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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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番外編 盗賊娘、人間の後始末を盗る


 女神の涙が迷いの森へ還ってから、王都は何度も朝を迎えた。


 市場ではパンが焼け、馬車は石畳を鳴らし、教会の鐘も鳴る。白い花飾りは祭りの道から片づけられ、王城の回廊には新しい書類と古い怒号が増えた。神話を失っても、人間の生活はしぶとい。


 そして、人間の嘘もしぶとかった。


「神話の後始末って、もっと荘厳なものだと思ってた」


 旧訓練棟の卓の上に積まれた紙束を見下ろしながら、ディアナは言った。見取り図、古い控え、名前の並んだ紙。女神の奇跡だの、王家の正統性だの、古代の誓約だのと騒いでいたわりに、最後に残るのは金の流れと人の名前と隠し扉である。


 情緒がない。


「荘厳な嘘ほど、最後は帳簿に残るものだよ」


 ジークムントは涼しい顔で言った。高い窓から差す朝の光が、彼の銀白色の髪を淡く照らしている。旧訓練棟の傷だらけの卓に王子がいる光景は、いまだにあまり馴染まない。けれど、馴染まないまま居座っているのがこの人だった。


「嫌な真理を朝から出さないでください」

「では、分かりやすく言い換えよう。今日は教会の隠し金庫を開ける」

「急に盗賊向けになりました」

「君たち向けだろう?」


 リュクスが鼻で笑った。


「隠し金庫、王妃派の抜け道、神殿に残った偽の記録。三つまとめて抜くんだったな」

「そう。表の警衛騎士団が踏み込めば、先に記録を焼かれる。王城の書記官を動かせば、誰がどこへ知らせるか分からない。だから、君たちに行ってもらう」

「便利に使いやがって」

「使えるからね」

「そこで腹の立つ言い方を選ぶな」

「正確な言い方をしたつもりだけど」

「余計悪い」


 ミロがにやにやと笑った。


「俺ら、最近もう警衛騎士団の裏部隊みたいになってねえ?」

「やめろ。響きが悪い」

「影の警衛騎士団アディンセル」

「ミロ」

「分かった、黙る」


 表の騎士が入れない場所へ潜り、証拠を盗み、逃げ道を塞ぐ。やっていることだけ見れば、警衛騎士団の裏仕事に近い。


 認めたくはない。


 盗賊団なので。


 サディアスが一枚の紙を卓へ滑らせた。


「一つ、神殿地下の隠し金庫から、王妃派への寄付流用帳簿。二つ、北側礼拝廊から旧倉庫へ抜ける通路の鍵束。三つ、神殿記録室に残された偽の礼拝記録です。可能であれば、偽記録を作成した者の筆跡見本も」

