表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
57/62

番外編 悪役王子、盗賊の父に許可を取りに来る


 翌朝、旧訓練棟に花束が届いた。


 白い花ではない。女神の花でも、王城の礼典に使うようなかしこまった花でもない。小さな赤い実を混ぜた、明るい色の花束だった。野に咲く花を、上等な布で包んだような不思議な取り合わせで、きれいなのに妙に逃げ足が速そうに見える。


 ディアナはそれを見た瞬間、嫌な予感がした。盗賊の勘である。


「……父さん」


 旧訓練棟の中央で、リュクスが花束を睨んでいた。腕を組み、口元を曲げ、今にも花束を尋問しそうな顔をしている。


「これ、何」

「俺が聞きてえ」

「お嬢への贈り物じゃねえの?」


 ミロが横から覗き込み、花束に挟まれた小さな封筒をつまみ上げた。次の瞬間、カイルがその手首を掴む。


「勝手に開けるな」

「いや、でも宛名」

「見せろ」


 リュクスが低く言う。ミロは素直に封筒を差し出した。封筒の表には、流れるように整った字でこう書かれていた。


 盗賊団アディンセル リュクス殿。


 ディアナは嫌な予感が確信に変わる音を聞いた。


「父さん宛てだね」

「見りゃ分かる」

「花束つきで」

「黙れ」

「はい」


 リュクスは封を切った。紙を開く動きが荒い。けれど、破らないあたりが盗賊だった。証拠品は雑に扱わない。怒っていてもそこだけは正確だ。


 数行読んだところで、リュクスの眉間に深い皺が刻まれた。


「……あの野郎」


 声が低い。ディアナは一歩下がった。花束のせいではない。封筒のせいでもない。父親の声が、昨夜ジークムントへ向けたものと同じ温度になっていたからだ。


「何て書いてあるの?」


 カイルが警戒した声で聞く。ガロはすでに窓の外へ視線を向け、ダンテは魔銃の弾倉を確認していた。バルドは薬箱を閉じ、いつでも誰かの胃薬を出せる顔をしている。


 リュクスは紙を握りつぶしかけて、やめた。


「本日、正式に話をしに伺う、だと」

「何の話?」

「言わせるな」


 ディアナの顔が熱くなった。昨日の夕方の訓練庭。夕陽。左手の指輪。逃げ道は残すと言った声。戻る場所に私を選びなさいという、命令みたいな望み。


 そして、あの一言。


 好きだよ。


 思い出した瞬間、耳まで熱くなった。


「お嬢」


 ミロがにやにやした。


「顔、赤い」

「赤くない」

「いや赤い」

「赤くない」

「お嬢、昨日何言われたんだっけ?」

「ミロ」


 カイルの肘が、昨日より強めにミロの脇腹へ入った。


「ぐえ」

「黙れ」


 ディアナは両手で顔を覆いたくなった。けれど、覆えば認めたことになる。盗賊は証拠を残してはいけない。頬の熱は証拠にならない。たぶん。ならないことにする。


「父さん、でも、昨日、許可を取れって言ったのは父さんだよね」

「だから本当に翌朝来る馬鹿があるか」

「ジーク様なので」

「そこは納得すんな」


 リュクスは紙を卓へ置いた。花束を睨む。花束は何もしていないのに、今にも謝りそうだった。


 バルドが花束を観察する。


「毒はなさそうだ」

「そういう問題じゃねえ」

「香も弱い。普通の花だな」

「だから、そういう問題じゃねえ」


 ガロが窓の外から戻ってきた。


「門の方が少し騒がしい」

「来たか」

「まだ馬車は見えない。ただ、騎士の足音が増えた」

「警衛騎士団か」

「たぶん」


 ディアナは思わず旧訓練棟の扉を見た。


 来る。


 本当に来る。


 ジークムントが、盗賊団アディンセルのリュクスであり、父でもある男に、許可を取りに来る。字面だけで胃が痛い。


「父さん」

「何だ」

「穏便にね」

「俺に言うな」

「父さんに言ってる」

「あいつに言え」

「ジーク様に穏便って言って通じると思う?」

「思わねえな」

「でしょ」

「そこで同意すんな」


 リュクスは大きく息を吐いた。怒っている。間違いなく怒っている。けれど、昨日のように今すぐ殴りに行く顔ではなかった。父親として怒っている顔と、相手を値踏みする盗賊の顔が混じっている。


