第十五話 盗賊娘、少年に化ける
その日の夕方、ディアナは少年になった。正確には、少年になったことにした。
旧訓練棟の小部屋に立てかけられた曇った鏡の中には、くすんだ茶色の上着を着た下働きの少年が映っている。髪は後ろで小さくまとめ、古びた帽子の中へ押し込んだ。襟元には安物の布。膝下までの上着と、動きやすい細身のズボン。靴にはわざと泥を擦り込んである。
左手には、汚れた革手袋。偽オールトの指輪は、その下に隠れていた。隠れているだけだ。外れたわけではない。分かっている。分かっているけれど、鏡に映る自分の左手から白金色の輪が見えないだけで、少しだけ息がしやすかった。
指輪が見えない。
それだけで、少しだけ自分の左手が自分のものに戻ったような気がする。
「お嬢、似合うな」
「似合ってる?」
「少年っていうより、目つきの悪い下働きだな」
「褒めてる?」
「かなり」
ミロの評価は雑だった。
机の上には、変装道具が散らばっている。古布、針、糸、靴底に擦り込む泥、香りを消す粉、南区の荷運び人が使うような腰紐。ロザリア先生が見たら、表情筋どころか人生から叩き直されそうな準備だが、ディアナにはこちらの方がずっと馴染む。
髪に花を飾られるより、帽子を目深にかぶる方が落ち着く。絹の靴で広間を歩くより、泥のついた靴で裏道を抜ける方が息がしやすい。落ち着いてしまうのが、少し問題でもある。
長机の向こうでは、バルドが小さな薬包を並べていた。乾いた薬草の粉を薄い布へ包み、さらにその上から匂いの少ない紐で結んでいく。動きは雑に見えるのに、結び目の位置だけは妙に正確だった。
「襟元に入れとけ」
「香避け?」
「気休めだ」
「気休め」
「ないよりはましだ。甘い香を吸ったら、頭が重くなるかもしれん」
「言い方が悪い」
「倒れるよりましだろ」
それはそう。
黒猫ノアが持ってきた布片には、甘い香が残っていた。三番蔵で使われていた蔵印に近い荷印と、裏賭場の合図札。ジークムントはそう見た。三番蔵は出どころ。けれど、今追うべきは札の道。札を持つ者だけが奥へ入れる、裏の遊び場。
つまり、賭場。
盗賊娘としては、少しだけ血が騒ぐ。令嬢としては絶対にしてはいけない顔なので、見なかったことにする。
「ディアナ」
父の声がした。
リュクスは壁際に腕を組んで立っていた。目つきが悪い。機嫌も悪い。娘が少年の格好で裏賭場へ行くのだから、機嫌が良い方がおかしい。
「なに」
「中へ入れる隙があっても、勝手に奥へ行くな」
「行かない」
「本当だな」
「本当」
「お前の本当は、たまに足が先に言う」
「足を信用しすぎでは」
「信用してるから言ってんだ」
胸の奥が、少し詰まる。怒られている。心配されている。信用されている。盗賊団の中で、囲まれた時に盗品を持って抜けるのはディアナの役目だった。父たちは、ディアナの足を知っている。隙を見つけた時の癖も、危ないものほど取りたくなる悪いところも知っている。
だから止める時は、本気で止める。
「今日盗るのは、黒い合図札と帳簿の控えだ」
「分かってる」
「だけ、だ」
「分かってる」
「殿下が他にも拾えって顔をしても乗るな」
「ジーク様の顔は、だいたい何か拾えって顔をしてる」
「なおさら乗るな」
それは難しい。ジークムントは、何も言わない時ほど何かを見ている。命令にないものを盗った時、怒るのかと思えば、少しだけ目を細める。褒めるわけでもない。喜ぶわけでもない。ただ、予想外の札が盤面に乗った時のように、静かに見る。
あれが腹立たしい。腹立たしいのに、もっと盗りたくなる。非常によくない。
「ディアナ様」
扉の方から、サディアスが声をかけた。
呼び方は丁寧だ。声も淡々としている。だが、彼はいつの間にかそこにいた。旧訓練棟の扉は鳴ったはずなのに、足音がなかった。出入りの音を盗むのは盗賊の仕事では。
