとする。違う?」

「違わないです」

「正直なのは美点だよ」

「褒められてる気がしません」

「褒めているよ。扱いやすい」

「やっぱり褒めてないです」


 言い返してから、ディアナは唇を噛んだ。


 ここで騒いでも意味がない。ジークムントはきっと、ディアナが怒ることも焦ることも織り込み済みだ。

 なら、冷静に話さなければ。


「……父さんたちは、どうなりますか」


 ジークムントは少しだけ笑みを薄めた。


「君次第だ」


 来ると思っていた答えだった。

 それでも、胸の奥が冷える。


「君が私に協力するなら、リュクス・アディンセルたちの処分は保留する」

「私が協力しなかったら?」

「王家の国宝を狙った盗賊として、正式に裁かれる」

「……それ、脅しですよね」

「そうだよ」


 ジークムントは、少しも悪びれなかった。

 その潔さが、むしろ怖い。


 ディアナは小さく息を吸った。


 怖い。

 腹が立つ。

 最悪だと思う。


 それでも、この人は嘘をついていない。少なくとも、今のところは。自分たちを利用する気だと最初から明かしている。


 選択肢がひどすぎるだけで。


「分かりました。協力します」


 ディアナはジークムントを見た。


「でも、父さんたちにひどいことをしたら、その時は私も全力で逆らいます」


 サディアスの視線が冷えた。

 けれど、ディアナは続けた。


「記憶を視られても、指輪で縛られても、逃げられなくても。私は父さんたちを見捨てません。ジーク様の手駒になるとしても、そこだけは譲りません」


 言った。

 言ってしまった。


 部屋の空気が少しだけ張り詰める。相手は第一王子だ。警衛騎士団長だ。逆らいます、などと真正面から言っていい相手ではない。


 でも、言わなければならなかった。


 ディアナは推しに弱い。

 でも、家族を捨てられるほど弱くはない。


 ジークムントは黙っていた。

 長い沈黙ではなかった。けれど、ディアナにはやけに長く感じられた。


 やがて、彼はゆっくりと目を細める。


「いいね」

「……いい?」

「君は本当に分かりやすい。怯えているくせに、譲らないところだけは譲らない」

「褒めてますか」

「かなり」

「信用しづらい褒め方です」


 ジークムントは、楽しげに喉を鳴らした。


「覚えておこう。君が協力的である限り、彼らには手を出さない」

「約束ですか」

「条件だよ」

「言い方が最悪」

「でも、分かりやすいだろう?」

「分かりやすく最悪です」


 ジークムントの笑みが、少しだけ深くなった。


「昨日のようなやり方は、嫌だった?」

「……嫌でした」


 考えるより先に、声が出た。

 ディアナは自分の口を少しだけ後悔した。けれど、もう遅い。


 昨日、リュクスを抑えるためにマデリーナの名を出された。

 あれは効果的だった。効果的だったからこそ、嫌だった。


 母の名前を、人質を落ち着かせるための道具にされたようで。


 顔に出していないつもりだった。

 けれど、ジークムントはディアナの目元を見ていた。息を止めた間を、逃げた視線を、指先が膝の上で強張った一瞬を、見逃さなかったのだろう。


「だろうね」

「……そういうところ、本当に嫌です」

「そう」

「でも、分かってくれたなら、ありがとうございます」

「どういたしまして」


 柔らかく返されて、ディアナは複雑な気持ちになった。


 最悪だ。

 でも、嫌なことを見抜いた上で避けてくる。


 もっと最悪だ。


 これでは怒りにくい。


「では、話はまとまったね」

「まとまりましたか?」

「まとまったよ。君は私に協力する。私は君の父親たちを保留する」

「その言い方だと、人質感が隠れていません」

「隠していないからね」

「隠す努力くらいしてください」


 ジークムントは楽しげに笑った。

 そして、何でもないことのように続ける。


「今日から君にはこの離宮で暮らしてもらう」

「……はい?」

「地下牢に置いておくには、君は使い道が多すぎる。かといって、自由にするには危険すぎる。だから、私の目の届く場所に置く」

「それは、同居という意味ではないですよね」

「同居だね」

「ですよね。言葉だけ甘くするの、やめてもらえますか」


 思わず言った。

 サディアスが眉を寄せる。分かっている。第一王子に言うことではない。けれど、言わずにいられるだろうか。


 推しの離宮に住む。


 字面だけなら最高である。前世の自分なら即死していた。いや、今もわりと危ない。


 しかし現実は、監視つきの拘束生活である。

 ときめきと危機感が同じ皿に盛られている。胃に悪い。


