第十三話 盗賊娘、噂の向きを盗む
次の夜会の日、ディアナは離宮の姿見の前で、深く息を吸った。
逃げたい。
少しだけ。いや、だいぶ。
だが、今日は逃げる日ではない。見られる日だ。見られるなら、見せ方を選ぶ日だ。
「ディアナさん。肩」
「下げます」
「視線」
「落としません」
「手元」
「気にしすぎません」
返事だけは立派である。
ロザリアは鏡越しにディアナを見た。夜青のドレス。青みがかった灰色の差し色。髪には、月桂の葉をかたどった細い髪飾り。左手の中指には、宝石のない白金色の指輪。
指輪は静かだ。
白金色のまま、何も語らない。それだけで少し安心する。安心している自分に腹が立つ。外れない拘束具に安心するなんて、だいぶ末期だ。
「今夜、あなたが一番気をつけることは何ですか」
「怒鳴らない」
「次」
「睨まない」
「次」
「噛みつかない」
「噛みつく予定があったのですか」
「ありません」
ロザリアの視線が鏡越しに刺さる。
先生、怖い。
「噂は、真正面から叩き落とすものではありません」
「では、どうするんですか」
「流れを見なさい」
短い言葉だった。
けれど、妙に胸に残った。流れを見る。人の視線。扇の止まり方。笑みの薄さ。盗みに入る時と、少し似ている。
言ったら叱られそうなので、黙っておく。
「分かりました」
「よろしい。では、その決意を顔に出しすぎない」
「顔」
「出ています」
「難しい」
ロザリアは否定しなかった。
してほしかった。
支度が終わる頃、サディアスが迎えに来た。廊下に出ると、ジークムントが窓辺に立っている。
黒に近い礼装に、銀糸の刺繍。月光を拾う銀白色の髪。深海を覗き込むような青灰色の瞳。
顔がいい。やっぱり顔がいい。
夜会前から心臓へ余計な仕事を増やしてくるの、本当にやめてほしい。
「似合っている」
「ありがとうございます」
「今日は逃げなさそうだ」
「褒めるところ、そこですか」
「君にとっては大事だろう」
「否定しにくいのが嫌です」
ジークムントは小さく笑った。その視線が、髪飾り、差し色、左手へ流れる。
確認されている。飾りとして。手駒として。あるいは、彼のものとして。
分かっていても落ち着かない。
「今日は何を盗むのかな」
「まだ決めていません」
「嘘だね」
「……見てから決めます」
「悪くない」
何が悪くないのか。
聞くと負ける気がした。
「殿下」
「何かな」
「今日は、イレーネ様の邪魔はさせません」
「誰に?」
「……まだ、分かりません」
ジークムントの笑みが、少しだけ薄くなった。
怒ったわけではない。面白がったのでもない。ただ、何かを測るような目になった。
「なら、私の後ろに隠れるだけでは足りないね」
「隠れません」
「そう」
「でも、危なかったら殿下のお名前も使います」
「私を?」
「使えるものは使います」
「悪くないね」
さっきも聞いた。
何が悪くないのか、やっぱり聞くと負ける気がした。
馬車が王城へ向かうあいだ、ディアナは窓の外を見ていた。王都の灯りが夜の中にひとつずつ浮かんでいる。車輪の音。馬の蹄。遠くの鐘。夜会へ向かう馬車の列。
前回より、音がよく聞こえる。
怖くないわけではない。けれど前回は、何を見られるのか分からなかった。今日は少しだけ分かっている。
自分は見られる。
指輪も見られる。
ジークムントの隣に立つことも、イレーネへ近づくことも、全部見られる。
それなら、見せ方を選べばいい。
馬車が王城の前で止まった。先に降りたジークムントが手を差し出す。ディアナはその手を取った。左手の指輪が、夜会場の灯りを受けて細く光る。
階段の上で、扇が止まった。
来た。視線だ。
肌に刺さるほどではない。けれど、細い糸のように絡む。第一王子がまた夜会に現れた。その隣に、前回と同じ盗賊娘がいる。左手には、あの指輪。
会話が薄くなる。笑みが整えられる。
広間へ入る前から、もう社交は始まっていた。
「ディアナ」
「はい」
「顔」
「しまっています」
「半分ね」
「厳しい」
ジークムントは楽しそうに言った。その余裕が腹立たしい。でも、その隣に立っていると、視線の一部が自然に逸れる。ディアナだけではなく、ジークムントの顔色を窺うようになる。