「殿下がお呼びです」
「今ですか」
「はい」
「この格好で?」
「その格好で、とのことです」
「見世物ですか」
「確認です」
確認。便利な言葉だ。だいたい、確認という名の下に、人は見たいものを見る。
ディアナは帽子のつばを押さえ、革手袋の左手を握った。
「行ってくる」
「何か言われたら噛みつけ」
「父さん、少年の作法として正しい?」
「裏の下働きなら正しい」
「そうだった」
少年なら、多少雑でも許される。たぶん。
ディアナはサディアスについて小部屋を出た。廊下は夕方の光で薄く染まっている。旧訓練棟の石壁は冷たく、窓の外には訓練庭の草が見えた。
ノアの姿はない。あの黒猫は、焼き菓子半分を受け取ったあと、当然のようにどこかへ消えた。名前を呼んでも来ない。だが、逃げたのかと言われると、そういう感じでもない。たぶん、また来る。勝手だ。ものすごく勝手だ。少し羨ましい。
案内された先は、旧訓練棟の一階、かつて団長室として使われていた小部屋だった。今は簡易の作戦室になっている。壁には王都南区の地図が張られ、赤い印がいくつか付けられていた。
香料組合の裏手。三番蔵。そして、そこから少し離れた細い裏通り。その裏通りの先に、黒い杯の印が小さく描き込まれている。
ジークムントは地図の前に立っていた。黒い騎士服ではなく、南区に紛れても目立ちすぎない落ち着いた上着を着ている。いや、目立つ。服は落ち着いているが、顔がまったく落ち着いていない。夕方の淡い光を拾って、銀白色の髪が薄い金糸を混ぜたように見える。
顔の良さは、潜入に向かない。
ディアナがそう思った瞬間、ジークムントが振り返った。深く沈んだ青灰色の瞳が、帽子から靴先まで、ゆっくりとディアナを見る。
見ている。
ものすごく見ている。
「……何か言ってください」
「言っていいのかな」
「言う前から嫌な予感がします」
「よく分かってきたね」
帰りたい。だが、帰ったら負けだ。
ディアナは背筋を伸ばした。令嬢の背筋ではない。下働き少年のふりをした盗賊娘の背筋である。どんな背筋かは分からないが、今決めた。
「変ですか」
「いいや」
「なら、なぜ黙って見るんですか」
「隠したつもりなら、逆効果だね」
さらりと言われたのに、逃げ道だけを塞がれた気がした。
ディアナは反射で帽子のつばに触れかけ、途中で止める。下げれば負けだ。でも、今すぐ下げたい。
「何がですか」
「顔」
「顔は隠せません」
「困るね」
「困らないでください」
ジークムントは淡く笑った。からかいはしている。けれど、視線はもう地図へ戻っていた。
仕事の顔だ。
「左手は」
「革手袋で隠しました」
「指は動く?」
「動きます」
「痛みは」
「ありません」
そこだけは、からかわなかった。
ディアナは革手袋の中で左手を少し動かす。指輪は静かだ。冷たくもない。熱くもない。ただ、そこにある。隠しても、そこにある。
ジークムントの視線が一瞬だけ左手に落ち、それから地図へ戻った。
「今夜は三番蔵には行かない」
「行かないんですね」
「行きたい?」
「……少し」
「盗賊らしい返事だね」
「今のなしで」
「遅い」
記録された気がする。この人はそういう顔をしている。
ジークムントの指が、地図の上を滑った。三番蔵。香料組合の裏手。黒い杯の印が描かれた裏通り。線は細い。けれど、切れてはいない。
「布片の荷印は三番蔵に近い。だが、蔵は動かない。こちらが気づいたことを教えるのは早い」
「では、賭場へ?」
「正面からは行かない。まずは、黒い合図札の意味を確かめる」
表向きは酒場。夜になると奥の部屋が開く。札を持つ者だけがさらに奥へ通される。蔵印。香。黒い札。全部が偶然なら、王都はとても親切な街である。
そんなわけがない。
「盗るものは、黒い合図札の控え。できれば、帳簿の写しの所在」
「できれば」
