第十八話 盗賊娘、魔獣からも盗む
熱は引いた。
薬の苦さも、甘い香の残りも、どうにか消えた。消えていないものもある気がしたが、それは考えないことにした。考えたら負けるものは、世の中に多い。だから今のディアナは、本人判断では完全復活である。
「走れる」
「走るな」
旧訓練棟の隅で、バルドが薬箱を閉めながら言った。
「走れるって言った」
「走っていいとは言ってねえ」
「盗賊に対する嫌がらせ?」
「病み上がりに対する常識だ」
常識。盗賊団に一番似合わない言葉が出た。
旧訓練棟には朝の光が入っている。高い窓から落ちる白い光が、傷だらけの床板と、古い石壁に残る剣掛けの跡を細く照らしていた。紙と薬草と埃の匂い。外には監視の騎士の影。中には、いつも通り機嫌の悪い父と、だいたいいつも通り騒がしい盗賊団。離宮の静けさより、こっちの方がずっと息がしやすい。
「足音。三人。ひとりは殿下。ひとりはサディアス。あと、騎士がひとり」
ガロが扉の方を見た。
「ほら来た」
ミロが笑う。
笑いごとではない。
ディアナは上着の袖を直した。左手中指の白金色の輪は、布越しでも存在感がある。昨日、熱で少しおかしくなっていた間のことは、深く考えない。ジークムントの声がどうとか、声が聞こえるところにいてほしいとか、そういう類の記憶は全部、香と熱と薬のせいにする。
全部だ。
扉が開いた。入ってきたジークムントは、黒い騎士服だった。銀糸の飾りは控えめで、腰には剣。朝の光を受けた銀白色の髪と、深く沈んだ青灰色の瞳が、旧訓練棟の埃っぽさから明らかに浮いている。
顔がいい。
だが今日は、寝台の横で見た時ほどの破壊力ではない。たぶん。
「具合は」
「動けます」
「バルドは?」
「走るなとは言った」
バルドが答えた。ジークムントはディアナを見る。
「走れるけれど、走ってはいけないそうだね」
「盗賊に対する嫌がらせが広まっています」
「今日はちょうどいい」
「ちょうどいい?」
嫌な言い方だ。
リュクスが壁際で腕を組んだ。機嫌は悪い。だいぶ悪い。昨日、ディアナが離宮へ運ばれた件をまだ根に持っている顔である。
「殿下。今度は何をさせる気だ」
「警衛騎士団の仕事だよ」
その言葉だけで、旧訓練棟の空気が少し変わった。
「王都南西の外れで、荷置き場に魔獣が出た。騎士団は外側を押さえているけれど、下手に正面から入れば荷を潰される。魔獣の首輪には、甘い香を仕込んだ袋がついている可能性が高い」
「魔獣にまで香かよ」
ミロが顔をしかめ、バルドの目つきが険しくなる。
「人間を鈍らせる香を、魔獣に吸わせたらどうなると思う」
「荒れる」
「だろうな」
ジークムントは短く頷いた。
「魔獣を退治し、香袋を奪い、荷の印を確認する。騎士が表を押さえる。君たちは内側へ入る」
「つまり、魔獣相手に盗めって?」
リュクスが低く笑う。
「そうだね」
ジークムントはあっさり言った。騎士なら、制圧とか、証拠確保とか、そういう言い方をするはずだ。けれどこの人は、こちらが一番動く言葉を選んでいる。
嫌になるほど、分かっている。
「それと、君たちがどこまで動けるか見せてもらう」
隠しもしなかった。リュクスの笑みが薄くなる。
「測られる筋合いはねえな」
「使うなら、どこまで任せられるか知っておきたい」
「殿下の駒になった覚えはねえ」
「ディアナはここにいる」
短い一言だった。
リュクスの顔から、笑みが消える。ディアナは左手を握った。指輪が布越しに当たる。
枷。
分かっている。ジークムントも、リュクスも、盗賊団も、全員分かっている。
「父さん」
ディアナは口を開いた。
「仕事なら、やろう。測られるのは腹立つ。でも、測られるなら、測り返せばいい」
見られるだけでは終わらない。こちらも、ジークムントの鎖と騎士団の動きを見る。
「測り返す」
ミロがにやっと笑った。
「お嬢、それいいね」
「笑ってる場合じゃない」
「いや、笑うところだろ。殿下に品定めされるなら、こっちも値踏みしないと損だ」
