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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第二十話 盗賊娘、菫色を盗む


 月桂色の花結びは、旧訓練棟に戻ってもほどけなかった。


 当たり前である。ほどけないように結ぶ願掛けなのだから、すぐほどけたら困る。困るのだが、左手首の内側にそっと結んでみると、妙に落ち着かない。イレーネからもらったものだ。勝利の色で、逃げ切る色ではない。そこはきっちり訂正された。だから大事にしたいのに、大事にしたいものほど、盗賊の生活では守りにくい。


「お嬢、それ恋結び?」


 作業台の向こうから、ミロが目ざとく言った。


「違う」

「じゃあ勝負結び?」

「勝利の色」

「逃げ切りの色じゃなくて?」

「違う。訂正済み」


 ディアナが言い切ると、ミロは楽しそうに肩を揺らした。旧訓練棟の朝は、王城の庭園ほど優雅ではない。石床は冷え、窓には障壁がかかり、机の上には茶器ではなく革袋、地図、薬包、針金、古びた鍵束が並んでいる。けれど、この雑多な空気の方が息はしやすい。椅子に座る角度で採点されないだけで、人はずいぶん自由になれる。


 ノアが作業台に前足をかけ、花結びへ鼻先を寄せた。


「ノア、噛まない」

「にゃ」

「返事が軽い。信用できない」


 黒猫は尾を揺らし、何もしていない顔で作業台の端へ移動した。前科が多すぎる。猫だから無罪、という顔をするところまで含めて質が悪い。


「で、そのありがたい結び目は仕事に関係あるのか?」


 カイルが革手袋を直しながら言った。言い方は軽いが、視線は入口へ向いている。誰かが来る足音を拾っているのだろう。旧訓練棟にいる間、カイルはいつもそうだ。ディアナと話していても、半分は外を見ている。


「たぶん、ない」

「たぶん?」

「ジーク様が絡めてきそうな気配はある」

「予感の精度が嫌だな」


 嫌である。


 だが、当たる。


 扉が開いたのは、その直後だった。


 サディアスが先に入り、続いてジークムントが姿を見せた。王城の朝の光を背にしているせいで、銀白色の髪が薄く縁取られて見える。深い青灰色の瞳は、部屋に入った瞬間、机の上の道具、窓の障壁、盗賊団の位置、それからディアナの左手首へ順に落ちた。


 見た。


 絶対に見た。


「似合っているね」


 来た。


「仕事の話では」

「まだ何も言っていないよ」

「だから先に逃げ道を作りました」

「君は本当に逃げ道が好きだね」

「職業病です」


 ジークムントは笑った。穏やかで、整っていて、性格が悪い笑みだった。リュクスが低く舌打ちする。ミロは面白そうに見ている。カイルは無言で一歩だけディアナの近くに立った。父たちの反応が早い。ありがたい。だが、この人相手には壁が何枚あっても足りない。


 ジークムントは作業台の前で足を止め、サディアスへ目配せした。サディアスが薄い紙片を机に置く。そこには、花結びの図案が描かれていた。月桂、白花、薄紅、青。昨日イレーネが見せてくれたものに似ている。けれど、端の方にもう一つ、小さな花があった。


 菫色の花。


「昨日の花結びだが、少し面白いところに繋がった」

「やっぱり絡めてきた」

「花結びそのものではない。流行に紛れて、古い礼拝具が動いている」

「礼拝具?」

「東市の古物商だよ。栞や飾り紐、安物の聖画片を並べている。表向きはね」


 表向き。


 その言葉が出た時点で、だいたい裏がある。


「今夜、その店から菫色の聖画片が裏へ流れる」

「聖画片?」

「古い礼拝画の欠片だよ。女神の足元だけが残った小片、という触れ込みだ」

「女神の、足元」


 胸の奥が、少しだけ鳴った。


 女神オールト。枯れ地に縛られた女神。動けなくなった足。表の神話では、旅人に救われた女神の涙が指輪になった。そこまでなら、王国の子どもでも知っている話だ。けれど、足元だけが残った聖画片という響きは、ただの古物にしては妙に生々しい。