「可能であれば、が一番面倒なやつですね」

「盗賊団でしたら可能かと」

「サディアスさんも慣れてきましたね」

「慣れる必要がありましたので」


 表情を変えずに返されると、少し怖い。


 ガロが見取り図へ指を置いた。


「この通路、古い。今も使ってるなら湿気の逃げが変わる」

「壁の中か?」

「壁の下。たぶん床下に一本ある」


 バルドは薬草の包みを確認していた。


「記録室を焼く仕掛けがあるなら、煙が出る。吸うなよ」

「甘い香は?」

「今回は女神の花じゃない。紙と油だ。人間が隠したもんの匂いだな」

「それはそれで嫌だね」


 ダンテが魔銃の弾を一本、指で転がした。


「撃っていい相手は」

「原則なし」


 ジークムントが言った。


「殺す必要はない。逃げられなければいい」

「逃げ道を塞ぐのは殿下の役目か」

「今回はね」


 リュクスがジークムントを見た。


「鎖はどこまで出る」

「神殿の地下礼拝堂から記録室の壁内まで。金庫の中へは入れない。そこは君たちの手だ」

「上等」


 リュクスが笑った。父親の顔ではない。盗賊団の頭の顔だった。


「じゃあ、いつも通りだ。殿下が塞ぐ。俺らが盗る」

「え、私も行くの?」

「お前も来るに決まってんだろ」

「バルドに今日は休めって言われる流れじゃない?」

「今回は泣いた後じゃねえからな」

「泣いた後を基準にしないで」


 ミロが吹き出した。カイルが軽く肩をすくめる。ガロはすでに縄の長さを測り、ダンテは弾をしまい、バルドは煙除けの布を配り始めている。


 ジークムントの深い青灰色の瞳が、ディアナへ向いた。


「行けるね」

「行けます」

「怖ければ」

「怖くても行けます」


 言い切ると、ジークムントは少しだけ笑った。


「いい返事だ」

「それ、父さんの台詞です」

「では、借りた」

「返してください」

「盗賊団相手に?」

「……盗られた」


 リュクスが低く唸った。


「仕事前にうちの娘を口説くな」

「口説いてはいないよ」

「似たようなもんだ」

「では、仕事後に」

「もっと悪い」


 旧訓練棟の空気がいつものように騒がしくなる。その騒がしさの中で、ディアナは左手の指輪を握った。黒い輪の奥で、赤い宝石が朝の光を受けて小さく色を返す。


 神話は終わった。


 でも、盗みは終わっていない。


 なら、行くしかない。


 神殿の裏口は、祈りの場所とは思えないほど金属臭かった。


 夜の王都は静かだった。表通りでは巡回の騎士が通常通りに歩き、教会の正面扉は閉じられている。祈りの火は消え、女神像の前に供えられた花も下げられていた。けれど、北側の古い礼拝廊の下だけは、人の気配が残っていた。


 祈りではない。


 隠す者の気配だ。


「二人、動いてる」


 ガロが低く言った。石畳に指を置き、足音の返りを拾っている。


「奥で紙を運んでる。重い紙じゃねえ。束を急いで抱えてる音だ」

「燃やす気だな」


 リュクスの声が低くなる。


 バルドが布を鼻先へ当てた。


「油の匂いがする。火はまだ入ってない」

「なら間に合う」


 ディアナが一歩踏み出した瞬間、足元に黒鉄色の鎖が走った。


 見てから止まったのではない。


 鎖が来ると思った場所へ足を出したら、そこにあった。


 硬い線が靴裏を受け、わずかに沈む。次の瞬間、鎖はディアナの重心を殺さない角度で、礼拝廊の壁際まで足場を伸ばした。


 昔なら、鎖が来たら身構えた。


 今は違う。


 踏む。


「早いです」

「君が遅くないからね」


 背後からジークムントの声が落ちる。振り向かない。振り向く時間が惜しい。ディアナは鎖を踏み、壁際の細い影へ滑り込んだ。カイルが半歩後ろにつく。短剣は抜いていない。けれど、手は届く位置にある。


「右、蝶番」

「見えてる」


 カイルの短い声に答えるより早く、ディアナは針金を差し込んだ。古い扉の鍵は、新しいものより素直だった。人間が隠したつもりのものほど、手入れが雑になる。三度目の感触で、かちりと落ちる。


 扉が開く寸前、黒鉄色の鎖が蝶番の上を押さえた。


 きしむ音が消える。


「……便利」

「そう言うわりに、もう使い慣れているね」

「仕事中です」


 リュクスが後ろで鼻を鳴らした。


「仕事中にいちゃつくな」

「いちゃついてない!」

「声がでけえ」

「ごめん」


 ミロが肩を震わせながら、ディアナの横を抜ける。抜ける場所には、すでに鎖が一本だけ低く伸びていた。ミロは当然のようにそれを踏み、礼拝廊の梁へ手をかける。


「殿下、俺の足場まで分かるようになってきたな」

「君は無駄に跳ねるから読みやすい」

「褒めてる?」

「いいや」

「正直だなあ」


 ミロが梁の上へ消える。次の瞬間、奥の通路で小さな金属音がした。ミロが投げた小石だ。正面の見張りが反応するより早く、ジークムントの鎖が床を走り、見張りの足元だけを絡め取る。倒れない。声も出ない。ただ、動けない位置で止まる。