 それが、少しだけ怖い。


 リュクスは卓の上の手紙を指で叩いた。


「ディアナ」

「うん」

「お前はどうしたい」

「え」


 予想していなかった問いに、喉が詰まった。


 どうしたい。


 それを聞かれるとは思っていなかった。父さんなら、まずジークムントを睨み、脅し、条件をつけ、こちらを後ろへ隠すと思っていた。でも、違った。リュクスはディアナを隠す前に、ディアナの意思を見ていた。


 逃げ道を知った上で、どちらへ行くか決めろ。そう言った父の声を、ディアナは思い出した。


「私は」


 左手を握る。黒い輪の縁が、指に硬く返った。赤い宝石は静かで、夕陽ではなく朝の光を受けている。石畳へ落ちたはずの心は、もう指にある。


「私は、逃げません」


 リュクスの目が、少しだけ細くなった。


「昨日も言ってたな」

「うん。でも、昨日よりちゃんと言える」

「殿下のところへ行きてえってことか」

「それだけじゃない」


 言葉を選ぶ。簡単にすると、薄くなる気がした。けれど、難しく言いすぎても違う。ジークムントの隣へ行くことは、父さんたちの場所を捨てることではない。盗賊娘をやめることでもない。誰かに選ばれて終わりになることでもない。


 全部、持っていく。


 逃げ道も、帰る場所も、盗賊の足も。


「父さんたちの娘のまま、あの人の隣に行きたい」


 旧訓練棟が、少しだけ静かになった。ミロも、今度は茶化さなかった。カイルはディアナを見ている。ガロも、ダンテも、バルドも、それぞれの顔で黙っていた。


 リュクスは長いこと何も言わなかった。


 やがて、低く笑う。


「欲張りだな」

「盗賊娘なので」

「いい返事だ」


 その声が乱暴に優しくて、ディアナは少し泣きそうになった。昨日あれだけ泣いたのに、まだ残っているらしい。困る。盗賊娘の涙腺としては、かなり緩い。


 リュクスは手紙をもう一度見下ろした。


「なら、条件は俺が出す」

「条件?」

「あいつがどれだけ最悪でも、お前が選ぶなら止めねえ。だが、ただで渡す気もねえ」

「渡すって言い方」

「黙ってろ。父親の気分の問題だ」


 ミロが小声で「父親の顔してる」と呟き、カイルにまた肘で黙らされた。


 その時、旧訓練棟の扉が叩かれた。


 きっちり三回。


 丁寧で、優雅で、絶対に遠慮ではない音だった。


 リュクスの顔が一気に険しくなる。ディアナの心臓が跳ねる。ミロが面白がって笑い、ガロが扉の横へ移動し、ダンテが魔銃から手を離さない。バルドはなぜか胃薬を取り出した。


「入れ」


 リュクスが言った。


 扉が開く。


 先に入ってきたのはサディアスだった。いつも通りの無表情で、書類を抱えている。その後ろから、銀白色の髪が朝の光を拾って現れた。


 ジークムント・ラ・パーソン。


 第一王子で、警衛騎士団の団長で、古代竜の血を引くと囁かれた王子。そして、昨日ディアナの耳元で好きだよと言い逃げした男。


 ジークムントは旧訓練棟の空気を見ても、少しも怯まなかった。リュクスの睨みも、ダンテの手も、カイルの硬い視線も、全部ひっくるめて当然のように受け止める。


 深い青灰色の瞳が、最後にディアナを見た。


 ほんの少しだけ、笑う。


 それだけで、ディアナの顔がまた熱くなった。


 最悪だ。


 本当に、朝から最悪だ。


「リュクス殿」


 ジークムントは穏やかに言った。


「昨夜のご要望通り、許可を取りに来たよ」


 リュクスのこめかみが動いた。


「まず、その言い方をやめろ」


 旧訓練棟の空気が、さらに嫌な方向へ傾いた。


 旧訓練棟の中央に、椅子が二つ置かれた。一つにはリュクスが座り、もう一つにはジークムントが座った。向かい合う二人の間に、古い卓がある。卓の上には、花束と手紙と、なぜかバルドが置いた胃薬が並んでいた。


