第十一話 盗賊娘、紙の小鳥を盗まない
翌日の昼、ディアナは白花施療院の裏通りで、焼き菓子の入った籠を抱えていた。
盗賊である。
菓子売りではない。
だが、今のディアナは町娘の服に前掛けをつけ、髪を布でゆるくまとめ、籠の中には小さな焼き菓子と薄紙を入れている。昨日の見舞いの少女とも、一昨日の小間使いとも違う。どこからどう見ても、近くの菓子屋の手伝いだった。
盗賊団の娘には見えない。
たぶん。
「お嬢、菓子売り似合うな」
「ミロ。今それ言う?」
「だって似合うし」
「盗賊として褒められてない気がする」
隣で、ミロが紙袋を抱えて笑っている。彼は古紙屋の下働き風だ。肩に縄をかけ、腰に使い古した袋を提げ、どこにでもいそうな裏通りの若い荷運びに見える。
見える、というより、雑に混ざるのが上手い。
少し離れた荷車の影には、カイルがいた。粗末な上着を着て、片手に修理道具を持っている。車輪の具合を見る職人の手伝い、という顔だ。顔だけはいつも通り少し怖い。
いや、顔の話はやめよう。
今日はたぶん、自分も人のことを言えない。
ことの始まりは、今朝の旧訓練棟だった。
「今日は、祈りの図譜を探さなくていい」
ジークムントは、机の上に薄い地図を広げながらそう言った。
「探さなくていいんですか」
「探すと、探していることが相手に伝わる」
「では、何を盗るんですか」
「紙屑を一つ」
旧訓練棟の空気が止まった。
紙屑。
王国の国宝を狙った盗賊団に、紙屑。
出世なのか転落なのか分からない。
「ジーク様。確認してもいいですか」
「どうぞ」
「私は今、紙屑泥棒を命じられていますか」
「そうだね」
「もう少し格好いい言い方はありませんか」
「祈りの間から外へ出る不要物の流れを抜く」
「だいぶ仕事っぽくなりました」
「中身は紙屑だよ」
戻された。
リュクスが眉間を押さえた。
「殿下。娘を紙屑漁りに使う気か」
「宝石だけを盗む盗賊より、紙屑から意味を盗める盗賊の方が使える」
「言い方が腹立つな」
「褒めているよ」
ジークムントは涼しい顔だった。銀白色の髪が朝の光を拾い、薄い金糸を混ぜたように見える。深い青灰色の瞳が、机の上の地図ではなく、ディアナを見た。
「君なら、何もない場所からでも盗むだろう?」
「期待の方向が嫌です」
「似合っているよ」
「紙屑泥棒がですか」
「いいや。何もない場所から、何かを持ち帰る役が」
やめてほしい。
そういう言い方をされると、一瞬だけ胸の位置がずれる。相手は最悪な王子で、こちらを手駒扱いしているはずなのに、たまにこうして言葉だけ綺麗に投げてくる。
罠だ。
顔も声も言葉も罠。
「……仕事の話に戻してください」
「今のも仕事の話だよ」
「絶対違います」
「少しは違うね」
認めた。
リュクスが机を指で叩く。
「殿下。朝から娘で遊ぶな」
「褒めただけだよ」
「その声で褒めるな」
「注文が多いね」
ジークムントは笑った。
その笑顔が綺麗なので、余計に腹が立った。
作戦は単純だった。
白花施療院の裏門から、午後に一度、古紙屋の荷車が出る。包み紙、古い帳面の端、薬草袋の紙、祈りの間で使われた薄紙。そういうものがまとめて渡されるらしい。そこに白い紐で結ばれた束があれば、束ごとすり替える。なければ、何も盗らない。
施療院の中には入らない。
図譜を探さない。
誰かを問い詰めない。
ただ、出てきたものだけを盗る。
だから今、ディアナは菓子売り娘として、白花施療院の裏通りにいる。
表門側の白い塀は清らかだったが、裏通りは少し違う。洗濯物の湿った匂い、煮出した薬草の苦み、古紙の埃っぽさ、昼の石畳に溜まった熱。白い花は見えない。代わりに、裏門のそばには水桶と木箱と、細い路地へ続く影があった。
綺麗な場所の裏側は、だいたい生活の匂いがする。
それは少し安心する。
安心していいとは限らないけれど。
「来た」
カイルが小さく言った。
裏門が開き、古紙屋の荷車が出てくる。年配の男が一人、痩せた馬を引いていた。荷台には紙束がいくつも積まれている。茶色い紐、麻紐、赤い布で縛った束。白い紐で結ばれたものは、見える範囲にはない。
ミロがわざとらしく紙袋を落とした。
