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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第十四話 盗賊娘、猫と取引する


 夜会の翌々日、旧訓練棟は朝から紙と薬草と埃の匂いがした。


 高い窓から白い光が差し込み、傷だらけの床板に細い線を作っている。壁際には古い剣掛けの跡。扉と窓枠には、ジークムントが張らせた障壁の術式が沈んでいた。


 懐かしい。とても懐かしい。


 ただし、自由ではない。


 父たちは牢から出された。食事、薬、寝具、道具も与えられた。旧訓練棟の中で資料を広げ、道具を整え、最低限の作業をすることも許されている。だが、外へ勝手に出ることはできない。任務がなければ、扉の向こうには監視が立つ。窓を抜けようとすれば、障壁が弾く。


 使える状態に保たれている。それは厚遇ではなく、管理だ。


 分かっている。分かっているけれど、父たちが同じ机の向こうにいるだけで、息がしやすい。


「ディアナ、顔」

「出てる?」

「すげえ出てる」

「しまう」


 ミロに言われて、ディアナは頬を押さえた。ロザリア先生に鍛えられたはずの表情筋は、旧訓練棟に来た瞬間、里帰りしてしまったらしい。だめだ。ここは家ではない。まだ家ではない。


 でも、父たちがいる。


 それだけで、足元が戻ってくる。


「で、殿下は?」

「まだ来てない」

「来なくていい」

「たぶん来る」

「来なくていいっつってんだろ」


 リュクスの機嫌は朝から悪い。


 分かる。ものすごく分かる。


 ジークムントは来る。来る時は来るし、来てほしくない時ほど来る。そして、来てほしくないと分かった上で来る。


 性格が悪い。


 顔はいい。


 そこが最悪だ。


「昨日の夜会で、少しだけ流れを変えられたと思う」


 ディアナは長机の端に置かれた椅子へ座りながら言った。


 守りたい人へ向いていた嫌な言葉を、ほんの少しだけ別の向きへずらした。父たちに全部は言えない。あの人の名前も、前々世のことも、なぜ放っておけないのかも。


 けれど、手ぶらではなかった。


「流れ?」

「言葉の向き。視線の向き。そういうの」

「物じゃねえのか」

「物じゃない」

「盗賊の娘が、物じゃないもん盗って帰ってきたって?」

「そういう日もある」


 父が鼻で笑った。ばかにされたわけではない。たぶん。たぶんだが。


「噛みつかなかったんだな」

「噛みついてない」

「睨みは?」

「少し」

「怒鳴りは」

「してない」

「財布は」

「抜いてない」

「偉いじゃねえか」


 雑な褒め方だった。それでも胸の奥に刺さる。


 父にそう言われると、変なところが熱くなる。夜会の広間で自分がしたことが、本当に少しだけ何かになったような気がしてしまう。


「今、全部顔に出てる」

「しまう」


 今度はカイルに言われた。


 忙しい。旧訓練棟でも顔が忙しい。


 長机の上には、ジークムントが寄越した資料が積まれていた。王城印の紙束。香料組合の記録。庭園へ納める香草の名。南区の倉庫通りの配置図。


 ただし、肝心なところは空いている。


 誰が運んだのか。どこで荷が入れ替わったのか。甘い香の正体は何か。


 整った文字で書かれた資料は、親切な顔をして穴だらけだった。ここを埋めろ、と言われている気がする。


 腹が立つ。だが、埋めたくなる。もっと腹が立つ。


「外へは出られねえ。中で紙を睨んでても、匂いまでは拾えねえぞ」


 ミロが机に肘をついて言った。


「分かってる」

