番外編 悪役王子、盗賊の父に許可を取りに来る
翌朝、旧訓練棟に花束が届いた。
白い花ではない。女神の花でも、王城の礼典に使うようなかしこまった花でもない。小さな赤い実を混ぜた、明るい色の花束だった。野に咲く花を、上等な布で包んだような不思議な取り合わせで、きれいなのに妙に逃げ足が速そうに見える。
ディアナはそれを見た瞬間、嫌な予感がした。盗賊の勘である。
「……父さん」
旧訓練棟の中央で、リュクスが花束を睨んでいた。腕を組み、口元を曲げ、今にも花束を尋問しそうな顔をしている。
「これ、何」
「俺が聞きてえ」
「お嬢への贈り物じゃねえの?」
ミロが横から覗き込み、花束に挟まれた小さな封筒をつまみ上げた。次の瞬間、カイルがその手首を掴む。
「勝手に開けるな」
「いや、でも宛名」
「見せろ」
リュクスが低く言う。ミロは素直に封筒を差し出した。封筒の表には、流れるように整った字でこう書かれていた。
盗賊団アディンセル リュクス殿。
ディアナは嫌な予感が確信に変わる音を聞いた。
「父さん宛てだね」
「見りゃ分かる」
「花束つきで」
「黙れ」
「はい」
リュクスは封を切った。紙を開く動きが荒い。けれど、破らないあたりが盗賊だった。証拠品は雑に扱わない。怒っていてもそこだけは正確だ。
数行読んだところで、リュクスの眉間に深い皺が刻まれた。
「……あの野郎」
声が低い。ディアナは一歩下がった。花束のせいではない。封筒のせいでもない。父親の声が、昨夜ジークムントへ向けたものと同じ温度になっていたからだ。
「何て書いてあるの?」
カイルが警戒した声で聞く。ガロはすでに窓の外へ視線を向け、ダンテは魔銃の弾倉を確認していた。バルドは薬箱を閉じ、いつでも誰かの胃薬を出せる顔をしている。
リュクスは紙を握りつぶしかけて、やめた。
「本日、正式に話をしに伺う、だと」
「何の話?」
「言わせるな」
ディアナの顔が熱くなった。昨日の夕方の訓練庭。夕陽。左手の指輪。逃げ道は残すと言った声。戻る場所に私を選びなさいという、命令みたいな望み。
そして、あの一言。
好きだよ。
思い出した瞬間、耳まで熱くなった。
「お嬢」
ミロがにやにやした。
「顔、赤い」
「赤くない」
「いや赤い」
「赤くない」
「お嬢、昨日何言われたんだっけ?」
「ミロ」
カイルの肘が、昨日より強めにミロの脇腹へ入った。
「ぐえ」
「黙れ」
ディアナは両手で顔を覆いたくなった。けれど、覆えば認めたことになる。盗賊は証拠を残してはいけない。頬の熱は証拠にならない。たぶん。ならないことにする。
「父さん、でも、昨日、許可を取れって言ったのは父さんだよね」
「だから本当に翌朝来る馬鹿があるか」
「ジーク様なので」
「そこは納得すんな」
リュクスは紙を卓へ置いた。花束を睨む。花束は何もしていないのに、今にも謝りそうだった。
バルドが花束を観察する。
「毒はなさそうだ」
「そういう問題じゃねえ」
「香も弱い。普通の花だな」
「だから、そういう問題じゃねえ」
ガロが窓の外から戻ってきた。
「門の方が少し騒がしい」
「来たか」
「まだ馬車は見えない。ただ、騎士の足音が増えた」
「警衛騎士団か」
「たぶん」
ディアナは思わず旧訓練棟の扉を見た。
来る。
本当に来る。
ジークムントが、盗賊団アディンセルのリュクスであり、父でもある男に、許可を取りに来る。字面だけで胃が痛い。
「父さん」
「何だ」
「穏便にね」
「俺に言うな」
「父さんに言ってる」
「あいつに言え」
「ジーク様に穏便って言って通じると思う?」
「思わねえな」
「でしょ」
「そこで同意すんな」
リュクスは大きく息を吐いた。怒っている。間違いなく怒っている。けれど、昨日のように今すぐ殴りに行く顔ではなかった。父親として怒っている顔と、相手を値踏みする盗賊の顔が混じっている。