 絵面が最悪だった。


 リュクスとジークムントが向かい合っている。その間に置かれるべきものは酒瓶か証拠品か、せめて短剣くらいだと思う。胃薬は違う。


 サディアスはジークムントの少し後ろに控え、表情を変えない。カイルはディアナの近くに立ち、ミロは面白がって壁際に寄り、ガロは出入口と窓の位置を確認していた。ダンテは魔銃を抱えたまま、撃つ気はないが撃てる位置にいる。バルドは本当に胃薬を調合し始めた。


 ディアナは、どこに立てばいいのか分からなかった。当事者である。けれど、この場で中央に立つと胃が死ぬ。かといって壁際へ逃げると、リュクスにもジークムントにも見られる。逃げ道はある。だが、逃げたら負けな気がする。


「ディアナ」


 ジークムントが呼んだ。


「こちらへ」

「待て」


 リュクスの声がかぶった。


「何で当然みたいにお前の横へ呼ぶ」

「本人の意思を確認しやすい」

「俺の前でも確認できる」

「では、中央かな」

「違う。お前が決めるな」


 ディアナは額を押さえたくなった。始まって数秒である。もう疲れる。


「私はここでいいです」


 ディアナは二人の斜め横、どちらの背後にもならない位置に立った。カイルが少しだけ頷く。リュクスも何も言わない。ジークムントは一瞬ディアナの立ち位置を見て、楽しそうに目を細めた。


 見ないでほしい。


 立ち位置ひとつで何かを読まないでほしい。


「で」


 リュクスが低く切り出した。


「話ってのは何だ」

「ディアナを私の婚約者にしたい」


 直球だった。


 もう少し段階を踏んでほしかった。


 旧訓練棟の空気が一瞬で凍る。ミロが口笛を吹きかけ、今度はカイルに殴られる前に自分で口を押さえた。ダンテが無言で魔銃を撫でる。バルドが胃薬の匙を落としかけた。


 ディアナは一度、口を開いた。閉じた。盗賊娘として逃げ道を探したが、今回はどこにもなかった。


「ジーク様!」

「何?」

「何、じゃないです!」

「事実を簡潔に言っただけだよ」

「簡潔すぎます!」


 ジークムントは涼しい顔でディアナを見た。


「君も昨夜、選ぶと言った」

「言いましたけど!」

「逃げないとも言った」

「言いましたけど!」

「では、問題ない」

「問題しかありません!」


 リュクスの拳が卓に落ちた。花束が跳ねた。胃薬も跳ねた。手紙は逃げなかった。紙として優秀である。


「殿下」


 リュクスの声は静かだった。静かな分、怖い。


「うちの娘は盗品じゃねえ」

「知っているよ」

「なら、欲しいから持っていくみてえな言い方すんな」

「そうだね。言い直すよ」


 ジークムントは、ほんの少しだけ姿勢を正した。表の王子の礼儀でも、相手を転がすためだけの仕草でもない。少なくとも、ディアナにはそう見えた。


「ディアナを所有物にしたいわけではない」

「最初にうちの娘へ何をしたか、忘れたとは言わせねえぞ」

「忘れていない」

「じゃあ余計に悪い」

「その通りだね」


 ジークムントはあっさり認めた。リュクスの眉が動く。ディアナも瞬いた。


「私は最初、彼女の逃げ道を塞いだ。指輪をはめ、君たちを人質に取った。最悪な始まりだった」

「自覚があるなら話が早いな」

「あるよ。だから今、ここへ来た」


 ジークムントの視線が、リュクスからディアナへ移る。


「もう一度、勝手に奪うつもりはない。だから、彼女の父親に許可を取りに来た」


 喉が詰まった。


 昨日の「好きだよ」は、言い逃げだった。あまりにもずるくて、ディアナはほとんど何も返せなかった。けれど、ジークムントは逃げなかった。翌朝、本当にここへ来た。父さんの前に座り、自分が最悪だったことまで認めた。