 盗賊団が通るための足場に見える。けれど、それだけではない。


 ジークムントの鎖は、盗賊団が盗り終えるまで、誰にも逃げ道を選ばせない。


 ダンテが低く笑った。


「縛るのが上手いな」

「撃つより静かだろう」

「撃ってねえだろ」

「まだね」

「それ俺の台詞だ」


 バルドが煙除けの布を配りながら、壁の隙間へ薬粉を吹いた。白い粉が空気の流れに乗り、すぐに一か所だけ沈む。


「床下に穴がある。煙を落とす抜け道だ」

「人も通れるか」

「小柄なら」

「お嬢」

「私を見る流れだね」


 ディアナは膝をついた。床板の継ぎ目に指をかける。外から見ればただの古い板だ。けれど、爪の先にわずかな段差がある。引くのではない。押して、ずらす。盗みに入る者が好む作りではない。逃げる者が慌てて使うための作りだ。


 つまり、雑だ。


 床板がずれた瞬間、奥から紙の焼ける前の匂いが上がった。


「急ぐぞ」


 リュクスの声で、全員の動きが変わった。


 ガロが先に床下へ滑り込む。バルドが薬粉で煙の流れを止め、ダンテが通路奥の錠前へ銃口を向けた。撃つ前に、鎖が錠前の周囲の石壁を固定する。銃声が一つ、低く響いた。石は崩れない。錠だけが外れる。


「撃つ前に支えんなよ」

「支えなければ壁が落ちた」

「腹立つくらい正確だな」

「正確でなければ、君は撃たないだろう」

「撃つけどな」

「だろうね」


 カイルがディアナの前へ出る。出た場所を、鎖が避けた。一本だけ空いた影の道を、カイルは当然のように使う。


 言葉が少ない。


 指示も少ない。


 けれど、誰も止まらない。


 ガロが指で床を二度叩けば、ジークムントの鎖は罠床の縁だけを留める。バルドが薬瓶を投げる角度を変えれば、鎖は煙を切る隙間を作る。ミロが余計な軽口を吐く前に、次の足場はもうある。ダンテの銃口が下がると、壁の崩れる場所だけが鎖で縫い止められる。


 ディアナは床下の狭い通路へ身を滑らせた。石と土の間を、古い空気が流れている。喉に油の匂いが刺さった。前方で紙を抱えた男が振り返る。叫ぼうとした口元を、黒鉄色の鎖が後ろから押さえた。強くはない。声だけを止める程度に。


「それは置いていきなさい」


 ジークムントの声が、床上から静かに落ちた。


 男の腕が震える。抱えた紙束が落ちかける。落ちる前に、ディアナの手が伸びた。


 盗った。


「一つ目、偽記録」


 ディアナが紙束を胸へ抱えると、カイルがすぐに受け取って布袋へ入れる。バルドが油のついた端を切り落とし、燃え移らないよう処理した。


「まだある」


 ガロの声が床下の奥から返る。


「金庫は正面じゃねえ。壁の中だ」

「正面の金庫は?」

「見せ金庫だな」


 ミロが上からひょいと顔を出した。


「開ける?」

「開けるに決まってんだろ」

「見せ金庫でも?」

「見せるための金庫に、見せたい嘘が入ってる」


 リュクスの声が笑っていた。


「本命も盗る。見せたい嘘も盗る。全部持ってくぞ」


 やっぱり盗賊団だった。


 礼拝廊の奥、女神像の台座の裏に正面の金庫はあった。いかにも大事そうな紋章付きの扉。鍵穴は三つ。祈祷文を刻んだ銀の縁。正統性と金の匂いを混ぜた、嫌な箱だ。


 だが、リュクスは一目見て鼻で笑った。


「派手すぎる」

「だよね」

「お嬢、右下」

「分かってる」


 右下の飾り彫りに、指が入るだけの傷があった。鍵穴ではない。けれど、人が何度も触れた跡がある。ディアナが針を差し込むと、内側で小さなばねが返った。正面の鍵穴三つは、まだ何もしていない。


