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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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番外編 黒猫つきの殿下と、朝から働く盗賊団


 警衛騎士団の朝は早い。


 まだ王都の屋根に薄い朝靄が残る頃、訓練場には騎士たちの掛け声と剣戟の音が響いていた。踏み固められた土。整然と並ぶ騎士たち。黒い騎士服の列。王国の治安と王城の守りを担う者たちらしい、張り詰めた空気がある。


 その中心に、ジークムント・ラ・パーソンはいた。


 銀白色の髪を後ろで軽く結び、黒い騎士服に身を包み、深い青灰色の瞳で訓練場を見渡している。


 冷静。

 怜悧。

 完璧。


 その肩に、黒猫が乗っていなければ。


「……」

「……」

「……」


 騎士たちは見ていないふりをした。


 見てはいけない。

 あれは、たぶん見てはいけないものだ。


 第一王子であり、警衛騎士団長であり、王城の裏まで平然と握る男。その肩に、小さな黒猫が前足をそろえて乗っている。


 黒猫は眠そうに目を細め、ジークムントの銀白色の髪を尻尾で軽く叩いた。


 誰も何も言わなかった。


 言えるはずがなかった。


「第三隊」


 ジークムントが静かに声を落とす。


「踏み込みが浅い。相手の剣だけを見ているから、肩の動きに遅れる」

「はっ」

「第五隊は魔法障壁の展開が遅い。実戦なら、二人抜かれている」

「はい」

「あと」


 ジークムントは少しだけ目を細めた。


 騎士たちは背筋を伸ばす。


「ノアが起きる。掛け声はもう少し抑えなさい」


 沈黙。


 黒猫が、みゃ、と鳴いた。


「……はっ」


 騎士たちは返事をした。小声だった。


 訓練場の端で、サディアスだけがいつもの顔で立っていた。手には書類がある。顔色は変わらない。けれど、視線が一度だけジークムントの肩へ向いた。


 降ろしては。


 そう言うべきか考えた顔だった。


 だが、言わなかった。


 サディアスは腹心として優秀だった。優秀すぎて、言っても無駄なことを知っている。


「殿下」

「何?」

「盗賊団アディンセルが到着しました」

「早いね」

「殿下が朝一番に呼びつけたからです」

「正確だね」

「訂正する余地がございませんので」


 騎士たちの空気がわずかに揺れた。


 盗賊団アディンセル。


 本物のオールトの指輪が迷いの森へ還った後も、王城の隅に根を張っている謎の集団。警衛騎士団の一部では、あれは協力者なのか、監視対象なのか、殿下の手駒なのか、盗賊娘の家族なのか、全部なのか、という非常に扱いに困る存在として共有されている。


 その扉が開いた。


「朝から盗賊団を働かせるな」


 最初に入ってきたリュクスが、低い声で言った。


 後ろにはミロ、ガロ、ダンテ、バルド、カイルが続いている。そして最後に、まだ少し眠そうな顔のディアナが外套を抱えて入ってきた。


「父さん、声。ノアが起きるらしいよ」

「知るか」


 リュクスは即答した。


 ノアはジークムントの肩の上で、片目だけ開けた。リュクスを見た。尻尾を揺らした。そこでまた目を細める。


「……何してるんですか」


 ディアナは訓練場に一歩踏み込んだところで止まった。


 警衛騎士団。

 整列した騎士たち。

 冷静な顔のジークムント。

 その肩の黒猫。


 朝から情報量が多い。


「訓練の確認だよ」

「猫を肩に乗せて?」

「ノアが離れなかった」

「ノアが離れなかったら肩に乗せたまま訓練するんですか」

「しているね」

「しているね、じゃないです」


 ミロが横から覗き込んだ。


「お嬢、殿下、あれだな。完全に魔王だな」

「言わないで。思ったけど言わないで」

「黒猫肩に乗せて訓練場の真ん中立ってんの、絵面が強すぎんだろ」

「ミロ、黙れ」


 カイルが短く言った。けれど、視線はジークムントの肩に向いていた。たぶん同じことを思っている。


 ガロは訓練場を見渡し、足元の土を確認している。ダンテは騎士たちの間合いを見て、魔銃には触れていないが、触れる位置にいる。バルドは欠伸をかみ殺しながら、ディアナの顔色を見た。


