表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/39

第十七話 盗賊娘、熱を出す


 甘い香は、喉に残ったままだった。


 酒場の裏口を抜けて夜気を吸い込んだ瞬間、ディアナは少しだけましになると思った。思いたかった。けれど冷たい空気は鼻の奥を通り過ぎただけで、舌の奥に残った甘さまでは消してくれない。


 逃げたはずなのに、まだ追いかけられている。


 最悪だ。


「お嬢、歩ける?」


 ミロの声が、いつもより少し近い。


「歩ける」

「顔は?」

「しまってる」

「しまってないな」


 しまっている。しまっていることにしたい。


 ディアナは帽子のつばを下げたまま、荷箱の端を握り直した。黒い合図札の控えは荷箱の布の下。帳簿の所在札は袖の内側。盗った。ちゃんと盗った。だから足を止めてはいけない。足は動いている。けれど、石畳がいつもより柔らかく、踏みしめるたびに身体の芯が半歩遅れてついてくる気がした。


「ディアナ」


 カイルが横から腕を伸ばした。


「触らなくていい」

「触る前にふらつくな」

「ふらついてない」

「今、壁に謝りかけた」

「壁が近かっただけ」


 壁は悪くない。悪いのは甘い香だ。あと、賭場で香の瓶を割った誰か。それから、こういう場所へ盗みに行かせた第一王子。


 路地の奥で、黒鉄色の鎖が音もなくほどけた。石畳の上で一度だけ鈍い銀を返し、影の中へ沈むように消えていく。その先に、ジークムントが立っていた。銀白色の髪が、南区の煤けた灯りを受けて淡く浮く。深く沈んだ青灰色の瞳が、ディアナの帽子の影をまっすぐ見ていた。


 顔がいい。今それは本当にいらない。


「盗れたかな」

「盗れました」


 答えた声が、思ったより素直に出た。違う。もっと皮肉を混ぜるつもりだった。賭場の香を吸ったせいだ。たぶん。そういうことにする。


 ジークムントは少しだけ目を細めた。


「それはよかった」

「よくないです。香が、思ったより濃くて」

「吸ったね」

「少しだけです」

「少しだけ吸った人間は、だいたいそう言う」


 嫌な正論。


 ディアナは返そうとして、舌の奥が甘く痺れる感覚に眉を寄せた。言葉が一拍遅れる。その一拍が、自分のものではないみたいで気持ち悪い。


 カイルが半歩前へ出た。


「殿下。バルドを呼ぶ」

「呼んでいるよ」

「なら旧訓練棟へ戻す」

「戻さない」


 ジークムントの返答は短かった。


 路地の空気が、賭場とは別の形で張る。カイルの目が鋭くなり、ミロも荷箱を置きかけた手を止めた。


「戻さないって、どこへ」

「離宮」

「離宮」


 復唱した声が、少しぼんやりしている。


 離宮。ジークムントの住まいだ。王城の華やかな中心から少し離れた、第一王子のための場所。逃げ場としては便利で、連れて行かれる側としては落ち着かない。


「旧訓練棟には人が多い。今の君を戻せば、リュクスが騒ぐ」

「父さんは騒ぎません」

「騒ぐよ」

「騒ぎますね」


 認めたくないが、騒ぐ。想像できすぎる。


「ディアナ様」


 路地の入口に、サディアスが馬車を寄せていた。いつの間にいたのか、黒い外套の裾を乱さずに降りてくる。


「こちらへ。バルド殿には、別路で離宮へ向かっていただいております」

「手配が早い」

「殿下のご指示です」

「でしょうね」


 でしょうね、が口から出た。しまった。


 ディアナは口を押さえる。遅い。ジークムントが笑った。薄く、楽しそうに。


「香の影響かな」

「違います。元からです」

「それはそれで問題だね」

「今は問題を増やさないでください」


 言い返せた。まだ大丈夫。そう思った途端、足元がふわりと浮いた気がした。実際には浮いていない。石畳はそこにある。なのに、身体だけが少し遅れている。


 カイルの手が腕を掴んだ。


「ディアナ」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」

「盗った」

「それは知ってる」

「じゃあ、大丈夫」


 理屈が通っていない。


 自分でも分かる。だが、今のディアナにとっては、盗ったことだけが足場だった。黒札の控え。帳簿の所在札。白い粉の道。甘い香の正体に近づく何か。手ぶらではない。それが崩れたら、膝まで崩れそうだった。