「分かってる顔じゃない」

「出たい顔?」

「出たい顔」

「しまう」


 何度しまえばいいのか。


 ディアナは資料の端を指で押さえた。


 甘い香。


 白花施療院で嗅いだ祈りの香とは違う。夜会の広間に満ちていた花の香りとも違う。まだ実物を知らないのに、言葉だけが鼻の奥に引っかかっている。


 甘い、というのは厄介だ。優しい顔をして近づいてくる。警戒心を緩める。それでいて、奥に何かを隠す。


「香なら、布に残る」


 バルドが薬箱を閉めながら言った。


「布?」

「包み布、荷縄、箱の内側、紙片。強い香なら、何かに移る」

「それがあれば見られる?」

「嗅がねえと分からん」

「外へ出られない」

「だから面倒だっつってんだろ」


 バルドは面倒くさそうに言ったが、薬箱はすでに開き直されている。


 見る気だ。


 面倒くさいと言いながら、ちゃんと見る気だ。そういうところが好きだ。


 言ったら怒られるので黙っておく。


 その時、窓の外で、かすかな音がした。


 ガロが最初に動いた。腰を浮かせ、窓辺へ寄る。カイルの手が、本来なら短剣のある位置へ落ちかける。サディアスが扉側から一歩だけ位置を変えた。


 旧訓練棟の空気が、すぐに切り替わる。


 懐かしい。この速さも、懐かしい。


「鳥じゃねえな」

「足音は?」

「軽い。一匹。屋根から窓枠」

「人か」

「いや」


 ガロが窓を細く開けた。


 黒い影が飛び込んできた。


 小さく、しなやかで、音もなく、机の上へ着地する。紙が一枚浮いた。ミロが「うお」と声を上げ、バルドが薬箱をかばう。


 黒猫だった。真っ黒な毛並みに、夜を丸めたような尾。目は金色で、細い体のくせに妙に堂々としている。首輪はない。野良だ。


 黒猫は机の上で尾を一度揺らし、ディアナを見た。


 見た。


 完全に見た。


「……猫?」

「猫だな」

「猫ですね」

「猫だ」

「分かる」


 なぜ旧訓練棟に猫。


 いや、猫はどこにでもいる。盗賊団の拠点にも、たまに勝手に入り込む猫はいた。食べ物目当てか、暖かい場所目当てか、単に人間を下に見ているのかは分からない。


 たぶん全部だ。


「おい、こら。そこは殿下の資料だ」


 ミロが手を伸ばした瞬間、黒猫はひらりと逃げた。逃げるだけではない。爪先で紙の端を踏み、長机の上を横切り、カイルの手を避け、なぜかディアナの前で止まる。


 そして、ディアナの焼き菓子をくわえた。


「あっ」


 黒猫は逃げた。


「私のおやつ!」

「追うのそこかよ!」


 ミロの声を背に、ディアナは立ち上がっていた。


 猫は窓枠へ向かう。速い。だが、完全に逃げ切る気ではない。こちらをちらりと振り返る。


 挑発。


 猫に挑発された。


 許せない。


 いや、おやつを盗られたからではない。盗賊として、目の前で盗まれてそのままにできないだけだ。焼き菓子は関係ない。たぶん。少ししか。


「ディアナ!」


 カイルの声が追ってくる。


 ディアナは椅子を踏まず、机の角を避け、窓枠へ手をかけた。ロザリア先生に見られたら倒れる動きである。だが、ここは旧訓練棟だ。令嬢の歩き方では猫は追えない。


 窓の外へ出る寸前、サディアスが淡々と言った。


「訓練庭までは通れます」

「猫も?」

「猫は許可対象外です」

「どういう障壁なの!」


 返事を聞く前に、ディアナは窓を抜けた。


 旧訓練棟の裏手には、使われなくなった訓練庭がある。草は短く刈られているが、隅には古い木箱や壊れた盾が積まれていた。騎士たちが使っていた名残は残っているのに、今は紙と薬と盗賊団の足音が似合ってしまっている。


