第十六話 盗賊娘、賭場の香を盗む
盗み場には、匂いがある。
金の匂い。酒の匂い。嘘の匂い。そして今夜は、甘い香が混じっていた。
裏口の隙間から流れてきたそれを吸い込みかけ、ディアナは慌てて息を浅くした。菓子の甘さではない。花の甘さでもない。鼻の奥にひっかかって、喉の奥へ沈むような、妙に重たい甘さ。
バルドの薬包が、襟元でかすかに乾いた匂いを返す。
気休め。
そう言われたけれど、気休めがあるだけでずいぶん違う。今のディアナは下働きの少年で、盗賊娘で、第一王子の所有物で、猫に負けかけている人間である。肩書きが多い。非常に動きにくい。
「顔」
「しまってる」
「出てる。帽子、下げるぞ」
「見えない」
「見えすぎるよりいい」
カイルは荷箱の影から裏口を見た。声を落としてやり取りしている間にも、酒場の奥では人が笑っている。表の客の声は大きい。乱暴で、明るくて、ただの酒場に見える。けれど、その奥の扉だけは音が違った。開く時に空気が少し変わり、閉まる時に甘い香だけが残る。
黒い杯の印が彫られた小札を見せた男は、すでに中へ消えていた。扉の前に立つ用心棒は、腕を組んでいる。体格がいい。腰には短い棍棒。目は客を見ているようで、指先を見ていた。札を持っているか。金を持っているか。嘘を持っているか。見ているのは、たぶんその三つだ。
「お嬢」
背後から、ミロが荷箱を担いだまま囁いた。
「いけそう?」
「いけそうに見える?」
「楽しそうには見える」
「しまってる」
「出てるって」
出ていない。
出ていないことにする。
ディアナは腰紐に挟んだ小さな黒札へ指を触れた。ジークムントが渡したものだ。ノアが持ってきた合図札そのものではない。刻印を写し、汚れを足し、角を少し削って、前から使われていたように見せている。
偽物にも礼儀がある。雑に作ればすぐにばれる。丁寧に作れば、本物より本物らしくなることもある。
ジークムントが言ったわけではない。でも、言いそうではある。腹が立つことに、だいたい正しい。
「下働きは荷を入れる。客は札を見せる。俺たちは荷の方から入る」
カイルが短く言う。
「分かってる」
「奥へ行きすぎるな」
「父さんにも言われた」
「もう一回言う。奥へ行きすぎるな」
「信用が重い」
「信用してるから言ってる」
父と同じことを言われた。
胸の奥が少しだけ温かくなる。でも、今はしまう。今あたためるものではない。今使うのは、足と目と指先だ。
ディアナは荷箱の片側を持ち上げた。中身は軽い。空の瓶と布切れ、古い香料袋。運び込むための見せ荷だ。ミロが反対側を持つ。カイルは少し離れて、別の荷運び人のふりをした。
荷車の影では、ノアが黒い尾を揺らしている。
「ノア、来ない」
「にゃあ」
「返事が信用できない」
その横を、黒に近い外套の影がすっと通った。ジークムントだ。酒場の正面へ回るのかと思っていたが、彼は裏口から少し離れた壁際に立ち、こちらを見た。
南区の薄暗い路地に立っているのに、どうしてこの人は妙に浮かないのか。顔は浮いている。とても浮いている。だが、空気だけはなじんでいる。
目立つのに、捕まえられない。
そういうものに見える。
ジークムントの視線が、ディアナの左手へ落ちた。革手袋の下の指輪は静かだ。冷たくもない。菫色にもならない。ただ、そこにある。
ジークムントは何も言わず、指先を少しだけ動かした。
行け、という合図。
命令が短い。顔がいい。性格が悪い。今はどれも見なかったことにする。
ディアナは荷箱を持ち直し、裏口へ向かった。用心棒の視線がこちらへ向く。帽子のつばの下で、目を伏せる。堂々としすぎてもいけない。怯えすぎてもいけない。下働きの少年は、仕事を急いでいる。目立ちたくない。だが、ここに来ること自体には慣れている。
そういう顔を作る。
「荷か」
