第十二話 盗賊娘、ご褒美を疑う
紙の小鳥から二日後、ディアナはご褒美をもらうことになった。
怪しい。
ものすごく怪しい。
ジークムント・ラ・パーソンの言うご褒美である。焼き菓子ひとつを許可制にし、紙屑泥棒を命じ、笑顔で人の心臓を雑に狙ってくる王子のご褒美である。信用できる要素が、探しても出てこない。
「ディアナさん。顔に出ています」
ロザリアの声が、朝の離宮にすっと通った。
ディアナは姿見の前で固まっていた。外出用のドレスを仮に当てられ、髪は軽くまとめられ、首元には細いリボンまで添えられている。
逃げられない。
いや、物理的には逃げられる。窓もある。扉もある。廊下も近い。サディアスもいる。
最後が問題だった。
「先生。今日のこれは、本当にご褒美なんですか」
「殿下はそのように仰っていました」
「殿下のご褒美、罠と同じ箱に入っていませんか」
「否定はできませんね」
「そこは教育的に否定してほしかったです」
ロザリアは眉ひとつ動かさない。この人もだいぶ強い。
「本日は王都の仕立て屋へ向かいます。次の夜会用の装いを整えるためです」
「夜会用」
「はい」
「それはご褒美ですか」
「普通の令嬢なら喜ぶところです」
「普通の令嬢じゃない場合は?」
「喜ぶところから練習しましょう」
「難易度が高い」
初手から無理だった。
ロザリアはディアナの肩に手を添え、姿勢を直した。背筋、顎、視線。少し動かされただけなのに、鏡の中の自分が別人のようになる。
怖い。
令嬢教育、怖い。
服を着ているだけなのに、もう情報戦が始まっている。
「次の夜会は、初夜会とは違います」
「違うんですか」
「あなたはもう、一度社交界に顔を出しています。次は、皆があなたをもう一度確認しに来ます」
「見世物ですね」
「否定はしません」
「王都、厳しい」
「見られるなら、見せ方を選びなさい」
ディアナは鏡の中のロザリアを見た。
見られるなら、見せ方を選ぶ。
それは少しだけ盗賊に似ていた。見つかった時に、何を見せるか。どこへ視線を流すか。何を隠すか。それで逃げ道は変わる。
令嬢、思ったより盗賊に近い。
言ったら叱られそうなので、黙っておく。
「分かりました」
「よろしい。では、その顔をやめましょう」
「顔」
「ご褒美を疑う顔です」
「疑っています」
「素直なのは結構ですが、王都ではもう少し隠しなさい」
「令嬢への道が遠い」
とても遠い。
支度が終わる頃、サディアスが迎えに来た。
「ディアナ様。馬車の準備が整いました」
「サディアスさん」
「はい」
「今日のご褒美は、本当にご褒美ですか」
「殿下はそのように仰せです」
「信用できない返事でした」
サディアスは否定しなかった。してほしかった。
離宮の外には、黒い馬車が待っていた。扉のそばには、当然のようにジークムントが立っている。
朝の光を受けた銀白色の髪が、薄い金糸を混ぜたように見えた。深い青灰色の瞳がこちらを向く。整った顔。甘い声。危険な笑み。
推しである。
今日も顔がいい。腹が立つ。
「似合っているね」
「まだ外出用の服です」
「だから似合っている」
「どこがですか」
「逃げられなさそうなところが」
「褒め方が独特」
ロザリアが後ろで咳払いをした。
「殿下」
「褒めたつもりだよ」
「そのお声で紛らわしいことを仰らないでください」
「皆、注文が多いね」
皆に言われている自覚はあるらしい。
ジークムントは馬車の扉を開け、手を差し出した。
「おいで。今日はご褒美だ」
「疑っています」
「知っているよ」
「知っていてその顔なんですね」
「疑う顔も悪くない」
悪くない、ではない。
ディアナは差し出された手を見た。
手を取らなくても乗れる。盗賊なので。むしろ一人で乗る方が速い。
けれど、ここで無視すればロザリアに見られる。サディアスにも見られる。ジークムントには、無視した理由まで見られる。
詰んでいる。
ディアナはおとなしく手を重ねた。
指先が触れる。その瞬間、左手を見そうになった。
左手の中指には、ジークムントによってはめられた指輪がある。
宝石のない白金色の輪。
外れない拘束具。
社交界では、第一王子の庇護を示す盾にもなるもの。
腹立たしい。
便利なのが、余計に腹立たしい。
