番外編 盗賊娘と、令嬢と、女神ではない少女
王城の庭園奥、蔦の絡む白い柱のガゼボは、午後の光をやわらかく受けていた。
丸い卓には薄い布が掛けられ、銀の茶器と焼き菓子の皿が並んでいる。卓の端に飾られているのは、淡い青と黄色の小さな花だった。白花ではない。女神の花でも、王城の礼典に使うような花でもない。庭師が今朝、庭から選んだだけの花。
それだけで、少し息がしやすかった。
ディアナは椅子に座ったまま、膝の上で両手を揃えていた。左手の指輪は、今日も黒い輪の中に赤い宝石を抱いている。庭の光を受けると、黒の縁がかすかに銀を返した。
お茶会。
それはつまり、令嬢の戦場である。
……という認識は、たぶん少しだけ間違っている。少しだけだ。たぶん。
「ディアナ様、今日は誰もあなたの作法を採点いたしません」
向かいに座るイレーネが、静かに言った。
黒絹のような髪を背に流し、淡い青のドレスに身を包んでいる。氷青の瞳は穏やかで、けれど背筋の美しさは相変わらずだった。庭園のガゼボに座っているだけで、周囲の空気が整う人である。
「それが一番怖いんですけど」
「なぜですの」
「採点されてない時のほうが、うっかり素が出るので」
「今も十分出ているように見えます」
「もう駄目だった」
イレーネの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その表情を見るたびに、胸の奥がじんわり温かくなる。断罪台に立たされた少女ではない。悪役令嬢として置かれた人でもない。こうして午後の庭で、少しだけ笑っているイレーネがいる。
それを見られるだけで、ディアナはこの席に来てよかったと思った。
庭の小道から、控えめな足音が近づいてくる。
案内役の侍女に続いて現れたリリアは、薄桃色のドレスを着ていた。菫色の瞳は変わらない。けれど、その色を見て誰かが膝を折る空気は、ここにはなかった。
リリアはガゼボの入口で立ち止まり、深く頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。リリア様、お座りください」
「はい」
リリアは椅子へ近づきかけ、けれど途中で立ち止まった。指先が胸元で小さく重なる。
ディアナはその手を見た。細い指が、少しだけ震えている。
「あの」
リリアの声は小さかった。
「お二人に、ちゃんと謝りたかったんです」
庭の風が、白い柱の蔦を揺らした。
紅茶の香りがある。焼き菓子の甘い匂いもある。近くの花壇では、小さな花が光を受けて揺れている。それでも、リリアの言葉はまっすぐ落ちた。
「私は、知らなかったことがたくさんありました。知らないまま、誰かに言われるままに立って、見たいものを見られて……それで、お二人を傷つけました」
リリアの視線が、まずイレーネへ向く。
「イレーネ様。私は、あなたの隣にあるものを奪いたかったわけではありません。でも、そう見える場所に立ちました。あなたに向くはずではない視線まで、あなたへ向けてしまいました」
次に、リリアはディアナを見た。
「ディアナ様。私は、ジークムント殿下のことも、ちゃんと見ていたつもりでした。でも、今思うと、聞かされた話を見ていたのだと思います。ディアナ様に叱られて、ようやく分かりました」
胸の奥が、少し痛んだ。
あの時、ディアナは怒った。リリアの善意を、きれいに受け止めることができなかった。できなかったし、たぶん今でも同じ言葉を聞いたら怒る。
でも、目の前にいるリリアは、もう誰かのせいにしていなかった。
女神役にされたから悪くない、と逃げていない。何も知らなかったから仕方ない、と目を伏せてもいない。
ただ、自分の言葉で謝ろうとしていた。
イレーネはしばらくリリアを見ていた。それから、静かに紅茶のカップを置く。
「気にしなくてよい、とは申しません」
リリアの肩が、小さく揺れた。
イレーネの声は冷たくない。けれど、甘くもなかった。