カイルが短く息を吐いた。
「魔獣なら、騎士より俺たちの方が慣れてる場面もある」
「大陸渡ってりゃ、獣相手に道を譲ってもらえねえ日もあるしね」
ミロが軽く言った。盗賊団は、パーソン王国の中だけを走ってきたわけではない。ジークムントの視線が、ほんの少しだけ鋭くなった。
拾われた。こちらの過去の、ほんの端を。
リュクスはしばらく黙っていた。やがて、壁から背を離す。
「条件がある」
「聞こう」
「ディアナを前に出しすぎるな。病み上がりだ」
「出すつもりはない」
「あと、俺たちは騎士の犬じゃねえ。現場で邪魔だと思ったら、騎士の指示より俺の判断を優先する」
「構わない」
「軽いな」
「その方が君たちは動けるだろう?」
リュクスの眉間に皺が寄る。縛ったままでは使えないと分かっている。腹が立つくらい、合理的だった。
「ただし、証拠を燃やさせるな。魔獣に香袋を潰させるな。運び屋を殺すな。ディアナに無茶をさせるな」
「最後だけ父親みてえだな、殿下」
「私は管理者だよ」
「もっと悪い」
リュクスが吐き捨てた。ディアナは何も言わなかった。最悪な言葉ばかりなのに、昨日の「分かった」が頭の隅に残っている。
消えない。
困る。
「ディアナ」
ジークムントがこちらを見た。
「君は後方。走らない。盗るのは、手が届くものだけ」
「盗るものを指定されると、余計に盗りにくいです」
「君は指定しないと余計なものまで盗る」
「盗賊なので」
「知っているよ」
その声が、少しだけ甘い。旧訓練棟の空気の中なら、まだ耐えられる。たぶん。
「お嬢、顔」
「しまってる」
「いや、今のは出た」
「出てない」
「出てる」
カイルが帽子をディアナの頭に押しつけた。
「下げるぞ」
「見えない」
「見えすぎるよりいい」
またこれである。
ディアナは帽子のつばを押さえた。見えない。だが、見えすぎるよりいい。ジークムントが微かに笑った気配がした。
見なくても分かる。
腹立たしい。
王都南西の外れには、古い荷置き場があった。
かつて使われていた市壁の名残と、荷馬車用の広い空き地。今は半分だけ倉庫街に飲まれ、残り半分は草の伸びた石畳になっている。遠くには低い家並みがあり、荷置き場の端には水売りの小屋と、子供が遊べるほどの空き地があった。
そこに、魔獣がいた。
黒角狼。
狼に似ているが、肩が人の腰ほどもある。額から黒い角が一本生え、興奮するとその角で石畳を割る。背の毛は針のように逆立ち、口元からは泡が落ちていた。
三頭。
首には革の首輪。首輪の横に、小さな布袋がくくりつけられている。
袋から、甘い香がした。昨日より薄い。だが、魔獣には十分なのだろう。
黒角狼の目は濁っていた。荷置き場の中央には横倒しになった荷馬車があり、干し草の下にいくつか木箱が見える。木箱のひとつには、白い花を囲むような細い蔦の印があった。
白花。
ディアナの胸の奥が、わずかに冷える。
また、白い花だ。
「騎士は外だ」
リュクスが低く言った。
「囲んではいるが、踏み込んでねえ。いい判断だな」
「魔獣が荷を壊すか、香袋を潰すか、民家へ流れるか。正面から入れば、どれかは起きる」
ジークムントの声は落ち着いている。その落ち着きが、逆に戦場の温度だった。警衛騎士団の騎士たちは、荷置き場の外側を固めていた。鎧の音を抑え、弓を構え、住民を下げている。規律がある。強い。けれど、魔獣の周りを細かく削るには少し重い。
そこへ、盗賊団が入る。
「ガロ」
「三頭。奥の一頭は足を引きずってる。けど、一番荒いのは右だ。袋の匂いが濃い」
リュクスが頷く。
「ミロ、右を釣れ。ダンテ、撃つな。足場を落とせ。カイル、ディアナの前に出るな。出てもどうせ抜かれる」
「父さん」
「事実だ」
「ひどい」
「ディアナは袋を見る。手は出すな」
手は出すな。言われた。つまり、出すなということだ。分かっている。分かってはいる。
ミロが口笛を鳴らした。
「おいで、角つき」
軽い声。