それが、少しだけ怖い。
リュクスは卓の上の手紙を指で叩いた。
「ディアナ」
「うん」
「お前はどうしたい」
「え」
予想していなかった問いに、喉が詰まった。
どうしたい。
それを聞かれるとは思っていなかった。父さんなら、まずジークムントを睨み、脅し、条件をつけ、こちらを後ろへ隠すと思っていた。でも、違った。リュクスはディアナを隠す前に、ディアナの意思を見ていた。
逃げ道を知った上で、どちらへ行くか決めろ。そう言った父の声を、ディアナは思い出した。
「私は」
左手を握る。黒い輪の縁が、指に硬く返った。赤い宝石は静かで、夕陽ではなく朝の光を受けている。石畳へ落ちたはずの心は、もう指にある。
「私は、逃げません」
リュクスの目が、少しだけ細くなった。
「昨日も言ってたな」
「うん。でも、昨日よりちゃんと言える」
「殿下のところへ行きてえってことか」
「それだけじゃない」
言葉を選ぶ。簡単にすると、薄くなる気がした。けれど、難しく言いすぎても違う。ジークムントの隣へ行くことは、父さんたちの場所を捨てることではない。盗賊娘をやめることでもない。誰かに選ばれて終わりになることでもない。
全部、持っていく。
逃げ道も、帰る場所も、盗賊の足も。
「父さんたちの娘のまま、あの人の隣に行きたい」
旧訓練棟が、少しだけ静かになった。ミロも、今度は茶化さなかった。カイルはディアナを見ている。ガロも、ダンテも、バルドも、それぞれの顔で黙っていた。
リュクスは長いこと何も言わなかった。
やがて、低く笑う。
「欲張りだな」
「盗賊娘なので」
「いい返事だ」
その声が乱暴に優しくて、ディアナは少し泣きそうになった。昨日あれだけ泣いたのに、まだ残っているらしい。困る。盗賊娘の涙腺としては、かなり緩い。
リュクスは手紙をもう一度見下ろした。
「なら、条件は俺が出す」
「条件?」
「あいつがどれだけ最悪でも、お前が選ぶなら止めねえ。だが、ただで渡す気もねえ」
「渡すって言い方」
「黙ってろ。父親の気分の問題だ」
ミロが小声で「父親の顔してる」と呟き、カイルにまた肘で黙らされた。
その時、旧訓練棟の扉が叩かれた。
きっちり三回。
丁寧で、優雅で、絶対に遠慮ではない音だった。
リュクスの顔が一気に険しくなる。ディアナの心臓が跳ねる。ミロが面白がって笑い、ガロが扉の横へ移動し、ダンテが魔銃から手を離さない。バルドはなぜか胃薬を取り出した。
「入れ」
リュクスが言った。
扉が開く。
先に入ってきたのはサディアスだった。いつも通りの無表情で、書類を抱えている。その後ろから、銀白色の髪が朝の光を拾って現れた。
ジークムント・ラ・パーソン。
第一王子で、警衛騎士団の団長で、古代竜の血を引くと囁かれた王子。そして、昨日ディアナの耳元で好きだよと言い逃げした男。
ジークムントは旧訓練棟の空気を見ても、少しも怯まなかった。リュクスの睨みも、ダンテの手も、カイルの硬い視線も、全部ひっくるめて当然のように受け止める。
深い青灰色の瞳が、最後にディアナを見た。
ほんの少しだけ、笑う。
それだけで、ディアナの顔がまた熱くなった。
最悪だ。
本当に、朝から最悪だ。
「リュクス殿」
ジークムントは穏やかに言った。
「昨夜のご要望通り、許可を取りに来たよ」
リュクスのこめかみが動いた。
「まず、その言い方をやめろ」
旧訓練棟の空気が、さらに嫌な方向へ傾いた。
旧訓練棟の中央に、椅子が二つ置かれた。一つにはリュクスが座り、もう一つにはジークムントが座った。向かい合う二人の間に、古い卓がある。卓の上には、花束と手紙と、なぜかバルドが置いた胃薬が並んでいた。
絵面が最悪だった。
リュクスとジークムントが向かい合っている。その間に置かれるべきものは酒瓶か証拠品か、せめて短剣くらいだと思う。胃薬は違う。