「あっ、悪い悪い。紙が逃げた」
紙は逃げない。
だが、古紙屋の男がそちらを見る。カイルが荷車の反対側へ回り、車輪のそばでしゃがみ込んだ。
「車輪、少し噛んでる。石挟まってるぞ」
「おお、すまねえな」
「動かす前でよかったな」
カイルが石を外すふりをして、荷台の下を確認する。
ディアナは菓子籠を抱え、通りの端へ寄った。施療院の裏庭から、子どもの声が聞こえる。塀の低い部分の向こうで、何人かの子どもが紙切れを折って遊んでいた。白花施療院の患者か、近所の子か。痩せた手、小さな笑い声、洗いざらしの服。
そのうちの一人が、紙で作った小鳥を高く掲げた。
「飛んだ!」
飛んでいない。
落ちた。
紙の小鳥は塀を越え、裏通りの石畳へひらりと落ちる。
ディアナは何気なく、それを拾い上げた。
古い紙だった。
ただの包み紙ではない。少し厚く、繊維が細かい。端は破れていて、ところどころに薄い線が残っている。白花の半分のような模様。祈る手の形にも見える曲線。文字は欠けていて読めないが、インクの色がやけに静かだった。
胸の奥が、ひやりとした。
その瞬間。
左手の中指で、指輪の色が変わったように見えた。白金色の輪に、淡い菫色が差す。
ほんの一瞬だった。光った、というほどではない。ただ、白い輪の表面に、知らない花の影が落ちたように、薄く色が変わった気がした。
痛くはない。けれど、見間違いだと片づけるには、胸の奥が少しだけ騒いだ。
「お姉ちゃん、それ、返して」
塀の向こうから子どもが言った。
ディアナは顔を上げた。小さな女の子だ。頬はこけているが、目は強い。手を伸ばし、紙の小鳥を返せと言っている。
盗賊娘は、子どもの玩具を盗まない。
いや、盗める。
盗めるが、やらない。
それをやったら父に叱られる。カイルにも叱られる。たぶんミロにも軽口で一生言われる。ジークムントは面白がるかもしれないが、そこは面白がられたくない。
「これ、あなたの?」
「うん。飛ぶやつ」
「飛んでなかったよ」
「練習中なの」
なるほど。夢がある。
ディアナは籠の中を見た。焼き菓子、薄紙、包み紐。ジークムントが用意させた交換用の紙は、妙に質がいい。菓子屋の手伝いが持っているには少し上等だが、子どもの紙小鳥には向いている。
「これと交換しない?」
ディアナは焼き菓子を一つと、薄紙を三枚取り出した。
女の子が目を丸くする。
「これ、食べていいの?」
「いいよ。紙もあげる。こっちの方がよく飛ぶと思う」
「本当?」
「たぶん。飛ばなかったら、折り方のせい」
子どもの顔が少しむっとした。
「折り方は上手だもん」
「じゃあ飛ぶね」
女の子は真剣に考えた。それから、紙の小鳥と焼き菓子を見比べ、最終的に菓子に負けた。
「交換」
「成立」
盗んでいない。交換だ。
胸を張って言える。
その時、裏門から若い修道女が出てきた。
「ネナ、その紙はどこから――」
声が止まる。
ディアナの手にある紙の小鳥を見て、修道女の顔色がわずかに変わった。
まずい。
この反応は、ただの紙ではない反応だ。
「お嬢」
ミロの声が低くなった。
カイルもこちらを見た。古紙屋の男は車輪の様子を見ていて、まだ気づいていない。裏門は開いている。修道女は動こうとしている。
ディアナは菓子籠を女の子の方へ差し出した。
「おまけ。みんなで分けて」
子どもたちの目が一斉に輝いた。
食べ物は強い。
とても強い。
子どもたちが塀の向こうで一気に騒ぎ出し、修道女の注意がそちらへ逸れる。その一瞬で、ミロが古紙屋の男に紙袋を押しつけた。
「悪い、こっちの紙も混ざったかもしれねえ。荷台見てもいいか?」
「またか。急げよ」
「すぐ終わる」
終わらない。
終わらせないための声だ。
カイルがディアナの横を通り抜ける。
「行くぞ」
「でも、紙束が」
「白い紐はない。そいつで十分だ」
十分かどうかは分からない。
だが、指輪の色が変わったように見えた瞬間が、頭から離れない。
ディアナは紙の小鳥を胸元の内側へ滑り込ませた。薄い紙なのに、やけに重い。指輪のせいか、心臓の音が大きい。
「待ってください」
修道女が裏門から出てくる。