 ジークムントの視線が、ほんの少しだけ細くなった。


「君には、それを見てもらう」

「盗るのではなく?」

「必要なら盗っていい」

「言い方」

「君の方が分かりやすいだろう?」


 分かりやすいのが腹立たしい。


 ディアナは紙片から目を離し、ジークムントを見た。彼は笑っている。けれど、深い青灰色の瞳は笑っていない。昨日の馬車で、あの人は何かを見たような顔をしていた。ディアナは見られる側なので、何を見られたのか分からない。それが一番困る。


「盗賊団は?」

「外周を見る。品物の流れ、運び手、誰が買い手を装っているか。表の店にいるのは私と君、それからカイル」

「俺もか」


 カイルが短く返す。ジークムントは涼しい顔で頷いた。


「君は人混みでの視線の流れを見るのが早い。ディアナが余計なものへ手を伸ばした時も止めやすい」

「止められる前提なんですね」

「止まる?」

「場合によります」

「だそうだよ」

「俺に振るな」


 カイルが眉を寄せた。ミロが笑う。リュクスは不機嫌そうに腕を組み直したが、反対はしなかった。仕事の割り振りとしては妥当なのだろう。妥当なのがまた嫌だ。ジークムントは人を駒として見るのが上手い。けれど最近、その駒の使い方が雑ではないことも分かってきた。


 もっと嫌だ。


 判断材料が増えると、嫌い方まで難しくなる。


「ディアナ」


 名を呼ばれて、ディアナは背筋を伸ばした。


「昨日の花結びはつけておきなさい」

「仕事にですか」

「流行に詳しい令嬢の顔をしていた方が、店に入りやすい」

「令嬢の顔」

「できるだろう?」

「ロザリア先生の幻が見えました」

「なら、背筋は伸びるね」


 性格が悪い。


 顔はいい。


 そこで勝たないでほしい。


 その日の午後、ディアナは東市の雑踏にいた。


 王城の庭園とは違い、東市は匂いが多い。焼き菓子、革、香辛料、雨を吸った木箱、馬の汗、安い香油、干した花。人の声も多い。値を交渉する声、子どもの笑い声、馬車を避けろと怒鳴る声、客を呼び込む声。礼儀作法という罠場よりはずっと歩きやすいが、油断すると別の罠に足を取られる。


 ディアナは月桂色の花結びを手首に結び、左手の指輪は薄い手袋で隠していた。完全に隠すと怪しいので、白金色の輪郭がほんの少し分かる程度。隠しているのか見せているのか分からない。ジークムントの指示である。最悪に細かい。


「顔」


 隣を歩くカイルが低く言った。


「しまってる?」

「出てる」

「どっち」

「警戒が出てる。もう少し店を見ろ」


 カイルの言う通り、ディアナは肩の力を抜いた。今日は少年の格好ではない。王城に出入りする令嬢としては少し地味な外出着で、けれど東市では十分に上等な布を着ている。髪も簡単にまとめ、歩幅も小さめ。盗賊として走るには向かないが、令嬢として品物を見るにはちょうどいい。


 ジークムントは少し後ろを歩いている。護衛のふりをするには目立ちすぎるし、ただの付き添いにしては圧が強すぎる。だが、彼が少し距離を取るだけで、周囲の視線はディアナへ向きすぎない。近づきたい者と近づきたくない者が、同時に距離を測る。


 便利だ。


 悔しいが、便利だ。


 目的の店は、通りの端にあった。看板には小さな白い鳥が彫られている。古い栞、飾り紐、聖画片、礼拝用の小さな蝋燭。並んでいる品物はどれも安っぽくはないが、高価すぎもしない。願掛けと記念品と古物の間を、器用に歩いている店だった。