サディアスはジークムントの少し後ろに控え、表情を変えない。カイルはディアナの近くに立ち、ミロは面白がって壁際に寄り、ガロは出入口と窓の位置を確認していた。ダンテは魔銃を抱えたまま、撃つ気はないが撃てる位置にいる。バルドは本当に胃薬を調合し始めた。
ディアナは、どこに立てばいいのか分からなかった。当事者である。けれど、この場で中央に立つと胃が死ぬ。かといって壁際へ逃げると、リュクスにもジークムントにも見られる。逃げ道はある。だが、逃げたら負けな気がする。
「ディアナ」
ジークムントが呼んだ。
「こちらへ」
「待て」
リュクスの声がかぶった。
「何で当然みたいにお前の横へ呼ぶ」
「本人の意思を確認しやすい」
「俺の前でも確認できる」
「では、中央かな」
「違う。お前が決めるな」
ディアナは額を押さえたくなった。始まって数秒である。もう疲れる。
「私はここでいいです」
ディアナは二人の斜め横、どちらの背後にもならない位置に立った。カイルが少しだけ頷く。リュクスも何も言わない。ジークムントは一瞬ディアナの立ち位置を見て、楽しそうに目を細めた。
見ないでほしい。
立ち位置ひとつで何かを読まないでほしい。
「で」
リュクスが低く切り出した。
「話ってのは何だ」
「ディアナを私の婚約者にしたい」
直球だった。
もう少し段階を踏んでほしかった。
旧訓練棟の空気が一瞬で凍る。ミロが口笛を吹きかけ、今度はカイルに殴られる前に自分で口を押さえた。ダンテが無言で魔銃を撫でる。バルドが胃薬の匙を落としかけた。
ディアナは一度、口を開いた。閉じた。盗賊娘として逃げ道を探したが、今回はどこにもなかった。
「ジーク様!」
「何?」
「何、じゃないです!」
「事実を簡潔に言っただけだよ」
「簡潔すぎます!」
ジークムントは涼しい顔でディアナを見た。
「君も昨夜、選ぶと言った」
「言いましたけど!」
「逃げないとも言った」
「言いましたけど!」
「では、問題ない」
「問題しかありません!」
リュクスの拳が卓に落ちた。花束が跳ねた。胃薬も跳ねた。手紙は逃げなかった。紙として優秀である。
「殿下」
リュクスの声は静かだった。静かな分、怖い。
「うちの娘は盗品じゃねえ」
「知っているよ」
「なら、欲しいから持っていくみてえな言い方すんな」
「そうだね。言い直すよ」
ジークムントは、ほんの少しだけ姿勢を正した。表の王子の礼儀でも、相手を転がすためだけの仕草でもない。少なくとも、ディアナにはそう見えた。
「ディアナを所有物にしたいわけではない」
「最初にうちの娘へ何をしたか、忘れたとは言わせねえぞ」
「忘れていない」
「じゃあ余計に悪い」
「その通りだね」
ジークムントはあっさり認めた。リュクスの眉が動く。ディアナも瞬いた。
「私は最初、彼女の逃げ道を塞いだ。指輪をはめ、君たちを人質に取った。最悪な始まりだった」
「自覚があるなら話が早いな」
「あるよ。だから今、ここへ来た」
ジークムントの視線が、リュクスからディアナへ移る。
「もう一度、勝手に奪うつもりはない。だから、彼女の父親に許可を取りに来た」
喉が詰まった。
昨日の「好きだよ」は、言い逃げだった。あまりにもずるくて、ディアナはほとんど何も返せなかった。けれど、ジークムントは逃げなかった。翌朝、本当にここへ来た。父さんの前に座り、自分が最悪だったことまで認めた。
この人は、こういうところがずるい。
最悪で、危険で、腹が立つのに。
逃げ道を残すと言ったあと、本当に逃げ道を残した上で、逃げずに来る。
「殿下」
リュクスが言った。
「綺麗なこと言っても、俺は簡単に頷かねえぞ」
「だろうね」
「うちの娘は、王城の飾りじゃねえ。王子の横に置いて見せびらかすためのもんでもねえ。神話の代わりでも、国宝の代わりでも、王国の都合のいい証でもねえ」