「けれど、あなたが背負うべきものではありません。あなたを置いた人たちがいて、あなたを見たい形で見た人たちがいて、その視線を利用した人たちがいました。あなた自身がしたことと、あなたに背負わされたものを、同じ重さにしてはいけません」
リリアは息を止めた。
ディアナも止めた。
イレーネ様、強い。
そういうところが、どうしようもなく好きだ。
「イレーネ様、そういうところが好きです」
口から出た。
出てしまった。
イレーネが一瞬だけ固まった。リリアも目を丸くする。ディアナは自分の口を押さえた。
「すみません。心の声が逃走しました」
「逃走するのですか」
「よくします」
「よくするものではないと思います」
リリアが、小さく笑った。
声は控えめだったけれど、たしかに笑った。緊張で固まっていた肩が、ほんの少し下りる。
それを見て、ディアナも息を吐いた。
よかった。
少しだけ、空気を盗れた。
「私、練習しているんです」
リリアが言った。
「練習?」
「はい。鏡の前で」
リリアは背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いた。
「私は、女神ではありません」
言い終わったあと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せる。
「そう言う練習です。誰かに言われる前に、自分で言えるように」
ディアナは真剣に頷いた。
「分かります。盗賊団でもやります」
「盗賊団でも?」
「はい。捕まってません、通りすがりです。何も持ってません、これは落とし物です。道に迷っただけです、扉の鍵が開いていたので」
「ディアナ様、それはたぶん違います」
リリアが困った顔で言った。
イレーネも静かに頷く。
「違いますね」
「二対一」
「数の問題ではありません」
ディアナは焼き菓子を一つ取った。薄く砂糖のかかった小さな菓子は、指で持つとほろりと崩れそうだった。
「でも、自分で言うのは大事です。最初に自分で名乗らないと、他人が勝手に名前をかぶせてきますから」
「名前を、かぶせる」
「はい。女神とか、悪役令嬢とか、盗賊娘とか」
言ってから、ディアナは少しだけ目を細めた。
盗賊娘、は自分で名乗っている気もする。そこはまあ、いい。押しつけられた名前ではなく、自分で盗ってきた名前なら問題ない。
「嫌な名前をかぶせられたら、脱げばいいんです。脱げないなら、その名前を置いた場所ごと抜け出します」
「場所ごと」
「盗賊なので」
「便利な言葉ですのね」
イレーネが呆れたように言い、けれどその声は柔らかかった。
リリアは両手でカップを包み込むように持った。菫色の瞳が、紅茶の水面へ落ちる。
「私は、まだ怖いです」
小さな声だった。
「女神ではありません、と言ったら、がっかりされるのではないかと思います。怒られるかもしれない。信じてもらえないかもしれない。菫色の瞳があるのに、どうして違うと言うのかと、責められるかもしれません」
その痛みは、きっとすぐには消えない。
菫色の瞳は変わらない。人は見たいものを見る。女神を失った人々は、祈りの行き場を探して、またリリアへ目を向けるかもしれない。
でも、リリアはカップを置いた。
「それでも、違うと言える人になりたいです」
イレーネが頷いた。
「その時は、何度でも言えばよろしいのです。一度で聞かない相手には、二度。二度で足りなければ、三度」
「それでも駄目なら、盗賊団を呼びます」
「ディアナ様」
「すみません。すぐ実力行使に寄りました」
「少し安心しました」
リリアがぽつりと言ったので、ディアナは目を瞬いた。
「安心?」
「はい。お二人とも、とてもお強い方に見えていたので。私だけ、ずっと足りない気がしていました。でも、ディアナ様も時々かなり強引で、イレーネ様も優しいだけではなくて」
リリアの表情が、少しだけほどける。
「それが、安心しました」
ディアナは焼き菓子を口に入れかけて、止まった。