 ジークムントが近づいてくる気配がした。近い。近いのはよくない。顔がいいから。声がいいから。今の頭では処理が追いつかないから。


 逃げようとして、逃げる足が少し遅れた。


 ジークムントは腕を伸ばさなかった。代わりに、黒鉄色の鎖が馬車の段差へ細く渡る。手すりのように、足場のように、逃げ道のように見えて、実際には逃がさない形で。


「乗れるね」

「乗れます」

「では、乗りなさい」

「命令が雑」

「丁寧にされたい?」

「今の私にそういう声を使わないでください」


 言った。


 言ってしまった。


 カイルが一瞬こちらを見た。ミロが口元を押さえた。サディアスは表情を変えない。変えないでくれるのが、逆にありがたくない。


 ジークムントだけが、楽しそうに目を細める。


「そういう声」

「忘れてください」

「忘れるのは得意ではないんだ」

「知ってます」


 記憶を視る王子に、忘れろと言う方が無理だった。完全に失言である。甘い香のせいだ。絶対にそうだ。そうでなければ困る。


 ディアナは鎖の足場を踏み、馬車へ乗り込んだ。足元が少し頼りない。けれど、黒鉄色の鎖は揺れない。腹が立つくらい安定している。


 馬車の中は、外より静かだった。


 厚い布張りの座席。薬草の匂いがする小さな香袋。水差し。薄い毛布。用意がいい。用意がよすぎる。


 座った瞬間、身体が思ったより重いことに気づいた。背中が座席へ沈む。帽子の下で、額に熱が集まっていく。喉の奥に残る甘さが、馬車の静けさの中でかえってはっきりした。


 まずい。


 これは、思ったよりまずい。


 カイルが馬車へ乗り込もうとしたところで、ジークムントが外から言った。


「君は別の馬車だ」

「は?」

「荷と証拠を旧訓練棟へ。リュクスたちに、ディアナは離宮で診せると伝えなさい」

「俺が残る」

「残らない」

「殿下」


 カイルの声が低くなる。


 ディアナは顔を上げた。止めなければ、と思った。だが、頭の奥が熱い。言葉を選ぶのに時間がかかる。


 選んでいる間に、ジークムントが静かに言った。


「彼女を盗み場から出すために、君たちは十分動いた。今は、証拠を無事に戻す方がいい」

「……」

「それに、今のディアナは、君たちの顔を見れば無理をする」


 腹が立つ。当たっているから、余計に腹が立つ。


 カイルもそれが分かったのだろう。唇を引き結んだまま、すぐには言い返さなかった。


 ディアナは袖の内側から木札を抜き、カイルへ押しつけた。


「バルドに。白い粉も見て」

「お前は黙って寝てろ」

「まだ寝ない」

「寝ろ」

「命令が多い」

「多くもなる」


 カイルの手が木札を受け取る。その指先が、ほんの少しだけ強張っていた。怒っている。心配している。どちらも分かる。分かるから、ディアナは軽口で返そうとした。


 でも、うまく出なかった。


「大丈夫」


 その言葉だけが落ちた。


 カイルの顔が、少しだけ歪む。言い方を間違えた気がする。大丈夫ではない時ほど、人は大丈夫と言う。さっきジークムントに似たようなことを言われた。嫌なことに、正しい。


 ミロが荷箱を担ぎ直した。


「お嬢、寝てろ。リュクスさんには俺がうまく言っとく」

「うまく言える?」

「無理」

「正直」

「でも、ちょっとは柔らかくする」


 それなら任せられる。たぶん。


 馬車の車輪の陰から顔を出したノアは、サディアスに抱えられて別の馬車へ運ばれていった。返事が信用できない猫への対応が、妙に手慣れている。


 ディアナが瞬きをした時には、カイルとミロの姿が馬車の外へ離れていた。サディアスが扉を閉める。音が遠い。車輪が動き出す。石畳の揺れが、身体の奥へ響く。


 ジークムントは向かいに座っていた。


 いつ乗った。


 分からない。


 非常によくない。


「水を飲みなさい」


 差し出された杯を、ディアナは見た。水。たぶん水。毒ではない。ジークムントが今ここで毒を盛る意味はない。ないはずだ。


 手を伸ばす。指先が少し震えた。ジークムントの手が杯の底を支えた。触れない。けれど、逃げない位置にある。こういう距離の取り方がうまい。ずるい。


 ディアナは水を少しだけ飲んだ。冷たい。喉を通る冷たさが、一瞬だけ甘さを薄める。


「……おいしい」

「水だよ」

「水がおいしい時は、だいたい駄目です」

「その判断は正しい」


 褒められた気がする。褒められていない気もする。どちらでもいい。今は、背中が重い。帽子が邪魔だ。息が少し熱い。


 ディアナは帽子のつばに手をかけた。少年の顔を保つ必要は、もうない。髪を押し込んでいた布が緩み、額にかかる。


 ジークムントが見ている。


 見ないでほしい時ほど、この人は見ている。


「見ないでください」

「具合の悪い人間を見るのも、管理者の仕事だよ」

「管理者」

「飼い主と言った方がいい?」

「もっと具合が悪くなります」


 ジークムントが笑った。低く、短く。


 その声が、胸の奥に落ちた。甘い香のせいで、いつもなら踏みとどまれるところが少しだけ緩む。


 この人の声で安心してしまうのは、まずい。


 分かっているのに、甘い香で緩んだ胸の奥は、いつものように言うことを聞かなかった。


 だってこの人は、ディアナを捕まえた人だ。父たちを旧訓練棟へ閉じ込めている人だ。偽オールトの指輪をはめた人だ。推しで、最悪で、顔がよくて、逃げ道を消すのがうまい人だ。