黒角狼の一頭が、そちらへ首を向ける。濁った目が動く。ミロはひらりと荷台の陰へ移った。動きが軽い。ふざけているように見えるのに、足の置き方は正確だった。
魔獣が飛びかかる。ミロはもうそこにいない。代わりに、魔獣の爪が古い荷台を裂く。その瞬間、ダンテの銃声が一発だけ鳴った。撃ち抜いたのは魔獣ではない。荷台の支えになっていた錆びた金具だ。荷台が崩れ、魔獣の足場が沈む。
カイルが横から入った。刃ではなく、鞘で首輪の下を叩く。魔獣の顎が跳ね、体勢が崩れる。
その背後に、もうリュクスがいた。
いつ動いたのか、分からなかった。
父は、魔獣の首輪そのものを切らなかった。香袋の結び目だけを、小さな刃で掬う。
盗った。
魔獣から、香袋を盗った。
袋が空中へ飛ぶ。バルドが布で受け止め、すぐに小瓶へ押し込む。
「一つ!」
魔獣の目が、少しだけ揺れた。香が離れたせいか、動きが乱れる。そこへカイルが踏み込み、足を払う。ダンテが二発目を撃つ。今度も魔獣には当てない。石畳へ当て、跳ねた破片で魔獣の進路を潰した。
黒角狼が倒れる。殺してはいない。だが、もう動けない。
早い。
盗賊団は魔獣を倒す時も、盗む。
命ではなく、動き。
怒りではなく、匂い。
首輪ではなく、結び目。
必要なものだけ抜き取って、相手を崩す。
警衛騎士団の騎士が、外側で息を呑む気配がした。
分かる。
父たちは、強い。
残りは二頭。
「二頭目、奥へ逃げる!」
ガロが言った。
「逃げ道、左。子供がいる」
子供。
ディアナの視線がそちらへ走った。
荷置き場の端、水売りの小屋の裏に、小さな子供がふたり隠れていた。避難の時に逃げ損ねたのだろう。ひとりは泣きそうな顔で、もうひとりの手を握っている。
小屋の外で、母親らしい女が悲鳴を上げた。黒角狼の一頭が、そちらへ向きを変える。
まずい。
「カイル!」
リュクスが叫ぶ。
カイルが動く。だが、距離がある。ジークムントの黒鉄色の鎖が、地面から一気に走った。
早い。
荷置き場の石畳、崩れた荷台、倉庫の柱。その影から幾筋もの鎖が現れ、魔獣の進路に壁を作る。光を拾ったところだけが鈍い銀を返し、残りは黒鉄色のまま、獣と子供の間を塞いだ。
黒角狼が鎖の壁へぶつかった。
その瞬間、ディアナには見えた。
鎖の下。
地面すれすれ。
子供たちのいる小屋の影へ、ほんの一瞬だけ抜ける隙間。
カイルは間に合わない。リュクスも遠い。ジークムントの鎖は魔獣を止めている。子供のところまでは、まだ届かない。
でも、ディアナの足なら届く。
「ディアナ」
ジークムントの声が飛ぶ。
止まれ、の声だ。
止まらない。
ディアナは石畳を蹴った。
走るなと言われた。
でも、これは走るではない。
滑るだ。
身体を低く落とし、黒鉄色の鎖の下へ飛び込む。帽子のつばが石畳すれすれを掠めた。頭上で鎖が鳴る。魔獣の爪が鎖の壁を叩く。甘い香が一瞬だけ鼻を掠める。昨日より薄い。大丈夫、という言葉は信用ならないが、今は動ける。
子供の襟首を掴む。
「息止めて!」
自分でも何の指示だと思った。でも、甘い香が漏れている。
ディアナは泣きかけの子供を引き寄せ、もうひとりの腕も掴んだ。二人は軽い。怖いくらい軽い。鎖の壁の向こうで、黒角狼が吠える。戻る隙間が狭い。狭いが、盗賊娘には足りる。
「カイル!」
「投げろ!」
言われる前に、もう押し出していた。
子供を投げるのではない。石畳の上を滑らせるように、カイルの腕へ向かって押し出す。カイルが一人目を受け取り、ミロが二人目の背をさらった。
「はい、回収!」
ミロの軽い声。
子供が泣き出した。
無事。
そこまで見た瞬間、魔獣の爪が鎖の壁を大きく叩いた。黒鉄色の鎖が、一瞬だけ強く鳴る。怒っているみたいに。
ジークムントの声が低く落ちた。
「下がりなさい」
ディアナは下がるつもりだった。だが、魔獣の首元が見えた。
香袋。
鎖にぶつかった拍子に、袋の結び目が浮いている。
盗れる距離だった。
「お嬢!」
ミロが叫ぶ。
ディアナは指先を伸ばした。結び目を掬う。
抜いた。
布袋が手の中に落ちる。