「左手が気になる?」
「気になっていません」
「見た」
「視界に入りました」
「そう」
納得していない声だった。
馬車が動き出す。
離宮の門を抜けると、王都の音が少しずつ近づいてきた。車輪の音、馬の蹄、花売りの声、パンを焼く匂い、布を抱えた徒弟の足音。二日前に歩いた白花施療院の裏通りとは違う。今日は表の王都だ。
同じ町なのに、服と馬車が違うだけで、見えるものが変わる。
不思議だ。
少しだけ、面白い。
「紙片のことは、今日は考えなくていい」
「言われると考えます」
「そうだろうね」
「分かっていて言いましたね」
「顔に出るからね」
最悪。
「ご褒美では?」
「離宮の外に連れ出している」
「それをご褒美に数えるんですか」
「君には十分だろう」
「扱いが雑」
ご褒美の定義が、王子目線すぎる。
ディアナは窓の外へ顔を向けた。花売りの少女が、薄紫の花束を抱えて通りを走っていく。淡い菫色。指輪の色を思い出しかけて、慌てて頭から追い出す。
今日は考えない。
紙の小鳥も、祈りの図譜も、指輪の色も。
今日は仕立て屋。
ご褒美。
たぶんご褒美。
自信はない。
馬車が止まったのは、白い壁に青い扉の仕立て屋だった。看板には小さな花の意匠だけが彫られている。知っている人だけが来ればいい、という顔の店である。
店構えからして怖い。
中に入ると、柔らかい布の匂いがした。絹、磨かれた木、薄い香。壁には布見本が並び、奥には仮縫い途中のドレスがかかっている。店員たちは一斉に頭を下げたが、声は大きくない。
静かだ。
静かなのに、目が多い。
社交界の手前の場所という感じがする。
「お待ちしておりました、ジークムント殿下」
年配の女主人が深く礼をした。姿勢が美しい。背筋だけで相手を黙らせられそうだ。
強い。
「急で悪いね」
「殿下の急なご依頼には慣れております」
「それは助かる」
この店主、たぶん布より人を見る方が得意だ。
女主人の視線がディアナへ移った。
「こちらがディアナ様ですね」
「はい。よろしくお願いします」
「お噂はかねがね」
「どの噂ですか」
「お聞きにならない方がよろしい噂です」
「もう怖いです」
女主人は少しだけ笑った。
「ご安心ください。噂より、ご本人の方がずっとよろしい」
「喜んでいいんですか」
「もちろんです。噂とは、大抵、布の端切れより扱いにくいものですから」
「社交界、布より怖い」
また否定されなかった。
王都、厳しい。
奥の試着室へ案内されると、布見本が次々と出てきた。夜青、灰がかった銀、深い葡萄酒色、白に近い薄金。
綺麗だ。
そう思ってしまった。
昔、盗んだ宝石をこっそり眺めるのが好きだった。綺麗な石や、それを当たり前のように身につける女たちを、少し羨ましいと思ったこともある。
でも今、自分に当てられている綺麗な布は、自由ではない。
ジークムントが選ぶ。
社交界へ見せる。
左手の指輪を隠すか、見せるかまで意味になる。
綺麗なのに落ち着かない。
嬉しいのに腹が立つ。
感情の並びが最悪だった。
「この夜青は?」
「殿下のお色に寄りすぎます」
「銀は」
「指輪が埋もれます」
「葡萄酒色は」
「初夜会の印象をなぞりすぎます」
ジークムントと女主人の会話が速い。
色ひとつで、誰の隣に立つかまで読まれるらしい。
布、怖い。
ディアナは立っているだけである。
完全に着せ替え人形だった。
「私の意見は」
「聞くよ」
「動きやすい服がいいです」
「却下」
「早い」
「夜会で逃げる予定があるなら考える」
「ありません」
「なら却下だね」
逃げる予定があったら考えてくれるのか。
いや、たぶん拘束を増やす方向で考えられる。
聞かなかったことにしよう。
「袖は軽くしましょう」
女主人がディアナの左手を見る。
そこには、ジークムントによってはめられた指輪がある。
宝石のない白金色の輪。緩やかに切れ込んだ形。社交界では、どう見ても意味を持つものだ。
「手袋は?」
「薄いものを。外せる形で」
「見せるんですね」
「隠す理由がない」
ジークムントは穏やかに言った。
嘘である。
理由はある。むしろ理由しかない。
見せるために作った指輪だ。ディアナを縛り、周囲へ牽制するための指輪だ。
分かっているのに、何でもない顔をする。