用心棒が言った。
「奥の香袋です」
ミロが答えた。声がいつもより少し低い。軽いのに、軽すぎない。裏の荷運び人の声だ。
用心棒の目が、ミロからディアナへ移る。
「そっちは」
「新人」
「喋れるのか」
「喋ると余計なこと言うんで」
ひどい。
だが、黙っている方が下働きらしい。ディアナは荷箱を抱えたまま、少しだけ頭を下げた。帽子のつばが影を落とす。
用心棒が鼻を鳴らした。
「札」
「荷にも要るんすか」
「今日は要る」
ミロの笑いが少しだけ薄くなった。
今日は要る。
つまり、いつもと違う。あるいは、今夜は警戒している。
ディアナは荷箱の角を握り直した。指先が勝手に動きそうになる。札を出すのはミロの役目。自分が先に動けば、余計な癖が出る。
足より先に、指が言う。
父さんに聞かれたら怒られる。
ミロが腰紐から黒い小札を出した。用心棒はそれを受け取り、親指で表面をこすった。刻印を見るのではなく、汚れの付き方を見ている。
嫌な見方だ。
ディアナは息を浅くする。甘い香がまた流れてくる。奥の扉が開いたのだ。笑い声。硬貨の音。何かを煽る声。喉の奥が少し重くなる。
薬包。
気休め。
働いて。今だけでいいから働いて。
用心棒が札を返した。
「入れ」
通った。
ミロが軽く顎を引く。ディアナは荷箱を持って扉の内側へ入った。
空気が変わった。
表の酒場より狭い通路。壁には古い酒樽。床には油の染み。奥へ進むほど、酒の匂いより甘い香の方が濃くなる。鼻の奥がじわりと痺れるようで、ディアナは奥歯を噛んだ。
これは、楽しむための香ではない。
人の判断を、ほんの少し鈍らせるための匂いだ。
たぶん、としか言えない。けれど、盗賊の勘が嫌がっている。賭場で一番信じてはいけないのは、自分だけは冷静だと思うことだ。そういう人間から負ける。父が昔、酒場の隅で言っていた。
父の教えが、今とても役に立っている。
教育方針としては、かなり問題がある。
「右」
ミロが小さく言った。
右の壁に、細い階段がある。客用ではない。荷運び用の階段だ。そこから地下へ降りる。下へ行くほど、音が増えた。硬貨が卓に落ちる音。札が擦れる音。笑い声。舌打ち。誰かが椅子を蹴る音。そして、甘い香。
地下の扉の前には、もう一人、見張りがいた。こちらは細身で、目が鋭い。腰に鍵束。首に黒い紐。その先に、小さな金属札が下がっている。
黒い杯の印。
ただの客札ではない。
鍵印だ。
ディアナの目が、勝手にそこへ吸い寄せられる。
欲しい。
今、ものすごく欲しい。
だが、今日盗るものは黒い合図札の控えと帳簿の写しの所在。鍵印は命令にない。命令にないけれど、目の前にぶら下がっている。あれがあれば奥の帳簿部屋へ行けるかもしれない。
非常によくない。
欲しい。
さらによくない。
「顔」
ミロが荷箱の向こうから囁いた。
「しまってる」
「今、獲物を見た顔してた」
「してない」
「してた」
ミロは笑っていない。珍しく、仕事の顔だった。
ディアナは奥歯を噛み直した。甘い香のせいではない。自分の悪い癖のせいだ。
見張りが扉を開けた。熱気が来た。
地下の賭場は、思っていたより広かった。低い天井。梁から吊るされたランプ。丸卓がいくつも並び、男も女も、商人も荒くれ者も、顔を隠した貴族らしき者もいる。卓の中央には札と硬貨。壁際には酒瓶。奥には赤い布を垂らした扉。その扉の前に、黒い札を束ねた箱があった。
控え。たぶん、あれだ。
ディアナの指先がぴくりと動いた。隣で、カイルの視線も一瞬だけそこへ流れる。
近い。盗れる。だが近いものほど、罠のことがある。
ディアナは荷箱を抱えたまま、下働きの少年の顔で視線を落とした。見ていないふりをして、床を見る。床の傷、酒の染み、卓の足、人の靴先。賭場では顔より足がしゃべる。勝っている客は足が広い。負けている客はつま先が内へ入る。見張りは足音を殺す。帳簿を持つ人間は、重いものを抱える時の歩き方をする。