「君は、できればの方をよく盗る」
「褒めてます?」
「期待している」
それは信用なのか、利用なのか。たぶん両方だ。そして、どちらでも腹が立つ。
「盗賊団に理由は」
「まだ話さない」
「父さんが怒ります」
「もう怒っている」
「さらに怒ります」
「だろうね」
さらっと言わないでほしい。
ディアナは地図の上の黒い杯印を見た。王都の裏通りにぽつんと置かれた小さな印。その先に、三番蔵、甘い香、白花施療院、祈りの図譜の欠片が薄くつながっている気がする。でも、まだ何も説明されていない。
「ジーク様」
「何かな」
「いつか説明するつもりはあるんですか」
「必要になれば」
「必要になる基準は?」
「私が決める」
「でしょうね」
横暴にもほどがある。しかし、今さら驚くほどでもない。ジークムントは、何もかも話してくれる人ではない。最初からそうだった。情報を餌にして、人を動かす。言うべきことだけ言い、言わないことで盤面を保つ。
腹は立つ。
でも、たぶん、今回は父たちも簡単には引かない。
それでいい。
「それから」
ジークムントが一歩近づいた。
ディアナは反射で半歩下がりかけ、止まった。下がると負ける。だが、近いものは近い。ジークムントの指が、ディアナの襟元の布へ伸びた。
「動かない」
命令だった。低く、短い。初めて聞く声ではない。けれど、その声が耳に落ちると、身体が先に止まる。悔しい。盗賊娘として非常に悔しい。
ジークムントは襟元の布をほどきかけ、ほんの少しだけ結び直した。バルドの薬包が、表から見えない位置へ収まる。
「見えていた」
「自分で直せます」
「君は見えないところを雑にする」
「盗賊なので」
反射で返すと、ジークムントはわずかに目を細めた。
「盗賊なら、見えないところこそ丁寧に」
腹が立つくらい正論だった。
ジークムントの指が襟元から離れる。ほんの短い時間だった。それなのに、首に触れられたわけでもないのに、妙に息がしにくい。
考えるな。考えたら負ける。
「……ほどくの、上手ですね」
「結ぶ方もね」
「今のは褒めてません」
「分かっているよ」
分かっていてその顔。
ディアナは口を閉じた。ここで返すと、さらに負ける気がした。
部屋の外で、何か黒いものが揺れた。扉の隙間から、黒い尾が一度だけ見えた気がする。
「……今の」
「見なかったことにしよう」
「見ました」
「なら、忘れなさい」
「無理です」
ジークムントは面白そうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。不吉である。猫が関わる不吉は、だいたい可愛い顔をしてやってくる。
廊下へ出ると、ミロとカイルが待っていた。カイルがディアナの帽子を軽く押し下げる。
「顔、隠せ」
「さっきも言われた」
「殿下に?」
「言われたような、言われてないような」
カイルの視線が、ディアナの襟元へ落ちた。
「何された」
「襟元を直された」
「薬包か」
「そう。見えてた」
「ならいい。けど、次から自分で直せ」
「それはそう」
カイルはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、ジークムントを見る目は少しだけ鋭い。仲間の安全を確かめる目だ。ディアナは少しだけ息をつく。この二人を並べると、別の意味で疲れる。
「出るよ」
ジークムントが言った。
その一言で、空気が切り替わった。からかいも、襟元の布も、扉の隙間で揺れた黒い尾も、一度奥へしまわれる。残るのは地図、黒い合図札、甘い香、裏賭場。
ディアナは革手袋の左手を握った。
指輪は静かだ。
今日は、まだ。
旧訓練棟を出る時、扉の外に立つ騎士が一礼した。監視の目がある。許された外出で、許された任務で、許された範囲だけを歩く。それでも、外の風が頬に当たった瞬間、ディアナの足は少しだけ軽くなった。