声は丁寧だった。
だから余計に怖い。
ディアナは振り返らなかった。菓子売り娘は、客に呼び止められても聞こえないことがある。特に、通りの向こうで荷車が軋み、子どもたちが菓子に騒ぎ、ミロがわざと大声を出している時は。
「カイル、逃げる?」
「走るな。走ったら盗った顔になる」
「もう盗った顔してる気がする」
「顔を直せ」
無茶を言う。
ディアナは顔を直した。たぶん直っていない。
角を曲がる直前、ミロがひらひらと手を振った。
「毎度あり。紙は大事にな」
何の毎度か分からないが、修道女の足が一瞬止まった。その間に、ディアナとカイルは路地へ入った。
走らない。
でも速い。
盗賊団の足は、走っていない時ほど速い。人の流れに乗り、荷車の影に入り、洗濯籠を持った女の後ろを通り、曲がり角で姿を薄める。追われているようで、追われていない。追われていないようで、追われたら消える。
そういう歩き方は、令嬢教育では教えてくれない。
たぶんロザリア先生に見られたら、歩き方を最初からやり直しにされる。
路地を二つ抜けたところで、ミロが追いついた。
「いやあ、紙屑仕事って言うから地味かと思ったら、まあまあ面倒だったな」
「面倒にしたのは誰?」
「紙を飛ばした子ども」
「子どものせいにしない」
「じゃあ殿下」
「それは正しい」
カイルが短く息を吐く。
「左手、どうした」
「え」
ディアナは反射で左手を背中へ隠した。
遅い。
カイルの目が細くなる。
「さっき握っただろ」
「握っただけ」
「顔が握っただけじゃなかった」
「顔に言わないで」
「顔が言ってる」
今日の顔はよく働く。
ミロも覗き込もうとした。
「お嬢、怪我?」
「怪我じゃない。たぶん。分からない」
「分からない怪我は怪我だろ」
「違う。たぶん」
たぶんが弱い。
路地の先に、黒い馬車が止まっていた。表に紋章はない。けれど、ディアナはすぐに分かった。分かってしまう自分も嫌だ。
扉が開く。
中にいたジークムントが、静かにこちらを見ていた。
待っていた。
盗みに行かせておいて、迎えが王子様。
意味が分からない。
でも顔がいい。
「早かったね」
ジークムントの声は穏やかだった。
ディアナは馬車の前で一度止まり、息を整えた。走っていない。走っていないが、心臓は走っている。主に左手と、馬車の中の顔のせいで。
「白い紐の束はありませんでした」
「そう」
「でも、紙を一枚手に入れました」
「盗った?」
「交換しました」
「珍しい」
「子どもからは盗みません」
「覚えておこう」
何を。
ジークムントの視線が、紙ではなくディアナの左手へ落ちた。
逃げたい。
馬車の扉は開いている。逃げ道は後ろ。だが、後ろにはカイルとミロがいる。前にはジークムント。右は壁。左は馬。
詰んでいる。
「さっき、何かあったね」
声が低い。
ディアナは背中に隠していた左手を、さらに隠そうとした。人間、背中の先にもう一つ背中はない。無理だった。
「何も」
「左手」
「手はあります」
「答えになっていないよ」
「左手もあります」
「それは見れば分かる」
会話が逃げ道にならない。
ジークムントは馬車から降りた。昼の裏通りなのに、彼の周りだけ温度が下がったように感じる。深い青灰色の瞳が、ディアナの顔、肩、背中へ隠した左手を順に見る。
「紙に触れたあと、左手を握った」
「……見てたんですか」
「君を見ていたわけではないよ」
「その言い方、余計に怖いです」
「なら、怖がっておきなさい」
逃げ道がない。
見られたのか。
視られたのか。
どちらにしても、ジークムントには何かが届いている。
「ディアナ」
「……指輪の色が、少し変わったように見えました」
言った瞬間、ジークムントの視線が細くなった。
彼は何も言わず、ディアナの左手を取った。
素肌に触れた指先が、ひどく冷静だった。冷静なのに、逃げられない。中指にはまった指輪の縁を、親指が軽くなぞる。
「痛む?」
「いいえ。一瞬、そう見えただけです」
「紙に触れた時?」
「たぶん」
確認だ。
これは確認だ。
分かっているのに、左手を取られているだけで心臓がうるさい。
「……近くないですか」