「寝不足か」

「朝が早い」

「寝不足だな」

「朝が早い」

「殿下のせいか」

「たぶん」

「何でそこでたぶんなんだ」


 リュクスの声がさらに低くなった。


 ジークムントは少しも悪びれない。


「君たちには、今日の実戦訓練に付き合ってもらう」

「朝飯前に言うことじゃねえ」

「朝食は用意している」

「そういう問題じゃねえ」

「働かせた相手に食事を出すのは当然だろう」

「そこだけまともな顔をするな」


 ミロが少しだけ手を上げた。


「飯は何ですか」

「ミロ」

「いや、大事だろ、頭」

「お前はすぐ買収されるな」

「食える時に食うのが盗賊だろ」


 ディアナは思わず頷きかけて、やめた。頷くと父さんに怒られる。


 ジークムントは訓練場の中央へ視線を戻した。


「王城の後始末はまだ終わっていない。神話に縋っていた者たちは逃げ道を探し、偽の記録を残し、金と人を動かそうとする。表から来る相手だけを見ている騎士では、抜かれる」


 声が変わった。


 猫を肩に乗せたままなのに、訓練場の空気が少し締まる。騎士たちの背筋も、盗賊団の視線も、自然とジークムントへ向いた。


「正面から斬りかかる悪意より、笑いながら横を抜ける悪意の方が厄介だ。だから今日は、盗賊に抜かれる訓練をする」

「抜かれる前提なの、騎士の人たちが可哀想じゃない?」

「抜かれてから学ぶ方が早い」

「朝から厳しい」

「実戦よりは優しいよ」


 ジークムントは微笑んだ。


 騎士たちは誰も笑わなかった。笑える空気ではない。肩の黒猫だけが、みゃ、と小さく鳴いた。


「ノアも同意している」

「猫を同意に使わないでください」


 ディアナが言うと、ノアはジークムントの肩で尻尾を揺らした。否定する気はなさそうだった。


 リュクスは深く息を吐いた。


「で、俺らに何をさせる気だ」

「騎士たちの腰につけた訓練徽章を盗ってほしい。制限時間は半刻。武器の使用は寸止め。魔法は殺傷なし。煙は可、毒は不可。騎士側は捕縛できれば勝ち」

「盗賊団相手に、腰のもん守れってか」

「分かりやすいだろう?」

「性格が悪い」

「褒め言葉として受け取るよ」

「褒めてねえ」


 騎士たちの何人かの眉が、ほんのわずかに動いた。声にはしない。したら、たぶん見抜かれる。


 ジークムントはディアナを見た。


「君も参加する?」

「聞き方が優しいようで、断れない空気を作るのやめません?」

「断ってもいいよ」

「断ったら?」

「ノアと見学席だね」

「それはそれで困る」

「なぜ?」

「ノアを人質みたいに使わないでください」

「人質ではないよ。猫質かな」

「もっと駄目です」


 ミロが吹き出した。カイルが肘で黙らせる。リュクスは頭を押さえた。


「朝から何聞かされてんだ、俺らは」

「父さん、私もそう思う」

「お前はまず参加するか決めろ」


 ディアナは訓練場を見た。


 整列した騎士たち。腰につけられた小さな金属の訓練徽章。踏み固められた土。障害物代わりに置かれた木箱と低い柵。壁際に控えるサディアス。中央に立つジークムント。その肩のノア。