南区へ向かう馬車は、王族用ではなかった。荷車に近い。外側は古く、車輪には泥がついている。御者台にはサディアスが座り、ジークムントは別口から動くらしい。ミロが「殿下、盗賊より準備いいんじゃねえの」とぼやき、カイルが「笑えない」と返した。
笑えない。本当に笑えない。
ディアナは荷車の後ろへ乗り込んだ。木箱が三つ、空の麻袋が二つ。香料組合へ運ぶ雑用品に見せかけた荷だ。バルドの薬包は襟元に収まっている。左手の指輪は革手袋の下。
少年のふりをした盗賊娘。第一王子の所有物。父たちの娘。
守りたい人の隣で、黙らずにいたい人間。
増えた顔の数だけ、動きにくくなると思っていた。
でも、違うのかもしれない。
顔が増えた分だけ、盗れる場所も増える。
「何笑ってんだ」
「笑ってた?」
「少し」
「しまう」
「いや、今のはいい」
カイルが言った。
ディアナは少しだけ目を瞬いた。
「いいの?」
「悪い顔だった」
「褒めてる?」
「かなり」
今日は雑な褒め方が多い。
でも、嫌いではない。
荷車が動き出す。旧訓練棟の壁がゆっくり遠ざかる。窓辺には、リュクスが腕を組んで立っていた。ガロもいる。バルドは別の馬車だ。
ノアは――いない。
いない、と思った。
荷車が角を曲がる直前、黒い尾が木箱の隙間から出た。
「……ノア」
黒猫は木箱の奥で丸くなっていた。堂々と密航している。
「降りて」
「にゃあ」
「今なら戻れる」
「にゃあ」
「鳴き方で押し切ろうとしない」
ミロが噴き出した。
「お嬢、猫にも殿下にも弱すぎだろ」
「並べないで」
「片方は猫だぞ」
「猫も性格が悪い」
ノアが振り返った。聞こえたらしい。
賢すぎる。
荷車は止まらない。ノアは降りない。
ジークムントの声が、荷車の外からした。
「連れていくしかないね」
「どこから聞いてるんですか!」
「近くから」
「近くから!」
黒に近い外套を羽織ったジークムントが、別の馬に乗って荷車の横へつけていた。夕方の光の中で、銀白色の髪が淡く光る。下町の荷車の横にいていい顔ではない。
目立つ。とても目立つ。
なのに、周囲の視線は不自然なほどこちらへ残らない。サディアスか、ジークムントか、どちらかが何かをしている。たぶん両方だ。この人たちは、表を歩きながら裏を作る。
「ジーク様」
「何かな」
「今からでも猫を旧訓練棟に戻せませんか」
「戻しても、また来るだろう」
「それはそう」
「分かっているなら、使いなさい」
「猫を?」
「猫に使われるよりはいい」
正論。
嫌な正論。
ノアは木箱の上へ移動し、尾を揺らした。完全に同行する気だ。ディアナは額を押さえる。
「追加報酬はないからね」
「にゃあ」
「鳴いてもだめ」
「もう負けかけているね、ディアナ」
「その台詞、気に入ってません?」
「気に入っているよ」
「最悪」
ジークムントは楽しそうに笑った。
それでも、荷車は進む。
王都の道は少しずつ狭くなり、南区の匂いが近づいてくる。香料問屋の乾いた匂い。酒場の湿った匂い。焼き菓子の甘さ。馬の汗。古い木箱。人の声。その奥に、ほんのわずかに、あの甘い香が混ざった気がした。
菓子でも花でもない。
鼻の奥に残って、喉の奥へ沈むような甘さ。
ディアナは帽子のつばを下げた。令嬢の顔はしまう。推しに動揺する顔もしまう。今日は少年の顔で、盗賊娘の目を使う。
荷車が南区の裏通りへ入る。
見えてきたのは、表向きは古い酒場だった。看板は傾き、扉の横には空の酒樽が積まれている。酔客が二人、笑いながら出ていった。けれど、その奥。裏口へ続く細い通路の先で、黒い杯の印が彫られた小札を持つ男が、誰かに目配せをした。
扉が、音もなく開く。
その隙間から、薄く甘い香が流れた。
ディアナは息を殺した。
盗るものは、まだ見えていない。
けれど、盗み場の匂いがした。




