第十話 盗賊娘、祈りの空白を盗む
翌朝、ディアナは少年でも小間使いでもなかった。
淡い青灰色のワンピースに、白い襟飾り。髪はゆるくまとめられ、派手ではないが、見舞いと寄付に同行する少女としては十分に整えられている。昨日までの変装に比べれば、かなりまともだ。まともすぎて落ち着かない。
盗みに行く格好ではない。
だからこそ、盗むものがある。
馬車の向かい側では、ジークムントが涼しい顔で書類を見ていた。黒い騎士服ではなく、今日は外出用の落ち着いた上着だ。銀白色の髪が窓から入る朝の光を拾い、淡い金糸を含んだように見える。
顔がいい。
朝から罠。
「見すぎだよ」
「見てません」
「そう」
「見てません」
「二回言うと、少し弱いね」
負けた気がする。
ディアナは窓の外へ視線を逃がした。王都の中心から東へ進むにつれて、道は少しずつ穏やかになる。南区の香料問屋通りとは違う。路地の湿った匂いも、安酒の匂いもない。白い塀、手入れされた植え込み、朝の鐘。綺麗なものだけを並べたような道だった。
だから余計に、昨日の荷札が頭から離れない。
白花施療院、寄付分。
闇競りで伏せられた白い箱が、祈りと施しの場所へ向かう。綺麗な言葉の裏へ、嫌な甘さが入り込む。
「今日は盗まなくていい」
「見るだけですか」
「君の見るだけは、よく盗むからね」
「褒めてます?」
「期待している」
それは信用なのか、利用なのか。
たぶん両方だ。
そして、どちらでも腹が立つ。
「白い箱は、もう施療院に?」
「届いているはずだ」
「箱は盗らない」
「今日はね」
「今日は」
言い方が不穏だった。
馬車が止まる。
白花施療院は、白い塀に囲まれた静かな建物だった。門の内側には、名前の通り白い花が植えられている。花弁は薄く、朝の光を受けて透けそうに見えた。薬草の匂いと、乾いた花の匂い。そこに、ほんの少しだけ甘い香が混ざっている。
綺麗な場所だ。
だから、気持ち悪い。
門番がジークムントを見るなり、背筋を伸ばした。
「ジークムント殿下。本日はお越しいただき、光栄に存じます」
「急な訪問で悪いね。寄付品の確認と、見舞いを兼ねて来た」
声が穏やかだ。
完璧な第一王子の声だ。
昨日、盗賊団に「箱ではなく流れを盗む」と言っていた男と同一人物である。王族の仮面、分厚い。美術品のふりをした罠は、今日は慈善家のふりまでしている。
忙しい人だ。
門の奥から、白い頭巾をかぶった女性が出てきた。年は三十代ほどだろうか。目元は柔らかいが、背筋が伸びている。簡素な服なのに、施療院の空気を握っている人だと分かった。
「殿下。ようこそお越しくださいました」
「メリッサ。急にすまない」
「いいえ。殿下のお心遣いに、皆も喜びます」
メリッサと呼ばれた女性が、ディアナへ視線を向ける。
「そちらのお嬢様は?」
「私の同行者だよ。少し世間を見せている」
説明が雑。
だが、嘘ではない。
世間は見ている。主に裏口を。
ディアナは教え込まれた通り、軽く膝を折った。
「ディアナと申します。本日はお邪魔いたします」
「まあ、ご丁寧に。どうぞ、こちらへ」
メリッサは微笑んだ。
その微笑みは綺麗だった。綺麗すぎて、何を隠しているのか分からない。
施療院の中は、思ったより明るかった。
白い壁。磨かれた床。窓辺に置かれた花瓶。寝台の上で身体を起こす老人、咳をする子ども、薬湯の器を運ぶ若い修道女たち。貧しい者や病人を受け入れる場所、という言葉だけなら本当にその通りに見える。
けれど、ディアナは盗賊娘だ。
綺麗な部屋を見る時は、まず逃げ道を見る。人の親切を見る時は、どこに目が行かないようにしているのかを見る。白い花を見る時は、その下の土を見る。
そして、すぐに気づいた。
施療院の表側には、白い花が多すぎる。
でも、裏手へ続く廊下には、白い花が一輪もない。
「どうかしましたか?」
メリッサが振り返る。
「いいえ。白い花が多いのだなと思って」