直後、黒鉄色の鎖が魔獣の四肢を絡め取った。強く、速く、逃げ道を一つも残さずに。首は締めない。だが、動けば動くほど自分の体勢を崩す位置に鎖が入っている。黒角狼が地面へ倒れた。
残る一頭が、荷台へ飛んだ。
「袋を握るな! 布に包め!」
バルドが遠くで怒鳴る。
「うん!」
ディアナは慌てて袖の内側の布で香袋を包んだ。
ジークムントが近づいてくる。
無言だった。
深い青灰色の瞳が、笑っていない。ものすごく笑っていない。
「ディアナ、そこから動くな」
リュクスの声が飛んだ。
ディアナは素直に頷いた。さすがに今は、戦闘の邪魔になる位置へ戻る気はない。カイルが子供たちを母親へ返している。ミロがその近くで周囲を見ている。リュクスたちは残る一頭と荷台へ向かっていた。
ジークムントが近づいてくる。一歩。二歩。
あと一歩で、声を落とされる距離だった。
怒られる。
そう思った瞬間、ガロが顔を上げた。
「まだいる」
声が、鋭かった。
「足音がねえ。気配も薄い。魔法で消してるやつが――」
ガロの顔色が変わった。
「ディアナ!」
呼ばれた時には、もう黒い影が見えていた。水売り小屋の背後。古い市壁の裂け目の下。草に隠れていた穴から、黒角狼が這い出す。
さっきの三頭より大きい。肩は馬ほどもあり、額の角は太く曲がっている。首輪には、布袋がいくつもくくりつけられていた。甘い香が、一気に鼻の奥を刺す。
近い。あまりにも近い。
考えるより先に、身体が後ろへ跳ねた。
盗賊の足が、勝手に逃げ道を選ぶ。
けれど、魔獣の方が速い。
黒角狼が地面を蹴った。
その瞬間、地面から黒鉄色の鎖が噴き上がる。
壁。
魔獣とディアナの間だけを、正確に断つ壁。
同時に、別の鎖が魔獣の四肢と角を絡め取った。首は締めない。だが、跳ぶための力も、踏み込むための角度も、全部奪う。
守る鎖と、捕らえる鎖。
それが同時に走った。
黒角狼の身体が、地面へ縫い付けられる。
一瞬だった。
本当に、一瞬。
さっきまで盗賊団が見せた技も、速さも、連携も、全部すごかった。間違いなくすごかった。
でも、これは別だ。
強いとか、速いとかではない。
盤面が、最初からジークムントのものになる。
魔獣が暴れる。鎖は締めない。首を潰さない。だが、動けば動くほど、魔獣は自分の力で地面へ沈む。爪は空を掻き、角は鎖に絡み、吠え声は途中で詰まった。
警衛騎士団の騎士たちが、息を呑んでいた。
盗賊団も、黙っていた。
ミロが小さく言う。
「王子様、怖いねぇ」
「今さらだ」
カイルが返した。その声も、少しだけ低い。
ダンテは銃を下ろしていた。ガロは耳を澄ませたまま、眉を寄せている。
「足音が、途中で消えた」
それはたぶん、ジークムントの鎖が魔獣の足を奪ったからだ。
バルドが嫌そうに布を握り直す。
「近づくの嫌すぎるな」
「鎖で押さえている」
ジークムントの声は静かだった。
「それが信用できるのが腹立つ」
バルドが吐き捨てた。
リュクスは刃を下げなかった。ただ、ジークムントを見ている。測っている。ジークムントが盗賊団を測ったように、父もまた、ジークムントを測っている。
ジークムントは大きな黒角狼を鎖で押さえたまま、ディアナへ視線を戻した。
「怪我は?」
「……ありません」
「そう」
それだけ言って、ジークムントの視線は魔獣へ戻った。
「二波目が本命だったようだね。バルド、香袋を」
「はいはい。近づきたくねえけどな」
仕事の声だった。短い確認。短い返事。それだけで、もうジークムントは現場へ戻っている。その切り替わりが、逆にいたたまれない。
ディアナは口を開いた。
「今のは、ちゃんと下がろうとしました」
「見ていたよ」
「なら」
「結果だけ見ればね」
逃げ道がない。鎖の壁が、まだディアナの前にある。怒っている。ジークムントではなく、鎖の方が先に怒っている。そう思った。
バルドが布と小瓶を持って近づく。ダンテがその横についた。ガロが耳を澄ませ、ミロが周囲を見ている。カイルはディアナの前にいる。リュクスはジークムントから目を離さない。