最悪。
「ディアナ」
「はい」
「不満そうだね」
「不満ではありません」
「では?」
「いろいろ納得していない顔です」
「顔の分類が増えたね」
増やしたくて増やしたわけではない。
女主人が口元を押さえた。
笑われた気がする。
恥ずかしい。
「髪飾りは、あまり重くないものを」
ジークムントが言った。
意外だった。
ディアナは思わず彼を見る。
「もっと飾る方向かと」
「君は逃げ足が落ちるほど飾ると怒るだろう」
「怒ります」
「だから、怒らない程度にする」
分かっているのが腹立つ。
分かっていて、縛る。
分かっていて、逃げ道も残す。
その逃げ道も、たぶん彼の掌の上だ。
女主人が、細い銀の髪飾りを持ってきた。小さな白い花の意匠が並んでいるが、派手ではない。髪に挿せば、動くたびに少しだけ光を拾う程度だ。
「こちらはいかがでしょう」
「白花ですか」
「今、王都でよく見かける意匠です。施療院への寄付が増えた影響もございます」
白花。
胸の奥が、少しだけ動いた。
紙の小鳥。
祈りの間。
白花施療院。
考えるなと言われたものほど、こうして目の前に来る。
ディアナは左手を見そうになって、やめた。
今は指輪を見るな。
色が変わったら困る。
変わらなくても困る。
「別の意匠にしよう」
ジークムントが言った。
女主人はすぐに別の箱を開ける。
ディアナはジークムントを見た。彼は笑っていなかった。ほんの一瞬だけ、白花の髪飾りを見ていた。その視線はすぐに消えたが、見逃せなかった。
やっぱり、何かある。
でも今日は聞かない。
聞いても、きっと「まだ」と言われる。
悔しい。
「こちらは月桂の葉です」
女主人が次に差し出したのは、細い金属で葉をかたどった髪飾りだった。白花ほど柔らかくはない。けれど、光を受けると葉脈の細い線がきらりと浮かび、派手ではないのに目に残る。
白花ではない。
それだけで、ジークムントがこの箱を選ばせた理由は、少しだけ見えた気がした。
聞く気はない。聞けば、きっとまた「まだ」と言われる。
「それがいい」
「勝利の葉ですね」
「逃げ切る葉にしてください」
「そういう意味ではございません」
即座に直された。
恥ずかしい。
その時、店の奥から別の声がした。
「こちらの差し色は、少し強すぎるのではありませんか」
澄んだ、落ち着いた声だった。
ディアナは反射で振り向いた。
奥の鏡の前に、イレーネがいた。
濡羽色の髪をきちんと結い、淡い銀灰色のドレスを仮合わせしている。派手ではない。けれど、布の落ち方も、背筋も、手の置き方まで美しい。
イレーネだ。
会えた、と思った瞬間に胸が跳ねる。顔に出すな。絶対に出すな。
「ディアナ様」
イレーネがこちらに気づき、静かに会釈した。
「イレーネ様。お邪魔してしまってすみません」
「いいえ。こちらこそ、殿下のご予定に重なってしまったようで」
完璧な礼だった。
第一王子への敬意はある。けれど、必要以上に怯えない。距離を間違えない。
強い。
やっぱり強い。
「マルチェント嬢も仮合わせか」
「はい。次の夜会用です。クリス殿下から、少し色を変えてみてはと勧められまして」
「クリスが」
「はい。明るすぎない範囲で、とのことでした」
クリス殿下。
婚約者。
その言葉で、ディアナは少しだけ胸の奥を押された気がした。
甘い恋人同士というより、長い時間で整えられた距離。役割として並び、社交の場で互いを支える関係。
この二人の関係を、未来の物語は崩そうとしていた。
考えるな。
今ここにいるイレーネを、勝手に断罪台へ連れていくな。
「ディアナ様の装いも、夜会用ですか」
「はい。私はまだ、何を着せられているのか理解が追いついていません」
「着せられているのですね」
イレーネの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑った。
少しだけ。
やった。
いや、落ち着け。
ここで浮かれると顔に出る。
ジークムントが見ている気がする。
絶対に見ている。
「差し色で迷っているようです」
女主人が布を持ってくる。
イレーネは一歩近づいた。近づき方まで綺麗だ。相手の領域を侵さず、遠すぎもしない。
令嬢の歩幅。