「女神オールトへ捧げる花です。この施療院では、祈りにも薬湯にも使っております」
「薬湯にも?」
「ええ。乾かした白花を少し。香りが心を落ち着かせるのです」
香り。
ディアナは何も言わずに微笑んだ。
ジークムントも何も言わない。ただ、隣で静かに聞いている。質問をしない沈黙が、逆に怖い。
廊下の先で、荷車の音がした。 ぎい、と小さく車輪が鳴る。
白い箱が運ばれていた。昨日見たものと同じだ。古い骨のような白。布で覆われた角。白い蝋で留められた荷札。男二人が、慎重すぎるほど慎重に押している。
ディアナは息を止めかけた。
止めない。見ているだけだ。
「寄付品ですか?」
何気ない声を作る。
メリッサの返事が、ほんの一拍遅れた。
「ええ。香料問屋からの寄付分です」
「薬室へ?」
「いいえ。祈りの間へ運びます」
薬室ではなく、祈りの間。
ジークムントの指が、杖の飾りに触れた。たったそれだけの動きだった。けれど、ディアナには分かった。
今の返事を、彼は聞いた。
白い箱は、薬ではない。
少なくとも、ここでは薬として扱われていない。
「祈りの間も、見せてもらおうか」
ジークムントが穏やかに言った。
メリッサの笑顔が崩れなかったのは、さすがだった。
「もちろんです。ただ、今は祈りの時間でして」
「邪魔はしないよ。寄付したものが、どう使われるか知りたいだけだ」
断りにくい言い方。
第一王子の慈善。
寄付品の確認。
見舞い。
綺麗な理由を並べると、裏口まで開く。
やはりこの人、盗賊ではないのに盗み方が悪い。
メリッサは一礼した。
「では、静かにお願いいたします」
祈りの間は、施療院の一番奥にあった。
広くはない。けれど天井が高く、白い布と薄い光で、実際よりも静かに見える。祭壇には白い花が飾られ、香炉から細い煙が立っていた。甘い香りがする。昨日の白い箱から漏れていたものに、少し似ている。
似ている。
同じではない。
でも、混ざっている。
そこに、一人の青年が立っていた。
淡い亜麻色の髪。細い身体。白い衣の袖から伸びる手は、祈りの形をしている。声は柔らかい。けれど、弱くはなかった。静かな水が石の間を流れるように、言葉が祈りの間へ満ちていく。
ディアナは、胸の奥が一瞬だけ止まった。
知っている。
ルカ。
白花施療院の祈りの青年。
前世の画面で見た、攻略対象者のひとり。
名前が喉の奥まで来て、止まる。
言ってはいけない。
ここで知っている顔をしてはいけない。
でも、画面で見た立ち絵より、ずっと静かだった。
攻略対象者、ちゃんと攻略対象者の顔をしている。
困る。
祈りが終わるまで、誰も動かなかった。
ディアナの内心ツッコミも、一瞬だけ止まった。
祈りの最後に、ルカは白い花を一輪、祭壇へ置いた。それから振り返り、ジークムントに気づいて静かに頭を下げる。
「殿下」
「邪魔をしたね」
「いいえ。祈りは、誰かを閉め出すものではありませんから」
柔らかい声だった。
けれどメリッサの表情が、ほんの少しだけ動いた。
ディアナはそれを盗んだ。
ルカの言葉は、綺麗なだけではない。
たぶん、少し危ない。
「こちらは?」
ルカの視線がディアナへ向いた。
ディアナは慌てて膝を折る。
「ディアナと申します」
「ルカです。この施療院で、祈りと薬草の手伝いをしています」
知っている。
と言えない。
非常につらい。
「綺麗な祈りでした」
言える範囲で、そう言った。
ルカは少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます。綺麗かどうかは分かりませんが、届けばいいと思っています」
「誰にですか」
「祈りを必要としている人に」
まっすぐな答えだった。
ディアナは黙った。
善良そうな人は苦手だ。善良そうで、本当に善良かもしれない人はもっと苦手だ。疑うのが申し訳なくなる。けれど、疑わなければ見えないものがある。