 安心してはいけない。いけないのに。


「ディアナ」


 名前を呼ばれた。その声が、さっきより少しだけ近い。


「眠い?」

「眠くないです」

「目が半分閉じている」

「考えています」

「何を」

「ジーク様の声が敵に回っている件について」

「私の声が?」

「安心するので。非常によくないです」


 言った。


 言ってしまった。


 馬車の中が、少しだけ静かになった。


 ディアナは遅れて、自分の言葉を理解した。理解した瞬間、熱とは別のものが顔に集まる。


「今のは、香です」

「そう」

「香のせいです」

「では、そういうことにしておこうか」


 しておこうか、ではない。忘れてください、である。


 だが、言い直す前に馬車が角を曲がった。身体が横へ傾く。踏ん張ろうとした足が遅れて、肩が座席からずれた。


 黒鉄色の鎖が、床からするりと伸びる。ディアナの腰を縛るのではなく、座席の端を区切るように回り、落ちない位置で止めた。触れない。けれど、逃がさない。


 鎖で、できるのだ。


 あの賭場でも。今も。


 ジークムントは腕を伸ばさない。それでいいはずなのに、胸の奥が少しだけ変な形に沈んだ。

 欲しかったわけではない。そんなはずはない。ただ、守られているのに届かないものが、熱の中で妙に残った。


 たぶん、熱のせいだ。全部、熱のせいにしておく。


「……ジーク様」

「うん」

「盗れました」

「さっき聞いたよ」

「でも、言っておきたくて」

「なぜ?」

「忘れたら困るから」


 自分で言って、少しだけ違うと思った。


 忘れたら困るのは、盗ったことではない。

 役に立てたことだ。手ぶらではなかったことだ。


 捕まって、指輪をはめられて、第一王子のものとして飾られて、使われているだけではないと、自分で思えることだ。


 そこまで言葉にする前に、まぶたが重くなった。


 ジークムントの声が、遠くなる。


「忘れないよ」


 ずるい。

 その声で言うのは、ずるい。


 ディアナはそう思った。思っただけで、口には出せなかった。


 馬車の揺れが、甘い香の残りと混ざる。熱が額に集まる。左手の革手袋の下で、指輪がかすかに存在を主張している気がした。

 冷たくはない。ただ、左手の中指だけが、心臓に少し近くなったような気がする。


 そんなはずはない。


 そう思うところまでは、覚えている。


 その先は、少し曖昧だった。


 離宮へ着いたことは、なんとなく分かった。


 馬車の扉が開いた時、夜気よりも先に、冷えた石と乾いた薬草の匂いが入ってきた。王城の華やかな匂いとは違う。ジークムントの住まいなのに、余計な人の気配が少ない。静かで、薄くて、足音がよく響く。