「いらっしゃいませ」


 店主らしい男が顔を上げた。痩せていて、指が長い。目は柔らかいが、客の靴と手元を一瞬で見た。


 盗まれ慣れている店だ。


 つまり、盗られたくないものがある。


「花結びを見せていただけますか」


 ディアナは令嬢の声で言った。ロザリア先生、見ていますか。見ていないでください。


「もちろんでございます。近頃は月桂がよく出ますね。勝利の願いで」

「こちらは、いただいたものなのです」

「よく結ばれております。ほどけにくい、良い品です」


 店主は月桂色の花結びを見て、微笑んだ。褒め方に隙がない。品物を褒めるふりで、客の関係まで探る声だ。東市にも社交界はある。扇の代わりに値札があり、微笑みの代わりに釣り銭があるだけだ。


 ディアナは飾り紐の箱へ視線を落とした。


「菫色はありますか」

「菫色でございますか」

「はい。珍しいと聞いたので」


 店主の指が、一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬だ。普通の令嬢なら見逃す。けれど、盗賊は手元を見る。鍵を探す時も、財布を抜く時も、嘘を見つける時も、人の指はよく喋る。


「ございますよ。ただ、菫は数が少なく」

「見せていただいても?」

「ええ。少々お待ちください」


 店主が奥へ引く。カイルの視線が横に流れた。合図ではない。だが、警戒が一段上がったのは分かる。ジークムントは入口近くの棚を眺めている。何もしていないように見える。けれど、店の出口、裏扉、店主の戻る導線、外の通りの人波まで、全部見ているのだろう。


 店主が戻ってきた時、手には小さな箱があった。


 菫色の花結びが、三つ。


 その下に、薄い布で包まれた何かが一つ。


 ディアナの左手中指が、手袋の下でかすかに重くなった。


 まだ、触れていない。


 けれど、分かる。


 これは、ただの花結びではない。


「こちらは?」

「古い聖画片でございます。花結びと合わせて持つと、願いが通りやすいと」


 嘘だ。


 たぶん、全部ではない。


 ディアナは息を整え、令嬢の指先で布の端に触れた。店主の視線が動く。カイルの足が半歩だけ寄る。入口近くで、ジークムントが棚から一枚の栞を取った。


 布が、少しだけめくれた。


 中にあったのは、手のひらに収まるほどの古い絵の欠片だった。白く剥げた下地。かすれた金の線。そこに、淡い菫色の衣の端と、白い花のような紋様が残っている。


 左手中指の白金色の輪に、淡い菫色が差した。


 前にも見た色だった。


 祈りの図譜の欠片に触れた時と、よく似た色。


 ディアナは息を止めた。光ったわけではない。叫ぶほどの変化でもない。手袋の下、白金色の輪に、ほんの薄く菫が滲んだだけだ。見間違いと言われれば、そうかもしれない。でも、違う。これは気のせいではない。


 向こうで、ジークムントの視線が静かにこちらへ向いた。


 笑っていなかった。


「素敵ですね。もう少し、近くで見ても?」

「どうぞ。ですが古い品ですので、お手元にはお気をつけください」

「もちろんです」


 盗るものは、見えた。


 問題は、どう盗るかだった。


 ディアナは聖画片を持ち上げなかった。持ち上げれば店主の目が来る。奥の薄布の向こうにも、人の気配が一つ。見張りか、受け渡し役か。ここで分かりやすく盗めば、盗った瞬間から追跡される。


 だから、盗む前に、盗られたことを別の形にする。


「菫色の結びは、どの願いなのですか」

「古い祈りの色でございます。女神へ届きやすい、と」

「女神へ」

「はい。白花と合わせれば、祈りが清くなるとも」


 言葉が、薄い。


 覚えた説明を並べているだけだ。店主本人の言葉ではない。ディアナは菫色の花結びをひとつ手に取り、月桂色の花結びと並べた。


「こちらと合わせても?」

「もちろんでございます。勝利と祈りで、よい組み合わせかと」

「でも、少し色が強いですね」


 ディアナはわざと迷う顔をした。令嬢の買い物は、迷っている時間が長いほど店側の警戒が緩む。高いものを買うかもしれない客は、追い出しにくい。しかも後ろには、どう見ても追い出したくない身分の男がいる。