「分かっている」
「王家に入るってのは、そういう目で見られるってことだ。お前の隣に立つなら、なおさらだ。悪役王子の隣にいる盗賊娘なんざ、好き勝手言われるに決まってる」
リュクスの言葉は乱暴だった。けれど、その乱暴さの中にある心配が、痛いくらい分かった。父さんはジークムントを嫌っている。たぶん、かなり嫌っている。けれど、それだけではなかった。ディアナが傷つく場所を、先に見ている。
「王城で嫌な目にあったらどうする」
「潰す」
「殿下」
サディアスが静かに呼んだ。ジークムントは微笑んだ。
「言い換えよう。適切に処理する」
「処理って言うな」
「では、守る」
「最初からそれを言え」
ミロが壁際で肩を震わせている。カイルが睨むが、今回は止めきれていない。ディアナも少し笑いそうになった。笑っている場合ではないのに。
リュクスは笑わなかった。
「お前が守るだけじゃ足りねえ。ディアナが自分で走れる場所を残せ」
「そのつもりだよ」
「言葉だけならいくらでも言える」
「なら、条件にすればいい」
ジークムントは即答した。リュクスの目が細くなる。
「条件?」
「聞くために来た。君が父親として、盗賊として、何を要求するのか」
旧訓練棟が静かになった。リュクスはジークムントを見ている。ジークムントもリュクスを見返している。どちらも引かない。間にある卓が、急にただの古い卓ではなく、交渉の盤面に見えた。
リュクスはゆっくりと口を開いた。
「一つ。ディアナの逃げ道を消すな」
「約束しよう」
「王城からも、お前からも、逃げられる道だ」
「分かっている」
「分かってねえ顔だな」
「不本意だけどね」
「正直すぎるだろ」
「逃げ道は残す。ただし、戻る場所に私を選んでほしいとは思っている」
「思うのは勝手だ。塞ぐな」
「塞がない」
リュクスは一つ指を折った。
「二つ。盗賊団アディンセルを、ディアナから取り上げるな」
「取り上げるつもりはない」
「王家の都合で家族に会わせねえとか、旧訓練棟に来るなとか、そういうくだらねえことを言うな」
「言わないよ。むしろ、君たちは使える」
「そこで使えるって言うな」
「褒め言葉だよ」
「褒めてねえって何度言わせる」
ミロが今度こそ少し吹き出した。リュクスが睨む。ミロは壁を見た。
「三つ。ディアナに選ばせろ」
短い言葉だった。けれど、一番重かった。
「結婚も、王城に残ることも、盗みに出ることも、逃げることも、戻ることも。お前が王子で、最悪で、どれだけうちの娘を欲しがっても、最後はディアナに選ばせろ」
リュクスの視線が、ディアナへ向いた。
「お前もだ。選んだあとで、全部殿下のせいにすんな。自分で選べ。自分で選んで、間違えたら逃げ道を探せ。泣いたら帰ってこい。腹が減ったら飯を食え」
「最後、急に生活」
「大事だろうが」
「うん。大事」
胸の奥が熱くなる。
帰ってこい。
その言葉があるから、外へ行ける。逃げ道があるから、逃げないことを選べる。
ディアナは左手を握った。黒い輪が朝の光を鈍く返す。
「それから」
リュクスはジークムントへ視線を戻した。
「泣かせたら殴る」
「父さん」
「これは条件じゃなくて宣言だ」
「覚えておくよ」
「お前は殴られる前提の顔をするな」
「泣かせないとは言い切れない。私はたぶん、また間違える」
「殿下」
ディアナの声が出た。ジークムントはディアナを見る。深い青灰色の瞳は穏やかだった。けれど、その奥に、ほんの少しだけ苦いものがある。
「君を傷つけたことがある。これから絶対に傷つけないとは言わない。言えば、ただの綺麗な嘘になる」
「そこは嘘でも言うところじゃないんですか」
「君は嘘だと怒るだろう」
「……怒りますけど」
即答できなかった。たぶん怒る。綺麗な言葉で包まれる方が嫌だ。ジークムントはそれを知っている。