奥の赤い布の扉から、ひとり出てきた。
細い男。袖口に黒い杯の刺繍。手には薄い板状の帳面。厚い帳簿ではない。控えか、写しだ。
いた。
ディアナは目を伏せたまま、息を殺す。
盗るものが、見えた。
その瞬間、賭場の反対側で、椅子が大きく倒れた。
「いかさまだ!」
男の怒鳴り声が響いた。
場が揺れる。客が振り返る。見張りが動く。細い男が帳面を胸に抱え直す。ディアナの身体が、先に動きかけた。
だが、その足元を、黒鉄色の鎖が音もなく横切った。
ランプの光を拾い、鈍い銀を返しながら、鎖は床すれすれを走る。倒れた椅子の脚に絡み、飛び出しかけた客の足を止め、同時にディアナの前の床を細く区切った。
行くな。
声はなかった。
でも、そう言われたのが分かった。
ディアナは歯を食いしばる。悔しい。ものすごく悔しい。けれど、その鎖がなければ、今、飛び出していた。
ジークムントはどこにいる。見えない。けれど、いる。客の中か、壁際か、上の通路か。どこからでも、こちらの足を止められる位置にいる。
最悪だ。
最悪だけど、助かった。
言いたくない。絶対に言いたくない。
「荷を置け!」
見張りが怒鳴った。
ミロがすぐに荷箱を下ろす。ディアナもそれに合わせた。下働きの少年として、騒ぎに怯えたふりをする。顔を下げる。肩を少し丸める。その陰で、視線だけを動かす。
細い男は帳面を抱えたまま、赤い布の扉へ戻ろうとしていた。行かせたら遠くなる。でも、今追えば怪しまれる。なら、盗るのは帳面そのものではない。
所在。
写しの行き先。
男の靴には、薄い白い粉がついていた。香料袋の粉。奥の部屋だけではない。あの男は別の場所にも出入りしている。粉のついた靴で、賭場の奥とどこかを往復している。
赤い布の扉の向こう。または、さらに奥。
ディアナは床を見た。同じ白い粉が、壁際の細い通路へ続いている。客席の裏、酒瓶棚の横、黒い布で半分隠された小さな扉。
あそこだ。
盗るものは、見えた。
帳簿そのものではない。帳簿が隠れている場所へ続く、白い粉の道。
ディアナはゆっくり息を吸い、すぐに後悔した。甘い香が、さっきより濃い。頭の奥が、少しだけ重くなる。
まだ大丈夫。まだ走れる。まだ盗れる。
そう思った瞬間、足元の鎖が、ほんのわずかに震えた。
急ぐな。
また、声のない命令。
腹が立つ。
でも、今回は従う。今は、盗る前に見る。
ディアナは下働きの少年の顔で荷箱を押し、怯えたふりをしながら、一歩だけ壁際へ寄った。一歩。それだけで、白い粉の道がはっきり見えた。
盗み場は、匂いだけでは終わらない。道も落ちている。
ディアナは帽子の下で、ほんの少しだけ笑った。
「戻れ」
カイルが低く言った。
「まだ」
「ディアナ」
「見えた」
声に出したのは、それだけ。
カイルが一瞬だけ目を細める。怒る顔ではない。理解した顔だ。ミロも荷箱の持ち手を握り直した。この二人は、説明が少なくて済む。
盗賊団で育った人間のありがたさである。
非常に教育方針は悪い。
だが、ありがたい。
賭場の騒ぎは大きくなっていた。いかさまだと叫んだ男が、卓の上の札を掴もうとする。見張りが腕を伸ばす。その手を、黒鉄色の鎖が下からすくった。巻きつくのではない。触れる寸前で、動きを変えさせる。棍棒を抜きかけた別の男の手首にも、別の鎖が走った。
鎖は何本もあった。
床、卓の脚、椅子の下、壁際の影。
光を拾うたび、黒鉄色の輪が鈍く銀を返す。きれいではない。神聖でもない。逃げ道を、静かに消していく色だった。
ジークムントの鎖だ。
やっぱり、この人は逃げ道の消し方がうまい。
騒ぎを止めきらない。潰しもしない。ただ、必要な分だけ動かし、必要な分だけ止めている。賭場全体が大きく揺れているのに、こちらへ向く視線だけが不自然に流れてこない。