腹立たしいほど、守られている。
それがいちばん腹立たしい。
広間には、柔らかな音楽が流れていた。高い天井から下がる灯りが、磨かれた床に反射している。菫色の装飾、白い柱、花の香り。人の笑い声。絹の擦れる音。扇の開閉する小さな音。
きれいだ。そして、怖い。きれいな場所ほど、隠すものが多い。
ディアナはジークムントの半歩後ろを歩いた。後ろに隠れるためではない。最初は、場の流れを見るためだ。
誰がこちらを見るか。誰が指輪を見るか。誰がジークムントを避けるか。誰がイレーネの名前を出すか。
盗賊として目を使う。令嬢として笑みを載せる。
とても忙しい。
忙しすぎる。
「疲れた顔をするには早いよ」
「まだ顔に出ていますか」
「君は正直だからね」
「令嬢として致命的です」
「盗賊としては?」
「父に怒られます」
「では練習だね」
何でも練習にされる。
その時、広間の奥で淡い銀灰色が揺れた。
イレーネだ。
黒絹の髪をきちんと結い、背筋を伸ばして立っている。隣にはクリスがいた。柔らかな笑みを浮かべ、数人の貴族と話している。イレーネはその少し横で、必要な時だけ言葉を添えていた。
出すぎない。
引きすぎない。
場を乱さず、支えている。
それなのに。
「マルチェント様は、今夜もお変わりなく落ち着いていらっしゃるわ」
「ええ。次期王族妃としては、とても安心感がおありで」
「クリス殿下は華やかな方ですもの。お隣には、もう少し柔らかさがあっても映えそうですけれど」
近くの令嬢たちの声が、扇の陰から滑った。褒めている形をしている。
でも、違う。
堅い。可愛げがない。クリス殿下には合わない。そう言っているのと同じだ。
うまい。腹が立つほど、うまい。
盗賊なら、財布を抜いてやりたいところだ。いや、だめだ。今日は噛みつかない。睨まない。怒鳴らない。財布も抜かない。
流れを見る。
ディアナはグラスを持つ手を整えた。喉は乾いていない。でも、手に何かがあると少し落ち着く。
令嬢たちの視線が、ちらりとこちらへ流れた。
第一王子の隣の盗賊娘。
見られている。ちょうどいい。
ディアナは一歩、半歩だけ、会話の輪に近づいた。ジークムントが止める気配はない。
見ている。いつも通り、性格の悪いくらい静かに見ている。
「マルチェント様のお色、とても綺麗ですね」
ディアナは、令嬢たちの声が届く位置で言った。大きすぎず、小さすぎず。
ロザリア先生。
今の声量、合っていますか。
頭の中で確認しながら、笑みを整える。
令嬢たちがこちらを見た。驚きと探りが混ざった目。正面から入ってきた盗賊娘を、どう扱うか決めかねている顔だ。
今だ。
「落ち着いた色なのに、広間の灯りの中で埋もれないんですね。とても……盗みにくそうです」
言ってから、固まった。
違う。
違う違う違う。
なぜ今、盗みが出た。
「盗み、にくそう?」
令嬢のひとりが、扇の奥で瞬きをした。
終わった。
社交界で盗賊の発想が漏れた。ロザリア先生がいたら、表情筋から叩き直される。いや、今は叩かれている場合ではない。
ディアナは笑みを作り直した。
「……目を離しにくい、という意味です。今のは忘れてください」
令嬢たちが黙る。
ジークムントが笑った気がした。
見ない。
今は見ない。
「派手な色は、ぱっと目を引きます。でも、ええと……マルチェント様のように場を乱さずに立っている方は、目立たないのではなく、周りを立たせているのだと思います」
声が少しだけ落ち着いた。
言いながら、ようやく分かった。
イレーネは、目立たないのではない。場を崩さないのだ。誰かの華やかさに負けているのではない。その華やかさが乱れないよう、隣で支えている。
「クリス殿下は、場を明るくなさる方です。だからこそ、その隣で空気を整えられる方がいると、安心して見ていられる気がします」
令嬢たちの顔が、少しだけ変わった。
堅い、をそのままにしない。可愛げがない、へ流させない。場を整える。支える。目立たないのではなく、崩さない。
言葉の向きを、少しだけずらす。
「まあ……そのような見方もございますのね」
「はい。私はまだ難しくて、つい動きやすいかどうかで見てしまうので」
