第十九話 盗賊娘、お茶会へ行く
魔獣から香袋を盗った翌々日、ディアナは茶会の席に座っていた。
魔獣の次が茶会。振れ幅が大きい。しかも、走るなと釘を刺したバルドの言葉はまだ生きている。今日のディアナは逃げ足を封じられた状態で、礼儀作法という名の罠場に放り込まれていた。
場所は王城の庭園の一角だった。白い石で囲われた小さな東屋に、薄い布の日除けがかけられている。周囲には月桂の低い垣根と、淡い色の花。侍女たちは少し離れた場所に控え、護衛の騎士も声が届かない距離に立っている。茶器は上品で、菓子は小さく、椅子は背筋を伸ばさなければ座れない形をしていた。
そして向かいには、イレーネ・ブラディ・マルチェントがいた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
イレーネは静かに頭を下げた。黒絹の髪が、肩の上で艶を返す。淡い青のドレスは控えめだが、袖口と襟元に細い刺繍が入っている。派手ではない。けれど、目を離すほど薄くもない。氷青の瞳は今日も澄んでいて、姿勢はまっすぐで、声は乱れない。
完璧である。
完璧すぎて、こちらの背筋まで伸びる。ロザリア先生がいたら、椅子への腰かけ方から採点されている。
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
ディアナは習った通りに返した。たぶんできている。たぶん。採点者がいない以上、合格ということにしておきたい。
「先日の夜会では、助けていただきましたから。きちんとお礼を申し上げたかったのです」
「助けたというほどではありません」
「いいえ。私は、助けていただきました」
さらりと言い逃れようとしたが、イレーネの声は静かなまま逃がしてくれなかった。強い。柔らかいのに、芯がある。ディアナはカップを持ち上げ、ひと口だけ紅茶を飲んだ。香りは花ではなく、柑橘に近い。甘い香ではない。それだけで、少し息がしやすい。
ジークムントは東屋には入っていない。少し離れた回廊で、サディアスと何かを話している。王城にいる時の整った装いで、陽に透ける銀白色の髪が庭園の光から浮いて見えた。
今日はイレーネとのお茶会である。魔獣の前で落ちた低い声も、黒鉄色の鎖の壁も、「それを、私が許すと思う?」も、ここには持ち込まない。
「ディアナ様?」
「いえ。お茶が美味しいなと」
「それはよかったです」
危ない。意識が少しだけ別方向へ盗まれていた。
イレーネは小さく微笑み、侍女が用意した細長い箱を開けた。中には、色とりどりの細い紐が並んでいる。絹糸を編んだようなものもあれば、リボンに近いものもある。その先には、小さな花の形に結ばれた飾りがついていた。
「これは?」
「花結びです。近頃、王都で少し流行っているのだそうです。もともとは市井の願掛けだったようですが、今は令嬢たちの間でも、腕飾りや栞にして持つ方が増えています」
イレーネはひとつを指先で持ち上げた。淡い月桂色の紐が、花弁の形に結ばれている。中心には小さな白い石。宝石というほど高価ではない。けれど、光を拾うとやわらかく揺れた。
「願掛け、ですか」
「はい。ほどけないように願いを結ぶ、という意味があるそうです。縁を結ぶ、勝利を結ぶ、無事を結ぶ。色や花の形で少しずつ意味が変わります」
「ほどけにくそうですね」
「……ええ。そうですね」
イレーネが一瞬だけ言葉を止めた。
まずい。変なところを見た。
「すみません。結び目を見ていました」
「結び目、ですか」
「固い結び目は、急いでいる時に少し困ります」
「急いでほどく機会が、おありなのですね」
「……言葉のあやです」
イレーネの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑った、ほどではない。けれど、氷の表面に薄く光が差したような変化だった。ディアナは内心で拳を握る。よし。これはたぶん、悪くない。
「ですが、たしかに簡単にほどけては願掛けになりませんね」
イレーネは月桂色の花結びを箱に戻し、今度は淡い青の紐を取った。
「青は、平穏や誠実。月桂は勝利。白花は祈りや無事。恋の願いには薄紅を使う方が多いそうです」
「恋」
言ってから、ディアナは青い紐と薄紅の紐を見比べた。ついでに、イレーネの手元を見る。イレーネの指先は青の紐に触れている。薄紅ではない。けれど、箱の隅には薄紅の花結びもある。
気になる。
非常に気になる。
「クリス殿下との、ですか?」
聞いた瞬間、イレーネの指先が止まった。
氷青の瞳がわずかに揺れて、頬にほんの少しだけ色が差す。いつも正しく立っているイレーネが、年相応の少女みたいに困っていた。
これは、見てはいけないものを見た気がする。
「……ディアナ様」
「すみません。今のは忘れてください」
「忘れるには、少し難しいかと」
「ですよね」
終わった。