 その瞬間、床の下で重い音がした。


 壁の中に、本命がある。


「殿下」


 リュクスが言う。


「三つ」

「もう留めているよ」


 返事と同時に、黒鉄色の鎖が壁の内側で三方向へ走った。石の向こうで何かが軋む。逃げようとした仕掛け扉が、途中で止められた音だった。


 リュクスの目が細くなる。


「腹立つな」

「逃げられるよりはいいだろう」

「それはそうだ。……使える」


 ジークムントが少しだけ黙った。


 ディアナは思わずリュクスを見た。父さんがジークムントを褒めた。いや、褒めてはいない。本人基準では褒めていないのだろう。けれど、仕事中に「使える」と認めた。


 ジークムントの視線が一瞬だけリュクスへ向き、それからディアナへ流れた。


 見ないでほしい。


 何かを読み取らないでほしい。


「ディアナ、手」

「うん」


 呼ばれる前から、ディアナは動いていた。壁の飾り石の一つに指をかけ、押す。引かない。回さない。押して、少しだけ戻す。盗人避けの仕掛けは、盗人の手より使用人の雑な手に弱い。毎日使う者は、面倒な手順を嫌う。


 だから、必ず楽をする場所が残る。


 かちり、と音がした。


 壁が開く。


 中にあったのは、小さな黒い箱だった。金庫というより、持ち出し用の文箱だ。リュクスが布越しに取り上げ、ガロが底を叩く。


「二重底」

「開けられる?」

「お嬢の方が早い」


 渡された箱は軽い。軽すぎる。中に金はない。帳簿だけならこの重さでいい。だが、偽記録を作って逃げる連中が、本命を紙だけにするとは思えない。


 ディアナは箱の角を撫でた。


 左手の指輪が、かすかに硬く返る。神話の反応ではない。もう菫色は差さない。ただ、指の中に残る赤い宝石が、ディアナ自身の脈を拾うように静かだった。


 これは女神の品ではない。


 ただの人間の嘘だ。


 だから、盗れる。


 底は見せるための嘘だ。触らせたい場所ほど、人は丁寧に作る。なら、触られたくない場所はどこか。


 ディアナは蓋の内側へ針を入れた。


「底じゃない。上に隠してる」


 薄い板が外れた。


 中から出てきたのは、帳簿の写しと、いくつかの名が並んだ紙だった。王妃派の残り、教会の会計係、神殿の記録官、そして白い花の流通に関わった商人名。神話という言葉の下に隠れていた、人間の名前。


「二つ目、帳簿」

「鍵束は」


 カイルの声に、ミロが上から布包みを落とした。


「盗った」

「いつ」

「殿下が壁止めた時」

「お前も大概だな」

「褒めてる?」

「少し」

「やった」


 布包みの中には、古い鍵が七本あった。抜け道の鍵。礼拝廊、旧倉庫、地下通路、北門の脇戸。人を逃がすための道。人を隠すための道。


 それを見たジークムントの目が、冷たく細くなる。


 盗るのは、盗賊団。


 逃がさないのは、悪役王子。


 その分担が、今は嫌になるほど噛み合っていた。


「これで北側は塞げる」

「塞ぐのは後だ」


 リュクスが鍵束を掴んだ。


「まず盗った。あとは殿下の仕事だ」

「そうだね」


 その時、奥の扉の向こうで火打ち石の音がした。


 バルドの声が鋭くなる。


「記録室だ」

「間に合わないか」

「間に合わせる」


 ディアナは走った。


 考えるより早く、足が出た。曲がり角の先に、鎖が一本、低く張られている。足場だ。見なくても分かる。ディアナはそこへ足を乗せ、身体を横へ飛ばした。背後でカイルが同じ鎖を踏む。ミロはさらに上を行き、ガロは床を滑り、ダンテは銃口を扉の留め具へ向けた。