「だから、間違えたら認める。怖がらせたら引く。傷つけたら、言い訳せずに謝る。それでも足りなければ、リュクスに殴られる」
リュクスが鼻で笑った。
「軽く言うな。俺は本気で殴るぞ」
「知っている」
「知ってて言うのが腹立つ」
ダンテがぽつりと言った。
「撃つ方が早い」
「撃つな」
「まだ撃たない」
「まだをつけるな」
バルドが胃薬を一包、卓の端へ滑らせた。
「リュクス、飲むか」
「いらねえ」
「殿下は」
「私は平気だよ」
「一番飲め」
旧訓練棟の空気が少しだけ緩んだ。緩んだというより、いつもの騒がしさが戻ってきたのだと思う。
ジークムントは、そのすべてを聞いていた。からかわず、怒らず、面白がりすぎもせず。ただ、少しだけ目を細める。
「賑やかな条件だ」
「うちはこうだ」
リュクスが言った。
「嫌なら帰れ」
「帰る理由がない」
「腹立つな」
「褒め言葉として受け取るよ」
「褒めてねえ」
何度目か分からないやり取りに、ディアナはとうとう少し笑った。笑ってしまったら、胸の奥がほどけた。
父さんたちがいる。ジークムントがいる。サディアスがいて、旧訓練棟があって、卓の上には花束と胃薬と、これから作られる約束の書面がある。
おかしな場所だ。
でも、帰る場所だ。
「ジーク様」
名前を呼ぶと、ジークムントがこちらを見た。今度は、逃げなかった。壁際にも下がらなかった。父さんの後ろにも隠れなかった。二人の間に置かれた卓の横へ、一歩進む。
「私は、父さんたちの娘です」
「うん」
「盗賊団アディンセルの娘です」
「知っている」
「たぶん、王城にいても、盗みに行きます」
「だろうね」
「止めてください、そこは少し迷ってください」
「迷う必要がない」
「本当にそういうところです」
ミロが笑い、今度は誰も止めなかった。
ディアナは息を吸った。
「でも、隣へ行くなら、自分で行きます。連れて行かれるんじゃなくて、行きます」
「うん」
「だから、勝手に決めないでください」
「分かった」
「逃げ道も、消さないでください」
「約束する」
「父さんたちに会いに来るのも止めないでください」
「止めない」
「私を、綺麗なだけの場所に置かないでください」
「置かないよ」
ジークムントの声は、ひとつずつ静かに返ってきた。
ディアナは、最後の言葉を少しだけ迷った。恥ずかしい。かなり恥ずかしい。けれど、ここで言わないと、たぶん一生ミロに茶化される。いや、言っても茶化される。どちらにしても茶化されるなら、言った方がましだ。
「それでも」
喉が熱い。
「私が戻る場所に、ジーク様もいてください」
旧訓練棟が静かになった。
ジークムントの目が、ほんの少しだけ見開かれる。本当に少しだけだった。ほとんど誰も気づかないくらいの変化。けれど、ディアナには分かった。ジークムントが、すぐには言葉を返せなかった。
勝った。
何に勝ったのかは分からない。けれど、たぶん少し勝った。
「……ディアナ」
落ちた声が、いつもより低い。
まずい。
勝ったと思った瞬間、別のものに負けそうになった。
「今、父さんたちの前です」
「知っている」
「知っていてその声を出さないでください」
「難しいね」
「努力してください」
リュクスが卓を叩いた。
「目の前で口説くな」
「失礼。つい」
「つい、じゃねえ」
サディアスが静かに一歩前へ出た。
「殿下。リュクス殿の条件は、書面にいたしますか」
「サディアスさん!?」
「後の齟齬を避けるためです」
「齟齬っていう言い方も違う気がします!」
ジークムントは少し考えるように指を顎へ添えた。
「そうだね。書面にしようか」
「するのかよ」
「言葉だけでは足りないと言われたからね。残る形にしよう」
「王族の書面なんざ、あとでどうにでもできるだろ」
「では、盗賊団にも写しを」