そう言われると、どう返せばいいのか分からない。
強引で安心される盗賊娘とは。
「リリア様。私、たぶん褒められてます?」
「はい」
「本当に?」
「たぶん」
たぶんだった。
イレーネが小さく笑った。
その笑いが、午後の庭にやわらかく混じる。白い柱の外では、葉が揺れている。紅茶は温かく、焼き菓子は甘い。誰も祈っていない。誰も膝を折らない。誰も役を置かない。
ただ、三人で座っている。
それが不思議で、少しだけ嬉しかった。
「あの」
リリアが、今度は少し遠慮がちにディアナを見た。
「ひとつ、伺ってもいいですか」
「はい。盗賊団の抜け道以外なら」
「抜け道は伺いません」
リリアは少し迷ったあと、口を開く。
「ジークムント殿下は、ディアナ様には……その、少し違うお顔をされますね」
紅茶が危なかった。
飲む前でよかった。飲んでいたら、たぶんむせていた。
「ち、違う顔とは」
「違うというより、かなり分かりやすいのでは?」
イレーネが静かに紅茶を置いた。
ディアナは勢いよくイレーネを見る。
「どこがですか!? あの人、基本的に全部怖いですよ!」
「怖いことと、分かりにくいことは別です」
「名言みたいに言わないでください」
「ディアナ様を見る時は、少しだけ人間らしい顔をなさいます」
「人間らしい」
悪役王子に対する評価として、どうなのだろう。
いや、分かる。
分かってしまうのが悔しい。
リリアはカップに視線を落とした。菫色の瞳に、少しだけ影が差す。
「私は、最初は怖い方だと思いました。次に、苦しい方なのかもしれないと思いました。でも、それも違ったのだと思います。私が見ていたのは、たぶん、誰かから聞いた殿下でした」
ディアナは黙った。
リリアの声には、まだ少し痛みが残っている。
ジークムントに向けたものが恋だったのか、運命の引力だったのか、本人にもまだ分けきれないのかもしれない。けれど、今のリリアは、その痛みを誰かのせいにはしていなかった。
「でも、ディアナ様を見る時は」
リリアが顔を上げる。
「怖いだけではない気がします」
胸の奥が、変な音を立てた。
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
ガゼボの柱、庭の小道、侍女の立ち位置、生け垣の隙間。全部分かる。今なら走れる。たぶんイレーネに止められる。リリアにも見られる。最悪だ。
「……怖いだけじゃないとしても、性格は悪いです」
「それは存じております」
イレーネが即答した。
ディアナは少しだけ救われた。
「ですよね」
「ええ。けれど、あなたの前では性格の悪さの使い方が少し変わります」
「変わります?」
「からかうために使われています」
「救いがない」
「それだけではないと思いますが」
イレーネの視線が、ディアナの左手へ落ちた。
黒い輪と、赤い宝石。
ディアナは思わず指輪を右手で包んだ。
「逃げ道は残してくださるのでしょう?」
イレーネが言った。
ディアナは返事に詰まった。
そうだ。
あの人は、逃げ道を塞ぎたがる。欲しいものを逃がしたくない人だ。必要なら裏で盤面を組み、相手の喉元へ黒鉄色の鎖をかけるような人だ。
それでも、ディアナには逃げ道を残すと言った。
戻る場所は自分であってほしい、と言いながら。
最悪だ。
最悪なのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……残す、とは言ってました」
「それなら、怖いだけではありませんね」
「でも、戻る場所は自分にしろって言うんですよ」
「まあ」
「まあ、ではないです」
「ジークムント殿下らしいのでは?」
「イレーネ様までそっち側に」
リリアが小さく笑った。
今度の笑いは、さっきより自然だった。痛みがないわけではない。けれど、そこに羨望だけがあるわけでもない。
ディアナを見るリリアの目は、少しだけまぶしいものを見るようで、けれどちゃんと相手を祝おうとしている目だった。