 サディアスの声がした。


「バルド殿は、すでに中へ」

「部屋は」

「整えております」


 短いやり取り。


 それから、足音。扉。灯り。白い布。薄い寝台。


 ディアナは自分で歩いたのか、支えられたのか分からなかった。黒鉄色の鎖が足元にあった気がする。手すりのように、影のように、逃げ道を消すように。


 気づけば、寝台の端に座っていた。


 革手袋を外される。


「自分で」

「できてねえよ」


 低い声がした。


 バルドだ。


 見慣れた顔を見た瞬間、少しだけ息が抜けた。盗賊団の顔を見ると無理をする、と言われたばかりなのに、安心もする。困ったことに、どちらも本当だった。


 バルドは眉間に皺を寄せ、ディアナの手首を取った。


「脈が速い。顔も熱い。どんだけ吸った」

「少し」

「少しって言う奴は信用しねえ」

「今日それ、二回目」

「なら二回とも正しい」


 嫌な正論が増えた。


 バルドは薬包を開き、乾いた葉と小瓶を取り出した。甘さのない、苦い匂いが部屋に広がる。鼻の奥に残った甘い香が、少しだけ押し返された。


「倒す薬じゃねえ。判断を鈍らせる香だ。熱が出る。気が大きくなる奴もいるし、素直になる奴もいる」

「素直」

「今のお前だ」


 違う。違わない気もする。非常に困る。


 ジークムントが寝台のそばに立っていた。青灰色の瞳が、外された革手袋と、ディアナの左手へ落ちる。白金色の輪は、まだ静かだ。冷たくはない。


「聞いたか、殿下」


 バルドが薬を混ぜながら言った。


「今のディアナが妙なことを言っても、本気にするなよ」

「それは残念だね」

「本気にするなよ」

「覚えておこう」

「返事が信用できねえな」


 バルドが言った。完全に同意である。


 ディアナは寝台の上で毛布を握りしめた。眠い。だが、寝たくない。寝たら何かを忘れそうだ。盗ったもの。香の匂い。白い粉。ジークムントの声に安心したこと。


 最後は忘れたい。


 でも、忘れたくない気もする。


 困る。


「薬、飲めるか」

「苦い?」

「苦い」

「正直」

「甘いのはもう十分だろ」


 それはそう。


 ディアナは小さな杯を受け取った。指先が震える。こぼしそうになったところを、ジークムントの手が杯の底に添えられた。


 触れない。


 支えるだけ。


 今のディアナには、それがいちばん逃げにくかった。


「飲みなさい」

「命令が多い」

「飲んだら、少し静かにするよ」

「本当ですか」

「努力はする」

「信用が薄い」


 それでも飲んだ。


 苦い。


 舌の奥に残っていた甘さが、一瞬で壊れる。顔をしかめると、バルドが満足そうにうなずいた。


「よし。寝ろ」

「まだ報告」

「報告は木札と荷箱で足りる。お前は寝ろ」

「でも」

「ディアナ」


 ジークムントの声が落ちた。低すぎず、甘すぎず、けれど逆らいにくい声。


「仕事は終わった。君は盗った。だから今は休みなさい」

「……言い方が、ずるい」

「君が聞く言い方を選んでいるからね」

「最悪」

「知っているよ」


 知っているなら直してほしい。そう言いたかった。言えなかった。


 まぶたが重い。額が熱い。身体の奥が、ゆっくり毛布に沈んでいく。バルドが濡れ布を額に乗せる。冷たい。冷たいのに、すぐぬるくなる。