 猫は木箱の間を抜けた。


 速い。


 でも、見える。


 黒い尾。低い姿勢。草の揺れ。焼き菓子の端。


 逃がすか。


 ディアナはスカートの裾を片手で押さえ、石畳を蹴った。


 盗賊団の中で、囲まれた時に盗品を持って抜けるのは自分の役目だった。猫一匹を追うのに本気を出すのはどうかと思うが、相手が盗人なら話は別だ。


 たとえ猫でも。


 猫は訓練庭の隅で止まった。


 止まった、というより、待っていた。


 黒猫は古い木箱の上に乗り、くわえていた焼き菓子を足元に置いた。それから、ディアナを見上げる。


「返して」


 猫は返さない。


「それは私の」

「にゃあ」


 返事だけは可愛い。


 やっていることは盗賊である。


 ディアナは一歩近づいた。黒猫は逃げない。金色の目がじっとこちらを見ている。妙に人慣れしているようで、完全に懐いているわけでもない。


 この距離。


 盗れる。


 ディアナは右手を伸ばしかけて、止まった。


 黒猫の足元に、焼き菓子とは別のものがあった。


 布片だ。


 細長く裂けた薄い布。荷を包む布か、箱を縛っていたものか。端に小さな紙片が貼りついている。さらに、布の繊維に絡むように、爪の先ほどの黒い小札が引っかかっていた。


 紙片の文字は濡れて崩れ、半分しか読めない。


 三、という字。


 その横には、蔵にも見える崩れた印。


 黒い小札には、細い銀線で小さな杯のような印が刻まれていた。表の荷札にしては飾りがある。貴族の紋章にしては雑だ。けれど、ただの飾りにしては目立たない場所へ隠されている。