 銃声より先に、鎖が扉を縫い止める。


 ダンテが撃つ。


 留め具だけが飛ぶ。


 扉が開いた瞬間、油を撒かれた紙束へ火が落ちる寸前だった。


 バルドの薬瓶が飛んだ。瓶が割れる。白い粉が広がる。火花が消える。その白い粉が広がりすぎないように、黒鉄色の鎖が空気の流れを切った。煙が一方向へ流され、紙束だけが残る。


 ディアナはその紙束へ飛び込んだ。


 熱い。油臭い。けれど燃えていない。


 掴む。


 引く。


 腕に抱え込む。


「三つ目!」


 叫んだ瞬間、逃げようとした記録官が裏扉へ走った。裏扉は開かない。ジークムントの鎖が、扉の向こう側からすでに塞いでいた。


 裏扉も、床下も、壁の隙間も、もうどこにも開いていない。


 記録官の顔が歪む。


「なぜ、そこまで」

「女神のせいにできる時間は終わった。ここから先は、君たちの名前で責任を取る番だ」


 ジークムントの声は穏やかだった。


 穏やかで、逃げ道のない声だった。


 記録官の膝が折れた。ダンテが近づき、撃たずに手を後ろへ回させる。ガロが裏扉の向こうを確認し、カイルがディアナの抱えた紙束を布で包む。バルドが油の染みた手袋を外し、ミロが鍵束を指で鳴らした。


 リュクスが短く息を吐いた。


「終わりだ」

「まだ金庫の見せ金が残ってる」

「ミロ」

「分かってる。盗る」

「返事がいいな」


 ジークムントが少しだけ笑った。


「君たちは本当に、祈りの場でも変わらないね」

「祈りに来たんじゃねえ」


 リュクスは布袋を肩に担いだ。


「盗みに来たんだよ」


 その言葉に、ディアナは少し笑った。


 そうだ。


 神話を還した後でも、王城が揺れた後でも、女神ではない少女が女神ではないと言った後でも、悪役令嬢ではない令嬢が自分の足で立った後でも。


 盗賊団アディンセルは、盗賊団アディンセルだった。


 神殿の裏口を出る頃、東の空が少しだけ白んでいた。


 表の通りにはまだ誰もいない。けれど、遠くで騎士の足音が近づいてくる。サディアスが手配した表の警衛騎士団だ。盗るものを盗った後で、表の者が踏み込む。順番としては最悪で、手際としては最良だった。


「いやあ、すっかり王城の裏仕事だな」


 ミロが言うと、リュクスが嫌そうな顔をした。


「その言い方やめろ。盗賊団だ」

「王城の裏で動く盗賊団」

「それもあまり変わらねえ」


 カイルが苦笑した。


「まあ、盗るものは盗った」

「書類、鍵、帳簿、見せ金庫の中身」

「見せ金まで盗ったのか?」

「盗賊娘だから」


 ディアナが言うと、リュクスが満足そうに笑った。


「いい返事だ」


 ジークムントは少し離れた場所で、サディアスに短く指示を出していた。鎖はもう足元へ戻っている。さっきまで扉を塞ぎ、足場を作り、煙を切り、壁を留めていた黒鉄色の線は、今は静かに彼の影へ沈んでいた。


