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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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番外編 第二王子と悪役令嬢ではない婚約者


 女神の涙が消えても、朝は来た。


 そして、朝が来れば書類も来る。


 王城東棟の会議室には、昨日まで女神祭を飾っていた白い花の名残があった。花飾りはすでに外され、窓の桟に花弁だけがひとつ残っている。清らかな象徴だったはずの白が、今はただの花びらとしてそこにあった。


 クリスは机の上に積まれた紙の山を見て、静かに息を吐いた。


「神話が終わっても、人間は紙を出すんだね」

「むしろ増えております、殿下」


 側近が、たいへん申し訳なさそうに答えた。


「だろうね」


 教会からの弁明書。王妃宮の名を借りた指示の写し。民へ出す言葉の草案。どれも、人間の手で書かれたものだった。


 人間が隠し、人間が押しつけ、人間が取り繕おうとしている。


 神話の後始末と呼ぶには、あまりにも人間臭い。


「兄上は?」

「神殿奥の封印庫へ。サディアス殿もご一緒です」

「ああ」


 クリスは少しだけ笑った。


「今日は、裏側の人たちがよく喋るだろうね」

「おそらくは」

「兄上は本当に裏に向いている」


 その兄は、王城の裏で逃げ道を塞いでいる。黒鉄色の鎖と、抜け目のない証拠の束で、女神の名を借りて人を役に置こうとした者たちを一人ずつ盤面へ乗せているはずだった。


 では、表は。


 クリスは一枚の紙を手に取った。


 王ではない。


 けれど今、この場で王国の言葉を預かる意味を、誰より自分が分かっている。


「本日の協議については、父王より私に一任されています」


 クリスが言うと、会議室に控えていた官吏たちの姿勢がわずかに変わった。


 柔らかな声だった。


 けれど、逃げ道を残さない言葉でもあった。


「ここで交わす言葉は、僕個人の感想ではなく、王家の返答として扱ってください。もちろん、都合が悪くなった時だけ“第二王子の私見”に戻すのはなしで」


 何人かが、ぎこちなく頷いた。側近が一瞬だけ目を伏せる。笑いを堪えた顔だった。


 その時、扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、イレーネだった。


 黒絹のような髪を背に流し、淡い色のドレスをまとっている。華やかではない。だが、彼女が背筋を伸ばして立つだけで、会議室の空気がひとつ整った。


 氷青の瞳が、紙の山と、そこに並ぶ人々を見た。


「お仕事中に失礼いたします」


 イレーネは丁寧に一礼した。


「マルチェント家へ届いた書状の写しをお持ちしました。それから、女神祭に関係した寄付筋のうち、家名を隠していたものの一覧もございます」

「助かるよ、イレーネ嬢」


 クリスは立ち上がった。


 イレーネが紙束を机に置く。角のそろった紙だった。次に読む者が困らないよう、きちんと整えられている。彼女らしい置き方だ。


「これは、君が?」

「家の古い帳簿を確認しただけです」

「だけ、の量ではないね」

「必要なことでしたから」


 イレーネは静かに答えた。


 官吏たちの視線が揺れる。昨日まで、彼女へ疑いの目を向けていた者もいる。マルチェント公爵令嬢が何かを仕掛けたのではないか。沈黙しているのは後ろ暗いからではないか。そう見た者たちだ。


 その視線を、イレーネは避けなかった。


「マルチェント家の名を使った者がいる以上、家として出せるものは出します。疑いを晴らすためだけではありません。同じものが、また誰かの名で使われないようにするためです」


 会議室が静かになった。


 クリスは、ほんの少し目を細める。


 彼女は強い。


 傷つけられたことを、ただ傷として終わらせない。自分の名を使われたことに傷つきながら、その名を使って次に同じことが起きないようにしようとしている。


 イレーネ・ブラディ・マルチェントは、悪役令嬢ではない。


 そんな否定だけでは、もう足りない。


 彼女は彼女の名で、ここに立っている。


「では、マルチェント公爵令嬢にも同席していただこう」


 クリスが言うと、年配の官吏がかすかに眉を動かした。


「殿下、しかし」

「関係者だよ。そして、被害を受けた家でもある。さらに、この帳簿を読むなら彼女以上に早い人間は少ない」

「ですが、昨日の今日で令嬢にご負担を」

「ご心配ありがとうございます」


 イレーネの声が、すっと入った。


 大きな声ではない。けれど、退かない声だった。


「ですが、私の負担を理由に、私の席を遠ざけることはおやめください」


 官吏が口を閉じた。


 クリスは笑いそうになった。


 笑う場面ではない。


 分かっている。


 それでも、胸の奥が少しだけ軽くなった。


「では、こちらへ」


 クリスは自分の隣の椅子を引いた。


 イレーネは一瞬だけ、その椅子を見た。


 そこは、誰かが紙に書いた席ではなかった。


 イレーネは静かに歩き、そこへ座った。


 ただ、それだけだった。


 けれど、誰かが紙に書いた配置は、もうそこにはなかった。


「始めようか」


 クリスは言った。


 そこから先は、ひたすら人間の後始末だった。


 女神の涙が失われたことをどう告げるか。女神祭で行われかけた儀礼の歪みを、どこまで公表するか。菫色の瞳を持つ少女を女神の代理として扱う動きに、王家としてどう線を引くか。教会と王妃宮の名を借りて動いた者たちを、どの順番で表へ出すか。