 腹立たしいほど、使える。


「ジーク様」

「うん?」


 ジークムントが棚から視線を上げた。


「どちらがよいと思いますか」

「君がつけるなら月桂のままでいい」

「聞く相手を間違えました」

「ひどいな」


 軽いやり取りの間に、店主の目がジークムントへ向く。ほんの一瞬。客が連れに意見を求め、店主がそちらを見る。どこにでもある自然な間だった。


 その一瞬で、ディアナは菫色の花結びの位置を入れ替えた。


 花結びの下に敷かれていた薄布の端。そこに、聖画片から剥がれた細い紙片が挟まっている。最初から剥がれていたのか、わざと挟んでいたのかは分からない。だが、聖画片そのものよりも、その紙片の方が新しい。触れた指先に、わずかな糊の感触が残った。


 これだ。


 聖画片は餌で、紙片が本体かもしれない。


 ディアナは指先で紙片を押さえ、袖口の内側へ滑らせた。音はしない。店主の視線はもう戻っている。カイルは何も言わない。ジークムントも笑っている。


 誰も止めない。


 なら、盗っていい。


「少し考えても?」

「もちろんでございます」

「こちらの菫色をひとつと、栞をいくつかいただきます」

「聖画片はよろしいので?」

「綺麗ですが、今日は見るだけにしておきます。古い品を扱うのは、少し緊張しますから」


 嘘である。


 古い品を扱うくらいで緊張するなら、国宝に手を出していない。


 店主は少しだけ目を細めたが、すぐに穏やかな顔へ戻った。聖画片は売りたい品ではなかったのかもしれない。見せるための品。反応を見るための品。買わせる相手は、最初から決まっていた可能性がある。


 会計を済ませる間、ジークムントは何気なく栞を二枚選んだ。一枚は白花。もう一枚は菫の縁取り。どちらも安い品だ。けれど、彼が選ぶと安く見えない。ずるい。


 店を出た瞬間、カイルが低く言った。


「取ったな」

「取った」

「何を」

「たぶん、本体」


 ディアナは袖口の内側を押さえた。紙片は小さい。だが、左手の指輪はまだ薄く重い。手袋の下で、菫色が消えきっていない感覚があった。色が見えるわけではないのに、残っていると分かるのが気味悪い。


 ジークムントが横に並んだ。


「聖画片ではなく?」

「聖画片は見せ札です。たぶん、買わせたい相手を選ぶための」

「理由は」

「布の下に挟まっていた紙片の方が新しかったです。糊も新しい。聖画片の古さに隠すには、雑ではないけど……急いだ感じがしました」

「よく見ているね」

「盗る時だけは褒めるの、やめてください」

「一番褒めるべきところだろう?」

「否定しづらい」


 最悪だ。


 でも、少しだけ嬉しい。


 もっと最悪だ。


 通りの角で、ミロが荷運び人に混ざって立っていた。こちらを見ないまま、肩に担いだ空箱の紐を一度だけ揺らす。外周に動きあり。たぶんそういう合図だ。ガロは向かいの屋根下にいる。リュクスの姿は見えない。見えない時ほど仕事をしている。


 ジークムントが笑みを消さずに言った。


「このまま東門側へ抜ける」

「追われていますか」

「追わせている」

「言い方」


 追われているのではなく、追わせている。嫌な言い方だが、意味は分かる。相手がこちらをどう見るかを見るために、逃げ道をわざと残す。ジークムントはそういうことを平気でやる。


 ディアナは花結びを握り直した。今日は走るなとバルドに言われている。だが、歩き方には種類がある。令嬢として歩く。客として歩く。逃げないふりをして歩く。追わせるために、ぎりぎり捕まらない速度で歩く。