 ディアナの目が細くなった。


 猫が尾を揺らした。


 甘い匂いがした。


 菓子ではない。花でもない。もっと重い。鼻の奥に残って、喉の奥へ沈むような甘さ。嫌な匂いではない。何も知らなければ、良い香りだと思ったかもしれない。


 だからこそ、嫌だ。


「……これ」


 ディアナは布片へ手を伸ばした。黒猫は逃げない。ただ、焼き菓子の方を前足で押さえる。


 取引。


 まさか猫に取引を持ちかけられている。


「おやつと交換?」

「にゃあ」

「賢すぎない?」


 猫は答えない。


 ディアナは焼き菓子を見た。中に木の実が入っていて、甘すぎず、ちょうどいい大きさだった。


 惜しい。


 非常に惜しい。


 だが、盗賊は取引を見誤ってはいけない。


 ディアナは深く息を吐き、焼き菓子から手を離した。


「……半分」


 猫が首を傾げた。


「半分にしよう。全部はだめ。私のおやつだから」


 自分は今、猫と交渉している。


 冷静になるな。

 負ける。


 ディアナは焼き菓子を半分に割り、大きい方を自分の手元に残した。小さい方を木箱の上へ置く。猫はすばやく小さい方をくわえた。


 そして、布片から足をどけた。


 成立した。


 猫との取引が成立した。


 盗賊人生、まだ知らないことが多い。


「ディアナ!」


 遅れてカイルが走ってきた。その後ろにミロ、ガロ、バルド。リュクスは少し離れたところで腕を組んでいる。サディアスも歩いてきていた。息ひとつ乱していない。


 腹が立つほど整っている。


「何やってんだ」

「取引」

「誰と」

「猫と」

「何言ってんだ?」


 ミロの顔が本気で困惑していた。


 ディアナだって困惑している。


「これ見て」


 ディアナは布片をつまんだ。指先に甘い匂いが移る。近くで嗅ぐと、さらに重い。甘さの底に、薬草のような、焦げた砂糖のような、薄い苦みがある。


 バルドの顔が変わった。


「触るな」

「もう触った」

「吸うな」

「もう嗅いだ」

「馬鹿か」

「そこまで強く嗅いでない!」


 バルドは舌打ちしながら布片を受け取った。薬包から薄い紙を出し、その上に布片と黒い小札を置く。猫は少し離れた木箱の上で、半分の焼き菓子を食べている。


 食べ方が上品だ。


 腹立たしい。


「三……か?」


 ガロが紙片を覗き込んだ。


「その横、蔵印っぽくねえか」

「香料組合の荷印か?」

「でも、こっちの黒い札はなんだ。荷札にしちゃ小さすぎる」


 ミロが黒い小札へ顔を寄せかけ、バルドに額を押し返された。


「近づくな」

「見えねえだろ」

「嗅ぐなっつってんだろ」


 場の空気が、少し冷える。


 三の字。

 蔵にも見える印。

 黒い小札。

 甘い香の布。


 意味はまだ分からない。けれど、ただの落とし物ではない。


「猫はどこで拾ったんだろう」

「拾ったっていうか、拾わされたんじゃねえの?」


 ミロが黒猫を見た。


 黒猫は知らん顔で毛づくろいをしている。


 知らん顔がうまい。


 盗賊向きだ。


「お前、どこから来た」


 リュクスが猫に向かって言った。


 猫はリュクスを見た。


 そして、目を細めた。


「おい、なんで俺だけ嫌そうなんだ」

「父さん、猫にも警戒されるんだね」

「お前は猫の肩を持つのか」

「だっておやつ半分で情報くれた」

「買収されてんじゃねえか」


 確かに。


 猫に買収された。


 でも情報は情報だ。


「名前は?」


 カイルが言った。


「猫に名前つけるの早くない?」

「お前、もう飼う顔してる」

「してない」

「してる」


 していない。していないはずだ。


 ディアナは黒猫を見た。黒猫は金色の目でこちらを見返す。自由で、勝手で、人間の都合を知らない顔をしている。


 野良猫だ。


 捕まえても、きっとするりと抜ける。


 それなのに、なぜか戻ってきそうな顔をしている。


「……ノア」


 口から出ていた。


 全員がこちらを見た。


「今、名づけた?」

「仮」

「仮の顔じゃねえだろ」

「仮!」


 黒猫は、ノアと呼ばれても反応しなかった。反応しないのに、逃げもしない。


 ますます腹が立つ。


「いい名前だね」


 背後から声がした。


 甘く、落ち着いていて、来てほしくない時ほど来る声。


 ディアナは肩を跳ねさせた。


 ジークムントが訓練庭の入口に立っていた。黒に近い上着。朝の光を拾う銀白色の髪。深く沈んだ青灰色の瞳は、黒猫ではなく、ディアナの指先と布片を見ている。


 来た。


 やっぱり来た。


 父の機嫌が目に見えて悪くなる。


「殿下。朝から人の拠点に勝手に入ってくる趣味でも?」

「私の城の敷地内だよ」

「使わせてるのはそっちだろうが」

「だから見に来た」

「見に来なくていい」


 リュクスとジークムントの会話は、朝から胃に悪い。


 ノアは平然と毛づくろいを続けている。


 大物かもしれない。


「ディアナ」

「はい」

「また妙なものを拾ったね」

「拾ったのではなく、取引しました」

「猫と?」

「猫と」

「君は本当に、盗みの範囲が広い」


 笑っている。からかわれている。


 だが、目は笑っているだけではなかった。布片、紙片、黒い小札、指先、ノアの毛並み、訓練庭の木箱。順番に見ている。


 記憶を視ているわけではない。


 ただ、見ている。


 この人は本当に見る。


「蔵印だね」


 ジークムントが言った。


「蔵印?」

「香料組合の古い荷印だよ。三番蔵で使われていた印に近い」