 綺麗な言葉だけでは済まない。


 けれど、汚れた言葉だけで片づけてもならない。


「民には、女神の涙が神域へ還ったと告げる案が出ています」


 官吏の一人が言った。


「失われた、とするより混乱は抑えられるかと」

「還った、だけでは足りません」


 イレーネが言う。


「それでは、新しい神話を置くだけになります」

「ですが、すべてを告げれば不安が広がります」

「はい。ですから、女神の涙に頼りきる時代は終わった、と告げるべきではないでしょうか。女神を否定するのではなく、女神の名で誰かを役に置くことを終わらせるのだと」


 会議室の中で、誰かが息を呑んだ。


 クリスは彼女を見た。


「強い言い方だね」

「強すぎますか」

「いや。骨は強い方がいい」


 クリスは紙へ視線を落とした。


「ただ、民に届くように、少し形を整えよう」


 イレーネが真っ直ぐに骨を置く。


 クリスが、それを人に届く言葉へ変える。


 そういう役割が、自然にできていく。


「女神の涙は、王国を見捨てたのではありません」


 クリスはゆっくりと言葉を置いた。


「長く支えとされてきたものが、役目を終えたのです。これから王国が守るべきものは、失われた指輪ではなく、今日を積み上げる民の暮らしです。女神の名を借りて誰かを裁くことも、菫色の瞳を持つ少女へ祈りを押しつけることも、王家は認めません」