 走っていない。


 たぶん。


 東門側の通りへ出る直前、背後で誰かが人にぶつかった。わざとだ。謝る声。落ちる荷物。人の流れが一瞬詰まる。そこで店の奥にいた気配と同じ匂いが近づいた。安い香油と、紙を乾かす糊の匂い。


 ディアナは左へ寄るふりをして、露店の布に触れた。指先で布端を払う。垂れた布が一瞬だけ視界を切った。その陰で、袖口の紙片を手のひらから手袋の内側へ移す。


 相手の手が、ディアナの袖へ伸びた。


 その前に、黒鉄色の細い鎖が地面の影から伸び、男の靴紐だけを絡め取った。


 転ぶほどではない。だが、一歩遅れるには十分だった。


 ジークムントは振り返らない。何も起きていない顔で、露店の菫色の紐飾りを眺めている。


 怖い。


 仕事が細かい。


 顔はいい。


「今の」

「転んでいないよ」

「そこではなく」

「では?」

「いえ、何でもありません」


 聞いたら負ける気がした。


 カイルが短く息を吐く。呆れと警戒が混じった音だった。


「ディアナ、右」

「見えてる」


 右手の菓子売りの影から、子どもが一人飛び出した。客の財布を狙う動きではない。何かを渡す動きだ。小さな紙包みを、通りすがりの男へ滑らせようとしている。


 ディアナの足が、先に動いた。


 体の向きを少し変え、子どもの前に落ちていた木札を拾うふりをして膝を折る。子どもの手首がすぐ横を通った瞬間、紙包みだけを抜いた。子どもは気づかない。渡されたはずの男も、まだ気づかない。ディアナは木札を持ち上げて、わざと困った顔をした。


「落とし物ですか?」

「え、あ……違う」


 子どもが逃げる。追わない。追えば使われた子どもにしか辿り着かない。見るべきは、受け取れなかった男の反応だ。男は一瞬だけ指先を空振りさせ、すぐに人混みに溶けようとした。


 その行き先を、カイルが見た。


「東門の荷馬車」

「ミロへ」

「もう見てる」


 短い会話で足りた。盗賊団の仕事は早い。ジークムントが面白そうに一瞬だけ目を細める。評価された気がして、少し腹が立つ。だが今はそれどころではない。


 紙包みの中身も、菫色の細い糸だった。


 花結びに使うには細すぎる。縫い糸にしては色が濃い。糸の端に、白い粉のようなものがついている。


「触るな」


 カイルが低く言った。


「触ってません」

「今、盗っただろ」

「包みごとです」

「同じだ」


 細かい。いや、正しい。


 ジークムントがサディアスの用意していた小袋を差し出した。いつの間に。怖い。ディアナは紙包みをその中へ落とす。小袋の口が閉じられた瞬間、ようやく左手の重さが少し引いた気がした。


「撤収する」

「もう?」

「盗るものは盗った。相手にも、こちらが気づいたことは伝わった」

「伝わっていいんですか」

「いいよ。次に誰が慌てるかを見る」


 やっぱりこの人は、追い詰め方が怖い。


 東市を抜け、監視の目が届く王城側の馬車道へ入ると、空気が少し変わった。人混みの音が遠ざかり、石畳を踏む馬の音が大きくなる。ディアナはようやく肩の力を抜いた。走っていない。盗った。怒られる要素は少ない。少ないはずだ。