「ディアナ様は、殿下のことが、お好きなのですね」
直球だった。
菫色の瞳で言われると、逃げ場がない。
ディアナは固まった。イレーネは何も言わず、ただ静かにカップを持つ。逃がさない気だ。上品に逃がさない。さすがである。
「……盗賊なので」
「はい」
「欲しいものは、自分で盗るので」
「はい」
「その、つまり」
顔が熱い。耳まで熱い。たぶん赤い。指輪ではなく自分が赤い。これはもうどうにもならない。
「……好き、です」
声は小さかった。
けれど、言った。
言ってしまった。
庭の風が、ガゼボを抜けていく。
リリアは驚いたように目を開き、それから、ゆっくり微笑んだ。少しだけ寂しそうで、でも優しい笑みだった。
「聞けてよかったです」
その一言に、胸が痛んだ。
「リリア様」
「大丈夫です。まだ少し痛いです。でも、誰かのせいにしたくありません」
リリアは自分の胸に手を当てた。
「私が見ていたものも、感じたものも、全部が嘘だったとは思いたくありません。でも、それで誰かの隣を奪いたいわけではないんです。私は、もう誰かのための女神にはなりたくありません」
イレーネが、静かに頷いた。
「それでよろしいのだと思います」
「はい」
リリアの声は、さっきより少しだけ強かった。
ディアナは焼き菓子をひとつ、リリアの皿へそっと押し出した。
「では、これは慰謝料ではなく、普通のお茶会の追加報酬です」
「報酬なのですか」
「甘いものはだいたい報酬です」
「それは少し分かります」
「リリア様、分かってしまいましたか。盗賊団適性があります」
「ありません」
「即答」
リリアは今度こそ笑った。
イレーネも、目元をやわらげる。
それから三人は、しばらく本当に普通の話をした。
好きな菓子の話。苦手な社交相手の話。王城の廊下が似すぎていて迷いやすい話。リリアが初めて王都へ来た時、馬車の窓から見た店の多さに驚いた話。イレーネが子どもの頃、厳しい教師の目を盗んで庭に出た話。ディアナが盗賊団の目を盗んで菓子を食べようとして、普通に全員にばれていた話。
「盗賊団なのに、なぜばれるのですか」
「身内にはだいたいばれます」
「それは盗賊としてよいのですか」
「よくないので、精進しました」
話しているうちに、紅茶は二杯目になり、皿の菓子は半分以上なくなった。
神話の話をしなくても、時間は過ぎる。
役の話をしなくても、笑うことはできる。
それが、思っていたよりずっと大事なことのように思えた。
やがて、庭の光が少し傾いた。白い柱の影が芝の上へ長く伸び、花壇の花びらに金色が混じる。
リリアが、庭の花を見ながら小さく言った。
「私は、女神ではありません」
震えはまだあった。
けれど、言葉は消えなかった。
イレーネはその横顔を見て、静かに頷く。
「では、わたくしは悪役令嬢ではありません」
凛とした声だった。
誰かを傷つけるための令嬢ではない。断罪されるために置かれた少女ではない。自分の意思で隣に立ち、自分の言葉で王国の表へ向かう人。
ディアナは二人を見た。
女神ではない少女。
悪役令嬢ではない令嬢。
では、自分は何だろう。
少し考えて、笑った。
「私は、選ばれなかった盗賊娘です」
二人の視線が、ディアナへ向く。
ディアナは左手を軽く握った。黒い輪の中で、赤い宝石が夕方の光を小さく返す。
「でも、盗りたいものは自分で盗るので」
リリアが瞬きをした。
イレーネが、少しだけ笑った。
「あなたらしいですわ」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めています」
「では、遠慮なく受け取ります。盗賊なので」
ガゼボの中に、やわらかな笑いが落ちた。
庭の花は、ただの花として揺れている。
祈りを背負わない。断罪を待たない。選ばれなかったことを嘆くだけでもない。
三人は、同じ場所に並んでいた。
役から降りた少女たちとして。
そして、これから自分の足で歩く少女たちとして。