 官吏たちは黙って聞いていた。


 イレーネも、隣でその横顔を見ていた。


 クリスは軽い人だと思われやすい。実際、彼は軽く見せるのがうまい。笑って場をほどき、冗談で相手の本音を引き出し、深刻な話を少しだけ飲み込みやすい形にする。


 けれど、それは逃げるための軽さではなかったのだと、今なら分かる。


 重いものをそのまま投げれば、人は潰れる。


 だから彼は、言葉の形を整える。


「今の言い方で、どうかな」


 クリスが尋ねる。


「よいと思います」

「少し硬い?」

「殿下にしては」

「僕にしては、か」


 クリスは小さく笑った。


「では、少しだけやわらかくしよう。兄上なら、このまま出して相手の逃げ道を塞ぐだろうけど」

「ジークムント殿下は、表に出す文としては少々怖すぎます」

「うん。本人も裏が向いていると言っていたしね」


 会議室の端で、誰かが咳払いをした。


 笑いを堪えた咳だった。


 イレーネは少しだけ瞬きをしたあと、口元を押さえた。ほんのわずかに、笑っていた。


 クリスはそれを見逃さなかった。


 見逃さなかったが、指摘はしない。


 彼女がようやくこぼした小さな柔らかさを、見世物にしたくなかった。


 会議が終わった頃には、窓の外が夕方に傾いていた。


 官吏たちが紙束を抱えて出ていく。側近たちも、清書や伝令の手配へ散った。会議室に残ったのは、クリスとイレーネだけになる。


 紙の匂いと、冷めた茶の香り。


 机の右端には、妙に綺麗に積まれた紙の山がある。


 イレーネはそれを見た。


「そちらは?」

「兄上に回す分」

「……多くありませんか」

「兄上が一言話した方が早い相手ばかりだからね」


 クリスは悪びれずに言った。


「僕が三枚の書状と二度の会談で説得するより、兄上が一度笑ってくださった方が早い」

「笑って、ですか」

「うん。相手が二度と同じ言い訳をしたくなくなる笑い方をする」


 イレーネはしばらく紙の山を見つめた。


「……ジークムント殿下を、便利な脅しの道具のように使っていらっしゃいませんか」

「使えるものは使うべきだと兄上から学んだからね」

「学ぶところが、そこなのですね」

「兄上は教材として優秀だから」


 イレーネが目を伏せた。


 今度は、はっきり笑っていた。


 それも、すぐに整えられてしまうほど小さな笑みだったけれど。


「ジークムント殿下がお聞きになれば、怒られるのでは」

「怒らないよ。たぶん、面白がる」

「面白がるのですか」

「うん。そして次から、僕に回す書類も増える」

「それは、よい関係なのでしょうか」

「兄弟仲としては、たぶん悪くない」


 クリスは右端の紙の山を軽く叩いた。


「それに、兄上へ回す相手を選ぶのも、表の仕事だよ。言葉で済む相手には言葉を。言葉を悪用する相手には、兄上を」

「王国の表側とは、思ったより物騒なのですね」

「裏に兄上がいるからね」


 軽い言い方だった。


 けれど、イレーネはその奥の意味も分かった。


 クリスは表に立つ。人へ届く言葉を選ぶ。


 けれど、綺麗な言葉だけで守れないものがあることも、もう知っている。


「クリス殿下」


 イレーネは、机の左側に残った紙へ視線を移した。


「こちらは、私が持ち帰ってもよろしいでしょうか」

「それは、マルチェント家の旧寄付筋の一覧だね」

「はい。家で確認すれば、名前を変えているものも追えるかもしれません。父にも見せます」

「助かるよ。ただ、無理はしないで」

「必要なことです」

「うん」


 クリスは頷いた。


 前なら、ここで「休んだ方がいい」と言ったかもしれない。彼女を気遣う言葉としては間違っていない。けれど、それだけでは彼女の場所を遠ざけることにもなる。


 イレーネはもう、守られるためだけに隣へ座っているのではない。


 彼女は、自分の名前で仕事をしている。


「では、写しを作らせる。原本は城に残すよ」

「ありがとうございます」

「明日も来られる?」

「必要でしたら」

「必要だよ」


 イレーネが少しだけ彼を見る。


「即答ですね」

「君が隣にいると、言葉が逃げない」

「逃げるのですか、言葉が」

「逃げるよ。綺麗にしすぎると、時々、本当に言うべきことまで隠れる。君が隣にいると、真ん中が曲がらない」


 イレーネはすぐには答えなかった。


 褒め言葉として受け取っていいのか、仕事の評価として返すべきなのか、少し迷っている顔だった。


「それは、喜んでよいのでしょうか」

「もちろん」

「では、ありがとうございます」


 丁寧な返事だった。


 クリスは笑う。


「イレーネ」

「はい」

「僕が隣にいると、何か役に立つ?」


 問うたあとで、少しだけ軽すぎただろうかと思った。


 けれど、イレーネは真面目に考えた。


 真面目に考えてから、静かに答える。


「言葉が、人に届く形になるところを見られます」

「それは仕事の話だね」

「仕事の話です」

「婚約者としては?」

「……クリス殿下」


 少しだけ、困った声だった。


 クリスは笑った。


「ごめん。意地悪だった」

「本当に、少し意地悪です」


 その返しが、思ったよりやわらかかった。


 会議室の外では、まだ人の足音が忙しく行き交っている。王国は荒れる。神話を失った国は、何度も過去へ戻ろうとするだろう。リリアを女神へ戻そうとする者も、イレーネを罪の形へ戻そうとする者も、ジークムントを悪の竜へ押し込めようとする者も出る。


 そのたびに、表では言葉を積まなければならない。


 嘘を剥がし、逃げ道を塞ぎ、けれど民が立てる場所を残す。


 簡単ではない。


 それでも、隣にこの人がいる。


「少し歩かない?」


 クリスは言った。


 イレーネは机の上の紙を見た。


「まだ書類が残っています」

「兄上行きの山は、明日の朝に増やしてから渡した方が効率がいい」

「効率の問題でしょうか」

「うん。兄上に渡すなら、一度で済ませたい」

「ジークムント殿下が不憫に思えてきました」

「大丈夫。兄上はその程度で傷つかない」

「そういう問題でもないと思います」


 イレーネの声には、もうほんの少し笑みが混じっていた。


 クリスは立ち上がる。


「婚約者らしい話を増やす努力の一環として、庭を少しだけ」

「その言い方をされますと、断りづらいです」

「では、成功だね」

「ずるいです」


 イレーネが、小さく言った。


 ずるい。


 その言葉が彼女の口から出たことが、どうしようもなく嬉しかった。


「少しだけです」


 イレーネはそう付け加えた。


 クリスはにこりと笑う。


「うん。少しだけ」


 差し出した手を、イレーネが見た。


 一瞬だけ迷い、それから静かに手を重ねる。


 儀礼ではない。


 誰かに見せるためでもない。


 ただ、会議室を出て、少し庭を歩くための手だった。


 クリスは強く握らなかった。イレーネも、すぐには離さなかった。


 重ねた手は、儀礼の形より少しだけ不揃いだった。


 それでも、どちらからも離さなかった。


 窓の外では、白い花飾りが少しずつ外されていた。女神祭の名残は消えていく。けれど、王都の灯りはひとつ、またひとつと点き始めている。


 神話がなくても、夜は来る。


 そして、朝も来る。


 その間に、人は紙を書き、言葉を選び、誰かの隣に立つ。


 第二王子と、悪役令嬢ではない婚約者として。


 長い婚約の続きを、今度は自分たちの足で歩くために。


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