 ジークムントは、ただ盗賊団をからかうために呼んだわけではない。


 たぶん。


 いや、かなりからかってはいる。


 でも、騎士たちに盗賊の動きを見せる必要があるのは分かる。正面から来るものだけを見ていたら、また誰かが役に置かれる。


 なら、盗賊の出番だ。


「やる」


 ディアナは外套を脱いで、近くの柵にかけた。


「でも、朝食はちゃんと出してください」

「もちろん」

「父さんたちの分も」

「用意している」

「ノアの分は?」

「サディアスが持っている」

「サディアスさん」

「用意しております」

「何で」


 サディアスは表情を変えなかった。


「殿下が必要だと仰いましたので」


 ノアの朝食まで準備済み。


 もう駄目だ。


 警衛騎士団の朝は、思ったよりだいぶ駄目だ。


 訓練が始まると、空気は一変した。


 ミロが最初に動いた。わざと大きく足音を立て、騎士たちの視線を集める。軽口を叩きながら真正面から突っ込み、三人の剣を引きつける。


「はいはい、こっちこっち。お兄さんたち、腰のそれ見えてるぞ」

「捕縛!」

「おっと、怖い怖い」


 騎士たちがミロへ意識を向けた瞬間、ガロがいなくなった。


 いや、最初からいたのかも分からない。


 低い柵の影、木箱の隙間、騎士の死角。足音がない。気配が薄い。気づいた時には、隊の後方にいた騎士の徽章がひとつ消えていた。


「後ろ!」


 騎士が振り向く。


 そこにはもう誰もいない。


 ダンテの魔銃が短く鳴った。殺傷用ではない。乾いた空砲が、騎士たちの判断を一瞬だけずらす。その隙に、カイルが低く踏み込んだ。剣の間合いに入る前に身を沈め、伸びた手が腰の徽章を外す。


「取った」

「速い!」


 バルドは走らなかった。代わりに、足元へ小さな煙玉を落とした。白い煙ではなく、土埃に紛れる薄い灰色。視界を完全には奪わない。ただ、距離感だけを狂わせる。


「毒じゃねえから安心しろ」

「安心できるか!」

「安心しろって言っただろ」

「言葉で安心できる相手ではありません!」


 騎士の悲鳴に近い返事を聞きながら、ディアナは低い柵を越えた。体が軽い。朝の眠気はもうない。指先が勝手に動く。視線は相手の腰ではなく、肩と足の向き、次に動く場所を読む。


 正面から行かない。


 相手が守ろうとした瞬間、その守りの外側へ滑り込む。


 騎士の一人がディアナへ手を伸ばした。ディアナはその手を避け、逆に袖口を軽く引く。ほんの一瞬、相手の重心がずれる。その間に、腰の徽章が外れた。


「はい、ひとつ」

「ディアナ様!」

「訓練中なので様はいらないです」

「いえ、そこは」

「集中」


 ジークムントの声が飛んだ。


 小さな声なのに、訓練場全体に通る。騎士たちは一瞬で姿勢を戻した。肩にノアを乗せたまま、ジークムントは全体を見ている。


「第二隊、ミロに釣られすぎだ。彼は目立つように動いている。目立つものは囮だと思いなさい」

「はっ」

「第五隊、ガロを探す時に足元だけ見るな。上も見る」


 ジークムントが指先を上げる。


 次の瞬間、木箱の上からガロが降りた。


「……見えてたのか」

「気配が消えすぎて、逆にそこしかなかった」

「殿下は本当に嫌な目をしてる」

「褒め言葉として受け取るよ」

「褒めてない」


 ガロが短く返す。リュクスが鼻で笑った。


 ジークムントの足元から、黒鉄色の鎖が一瞬だけ走った。捕らえるためではない。騎士たちの逃げ道と、盗賊団の抜け道を線で示すように、地面すれすれを走って止まる。


「今の隙間が抜かれた場所だ。見えたね」

「はっ」

「実戦なら、そこから人も書類も抜ける。場合によっては、命もね」


 軽い声ではなかった。


 訓練場が静まる。


 ディアナは、手の中の徽章を握った。ジークムントは本当に、これを騎士たちに見せたかったのだ。盗賊団の手癖。視線。足音。囮。逃げ道。正面から守るだけでは守れないもの。