「当然だ」
「さらに、ディアナにも」
「もちろん」
話が早すぎる。なぜ婚約の許可取りが、契約書の作成に移行しているのか。でも、約束は形にした方がいい。証拠品は大事である。
ジークムントは立ち上がった。
リュクスも立つ。
二人の身長差は大きくない。けれど、まとっている空気はまるで違う。片方は盗賊で、片方は王国の裏を握ろうとしている第一王子だ。どちらも善人ではない。どちらも、ディアナを大事にしている。
その事実が、なんだか少しおかしかった。
「リュクス殿」
ジークムントは言った。
「条件は受ける」
「まだ許可したとは言ってねえ」
「では、仮許可かな」
「勝手に進めるな」
「違う?」
「……仮だ」
リュクスはものすごく嫌そうな顔で言った。
「仮だ。お前が条件を破ったら即取り消す」
「分かった」
「分かってる顔じゃねえ」
「不本意だけどね」
「だから正直すぎる」
リュクスが右手を出した。
ディアナは少し息を止めた。
ジークムントはその手を見た。ほんの一瞬だけ、笑みが薄くなる。からかいでも、表の礼儀でもない顔だった。
それから、彼はリュクスの手を取った。
盗賊の手と、王子の手。
握手というには、少しだけ力が強そうだった。実際、二人の手の間で何かが軋むような気配がした。気のせいであってほしい。
「痛くないんですか」
「平気だよ」
「ジーク様の平気は信用できません。父さんの平気もです」
「親子だね」
「そこでまとめないでください」
リュクスが鼻で笑う。
「娘を取ろうって男の手だ。これくらい耐えろ」
「取るのではなく、隣に立たせてもらうんだよ」
「そう言っときゃ綺麗に聞こえると思うな」
「綺麗にするつもりはないよ」
ジークムントの視線が、ディアナへ向いた。
「……でも」
ディアナは小さく言った。
「今は、嫌いじゃないです」
言った瞬間、ジークムントの指がリュクスの手を握ったまま少し強くなったらしい。リュクスの眉が跳ねた。
「殿下。俺の手で反応すんな」
「失礼」
「ジーク様!」
最悪だ。
本当に最悪だ。
ミロが限界を迎えて吹き出した。カイルも口元を押さえている。ガロはまた空を見た。ダンテは「撃つ理由が増えたな」と呟き、バルドが「増やすな」と止めた。サディアスは静かに書類を取り出していた。仕事が早い。早すぎる。
その時、足元で小さな声がした。
「にゃあ」
全員が下を見る。
ノアがいた。
いつの間に入ってきたのか、黒猫は旧訓練棟の床を悠々と歩き、卓の脚に体を擦りつけた。花束の匂いを嗅ぎ、胃薬には興味を示さず、そのままジークムントの足元へ向かう。
「ノア」
ディアナが呼ぶより早く、ノアは軽く跳んだ。ジークムントは当然のように片腕を下げる。ノアはその腕を足場にして、肩まで登った。
あまりにも自然だった。
悪役王子の肩に黒猫。
どう見ても、どこかの魔王だった。
リュクスが、今日いちばん嫌そうな顔をした。
「猫まで懐かせやがって」
「懐かれているだけだよ」
「張り合うな」
「張り合ってはいない」
「張り合ってる顔だ」
ノアはジークムントの肩で尻尾を揺らし、得意げに鳴いた。緊張していた空気が、そこで少しだけほどける。ミロが吹き出し、カイルが苦笑し、バルドが胃薬をしまい直した。ガロは静かに窓を閉め、ダンテは「猫がいるなら撃てねえな」と呟いて、リュクスに睨まれた。
ジークムントの肩で、ノアがもう一度鳴く。
まるで、この場はこれで終わりだと言うみたいに。
ディアナはその真ん中で、左手の指輪をそっと握った。
許可は、まだ仮だ。結婚なんて話は、まだ百段飛んでいる。
それでも、逃げ道はあって、帰る場所もあって、隣に立ちたい人がいる。
なら、今はそれでいい。
旧訓練棟は今日も騒がしい。
ディアナは左手の指輪を握り、ひとまずその騒がしさの中へ戻った。