 ディアナは自分の靴裏を見た。


 鎖を踏んだ感触が、まだ残っている。


 捕まえるための鎖ではなかった。縛るためだけの鎖でもなかった。足場で、合図で、道で、時々とても腹立たしいくらい正確な助けだった。


「ディアナ」


 カイルが呼ぶ。


「手、油ついてる」

「あ、本当だ」

「ほら」


 布を投げ渡され、ディアナは手を拭いた。指輪の黒い輪に油はついていない。赤い宝石は夜明けの光を受けて、静かに色を返していた。


 ジークムントがこちらへ戻ってくる。


「怪我は」

「ありません」

「油は」

「カイルに見つかりました」

「よく見ているね」

「見てるだけです」


 カイルの声は平坦だった。ジークムントは少しだけ目を細める。それ以上は何も言わない。言えば面倒になると分かっている顔だった。学習している。


「殿下」


 リュクスが布袋を投げた。ジークムントは片手で受け取る。重い帳簿と鍵束の音が中で鳴った。


「神話の後に帳簿盗るの、盗賊団らしいだろ」

「とても」

「素直に褒めるな。気色悪い」

「では、正確に言おう。助かった」

「もっと気色悪い」


 ミロがとうとう笑った。ガロも少しだけ口元を緩め、ダンテは魔銃を肩へ戻した。バルドは全員の顔色を見てから、ようやく薬箱を閉じる。


 ジークムントは布袋をサディアスへ渡した。


「これで、表で潰せる」

「裏は?」

「もう盗られた」


 ジークムントの視線が、ディアナたちへ向く。


「実に、手際よくね」


 その言い方が、少しだけ誇らしそうに聞こえた。


 ディアナは咳払いした。


「私たちは、盗賊団なので」

「うん」

「警衛騎士団ではありません」

「分かっているよ」

「裏警衛騎士団でもありません」

「では、何と呼べば?」

「盗賊団アディンセルです」


 ジークムントは笑った。


「いい名前だ」


 リュクスが嫌そうな顔をする。


「殿下に言われると腹立つな」

「では、言い方を変えようか」

「変えなくていい。仕事では使えるってことは、もう分かった」

「そう」


 今度は、ジークムントがすぐには返さなかった。


 ディアナは笑いそうになって、少しだけ我慢した。父さんは父さんで、本当に素直ではない。ジークムントもジークムントで、何でも分かっている顔をするくせに、こういう時だけ少し言葉が遅れる。


 似ていないのに、面倒なところだけ少し似ている。


「帰るぞ」


 リュクスが言った。


「飯食って寝る。盗みは腹が減る」

「神話の時も腹減ってたよね」

「盗みは腹が減るんだよ」

「名言みたいに言わないで」


 ミロが鍵束の音を真似しながら歩き出す。ガロは足跡を消し、ダンテは最後尾で振り返り、バルドはディアナの手袋をもう一度確認した。カイルは半歩後ろにいる。いつもの距離だ。


 ジークムントが隣へ並ぶ。


「次も頼むよ」

「まだあるんですか」

「人間の嘘はしぶといからね」

「最悪」

「でも、盗るだろう?」

「盗りますけど」


 答えてから、ディアナは少しだけ笑った。


 神話は還った。女神の涙はもうない。運命の役も、少しずつ崩れていく。


 それでも王都には朝が来て、人は嘘をつき、帳簿を隠し、抜け道を作る。


 なら、盗賊団の出番はまだある。


 ディアナは左手を握った。黒い輪が夜明けの光を受け、鈍く銀を返す。赤い宝石は、もう石畳へ落ちない。誰かの物語の中に置かれることもない。


 自分の足で、盗みに行く。


 その隣で、黒鉄色の鎖が静かに揺れた。


 縛るためではない。


 次の一歩が必要になった時、そこにあるために。


「行きましょう、ジーク様」


 ディアナが言うと、ジークムントは少しだけ目を細めた。


「君が先に言うのは、いいね」

「今のは合図です」

「分かっているよ」

「分かってない声です」


 ジークムントは否定せず、ただ少し笑った。


 背後でリュクスが振り返る。


「仕事後でも口説くな」

「仮許可は?」

「仮だ」


 ミロが腹を抱えて笑い、カイルが今度は止めなかった。ガロは足跡を消しながら肩を揺らし、ダンテは「撃つ理由が減らねえな」と呟き、バルドが「撃つな」といつものように止めた。


 朝が来る。


 神話ではなく、人間の朝だ。


 その朝の中を、盗賊団アディンセルは盗ったものを抱えて帰っていった。


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