 それを、肩に黒猫を乗せたまま教えている。


 説得力があるのかないのか、分からなくなる。


 ノアがジークムントの肩で大きく伸びをした。黒い背中が弓なりになり、尻尾がジークムントの頬をかすめる。


 騎士たちの視線が、ほんの少しだけ揺れた。


「視線」


 ジークムントが言った。


「猫に取られすぎだ」

「殿下、それは仕方ない気がします」


 ディアナが言うと、ジークムントは少しだけこちらを見た。


「仕方ない?」

「黒猫を肩に乗せた殿下は、視線を奪います」

「君も?」

「私はもう見慣れました」

「それは残念」


 ディアナは無視した。


 ここで拾うと負ける。


 訓練場で負けるわけにはいかない。何に負けるのかは分からないが。


 ミロが笑いすぎて足を止め、騎士に捕まりかけた。カイルがその襟を掴んで引き戻す。


「ミロ、遊ぶな」

「いや、今のは無理だろ」

「訓練中だ」

「お前、真面目だなあ」

「ディアナがいるからだ」


 カイルが当然のように言った。


 ディアナは一瞬だけ顔を上げた。カイルはもう別の騎士へ向かっている。昔からそうだ。近すぎず、離れすぎず、当たり前のようにそこにいる。


 ジークムントの視線が、一瞬だけカイルへ行った。


 本当に一瞬だけだった。


 ノアが、みゃ、と鳴く。


 ジークムントは何も言わず、騎士たちへ視線を戻した。


「最後の一巡だ。盗賊団は残りの徽章を三つ。騎士団は誰かひとりでも捕縛できれば引き分け」

「引き分けって何だよ」


 リュクスが言う。


「朝食の品数が変わる」

「最初からそう言え」

「父さん、そこ?」

「大事だろうが」

「大事だけど」


 そこからは早かった。


 騎士たちはさっきより反応が良くなっていた。ミロの囮に釣られすぎない。ガロの足音が消えた時、上を見る者がいる。ダンテの空砲にも動きを止めない。バルドの煙には、風上を読む。カイルの低い踏み込みへ、盾役が一歩ずれる。


 抜かれる。


 けれど、完全には崩れない。


 ディアナが最後の徽章へ手を伸ばした瞬間、騎士の一人が身をひねって守った。読まれている。なら、予定を変える。ディアナは伸ばした手を引っ込め、相手の守った腰ではなく、その視線が一瞬だけ外れた反対側へ回る。


 そこに、黒鉄色の鎖が一本落ちた。


 止めるほどではない。


 ただ、踏めば音が出る位置。


 ジークムントの仕掛けだ。


 ディアナは思わず笑いそうになった。


 ひどい。


 盗賊の足音を騎士に聞かせるために、鎖を置いたのだ。


 ディアナはその鎖の手前で止まり、逆に鎖を指先で軽く弾いた。硬い音が鳴る。騎士の視線がそこへ落ちる。


 その瞬間、ミロが横から徽章を取った。


「あ、ずるい!」

「盗賊にずるいって言うなよ」


 ミロが笑う。


 ジークムントも少しだけ笑った。


「今のは良い連携だね」

「殿下の鎖も利用するな、お前ら」


 リュクスが呆れた声を出す。


「使えるものは使うべきだと、ジーク様からも父さんからも学んだので」

「俺はそんな王子みたいな言い方してねえ」

「意味は同じ」

「違う」


 サディアスが静かに砂時計を見た。


「そこまで」


 訓練場に息が落ちた。


 騎士たちは疲れた顔をしている。盗賊団もそれなりに息が上がっていたが、ミロだけはまだ笑っていた。ガロは影から戻り、ダンテは魔銃を下ろす。バルドは騎士の足首を見て、軽く手当ての指示を出していた。カイルは取った徽章をきちんと数えている。


 ジークムントは肩のノアを落とさないまま、騎士たちの前へ出た。


「今日抜かれた場所を覚えておきなさい。剣が届く場所だけが戦場ではない。悪意は、帳簿にも、荷馬車にも、噂にも、足音にも紛れる。神話は還ったけれど、人間の嘘は残る。君たちが守るのは、白い花でも女神像でもない」