 この人は、こういうところがずるい。


 最悪で、危険で、腹が立つのに。


 逃げ道を残すと言ったあと、本当に逃げ道を残した上で、逃げずに来る。


「殿下」


 リュクスが言った。


「綺麗なこと言っても、俺は簡単に頷かねえぞ」

「だろうね」

「うちの娘は、王城の飾りじゃねえ。王子の横に置いて見せびらかすためのもんでもねえ。神話の代わりでも、国宝の代わりでも、王国の都合のいい証でもねえ」

「分かっている」

「王家に入るってのは、そういう目で見られるってことだ。お前の隣に立つなら、なおさらだ。悪役王子の隣にいる盗賊娘なんざ、好き勝手言われるに決まってる」


 リュクスの言葉は乱暴だった。けれど、その乱暴さの中にある心配が、痛いくらい分かった。父さんはジークムントを嫌っている。たぶん、かなり嫌っている。けれど、それだけではなかった。ディアナが傷つく場所を、先に見ている。


「王城で嫌な目にあったらどうする」

「潰す」

「殿下」


 サディアスが静かに呼んだ。ジークムントは微笑んだ。


「言い換えよう。適切に処理する」

「処理って言うな」

「では、守る」

「最初からそれを言え」


 ミロが壁際で肩を震わせている。カイルが睨むが、今回は止めきれていない。ディアナも少し笑いそうになった。笑っている場合ではないのに。


 リュクスは笑わなかった。


「お前が守るだけじゃ足りねえ。ディアナが自分で走れる場所を残せ」

「そのつもりだよ」

「言葉だけならいくらでも言える」

「なら、条件にすればいい」


 ジークムントは即答した。リュクスの目が細くなる。


「条件?」

「聞くために来た。君が父親として、盗賊として、何を要求するのか」


 旧訓練棟が静かになった。リュクスはジークムントを見ている。ジークムントもリュクスを見返している。どちらも引かない。間にある卓が、急にただの古い卓ではなく、交渉の盤面に見えた。