今なら動ける。
今しかない。
ディアナは荷箱の中の空瓶をひとつ、わざと転がした。
「あっ」
下働きの少年らしく、慌てた声を出す。瓶は床を転がり、壁際の黒い布の近くで止まった。ディアナは追いかけるふりをして、腰を落とす。カイルが荷箱を立て直し、ミロが見張りの視線を遮る。
一瞬だけ、死角ができた。
ディアナの指先が、黒い布の隙間へ滑り込む。
紙の端。
細い紐。
小さな木札。
迷わず、木札だけを抜く。
帳簿の所在札。
文字は崩れているが、白い粉がついている。これでいい。帳簿そのものではない。だが、帳簿の部屋へ出入りする者が使う札だ。
命じられたものではない。でも、必要なものだ。
ジークムントが、たぶん、あの嫌な顔をする。
腹が立つ。
少しだけ楽しい。
ディアナは瓶を拾い、立ち上がる。左手の革手袋の下で、指輪はまだ静かだった。
「おい、新人!」
背後から見張りの声が飛んだ。心臓が跳ねた。
顔はしまう。顔はしまう。
「瓶、割るな。香料の空き瓶でも金は取る」
そっち。そっちだった。
ディアナは小さく頭を下げる。喋ると余計なことを言う新人、という設定がここで役に立った。ミロ、ひどいけど正しい。
その時、赤い布の向こうで何かが倒れた。
乾いた音。次いで、ぱきん、と小さく割れる音。甘い香が、一気に濃くなった。
空気が重くなる。賭場の客たちの声が、一拍遅れて大きくなった。笑い声。怒鳴り声。妙に高い声。誰かが卓を叩く。誰かが笑いながら泣いている。
小瓶が割れた。たぶん、香の瓶だ。
ディアナは袖で口元を押さえた。遅い。ほんの少し吸った。たぶん、少しだけ。そう思いたい。
舌の奥が甘く痺れた。頭の奥が、熱いような、重いような感覚に変わる。
まずい。
これは、まずい。
足元の黒鉄色の鎖が跳ねた。
今度は、止めるためではなかった。
鎖は床を走り、ディアナの足元に転がっていた瓶の破片を弾く。もう一本が、客席の椅子をずらして道を作る。さらに一本が、壁際の小さな扉の取っ手に絡み、そこから出ようとしていた男の手を押し戻した。
逃げ道ができた。
逃げる道ではない。
盗ったものを持って戻る道だ。
「ミロ」
「分かってる」
ミロが荷箱を持ち上げる。カイルが一歩前に出て、ディアナの肩を押した。
「戻るぞ」
「まだ黒札の控え」
「もう取った」
カイルが、荷箱の内側を軽く叩いた。
いつの間に。
黒い札の束から抜かれた控えが、薄い布の下に滑り込んでいる。
さすが。
言いたくないけど、さすが。
「帳簿の所在」
「取ったんだろ」
「取った」
「なら戻る」
その通り。
非常にその通り。
ディアナはうなずき、荷箱を持ち直した。指先が少しだけ熱い。口の中に甘い香が残っている。吐き出したい。けれど、ここで咳き込む方が目立つ。
下働きの少年は、怯えて、慌てて、荷を持って戻る。盗賊娘は、左の袖の内側に木札を隠す。
どちらも同時にやる。
できる。
できるはず。
「お嬢、顔」
「しまってる」
「今、勝った顔してる」
「しまう」
しまうけれど、少しだけ難しい。
盗った。
命じられた黒札の控え。帳簿の写しの所在。それから、甘い香の小瓶が割れた瞬間の匂い。
匂いまで盗む予定はなかった。盗みたくもなかった。
だが、手ぶらではない。
黒鉄色の鎖が、最後に一度だけ床を叩いた。音は小さい。けれど、ディアナには分かった。
急げ。
はいはい。分かっていますとも。
ディアナは帽子のつばを下げ、荷箱の陰に顔を隠した。甘い香がまだ喉の奥に残っている。頭は少し重い。でも足は動く。足は、まだ言うことを聞く。だから今のうちに、盗み場から抜ける。
背後で、賭場の笑い声がまた大きくなった。甘い香が追いかけてくる。
ディアナは息を止めた。
それでも、完全には逃げきれなかった。