「手を見るには、これくらい近づく必要がある」
「本当に?」
「嘘をつくなら、もう少し面白い嘘をつくよ」
やめてほしい。
今、面白さはいらない。
ジークムントの親指が、もう一度だけ指輪の縁に触れた。
「今は戻っているね」
「分かるんですか」
「少なくとも、今の君は逃げようとしていない」
そういうことを、確認事項みたいに言わないでほしい。
最悪だ。
確認なのに、心臓に悪い。
カイルが低く言った。
「殿下。確認は終わりましたか」
「まだだよ」
「長い」
「心配性だね」
「その手を握られてるのはディアナなんで」
言い方。
間違っていないけれど、言い方。
ディアナの心臓がさらに仕事を増やした。
ジークムントはようやく手を離した。指先の感触が消える。ほっとしたはずなのに、少しだけ左手が寂しい。
今のは気のせい。
絶対に気のせい。
「紙を見せて」
「……はい」
ディアナは胸元から紙の小鳥を取り出した。
折り目をほどく時、少しだけ手が震えた。ジークムントはそれを見ている。見ないでほしい。いや、見ていい。いや、見ないでほしい。
忙しい。
紙は、小さな欠片だった。
広げても、掌より少し大きい程度。端は破れ、中央には祈る手の一部のような線と、白花の花弁らしき半円が残っている。文字は欠けている。けれど、ただの紙ではない。古さも、線の美しさも、昨日の祈りの間で見た空白と同じ場所へ戻りたがっているように見えた。
ジークムントは紙を受け取らず、ディアナの手の上にあるそれを覗き込んだ。
距離が近い。
顔が近い。
紙を見ている場合ではない。
「見覚えは?」
「……ない、と思います」
「思います?」
「知らないはずなのに、嫌な感じがします」
言ってから、ディアナは口を閉じた。
知らないはず。
その言い方が、もう少しおかしい。
ジークムントの視線が、ほんの少しだけ細くなる。
「祈りの間にあったものと、同じ紙ですか」
「断定はしない」
「では?」
「捨て紙にしては、捨て方が悪い」
ジークムントは薄く笑った。
ようやく笑った。
安心してはいけない笑い方だった。
「この欠片が外へ出た。誰かが捨てたのか、捨てさせたのか、紛れたのか」
「調べますか」
「今日は調べない」
「またですか」
「君たちが動いた。相手も気づく。だから一度、こちらは手を止める」
手を止める。
ジークムントが言うと、休むという意味に聞こえない。
罠を張る、に近い。
「じゃあ、この紙は?」
「持ち帰る」
「盗品ですか」
「交換品だろう?」
「そこは覚えてるんですね」
「君が子どもから盗まなかったことも、ちゃんと覚えているよ」
やめてほしい。
そういうところだけ優しいみたいに言わないでほしい。
最悪なのに、少しだけ胸にくる。
旧訓練棟へ戻ると、リュクスが腕を組んで待っていた。
「紙屑は」
「紙屑じゃなくなった」
「何盗ってきた」
「子どもの紙の小鳥」
「ディアナ」
低い声で呼ばれた。
叱られる時の声だ。
「盗んでない。交換した」
「何と」
「焼き菓子と薄紙」
「ならいい」
判断が早い。
父は盗賊だが、子ども相手の線引きははっきりしている。そこは昔から変わらない。少しだけほっとする。
ミロが紙を広げて見せた。
「で、こいつがその小鳥の中身。見た目は古紙。中身は知らねえ。でも、お嬢の指輪が変な色になったらしい」
「ミロ」
「隠しても無駄だって。殿下にも見られてたし」
「言い方」
リュクスの目が鋭くなる。
ジークムントは机の端に紙片を置いた。バルドが手を拭き、紙に顔を近づける。ガロは扉のそばで外の気配を見ている。ダンテは壁際に立ち、黙って紙を見た。
旧訓練棟の空気が、少しだけ締まった。
けれど、重くなりすぎる前に、ミロが言う。
「しかし、菓子一個で祈りっぽい紙か。安いのか高いのか分かんねえな」
「高いよ。私のおやつが減った」
「そこかよ」
「そこだよ」
大事だ。
バルドが紙の端を見ながら、ぼそりと言った。
「古い紙だな。薬草袋の紙じゃねえ。香もついてる」
「白花施療院の香か?」
「似てる。けど、染みたってより、長く同じ場所に置かれてた感じだ」
長く同じ場所。
祈りの間の壁の空白が頭をよぎる。