 リュクスはゆっくりと口を開いた。


「一つ。ディアナの逃げ道を消すな」

「約束しよう」

「王城からも、お前からも、逃げられる道だ」

「分かっている」

「分かってねえ顔だな」

「不本意だけどね」

「正直すぎるだろ」

「逃げ道は残す。ただし、戻る場所に私を選んでほしいとは思っている」

「思うのは勝手だ。塞ぐな」

「塞がない」


 リュクスは一つ指を折った。


「二つ。盗賊団アディンセルを、ディアナから取り上げるな」

「取り上げるつもりはない」

「王家の都合で家族に会わせねえとか、旧訓練棟に来るなとか、そういうくだらねえことを言うな」

「言わないよ。むしろ、君たちは使える」

「そこで使えるって言うな」

「褒め言葉だよ」

「褒めてねえって何度言わせる」


 ミロが今度こそ少し吹き出した。リュクスが睨む。ミロは壁を見た。


「三つ。ディアナに選ばせろ」


 短い言葉だった。けれど、一番重かった。


「結婚も、王城に残ることも、盗みに出ることも、逃げることも、戻ることも。お前が王子で、最悪で、どれだけうちの娘を欲しがっても、最後はディアナに選ばせろ」


 リュクスの視線が、ディアナへ向いた。


「お前もだ。選んだあとで、全部殿下のせいにすんな。自分で選べ。自分で選んで、間違えたら逃げ道を探せ。泣いたら帰ってこい。腹が減ったら飯を食え」

「最後、急に生活」

「大事だろうが」

「うん。大事」


 胸の奥が熱くなる。


 帰ってこい。


 その言葉があるから、外へ行ける。逃げ道があるから、逃げないことを選べる。


 ディアナは左手を握った。黒い輪が朝の光を鈍く返す。


「それから」


 リュクスはジークムントへ視線を戻した。


「泣かせたら殴る」

「父さん」

「これは条件じゃなくて宣言だ」

「覚えておくよ」

「お前は殴られる前提の顔をするな」

「泣かせないとは言い切れない。私はたぶん、また間違える」

「殿下」


 ディアナの声が出た。ジークムントはディアナを見る。深い青灰色の瞳は穏やかだった。けれど、その奥に、ほんの少しだけ苦いものがある。


「君を傷つけたことがある。これから絶対に傷つけないとは言わない。言えば、ただの綺麗な嘘になる」

「そこは嘘でも言うところじゃないんですか」

「君は嘘だと怒るだろう」

「……怒りますけど」


 即答できなかった。たぶん怒る。綺麗な言葉で包まれる方が嫌だ。ジークムントはそれを知っている。


「だから、間違えたら認める。怖がらせたら引く。傷つけたら、言い訳せずに謝る。それでも足りなければ、リュクスに殴られる」


 リュクスが鼻で笑った。


「軽く言うな。俺は本気で殴るぞ」

「知っている」

「知ってて言うのが腹立つ」


 ダンテがぽつりと言った。


「撃つ方が早い」

「撃つな」

「まだ撃たない」

「まだをつけるな」


 バルドが胃薬を一包、卓の端へ滑らせた。


「リュクス、飲むか」

「いらねえ」

「殿下は」

「私は平気だよ」

「一番飲め」


 旧訓練棟の空気が少しだけ緩んだ。緩んだというより、いつもの騒がしさが戻ってきたのだと思う。


 ジークムントは、そのすべてを聞いていた。からかわず、怒らず、面白がりすぎもせず。ただ、少しだけ目を細める。


「賑やかな条件だ」

「うちはこうだ」


 リュクスが言った。


「嫌なら帰れ」

「帰る理由がない」

「腹立つな」

「褒め言葉として受け取るよ」

「褒めてねえ」


 何度目か分からないやり取りに、ディアナはとうとう少し笑った。笑ってしまったら、胸の奥がほどけた。


 父さんたちがいる。ジークムントがいる。サディアスがいて、旧訓練棟があって、卓の上には花束と胃薬と、これから作られる約束の書面がある。


 おかしな場所だ。


 でも、帰る場所だ。


「ジーク様」


 名前を呼ぶと、ジークムントがこちらを見た。今度は、逃げなかった。壁際にも下がらなかった。父さんの後ろにも隠れなかった。二人の間に置かれた卓の横へ、一歩進む。


「私は、父さんたちの娘です」

「うん」

「盗賊団アディンセルの娘です」

「知っている」

「たぶん、王城にいても、盗みに行きます」

「だろうね」

「止めてください、そこは少し迷ってください」

「迷う必要がない」

「本当にそういうところです」


 ミロが笑い、今度は誰も止めなかった。


 ディアナは息を吸った。


「でも、隣へ行くなら、自分で行きます。連れて行かれるんじゃなくて、行きます」

「うん」

「だから、勝手に決めないでください」

「分かった」

「逃げ道も、消さないでください」

「約束する」

「父さんたちに会いに来るのも止めないでください」

「止めない」

「私を、綺麗なだけの場所に置かないでください」

「置かないよ」


 ジークムントの声は、ひとつずつ静かに返ってきた。


 ディアナは、最後の言葉を少しだけ迷った。恥ずかしい。かなり恥ずかしい。けれど、ここで言わないと、たぶん一生ミロに茶化される。いや、言っても茶化される。どちらにしても茶化されるなら、言った方がましだ。


「それでも」


 喉が熱い。


「私が戻る場所に、ジーク様もいてください」


 旧訓練棟が静かになった。


 ジークムントの目が、ほんの少しだけ見開かれる。本当に少しだけだった。ほとんど誰も気づかないくらいの変化。けれど、ディアナには分かった。ジークムントが、すぐには言葉を返せなかった。


 勝った。


 何に勝ったのかは分からない。けれど、たぶん少し勝った。


「……ディアナ」


 落ちた声が、いつもより低い。


 まずい。


 勝ったと思った瞬間、別のものに負けそうになった。


「今、父さんたちの前です」

「知っている」

「知っていてその声を出さないでください」

「難しいね」

「努力してください」


 リュクスが卓を叩いた。


「目の前で口説くな」

「失礼。つい」

「つい、じゃねえ」


 サディアスが静かに一歩前へ出た。


「殿下。リュクス殿の条件は、書面にいたしますか」

「サディアスさん!?」

「後の齟齬を避けるためです」

「齟齬っていう言い方も違う気がします!」


 ジークムントは少し考えるように指を顎へ添えた。


「そうだね。書面にしようか」

「するのかよ」

「言葉だけでは足りないと言われたからね。残る形にしよう」

「王族の書面なんざ、あとでどうにでもできるだろ」

「では、盗賊団にも写しを」

「当然だ」

「さらに、ディアナにも」

「もちろん」


 話が早すぎる。なぜ婚約の許可取りが、契約書の作成に移行しているのか。でも、約束は形にした方がいい。証拠品は大事である。


 ジークムントは立ち上がった。


 リュクスも立つ。


 二人の身長差は大きくない。けれど、まとっている空気はまるで違う。片方は盗賊で、片方は王国の裏を握ろうとしている第一王子だ。どちらも善人ではない。どちらも、ディアナを大事にしている。