 馬車に乗り込んだ後、ジークムントは正面ではなく隣に座った。


 近い。


「なぜ隣」

「盗ったものを見たいから」

「正面でも見えます」

「君の手元は、隣の方がよく見える」

「言い方」


 カイルは向かいに座り、無言で外を見た。護衛として同席しているはずなのに、今だけ少し遠い。見ないふりがうまい。ありがたい。ありがたくない。


 ディアナは袖口から紙片を出した。小さい。指先ほどの幅しかない。だが、そこにはかすれた線が残っていた。菫色の衣の端と、白花の紋様。それから、古い文字の一部。


「読めますか」

「少しだけ」


 ジークムントは紙片に触れず、目だけを落とした。


「……涙、ではない。ここだけは読める」

「涙ではない?」

「女神の涙を否定しているのか、別のものを指しているのか。欠けすぎているね」


 女神の涙。


 オールトの指輪。


 ディアナの左手中指が、また少し重くなった。


 指輪が、白金色の下に淡い菫色を帯びる。


 さっきより、ほんの少しだけはっきりと。


 ディアナは今度こそ気づいた。手袋の隙間から覗いた輪の縁が、見間違いでは済まないほど薄く色を変えている。赤ではない。熱でもない。胸をざわつかせる色ではなく、どこか冷たく、遠い祈りに触れたような色だった。


「また、あの色」


 思わず声が漏れた。


 ジークムントの視線が、指輪へ落ちた。


「祈りの図譜の欠片の時と同じだね」

「……ジーク様も、そう思いますか」

「うん」


 穏やかな声だった。けれど、目は穏やかではなかった。昨日の馬車で花結びを見た時とは違う。あの時、ジークムントが何を見たのかは分からない。けれど今、彼が見ているものは分かる。


 菫色。


 女神に近いものへ、指輪が反応している。


 ディアナは手袋の上から指輪を押さえた。冷たくはない。熱くもない。ただ、そこにある。外せない拘束具として、ずっと左手にある。それが、ジークムントの作った偽物のはずのそれが、知らない色を帯びている。


「ジーク様」

「うん」

「これ、本当に偽物なんですよね」

「私が作ったものはね」


 その言い方が、嫌だった。


「今のは、逃げ道がない言い方です」

「逃げたい?」

「質問からです」

「それは残念」


 残念そうに聞こえない。


 ジークムントは紙片を見つめたまま、指先で馬車の座席を一度だけ叩いた。考えている時の癖、なのかもしれない。ディアナはそれをまだよく知らない。知りたくないような、知ってしまっているような、面倒なところにいる。


 カイルが口を開いた。


「殿下。その紙片、図か?」

「図の一部だろうね。聖画片に見せかけているが、礼拝画そのものではない」

「祈りの図譜と同じ系統か」

「可能性はある」


 ジークムントはそこで一度言葉を切り、ディアナの指輪を見た。


「少なくとも、彼女の指輪はそう判断したらしい」


 彼女の指輪。


 その言い方が、妙に引っかかった。ジークムントが作った偽物で、ディアナにはめた拘束具。それなのに、いつの間にか「彼女の指輪」と呼ばれる。所有されているのか、所有しているのか分からない。分からないものは怖い。


 けれど、今は怖がっているだけでは足りない。


「なら、もう一つ盗れました」

「何を?」

「反応の条件です」


 ディアナは指輪を押さえたまま言った。


「菫色は、女神に近いものに反応する。祈りの図譜の欠片と、今回の紙片。どちらも、表の祈りや流行に隠されていました。でも、ただの流行ではない」

「続けて」

「誰かが、古いものを今の願掛けに混ぜて流している。花結びなら令嬢も市井の人も手に取りやすい。聖画片なら、信心深い人も疑いにくい。そこに、女神に近い欠片を混ぜている」

「目的は?」

「まだ分かりません。でも、集めているのか、探しているのか、反応する誰かを見つけようとしているのか」


 言ってから、ディアナは少しだけ口を閉じた。


 反応する誰か。


 指輪が反応した自分。


 それは、あまり考えたくない。


 ジークムントはしばらく黙っていた。否定も肯定もしない沈黙だった。やがて、彼は紙片から目を離し、窓の外を見た。


「戻ったら、サディアスに写しを取らせる。原本は私が預かる」

「押収ですか」

「君の盗品の保管だよ」

「言い方を合わせてくるの、ずるくないですか」

「君が気にするからね」


 また、そういう言い方をする。


 考えるな。考えたら負ける。


 旧訓練棟に戻る頃には、空は少し傾き始めていた。


 リュクスたちは先に戻っていた。机の上には、東市で拾った情報が並んでいる。荷馬車の行き先。店の裏扉から出た男の特徴。菫色の糸を運ばせた子どもが出入りしていた路地。どれも一つでは細いが、束ねれば道になる。