「動きやすい?」
「裾を踏まず、相手の邪魔をせず、場を乱さずに歩けることも装いなのだと、教わりました」
「確かに、マルチェント様の立ち居振る舞いは、いつも乱れませんものね」
「次期王族妃としては、大切なことでしょう」
「……そうですわね。華やかさばかりでは、場も落ち着きませんもの」
変わった。
ほんの少しだけ。
悪評の棘が、別の言葉に包まれた。堅い、から、乱れないへ。可愛げがない、から、務めを果たせるへ。
完璧ではない。全部を消したわけではない。でも、さっきよりは刺さり方が変わった。
変えた。
ほんの少しだけ。
ディアナは内心で拳を握った。
顔には出すな。
顔には。
「ディアナ様」
イレーネが静かに近づいてきた。灯りを受けた黒絹の髪が、艶やかに揺れる。氷青の瞳は冷たく見えるのに、その奥に確かな温度があった。
「ディアナ様は、不思議な見方をなさるのですね」
「変でしたか」
「いいえ」
イレーネは少しだけ目を伏せた。
「……少し、息がしやすくなりました」
胸の奥が、熱くなる。
分かってくれた。
助けた、ではない。隣で黙らなかったことを、分かってくれた。
令嬢たちの輪が、別の話題へ流れていく。扇の陰の視線はまだ残っていたが、少なくとも言葉の矛先は外れた。
ディアナは、周囲にも聞こえる声のまま言った。
「マルチェント様のお色、本当に素敵です」
「ありがとうございます。ディアナ様の差し色も、お似合いです」
そこでイレーネが、ほんの少しだけディアナの隣へ寄った。近づきすぎず、けれど周囲へ聞かせるためではない距離だった。
ディアナも、声を少しだけ落とす。
「イレーネ様が選んでくださったので」
「選んだのは、ディアナ様です。私は候補を示しただけです」
「……そういうところです」
「はい?」
「そういうところが、素敵だと思います」
イレーネが少しだけ瞬きをした。その反応が、昨日の仕立て屋と似ていて、ディアナは思わず笑いそうになる。こらえた。たぶん、少しだけ出た。
ジークムントが近づいてくる気配がした。
やっぱり見ていた。
見ないでほしい時ほど、この人は見ている。
「楽しそうだね」
「殿下」
「イレーネ嬢。クリスが探していたよ」
「ありがとうございます。すぐ戻ります」
追い払った、というほど露骨ではない。
けれど、これ以上ここに視線を集める気もないらしい。
イレーネは丁寧に礼をした。第一王子相手でも、必要以上に怯えない。距離を間違えない。やっぱり、強い。
去り際、イレーネはディアナへ小さく目礼した。
またあとで。
そう言われた気がした。
ディアナは胸の奥で、もう一度だけ拳を握る。
一回。
一回だけ、できた。
「今のは、君が盗ったね」
ジークムントが低く言った。ディアナは心臓が跳ねるのを感じた。
「何をですか」
「悪意の行き先」
「……見てたんですか」
「見るよ」
その返事は、昨日の仕立て屋でも聞いた。
見るよ。
この人は本当に見る。記憶を視なくても、見ている。表情も、声も、言葉の置き方も。
怖い。
でも、今は少しだけ、誇らしい。
「盗賊なので」
「物ではなく?」
「盗めるものは、思っていたより多いみたいです」
「君は本当に、妙なものを盗るね」
からかうような声だった。
けれど、否定ではなかった。
胸の奥に刺さる。
褒められた気がする。
利用価値を見られた気もする。
たぶん、どちらも正しい。
でも、今の言葉は少しだけ嬉しい。
最悪だ。
「顔」
「しまいます」
「遅い」
「厳しい」
ジークムントが笑った。その笑みを見て、ディアナはふと思った。
前回の夜会では、この人の隣に立たされているだけだった。指輪を見せられ、所有を示され、社交界の視線にさらされた。でも今夜は、少し違う。
まだジークムントの盤面の上だ。
それでも、自分で動かしたものがある。
イレーネへ向かっていた悪意の行き先。
ほんの少しの余白。
手ぶらではない。
ディアナは広間の灯りの中で、左手の指輪を見下ろした。
白金色の輪は静かだった。
今日はまだ、何も語らない。
それでいい。
今夜は指輪ではなく、自分の言葉で盗みに来たのだから。
イレーネの隣で、黙らずにいるために。