ロザリア先生が見たら頷きそうである。
「夜青を基調にするのでしたら、銀を強くしすぎると殿下のお色に寄りすぎます。白も、指輪が目立ちすぎるかもしれません。こちらの青みがかった灰色はいかがでしょう」
「青みがかった灰色」
「はい。落ち着きますが、重くはなりません。夜の色を受け止める色です」
言い方が綺麗。
ディアナは布を見た。確かに、強い色ではない。けれど、夜青の隣に置くと布の深さが出る。左手の指輪も、埋もれない。
すごい。
令嬢、すごい。
「イレーネ様は、こういうことも分かるんですね」
「必要なことですから」
「必要でも、できるのがすごいです」
「……すごい、ですか」
イレーネが少しだけ瞬きをした。
言いすぎたかもしれない。
でも、本当にそう思った。
「私は、布を見ると、どれが高そうかとか、どこに隠せるかとか、そういう方向に考えてしまうので」
「隠す?」
「あ」
終わった。
盗賊娘、うっかり盗賊の発想を出す。
イレーネは一瞬だけ目を丸くし、それから口元へ手を添えた。
「……実用的なのですね」
「今のは優しい言い換えです」
「ロザリア先生のご指導は、順調ですか」
「返事だけはよろしいと言われます」
「それは、ロザリア先生らしいです」
イレーネがまた少し笑った。
胸が軽くなる。
重いものばかりが続いていたから、この少しの笑みだけで息ができる気がした。
その時、試着室の向こうで、若い令嬢たちの声が聞こえた。
「マルチェント様は、やはり落ち着いたお色を選ばれるのね」
「次期王族妃らしいと言えば、らしいけれど」
「少し、堅すぎる気もしますわ」
「クリス殿下のお隣に立つには、もう少し可愛げがあってもよろしいのに」
聞こえるように言っている。
ディアナの指が、布の端をつかんだ。
イレーネの表情は変わらない。けれど、手元のリボンがほんの少しだけ動いた。
強いから傷つかないわけではない。
顔に出さないだけだ。
怒鳴るのは違う。
盗賊団なら睨めば済む。財布を抜いて逃げてもいい。いや、よくない。
令嬢の場では、たぶんもっと面倒な盗み方がある。
噂は、消すより向きを変える。
「イレーネ様」
ディアナは、少し大きめの声で言った。
「この色、とても綺麗です。落ち着いているのに、ちゃんと目に残ります」
「ディアナ様」
「派手な色って、私が着るとたぶん布に負けます。でも、こういう色なら、自分で立っている感じがします」
令嬢たちの声が止まった。
止まった。
勝ったかどうかは分からない。
でも、止めた。
ディアナは内心で拳を握った。
イレーネがディアナを見る。驚いたような、困ったような、少しだけ柔らかい目だった。
「……ありがとうございます。けれど、私は」
「はい」
「誰かのためだけに色を選んでいるわけではありません」
「……そうですよね」
しまった。
助けたつもりが、少し違った。
ディアナは背筋を伸ばした。
逃げるな。
この人は、助けられるだけの少女ではない。
「すみません。言い方を間違えました」
「いいえ。嬉しかったです」
イレーネは静かに言った。
「ただ、私も、自分で選んだ色をまといたいのです」
「はい。そういうところが、素敵だと思います」
「……ディアナ様は、まっすぐですね」
まっすぐ。
盗賊なのに。
不思議な評価を受けた。
ジークムントが横で小さく笑った気がする。
見ない。
今は見ない。
見たら顔がまた働く。
「イレーネ嬢」
ジークムントが穏やかに声をかけた。
「少し、ディアナを見てもらえるかな」
「私でよろしければ」
「助かるよ。私が選ぶと、どうしても見せたいものが先に立つ」
「自覚があるなら直してください」
「直すとは言っていないよ」
最悪。
イレーネの侍女が、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
笑いをこらえたのかもしれない。
店の空気が、少しだけ柔らかくなった。
その後、ディアナはイレーネに扇の色、リボンの幅、夜会で最初に挨拶する相手、視線の置き方まで教わった。
全部難しい。
屋根の上を走る方がまだ楽である。
「夜会では、最初に誰と話すかも大事です」
「話す順番まで決まるんですか」
「決まっているわけではありません。ただ、皆が見ています」