「東門の荷馬車は、白花施療院の寄付品を運ぶ業者と同じ印を使っていた」


 リュクスが言った。


 白花施療院。


 その名前が出ると、空気が少しだけ重くなる。甘い香。白い箱。祈りの図譜。眠り。熱。これまで盗ってきたものが、別々の袋から同じ机へこぼれてくる。


「やっぱり繋がるんですね」

「繋げている奴がいるんだろうな」


 リュクスの声は低い。父親ではなく、盗賊団の頭の声だった。


 サディアスが紙片の写しを取る。灯りの下で見ると、菫色の線はさらに薄かった。だが、消えてはいない。白花のように見えた紋様の下に、細い道のような線が伸びている。


「女神の足元だけが残った聖画片、か」


 ミロが腕を組んで覗き込む。


「お嬢、これ、足元ってより床模様じゃね?」

「床模様?」

「ほら、ここ。花じゃなくて石畳の飾りみたいに見える」

「石畳……」


 ディアナは紙片に顔を近づけた。たしかに、白花のように見えた紋様は、花ではなく敷き詰めた石の飾りにも見える。花に見せているだけで、本当は場所を示しているのかもしれない。


「教会か、施療院か、王城のどこかか」

「まだ決めるな」


 リュクスが短く言った。


「こういうのは、似てると思った瞬間に目が曇る」

「うん」

「ただ、拾う価値はある」


 リュクスの言い方は雑だが、信頼できる。ディアナは頷いた。考えすぎると、見たい答えに寄っていく。盗みに必要なのは、欲しい答えではなく、そこにある形を見る目だ。


 ジークムントが静かに口を開いた。


「菫色の糸、東門の荷馬車、白花施療院の寄付品。三つを分けて追う」

「俺たちは?」

「リュクスたちは荷馬車の印を。ミロとガロは路地の子どもを。カイルはディアナと、東市の店をもう一度見る」

「また行くんですか」

「君はよく反応を拾うからね」

「私ですか、指輪ですか」

「どちらも」


 即答しないでほしい。


 ディアナは左手を見た。指輪の菫色は、もうほとんど消えている。いつもの白金色に戻っていた。けれど、一度見てしまったものは、見なかったことにできない。祈りの図譜の欠片に触れた時と同じ。今回の紙片でも同じ。


 この指輪は、女神に近いものを拾う。


 ジークムントが作ったはずの偽物が、だ。


「殿下」


 その時、扉の外からサディアスが戻ってきた。いつも通り足音は静かだったが、表情がわずかに硬い。手には、小さく折られた報告書がある。


「東門側から、妙な噂が入っております」

「荷馬車か」

「それもございます。ですが、別の話です」


 サディアスは一度、部屋の中を見回した。盗賊団、ジークムント、そしてディアナ。話していい範囲を測っている顔だった。


「王都に、菫色の瞳の少女が来るらしい、と」


 音が消えた。


 ディアナは、呼吸を忘れた。


 菫色の瞳。


 その言葉を、知っている。


 知りすぎている。


 ジークムントの視線が、こちらへ向いた気がした。見ないでほしい。今だけは、見ないでほしい。けれど、そういう時ほど、この人は見ている。


 サディアスは続けた。


「東門の宿場で噂になっております。白い旅装の娘で、瞳が菫色に見えたそうです。教会の者が迎えに動いたとか、王城へ話が通るとか、そこまでは曖昧ですが」


 誰かが小さく息を呑んだ。


 誰だったかは分からない。


 ディアナかもしれない。


 菫色の指輪。

 菫色の糸。

 菫色の聖画片。

 そして、菫色の瞳の少女。


 偶然にしては、色が揃いすぎている。


 ディアナの左手の指輪は、もう白金色に戻っている。戻っているはずなのに、そこだけが妙に重かった。


 物語が近づいてくる。


 盗る前に、向こうから。


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