ここは白花施療院。
祈りと施しの場所。
そして、闇競りの白い箱が運ばれた場所。
白い箱は、祭壇の横の小部屋へ運び込まれていた。扉は半分だけ開いている。中には古い棚と、白い布で包まれた道具が見えた。香炉の甘さが、そこから少し濃く流れてくる。
見たい。
見たいが、入れない。
第一王子の同行者の顔では、勝手に入れない。
盗賊娘の足なら、たぶん入れる。
今は、どちらを選ぶか。
ディアナは視線を部屋の中へ投げた。ほんの一瞬。棚、白い箱、香炉、古い額。壁に掛けられた布。そして、壁の一部だけ色が違う場所。
四角い跡。
何かが、そこに掛けられていた跡だ。
「ルカ」
メリッサが穏やかな声で言った。
「香炉の様子を見てください。煙が少し強いようです」
「はい」
ルカが小部屋へ向かう。
扉がもう少し開いた。
今だ。
ディアナはわずかに身体を傾けた。転ぶほどではない。ただ、祭壇の花へ手を伸ばすふりをして、視線だけを奥へ滑らせる。
白い箱は閉じられていた。
荷札はない。
代わりに、壁の四角い跡がはっきり見えた。額縁があった場所だけ、周りより白い。長く掛けられていたものが、最近外された跡だ。
祈りの間。
白い箱。
消えた額。
繋がりそうで、まだ繋がらない。
「その壁、何か飾ってあったのですか?」
ディアナは、何も知らない声で聞いた。
メリッサが答えるより早く、ルカが振り返った。
「ああ、祈りの形を記した古い図です」
メリッサの指が、わずかに動いた。
ルカは気づいているのか、いないのか、穏やかに続ける。
「白花を捧げる時の形や言葉が描かれていて――」
「ルカ」
メリッサの声が、少しだけ硬くなった。
祈りの間の空気が、薄く変わる。
ルカは口を閉じた。
ジークムントは何も言わない。
ただ、笑わなかった。
まただ。
ジークムントが笑わない時は、たいてい何かが盤面に乗っている。
メリッサはすぐに微笑みを戻した。
「古い図です。修復のために外しております」
「そうなのですね」
ディアナは頷いた。
修復。
便利な言葉だ。
盗まれた物も、隠された物も、都合が悪い物も、とりあえず修復と言えば布をかけられる。
盗賊娘なので、そういう言い訳には詳しい。
今はまだ、盗る時間ではない。
祈りの間を出る時、甘い香りが背中に残った。
花のような。
菓子のような。
でも、どちらでもないような。
昨日の白い箱に似た、嫌な甘さ。
外へ出ると、白い花の庭が眩しかった。患者の子どもが一人、窓辺で白い花を持っている。若い修道女が薬湯を運び、メリッサはまた柔らかく微笑んでいる。ルカは祈りの間へ戻り、ジークムントは完璧な第一王子の顔で礼を言った。
綺麗な場所だ。
綺麗だから、見えないものがある。
馬車に戻るまで、ジークムントは何も言わなかった。
ディアナも黙っていた。
扉が閉まり、車輪が動き出して、ようやくジークムントが口を開く。
「何を見た?」
説明ではない。
確認だ。
ディアナは膝の上で手を組んだ。
「白い箱と、壁の空白です」
「空白?」
「何かが、最近外されていました。ルカさんは、祈りの形を記した古い図だと」
ジークムントは、すぐには笑わなかった。
「祈りの図譜、か」
その声が低く落ちた。
ディアナは窓の外を見た。白花施療院の白い塀が遠ざかっていく。白い花。甘い香。白い箱。祈りの形を記した古い図。ルカ。メリッサの硬くなった声。
綺麗な場所だった。
でも、綺麗な場所ほど、外されたものの跡は目立つ。
盗品を隠す時、壁の色はよく見る。
そんな知識が役に立つのは、少し嫌だった。
「君は、見なくていいものまで見つける」
「見ろと言ったのはジーク様です」
「そうだね。だから厄介だ」
否定しない。
最悪だ。
でも、少しだけ面白い。
ディアナはもう一度、遠ざかる白花施療院を見た。
盗賊娘は、白花施療院で箱を盗らなかった。
代わりに、祈りの間の壁に残された空白を盗んだ。