「皆、暇なんですか」
「社交とは、暇に見せながら情報を拾う場です」
「盗賊より怖いです」
「似ている部分はあるかもしれませんね」
イレーネが真面目に言うので、ディアナは固まった。
令嬢、盗賊説。
ロザリア先生には黙っておこう。
「ディアナ様は、次の夜会で何をしたいのですか」
「何を」
聞かれて、言葉に詰まった。
ジークムントに連れられて行く。
指輪を見せられる。
社交界に見られる。
イレーネを見つける。
できれば、また話したい。
そして、いつか、この人を断罪台から遠ざけたい。
それは言えない。
今はまだ、言えない。
「……場を壊さないようにしたいです」
「それだけですか」
「それと、できれば、前より少しだけ自分で立ちたいです」
言ってから、自分で驚いた。
そんなことを考えていたのか。
ジークムントに飾られても、左手の指輪を見せられても、全部を奪われたくはない。
誰を見るか。
何を選ぶか。
どこに立つか。
そこまでは、渡したくない。
イレーネはしばらくディアナを見ていた。それから、静かにうなずいた。
「では、差し色はこれがよいと思います」
青みがかった灰色のリボンが、ディアナの前に置かれる。
「強すぎず、隠れすぎず。夜青に飲まれず、白金の指輪も浮かせすぎない。自分で立つには、ちょうどよい色です」
「……ありがとうございます」
「次の夜会で、お話できるとよいですね」
「はい」
声が弾みそうになって、慌てて抑えた。
抑えた。
たぶん。
ジークムントが見ている。
絶対に見ている。
仕立て屋を出る頃には、ディアナの頭は布と色と社交の情報でいっぱいだった。紙片のことを考える隙間は、少しだけ狭くなっている。
ご褒美としては、たぶん成功している。
認めたくない。
店先でイレーネと別れる時、イレーネは小さく会釈した。
「ディアナ様。また、夜会で」
「はい。また」
また。
その一言だけで、胸が少し温かくなる。
イレーネの馬車が先に出る。濡羽色の髪が窓の向こうで揺れ、すぐに見えなくなった。
ディアナはその馬車を見送っていた。
「そんな顔をするんだね」
横からジークムントの声がした。
来た。
やっぱり来た。
「どんな顔ですか」
「宝石を見つけた盗賊の顔」
「そんなに悪い顔をしていましたか」
「いいや。大事なものを見つけた顔だ」
心臓に悪い。
ディアナは馬車の方を見たまま、口を結んだ。
「イレーネ様は、素敵な方です」
「そう」
「だから、見ていただけです」
「私ではなく?」
「そこで張り合わないでください」
「張り合う必要がある?」
「そういう返しが怖いんです」
また怖い会話になった。
最近、顔と目と心臓が勝手に働きすぎている。
ジークムントは馬車の扉を開けた。ディアナが乗る前に、彼はふと左手へ視線を落とす。
指輪は静かだ。
白金色のまま、何も語らない。
「今日は静かだね」
「……見てたんですか」
「見るよ」
「ご褒美では?」
「私のものを確認しているだけだよ」
「ご褒美の顔をした管理です」
「そうとも言うね」
否定しない。
してほしかった。
いや、ジークムントが否定したら、それはそれで怖い。
「でも、楽しそうだった」
「……少しだけ」
「そう」
「何ですか」
「それなら、連れてきた意味はあった」
言い方がずるい。
ご褒美だとは言わない。
優しさだとも言わない。
でも、こちらが少し楽しかったことだけは拾ってくる。
最悪だ。
ディアナは馬車に乗る直前、もう一度、仕立て屋の青い扉を見た。
紙片の意味は、まだ分からない。
白花の髪飾りを避けた理由も、分からない。
ジークムントが何を見て、何を待っているのかも、分からない。
でも、今日は別のものを手に入れた。
青みがかった灰色の差し色。
夜会で立つための、ほんの少しの考え方。
そして、イレーネとまた話す約束。
手ぶらではない。
それだけで、今日のご褒美を全部疑うのは少しだけ難しくなった。
ディアナは馬車に乗り込んだ。
左手の指輪は静かだった。
けれど胸の奥で、何かが小さく決まった気がした。
次の夜会では、見られるだけで終わらない。
見られるなら、見せ方を選ぶ。
そしてできれば、イレーネの隣に立つための言葉を、ひとつくらい盗んでみせる。