「同居ではなく、監禁では?」

「離宮内は自由に歩いていい。庭にも出られるし、食事も出る」

「待遇のいい範囲指定つき監禁ですね」

「不満が多いね」

「不満しかない状況なので」


 ディアナが訴えると、ジークムントはくつくつと笑った。


 昨日よりも、ほんの少しだけ砕けた笑い方だった。紳士の仮面の奥から、素の楽しげな色が見える。


 よくない。

 そういう顔に弱い。


 ディアナは慌てて視線を逸らした。


「それから、君には身支度を整えてもらう」

「身支度?」


 嫌な予感がした。


 ジークムントが、楽しげに目を細める。

 この顔をしている時の彼は、大抵ろくでもないことを言う。


「一週間後、王城で夜会がある。君にはそこに出てもらう」

「……一週間後」


 思わず、声が低くなった。


 一週間。

 盗賊娘が、王城の夜会に出るまでの猶予としては、あまりにも短い。


「そう。それまでに最低限の礼儀作法、歩き方、挨拶、食事の作法、ダンスを覚えなさい」

「待ってください」

「待たない」

「私、盗賊ですよ」

「知っている」


 知っている、ではない。


 ディアナは頭を抱えた。

 いや、実際に抱えた。


「一週間で令嬢になれと?」

「令嬢のふりができればいい」

「それでも無茶です」

「無茶だから教師を呼ぶ」


 この男、無茶を無茶と理解したうえで押しつけている。


 腹立たしいほど合理的だった。


 ディアナは深く息を吐いた。


 前々世では令嬢だった。イレーネ・ブラディ・マルチェントとして、王妃教育まで受けていた記憶がある。だから、まったく分からないわけではない。むしろ身体に叩き込まれたものは、思い出せば使えるかもしれない。


 けれど、今世のディアナは盗賊娘である。


 走る。登る。忍び込む。逃げる。鍵を開ける。屋根を渡る。そういう生活に慣れきっている。

 ドレスで優雅に微笑むより、窓から逃げる方が得意だ。


「……私、夜会で窓から逃げるかもしれません」

「逃げたら指輪が止める」

「窓案が死にました」

「当然だろう」


 ジークムントは当然のように言った。


 腹が立つ。

 そして少しだけ悔しい。


 こちらが考えそうなことを全部潰してくる。さすが推し。さすが悪役王子。敵に回すと最悪である。


「サディアス」

「はい」

「今日中に教師を手配して。まずは歩き方と姿勢からでいい」

「かしこまりました」

「待ってください、本人の意思確認は?」

「しただろう?」

「いつですか」

「私のものになると」

「言質の使い方が悪い」


 ディアナは思わず立ち上がった。


 その瞬間、ジークムントがすっと手を伸ばす。左手を取られ、指輪のはまった中指を軽く持ち上げられた。

 動きが自然すぎて、逃げ損ねた。


「ディアナ」


 名前を呼ばれる。

 それだけで、心臓が跳ねた。


「君は賢い。状況も理解している。だから分かるだろう? ここで礼儀作法を覚えることは、君自身のためでもある」

「私のため?」

「夜会には、君の父親たちを裁きたい者も、君を利用したい者も、私の失点にしたい者もいる。君がただの盗賊娘として立てば、食い物にされるよ」


 声は柔らかい。

 けれど、その内容はぞっとするほど現実的だった。


「私のそばに置く以上、君には私のものとして見られてもらう。その方が安全だ。少なくとも、簡単には手を出されない」

「……つまり、守るためでもあると」

「そう受け取ってもいい」

「言い方がずるい」

「よく言われる」

「言われるでしょうね」


 思わず返した。


 けれど、先ほどまでの反論の勢いは少し削がれていた。

 ジークムントの言葉は支配であり、監視であり、利用だ。でもその中に、確かに一部だけ合理的な保護が混じっている。


 そこが厄介だった。


 全部悪意なら、怒ればいい。

 全部善意なら、信じればいい。


 でもジークムントは、そのどちらでもない。


 ディアナを利用する。けれど、自分のものとして守る。


 最悪だ。

 最悪なのに、少しだけ格好いい。


「……分かりました。礼儀作法、やります」

「良い子だ」

「だからその言い方やめてください」

「効くから?」

「効くからです」

「なら、やめる理由がないね」

「悪役王子すぎる」


 ジークムントは楽しそうに笑った。ディアナはもう一度頭を抱える。


 こうして、王子の飼い猫になった翌日。

 ディアナ・アディンセルは逃亡計画を立てるより先に、なぜか令嬢教育を受けることになったのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