ディアナはカップを置き、姿勢だけは令嬢の形に戻した。中身は戻っていないが、外側だけでも大事である。
イレーネはしばらく視線を伏せていた。だが、不快そうではなかった。困ってはいる。照れてもいる。けれど、嫌がってはいない。そのことに、ディアナは少しだけほっとした。
「クリス殿下は、私にはもったいないほど華やかな方です」
イレーネは静かに言った。
「華やか、ですか」
「はい。人の輪の中心に立つことが自然にできる方です。笑って、声をかけて、場の空気を明るくなさる。私は、そういうことがあまり得意ではありません」
「得意じゃないだけで、できないわけではないですよね」
「……そう見えますか?」
「はい」
ディアナは即答した。
イレーネが少しだけ目を見開く。何を驚くことがあるのだろう。イレーネはずっと、場を崩さずに立っている。柔らかく笑うのが得意な人とは違うだけだ。
「私のいた場所では、目立って相手を引きつける役と、空気を整えて逃げ道を作る役がいました」
「逃げ道、ですか」
「……たとえ話です」
「先ほどから、ディアナ様のたとえは少し物騒ですね」
「よく言われます」
イレーネが、今度は少しだけ笑った。はっきり分かるくらい、小さく。その小さな変化だけで、ディアナの胸は少し明るくなった。
「クリス殿下が場を明るくなさるなら、イレーネ様はその明るさが散らばりすぎないようにしているのだと思います。だから、隣にいて安心して見えるのではないでしょうか」
言ってから、ディアナは少しだけ息を止めた。
踏み込みすぎたかもしれない。
イレーネはカップに視線を落としていた。白い指が、取っ手に添えられている。姿勢は変わらない。けれど、まつ毛の影がわずかに揺れた。
「……安心して、見える」
「少なくとも、私はそう思いました」
イレーネはすぐには答えなかった。庭園の外から、鳥の声が聞こえる。侍女が茶器を整える小さな音もした。それでも、東屋の中は静かだった。
「私は、柔らかく笑うことが上手ではありません」
やがて、イレーネが言った。
「はい」
「可愛げがないと言われることもあります。隙がない、冷たい、と。けれど、誰かが静かに立っていなければ、安心して笑えない方もいます」
「……」
「役目だから、というだけではありません。私が、そうありたいのです。誰かが乱れた時、同じように乱れない人間が一人くらいいてもいいと思うのです」
淡々とした声だった。
けれど、冷たくはなかった。
ああ、だからだ。
この人は、冷たいのではない。
逃げないのだ。
正しすぎると言われても、自分が立つ場所を選んでいる。
素敵だと思った。
守りたい、では足りない。
守る。
ディアナは、花結びの箱から視線を上げた。
「イレーネ様は、やっぱり素敵です」
「……急ですね」
「急でした。でも、思ったので」
「そう、ですか」
イレーネの頬に、さっきとは違う色が差した。恋の話で照れた時よりも、もう少し静かで、もう少し深い色だった。
「ありがとうございます、ディアナ様」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
それだけで、胸の奥が温かくなる。前々世の記憶が騒ぎそうになる前に、ディアナはそれを押し込んだ。これは自分ではない。今ここにいるイレーネは、前々世の自分ではない。けれど、だからこそ、ちゃんと見たい。
断罪台の上ではなく。
悪役令嬢という役でもなく。
今、目の前で紅茶を飲んでいる、一人の少女として。
「では、ディアナ様は」
イレーネが顔を上げた。
「ジークムント殿下には、どの色を選ばれるのですか?」
紅茶が喉に入らなかった。
危ない。非常に危ない。ディアナは咳き込みかけたのを、令嬢の意地で押さえた。えらい。誰も褒めてくれないので、自分で褒める。
「なぜジーク様が出てくるのでしょうか」
「先ほど、私にクリス殿下のことをお尋ねになりましたので」
「返ってきた」
「はい」
イレーネは穏やかに頷いた。強い。正しい人は、時々容赦がない。
ディアナは箱の中の紐を見た。青。月桂。白花。薄紅。どれも違う気がする。ジークムントに薄紅は違う。絶対に違う。月桂は似合いすぎて腹が立つ。青は瞳の色を思い出すので危険。白花は今、できれば避けたい。
どれも、あの人には少しきれいすぎる。
「黒はないんですか」
「黒、ですか?」
「いえ、なんでもありません」
悪役王子に似合う色を探してどうする。
ディアナは薄紅から目を逸らし、月桂色の花結びを指先で軽くつついた。勝利。逃げ切る葉にしてほしい。いや、花結びなのに葉を求めるのは無理がある。
「ジーク様に選ぶなら……ほどけにくいものです」
「願いではなく、結び方なのですね」
「相手が相手なので」
「ふふ」
イレーネが笑った。
今度は、はっきり笑った。
その音が、茶器の触れる音よりも軽く東屋に落ちた。ディアナは一瞬、何も言えなくなる。イレーネが笑っている。冷たい令嬢でも、悪役令嬢でもなく、凛と立つだけの人でもなく、少し照れて、少し意地悪く返して、今は本当に楽しそうに笑っている。