「三番蔵」

「表向きは空き倉庫になっている」


 表向き。


 便利すぎて嫌いです。


 ディアナは言わなかった。顔には出たかもしれない。


「でも、今見るべきはそちらだけじゃない」


 ジークムントは黒い小札へ視線を落とした。指先で触れないまま、その印だけを見ている。


「これは賭場の合図札だ」

「賭場?」

「表の遊び場ではないよ。札を持つ者だけが奥へ入れる」

「……裏賭場、ですか」

「そう呼ぶ者もいる」


 さらっと言わないでほしい。


 裏賭場。

 黒い合図札。

 三番蔵の蔵印に似た荷印。

 甘い香の布。


 倉庫ではなく、賭場。


 道が一本、横にずれた。


「バルド」

「俺に言うな」

「見てくれるかな」

「今見てる」


 バルドは不機嫌そうに布片を紙に包んだ。ジークムント相手でも、面倒くささはあまり変わらない。


 すごい。


「強く吸うな。少量でも頭が重くなるかもしれん」

「薬?」

「香に混ぜた何かだろ。すぐ倒れる匂いじゃねえが、近づきすぎると面倒だ」


 最後の一言はディアナへ向けたものだった。バルドの眉間には、いつもの面倒くささより少し濃い警戒がある。


 甘い匂いが、まだ指先に残っている気がした。


「なら、近づき方を考える必要があるね」


 ジークムントの声が低くなる。


 仕事の声だ。


 甘さが消えたわけではない。けれど、空気の温度が変わる。王子としてではなく、警衛騎士団の団長として盤面を見る顔。


 ディアナは少しだけ背筋を伸ばした。


「三番蔵へ行くんですか」

「行くのは早い」

「早い?」

「布片ひとつで蔵に踏み込めば、こちらが何に気づいたか教えることになる」

「では、裏賭場へ?」

「そちらも、正面から行くには早い」


 どっちも早い。


 では、何をするのか。


「まず、札の道を見る」

「札の道?」

「この合図札が、どこで渡され、誰を奥へ通すものなのか。蔵から荷が出たなら、使われる場所がある。賭場で使われるなら、金が動く」


 ジークムントは静かに言った。


「蔵は逃げない。けれど、賭場の客と札は動く」

「だから、先に札を追う」

「そう」


 説明は短い。


 でも、十分だった。


 三番蔵は出どころ。

 黒い小札は入口。

 甘い香は、どこかで使われている。


 たぶん、良い香りの顔をして。


「猫の足跡は?」

「見るよ」

「見るんですか」

「この猫がどこから入り、何をくわえてきたのか。分かるものは多い」

「猫を尾行?」

「できるかな」

「猫ですよ」

「盗賊だろう?」


 ひどい。


 猫の尾行を盗賊技能に入れないでほしい。


 でも、できないと言うのは腹が立つ。


「できます」

「ディアナ、即答するな」

「猫だぞ」

「猫でも足跡は残る」

「負けず嫌いが変な方向に出てる」


 カイルの声が聞こえた。


 変な方向ではない。


 たぶん。


「リュクスたちは旧訓練棟の外へ自由には出せない」


 ジークムントは穏やかに言った。穏やかなのに、言葉は冷静だった。


「だが、訓練庭と外壁沿いまでなら監視つきで許可する。猫の通った跡を拾うには、それで足りるはずだ」

「殿下」

「不満かな」

「娘を猫の後ろに走らせて、その先で賭場に入れる気か」

「今日はそこまでしない」

「今日は、か」

「必要な仕事は、順に渡すよ」

「その前に条件を出せ。縛った足で走らせる気なら、仕事の質は保証しねえ」


 リュクスの声が低く、はっきり落ちた。


 ジークムントは少しも揺れなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細める。


「覚えておこう」

「覚えるだけなら紙でもできる」

「なら、後で話そう。今は足跡だ」

「殿下」


 父の声がさらに低くなる。


 胃が痛い。


 けれど、ジークムントはディアナを見た。


「君が猫に負けたままでいいなら、下がっていなさい」


 ずるい。


 ものすごくずるい。


 命令ではない。挑発だ。


 猫に負けたままでいいなら。


 よくない。


 まったくよくない。


「やります」


 ディアナは言った。


 ジークムントの目が、ほんの少し細くなる。


 褒められたわけではない。喜ばれたわけでもない。ただ、予想通りか、予想より少し面白いか、そのあたりを測られている気がした。


 腹が立つ。


 でも、今はそれでいい。


「ただし、猫の足取りを見るだけです。三番蔵にも裏賭場にも踏み込みません」

「今はね」

「今は」

「いい返事だ」


 よくない。


 流された気がする。


 ノアが足元で鳴いた。


 ディアナは見下ろした。黒猫は、もう次の焼き菓子を待っている顔をしている。


「追加報酬はないよ」

「にゃあ」

「鳴いてもだめ」

「もう負けかけているね、ディアナ」

「負けない」


 負けない。


 猫にも、甘い香にも、ジークムントにも。


 たぶん。


 ディアナはスカートの裾を軽く持ち上げ、訓練庭の外壁へ視線を向けた。ノアが歩き出す。黒い尾が、朝の光の中でゆらりと揺れた。


 三番蔵の蔵印に似たもの。

 裏賭場の合図札。

 甘いのに、逃げない匂い。

 おやつ半分で取引してくる黒猫。


 意味が分からない。でも、意味が分からないものほど、あとで高く売れる。


 ディアナは一歩、踏み出した。


 今日は令嬢ではなく、盗賊娘の足で行く日だ。


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