 その事実が、なんだか少しおかしかった。


「リュクス殿」


 ジークムントは言った。


「条件は受ける」

「まだ許可したとは言ってねえ」

「では、仮許可かな」

「勝手に進めるな」

「違う?」

「……仮だ」


 リュクスはものすごく嫌そうな顔で言った。


「仮だ。お前が条件を破ったら即取り消す」

「分かった」

「分かってる顔じゃねえ」

「不本意だけどね」

「だから正直すぎる」


 リュクスが右手を出した。


 ディアナは少し息を止めた。


 ジークムントはその手を見た。ほんの一瞬だけ、笑みが薄くなる。からかいでも、表の礼儀でもない顔だった。


 それから、彼はリュクスの手を取った。


 盗賊の手と、王子の手。


 握手というには、少しだけ力が強そうだった。実際、二人の手の間で何かが軋むような気配がした。気のせいであってほしい。


「痛くないんですか」

「平気だよ」

「ジーク様の平気は信用できません。父さんの平気もです」

「親子だね」

「そこでまとめないでください」


 リュクスが鼻で笑う。


「娘を取ろうって男の手だ。これくらい耐えろ」

「取るのではなく、隣に立たせてもらうんだよ」

「そう言っときゃ綺麗に聞こえると思うな」

「綺麗にするつもりはないよ」


 ジークムントの視線が、ディアナへ向いた。


「……でも」


 ディアナは小さく言った。


「今は、嫌いじゃないです」


 言った瞬間、ジークムントの指がリュクスの手を握ったまま少し強くなったらしい。リュクスの眉が跳ねた。


「殿下。俺の手で反応すんな」

「失礼」

「ジーク様!」


 最悪だ。


 本当に最悪だ。


 ミロが限界を迎えて吹き出した。カイルも口元を押さえている。ガロはまた空を見た。ダンテは「撃つ理由が増えたな」と呟き、バルドが「増やすな」と止めた。サディアスは静かに書類を取り出していた。仕事が早い。早すぎる。


 その時、足元で小さな声がした。


「にゃあ」


 全員が下を見る。


 ノアがいた。


 いつの間に入ってきたのか、黒猫は旧訓練棟の床を悠々と歩き、卓の脚に体を擦りつけた。花束の匂いを嗅ぎ、胃薬には興味を示さず、そのままジークムントの足元へ向かう。


「ノア」


 ディアナが呼ぶより早く、ノアは軽く跳んだ。ジークムントは当然のように片腕を下げる。ノアはその腕を足場にして、肩まで登った。


 あまりにも自然だった。


 悪役王子の肩に黒猫。


 どう見ても、どこかの魔王だった。


 リュクスが、今日いちばん嫌そうな顔をした。


「猫まで懐かせやがって」

「懐かれているだけだよ」

「張り合うな」

「張り合ってはいない」

「張り合ってる顔だ」


 ノアはジークムントの肩で尻尾を揺らし、得意げに鳴いた。緊張していた空気が、そこで少しだけほどける。ミロが吹き出し、カイルが苦笑し、バルドが胃薬をしまい直した。ガロは静かに窓を閉め、ダンテは「猫がいるなら撃てねえな」と呟いて、リュクスに睨まれた。


 ジークムントの肩で、ノアがもう一度鳴く。


 まるで、この場はこれで終わりだと言うみたいに。


 ディアナはその真ん中で、左手の指輪をそっと握った。


 許可は、まだ仮だ。結婚なんて話は、まだ百段飛んでいる。


 それでも、逃げ道はあって、帰る場所もあって、隣に立ちたい人がいる。


 なら、今はそれでいい。


 旧訓練棟は今日も騒がしい。


 ディアナは左手の指輪を握り、ひとまずその騒がしさの中へ戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