盗賊団が、ジークムントの鎖の中で動いている。鎖は邪魔にならない位置にある。足場になり、壁になり、魔獣の動きを止める。嫌になるほど噛み合っている。
つまり、最悪に使える。
「君たちは使える」
ジークムントが言った。
リュクスの目が細くなる。
「そりゃどうも」
「ただし、思ったより勝手に動く」
「盗賊だからな」
最悪な褒め方である。けれど、盗賊団は誰も否定しなかった。否定できないくらい、現場は噛み合ってしまった。
ディアナは黒鉄色の鎖の壁を見た。
守る鎖。
縛る鎖。
逃げ道を消す鎖。
さっきまでは、魔獣を止めていた。
今は、ディアナの前に落ちた。
その違いを、どう受け取ればいいのか分からない。
「ディアナ」
また名前を呼ばれた。
ディアナは顔を上げる。
「次は、許可を取りなさい」
「間に合うなら」
「間に合わないなら?」
「……間に合わないなら、滑ります」
ジークムントは、少しだけ目を細めた。
「それを、私が許すと思う?」
声は静かだった。
静かなのに、逃げ道がなかった。
ディアナは一度口を開き、閉じた。許す、という言葉が、妙に残る。
許可ではなく。
命令でもなく。
許す。
困る。
かなり、困る。
バルドが最後の香袋を小瓶へ落とした。
「全部取った。でかい方の袋、印が違うぞ」
ジークムントが視線を移す。バルドが差し出した布袋には、細い蔦のような線が刺繍されていた。その中央に、白い花。荷箱の印と同じ。
白花。
ディアナは、さっきよりはっきりと息を止めた。
「また、白い花」
声が小さく落ちる。
ジークムントは笑わなかった。
リュクスが舌打ちする。
「魔獣に香袋くくりつけて、荷を守らせて、二波目まで用意してやがる。殿下。こいつは騎士様だけで済む仕事じゃねえな」
「だから君たちを呼んだ」
「最初からそのつもりかよ」
「測れてよかったよ」
「性格悪いな」
「知っている」
ジークムントはサディアスへ布袋を渡した。
「密封して運ぶ。荷箱は割らずに回収。魔獣は眠らせてから騎士団の檻へ。運び屋の足跡は?」
「三人分。うち一人は市壁の向こうへ逃げてる」
ガロが答える。
「足跡が浅い。軽い奴だ。子供じゃねえ。小柄な大人」
「ミロ」
「露店の口、拾ってくる」
「ダンテ」
「車輪を見る」
「バルド」
「香を見りゃいいんだろ。分かってる」
「カイル」
「ディアナを見る」
「なぜ最後だけ私の監視なんですか」
「一番逃げるからだよ」
否定したかった。でも、さっき鎖の下を滑ったばかりなので、少しだけ説得力が弱い。カイルがディアナの襟首を軽くつかんだ。
「了解」
「了解しないで」
「お前はすぐ行く」
「行かない」
「さっき行った」
行った。
それはそう。
ミロが笑う。
「お嬢、鎖の下を滑るの、見世物にしたら金取れるぞ」
「取らない」
「殿下の鎖付きなら高い」
「絶対にやらない」
ジークムントがこちらを見る。
「必要なら、また使う?」
「使いません」
「そう」
「……たぶん」
「正直だね」
言わせた。
ディアナは帽子のつばをさらに下げた。荷置き場の騒ぎは、少しずつ収まり始めている。助けた子供たちは母親らしい女性に抱きしめられていた。黒角狼たちは鎖と薬で押さえられ、荷箱は騎士たちが慎重に運び出している。
警衛騎士団の仕事。盗賊団の腕試し。魔獣から盗った香袋。ディアナを守った鎖の壁。そして、白い花の印。
嫌なほど噛み合った。
嫌なのに、強い。
ジークムントの鎖がほどけていく。黒鉄色の線が石畳の上で一瞬だけ鈍い銀を返し、影へ沈む。
その下を、ディアナは抜けた。
その前に、今度は守られた。
使えるものは使う。盗賊なので。
でも、守られたものまで、使っただけと言い切るには少しだけ難しい。
カイルに襟首をつかまれたまま、ディアナは小さく息を吐いた。
熱は引いた。
仕事もした。
子供も助けた。
魔獣からも盗った。
甘い香は、まだ終わっていない。
なら、次に盗るものも決まっている。