ディアナは左手を見た。
指輪は静かだ。何事もなかったように、左手の中指に収まっている。白金色の輪。宝石のない、緩やかな切れ込みのある偽の指輪。
偽物のはずだ。
ジークムントが作った、ただの拘束具のはずだ。
なのに、あの紙に触れた瞬間、確かに色が変わったように見えた。
何なの。声には出さない。
ジークムントがこちらを見たからだ。
「気になる?」
「気になります」
「素直だね」
「気にならない方がおかしいです」
「そうだね」
あっさり認められると、それはそれで落ち着かない。
「説明してくれますか」
「まだ」
「まだ」
「分かっていないことを説明する趣味はないよ」
「分かってることを隠す趣味はありますよね」
「あるね」
あるんだ。
堂々と言わないでほしい。
リュクスが低く唸る。
「殿下。その指輪に何を仕込んだ」
「私が仕込んだものなら、把握している」
「つまり、把握してねえ動きがあったってことか」
「面白い言い方をするね」
否定しない。
否定してほしかった。
ディアナは左手を握った。今は何も起きない。ただ、自分の体温だけがある。
ジークムントの視線がそこへ落ちる。
「また握った」
「見ないでください」
「見るよ」
「どうして」
「君が、私の作った指輪で知らない反応をしたから」
仕事の声だった。
けれど、少しだけ違う気がした。
所有物を確認する声。
盤面を読む声。
そして、それだけではない何か。
何か、という言葉は便利だ。
分からないものを全部包める。
「……痛くはないです」
「なら、今日はそれでいい」
「いいんですか」
「よくはない。でも、急いで触れば相手に伝わるものもある」
相手。
その一言だけで、紙片の向こう側にいる誰かまで見ている気がした。ジークムントは、それ以上言わなかった。
言わない方が多い男だ。
ディアナは紙片へ目を戻した。欠けた白花。祈る手の線。途切れた文字。子どもの指で折られた跡。
祈りの図譜そのものではない。たぶん、欠片だ。
けれど、欠片だからこそ外へ出た。
欠片だからこそ、子どもの手に渡った。
欠片だからこそ、盗賊娘が焼き菓子と交換できた。
意味は、まだ分からない。
分からないのに、左手の指輪だけが先に反応した。
最悪だ。
でも、少しだけわくわくしている自分がいる。
リュクスがディアナの頭を軽く小突いた。
「変な顔すんな」
「してない」
「してる。面倒ごと見つけた時の顔だ」
「顔、今日ずっと働きすぎじゃない?」
「お前が分かりやすいだけだ」
父まで顔の話をする。
解せない。
ジークムントが紙片を薄布に包んだ。
「これは預かる」
「盗品の押収ですか」
「交換品の保管だよ」
「言い方を合わせてくるの、ずるくないですか」
「君が気にするからね」
また、そういう言い方をする。
考えるな。
考えたら負ける。
ディアナは籠の中に残った焼き菓子へ手を伸ばしかけて、左手を見てしまった。
中指の指輪は、もうただの白金色に戻っている。
それなのに、ジークムントの親指が指輪の縁をなぞった感触だけが、妙に残っていた。
だから考えるな。
「ディアナ」
「はい」
「それは報告が終わってから」
「私のおやつです」
「仕事中だよ」
「紙屑泥棒の報酬です」
ジークムントは一拍置いて、笑った。
「なら、ひとつだけ」
「許可制なの腹立ちます」
「君は私のものだからね」
「おやつまで管理しないでください」
リュクスが机を叩いた。
「殿下」
「分かっているよ。ひとつだけだ」
「そこじゃねえ」
旧訓練棟の空気が、少し緩んだ。
ありがたい。
緩まなければ、指輪の色が変わったように見えた瞬間を思い出し続けていた。
祈りの間から消えた図。
白花施療院から出た古紙。
子どもの紙小鳥。
一瞬だけ色が変わったように見えた指輪。
それらは、まだ線になっていない。
けれど、欠片は手に入った。
盗賊娘は、祈りの図譜を盗みに行かなかった。
子どもの紙の小鳥と、焼き菓子を交換しただけだ。
それでも、左手の指輪は一瞬だけ色を変えたように見えた。
空白から、欠片がこぼれ落ちた。
そしてディアナは、それを盗まずに持ち帰ってしまった。