 深い青灰色の瞳が、騎士たちを見渡す。


「今、ここで生きている人間だ」


 騎士たちの顔が変わった。


 ディアナは、少しだけ息を止めた。


 猫を肩に乗せているのに。

 朝から盗賊団を呼びつけたのに。

 言っていることは、ちゃんと警衛騎士団長だった。


 そういうところが、ずるい。


「以上。朝食にしよう」


 一瞬で空気が戻った。


「切り替えが早い」


 ディアナが呟くと、ジークムントがこちらを見た。


「空腹の盗賊を放置すると危険だろう?」

「分かっているなら朝から呼ばないでください」

「朝の方が足がよく動く」

「盗賊団を訓練器具にしないでください」

「実戦的だよ」


 ディアナは言い返す言葉に詰まり、父の方を見た。


「父さん」


 助けを求めたつもりだった。


 リュクスは、ジークムントをものすごく嫌そうに見た。


「殿下」

「何かな」

「次からは前日までに言え」

「分かった」

「あと飯は多めに出せ」

「もちろん」

「それと猫を肩に乗せたまま訓練するな」

「それはノア次第だね」


 リュクスは本気で嫌そうな顔をした。


「猫まで言うこと聞かねえのか」

「ノアは自由だからね」

「盗賊団みてえな猫だな」

「褒めてる?」

「褒めてねえ」


 ノアはジークムントの肩から軽く跳んだ。


 騎士たちが反射的に道を空ける。黒猫は訓練場の土を横切り、ディアナの前まで来た。ディアナがしゃがんで両手を広げる。


「ノア、こっち」


 ノアはディアナを見た。


 それから、サディアスが持っている小さな包みを見た。


 迷わずそちらへ行った。


「裏切り者」

「みゃ」

「朝食に負けた」


 ジークムントが小さく笑う。


「君も来ればいい」

「それは私も朝食に釣られろという意味ですか」

「違うよ」


 そこで、ジークムントは一拍だけ黙った。黙った時点で、もう信用できない。


「たぶん」

「今、たぶんって言いましたよね」

「聞き間違いでは?」

「ジーク様」

「何?」

「甘やかすふりをして盗賊団ごと働かせるの、かなり悪いです」

「自覚はあるよ」

「開き直った」


 ミロが背後で笑った。


「お嬢、飯行こうぜ。働かされた分、食わねえと」

「そうする」


 カイルがディアナの外套を取って渡した。


「寒くないか」

「平気。ありがと」


 ジークムントの視線が一瞬だけこちらに来た気がしたが、今度は何も言わなかった。言わない代わりに、ノアがサディアスの包みから顔を上げ、みゃ、と鳴く。


 まるで場を丸めるような声だった。


 サディアスは淡々と言った。


「朝食の席は、旧訓練棟側に用意してあります」

「え、警衛騎士団の方じゃなくて?」

「盗賊団の皆様が落ち着いて召し上がれる場所を、との殿下のご指示です」


 ディアナはジークムントを見た。


 ジークムントは涼しい顔をしている。


 からかわれた。

 働かされた。

 朝から訓練に巻き込まれた。


 けれど、ちゃんと旧訓練棟側に朝食を用意している。


 そういうところも、ずるい。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「でも、次から朝一番はやめてください」

「努力するよ」

「それ、しない時の返事です」

「だいたい分かります」

「それは嬉しい」

「褒めてません」


 リュクスが二人の間に割って入るように歩き出した。


「飯だ、飯。殿下と長く話すな。腹が減る」

「父さん、それは逆じゃない?」

「胃も減る」

「胃は減らない」

「殿下相手だと減る」

「否定しづらい」


 ジークムントは楽しそうに笑った。ノアはサディアスの足元を歩き、途中で気が変わったようにディアナの裾へ体を擦りつける。


 自由だ。


 本当に自由だ。


 ディアナはノアを見下ろし、それから訓練場の中央を振り返った。騎士たちはまだ徽章を確認し、盗られた場所を互いに話している。さっきまで猫に気を遣っていたとは思えない真面目さだった。


 働かされたのは腹立たしい。けれど、騎士たちが盗られた場所を真剣に確認しているのを見ると、少しだけ悪くない気もした。


 人間の生活は続く。


 神話が還っても、朝は来る。騎士は訓練し、盗賊団は盗み、猫は好きな肩に乗る。そしてジークムントは、黒猫を肩に乗せたまま、平然と王国の後始末を進めている。


 ディアナは小さく息を吐いた。


「ノア」

「みゃ」

「次から、ジーク様の肩に乗るなら事前に教えて」

「みゃ」

「返事だけはいいんだから」


 ジークムントが横から言った。


「君に似たのかな」

「似てません」

「そう?」

「似てません」


 ノアが、みゃ、と鳴いた。


 どちらの味方か分からない声だった。


 ディアナは少しだけ笑ってしまった。負けた気がする。猫に。朝食に。ついでに、たぶんジークムントにも。


 でも、今日はそれでいい。


 今はまだ、父さんたちの笑い声と、ノアの尻尾と、朝食の匂いくらいがちょうどいい。


 ディアナは外套を羽織り、ノアを追いかけるように歩き出した。


 背後で、ジークムントの声が騎士たちへ落ちる。


「午後は、抜け道の図面確認をする」


 リュクスが振り返った。


「殿下」

「何かな」

「朝から盗賊団を働かせるなって言ったばかりだろうが」

「だから午後だよ」

「そういう意味じゃねえ!」


 旧訓練棟へ向かう道に、盗賊団の笑い声が響いた。


 ノアはその先頭を、当然のような顔で歩いていた。


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