よかった。
ただ、それだけが胸に来た。
イレーネは薄紅ではなく、月桂色の花結びを手に取った。
「ディアナ様。よろしければ、こちらをお持ちになりませんか」
「私に?」
「はい。勝利の色ですから」
「逃げ切る色ではなく?」
「……勝利の色です」
訂正された。
でも、その声にはもう、さっきより少しだけ笑いが混じっている。
ディアナは月桂色の花結びを受け取った。小さな結び目は、見た目よりずっと固い。ほどこうと思えばほどける。けれど、無理に引けば形が崩れる。丁寧に扱わないと、願いも飾りも壊れてしまう。
厄介だ。
だからこそ、綺麗なのかもしれない。
「ありがとうございます。大事にします」
「はい」
イレーネは静かに頷いた。
その時、回廊から足音が近づいた。ひとつはサディアス。もうひとつは、分かりたくなくても分かる。音だけで整っている足取りなど、そう多くない。
ジークムントが東屋の入り口で足を止めた。
「楽しそうだね」
穏やかな声だった。いつもの声だ。逃げ道をひとつずつ消して、こちらが困る言葉だけを選ぶ声。
最悪である。
「ジーク様」
「もう少し話していたかった?」
「……少しだけ」
正直に言ってしまった。
ジークムントは笑った。穏やかに。けれど、深い青灰色の瞳は一瞬だけ、ディアナの手元に落ちた。月桂色の花結びを握る左手。その中指にある、白金色の輪。
「そう。では、また機会を作ろうか」
「本当ですか」
思ったより早く声が出た。
ジークムントの笑みが、ほんの少し深くなる。
「本当だよ。約束を破る趣味はないからね」
そう言って、ジークムントは一歩だけ身を引いた。馬車の支度ができているのだろう。サディアスが静かに頭を下げ、侍女たちが茶器を片づけ始める。
イレーネは立ち上がり、ディアナへ向き直った。
「また、お話しできますか」
「はい。ぜひ」
今度は迷わず言えた。
イレーネの唇が、ほんの少しだけほころぶ。小さな笑みだった。けれど、夜会で棘を受け流していた時の笑みとは違う。誰かに見せるためではなく、目の前の相手に向けるための笑みだった。
ディアナは月桂色の花結びを、指先でそっと握った。
盗んだわけではない。
もらったものだ。
だから、落とさないように持って帰る。
馬車に乗ると、ジークムントは向かい側に座った。車輪がゆっくりと動き出す。庭園の白い石畳が窓の外を流れ、月桂の垣根が遠ざかっていく。サディアスは外の御者台側にいる。中は、ほとんど二人きりだった。
「君は本当に、彼女のことになるとよく動くね」
さっそく来た。
ディアナは花結びを持つ手に力を入れないよう気をつけた。潰したら申し訳ない。イレーネからもらったものだ。勝利の色で、逃げ切る色ではない。訂正済みである。
「動いていません」
「では、その花結びは?」
「いただきました」
「嬉しそうだ」
「嬉しいです」
「正直だね」
「嘘をついたら、どうせ見抜くでしょう」
「見抜かれる前提なんだ」
「前提が最悪です」
ジークムントは楽しそうに笑った。
いつもの調子だ。
荷置き場で聞いた低い声ではない。黒鉄色の鎖が地面から噴き上がった時の、あの張り詰めた空気でもない。穏やかに笑って、こちらを逃がさず、言葉だけで少しずつ追い詰めてくる。
最悪だ。
でも、少しだけ息がしやすい。
もっと最悪だ。
「勝利? 誰に勝つつもりかな」
「逃げ切るためです」
「私から?」
「ジーク様は勝ち負けに入れると面倒なので、別枠です」
「特別扱いだね」
「そういう拾い方をするところが面倒なんです」
「ひどいな」
「事実です」
いつもの調子で返せた。
だから、ディアナは少しだけ息を吐いて、窓の外へ視線を逃がした。王城の白い石道が、馬車の揺れに合わせて後ろへ流れていく。庭園で見た月桂の緑が遠ざかり、白い壁の向こうに王都の屋根が少しずつ見え始めていた。
左手中指の白金色の輪に、ほんの一瞬、赤が差した。
ディアナは気づかない。
向かい側で、ジークムントだけがそれを見ていた。
「ディアナ」
「はい」
「その結び目は、大事にしなさい」
「言われなくても大事にします」
「そう。逃げ切る色ではないそうだからね」
「……ほどこうとしませんよね?」
「しないよ」
「今、少し間がありませんでした?」
「気のせいだね」
絶対に気のせいではない。
ディアナは花結びを膝の上に置き、左手をそっと重ねた。月桂色の小さな結び目は、何も知らないように揺れている。指輪はいつも通り白く、冷たくも熱くもなかった。
イレーネと笑えた。
花結びをもらった。
ジークムントはいつもの調子に戻っていた。
全部、今日の戦利品だ。
ディアナは窓の外へ視線を戻した。王城の庭園はもう遠い。白い石の道が馬車の揺れに合わせて流れていく。
甘い香の件は、まだ終わっていない。
けれど今日は、月桂色の小さな結び目がひとつ。
ほどけないように、左手の中でそっと守った。