 ジークムントが離れようとする気配だけは、目を閉じていても分かった。衣擦れの音でも、足音でもない。ただ、そばにあった声の温度が遠ざかる。


 それが嫌だと思った時には、ディアナの指先が勝手に動いていた。


 離れかけた袖を掴む。


 掴んだ後で、自分が何をしたのか分かった。


 まずい。

 非常にまずい。


 ジークムントの足が止まった。


「ディアナ」

「……今のは」

「香かな」

「香です」

「うん」


 笑っている。たぶん、声が少しだけ笑っている。


 ディアナは離そうとした。けれど、指先に力が入らない。むしろ、布をもう少し握ってしまう。離したいのに、指先だけが言うことを聞かなかった。


「行かないで、という意味かな」

「違います」

「では?」

「声が」


 言葉が、熱の底から浮く。止めなければ。でも、止まらない。


「声が聞こえるところに、いてください」


 言った。


 今度こそ、言った。


 部屋が静かになる。


 バルドが薬瓶の蓋を閉める音だけが、やけにはっきり聞こえた。


 ディアナは毛布の中で目を閉じた。閉じたのに、恥ずかしさは消えない。熱のせいだ。香のせいだ。薬のせいでもいい。何でもいいから、自分のせいではないことにしたい。


 ジークムントは、すぐには答えなかった。


 やがて、寝台のそばの椅子が小さく鳴る。


「分かった」


 短い声。


 いつものようにからかわれなかった。

 それが少しだけ、胸の奥に落ちた。


「眠りなさい、ディアナ」

「……盗れました」

「うん」

「手ぶらじゃ、ないです」

「分かっている」

「忘れないで」

「忘れない」


 その声が、今度は遠くならなかった。近くにある。それだけで、まぶたの重さに負けた。


 眠る直前、左手の中指が少しだけ熱い気がした。けれど、それはきっと、熱のせいだ。


 ディアナはそう決めて、意識を手放した。


 部屋は、静かだった。


 濡れ布を替える音。バルドが薬包をまとめる音。遠くの廊下を、サディアスが誰かに短く指示する声。離宮の窓の外では、夜風が細い枝を揺らしている。


 寝台の上で、ディアナは眠っている。


 少年の帽子は外され、髪は枕の上にほどけていた。顔色はまだ熱を帯びている。呼吸は浅いが、さっきよりは落ち着いている。


 ジークムントは寝台のそばの椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。


 バルドが低く言う。


「しばらく寝かせろ。熱が下がるまでは、余計な刺激を入れるな」

「余計な刺激」

「あんたの声とか顔とかだよ」

「それは困ったね」

「困ってるのはこっちだ」


 バルドはそう吐き捨て、薬箱を閉めた。

 その時、寝台の上の左手が、毛布の端から少しだけこぼれた。


 白金色の輪が、燭台の火を受ける。


 最初は、ただの反射に見えた。けれど、違った。


 白金色の輪に、ほんの薄く赤が差していた。


 燭台の反射ではない。


 熱を持った血のような、ごく淡い赤。


 ジークムントは、笑わなかった。白金色の輪を見たまま、ゆっくりと指先を伸ばす。触れる寸前で、止めた。


 ディアナは眠っている。


 何も知らずに、ただ浅く息をしている。


 赤は、すぐには消えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