第五十六話 運命に選ばれなかった盗賊娘は
迷いの森は、もう迷わせなかった。
地下の空洞を出る時も、ジークムントはディアナの左手を支えていた。赤い宝石のはまった指輪ごと、下から包むように。
湿った土の匂いも、絡みつく根も、行く手を塞ぐ枝も、そこにある。ただ、それだけだった。さっきまで耳元で囁いていた偽物の声も、足元をずらす悪意も、白い霧の奥から誰かを呼ぶような気配も消えている。
森は、森になっていた。
出口へ近づく頃には、支えられていた左手は、手を繋いでいる形になっていた。ジークムントは離さなかったし、ディアナも離せなかった。
左手の指輪は、冷たくなかった。菫は抜け、深い黒の表面だけが、光を受けるとかすかに銀を返す。斜めに落ちる二つの縁のあいだに、赤い宝石が抱かれるようにはまっていた。
抱きしめているようにも、縛っているようにも見える形。
けれど、今は怖くなかった。
リュクスが、森の出口で待っていた。
そして、ものすごく嫌な顔をした。
「……おい」
声が低い。ディアナは少しだけ肩を揺らした。泣いた後の目元がまだ熱い。手も、まだジークムントに握られている。
「父さん」
「何を自然に手ぇ繋いで帰ってきてんだ」
「いや、これは、その」
「殿下」
リュクスの視線が、ジークムントへ移る。ジークムントは平然としていた。森から出たばかりだというのに、銀白色の髪は乱れすら綺麗に見える。深い青灰色の瞳が、リュクスを静かに見返した。
「支えていただけだよ」
「支え終わったなら離せ」
「本人が離していない」
最悪だ。
正論みたいな顔で、責任をこちらへ寄せないでほしい。
ディアナが慌てて手を引こうとした瞬間、ジークムントの指がほんの少しだけ強くなる。逃がさないほどではない。ただ、まだここにある、と確かめるような力だった。それだけで、喉が詰まった。
「お嬢、泣いた顔で帰ってきたと思ったら、手ぇ繋いでるんだもんなあ」
ミロが口笛を吹きかけ、カイルに肘で黙らされた。
「ミロ」
「はい黙ります」
ガロは見なかったふりをして空を見上げ、ダンテは肩をすくめた。バルドだけが、ディアナの顔色と足取りを見てから、妙に真面目に頷く。
「まあ、泣いた後だからな」
「バルド、その納得はちょっと違う」
「歩けてるならいい」
ディアナは返す言葉を失った。
森から出た空は、思っていたより明るかった。木々の隙間から差す光は白く、土に落ちた影もただの影だった。世界が裏返るような感覚はもうない。足元を盗られる気配もない。
初めてこの森へ来た時、ディアナは逃げていた。足元を奪われ、背後から鎖に捕まり、左手に偽の国宝をはめられた。
今は、同じ森から出ていく。
自分の足で。
自分の手で、誰かの手を握ったまま。
「帰るぞ」
リュクスが言った。その声はいつも通り乱暴で、けれどほんの少しだけ柔らかかった。
「帰って、飯食って、寝ろ。泣いた後の顔でうろつくな。面倒なのが増える」
「面倒なのって何」
「だいたい殿下だ」
「父さん」
「否定はしないよ」
「ジーク様も否定しないでください」
ジークムントは笑った。
森はもう、誰も引き止めなかった。
王城へ戻った後、世界は急に変わらなかった。
本物のオールトの指輪は消えた。女神の涙は、迷いの森の土へ還った。王国が長く国宝と呼び、正統性の証として掲げてきたものは、もうどこにもない。けれど、夜が明けても王都は崩れなかった。市場では人が行き交い、パン屋は朝の匂いを通りへ流し、馬車は石畳を鳴らして進む。王城の白い壁は光を受け、教会の鐘も鳴った。
何もなかったように、ではない。何かを失っても、それでも朝は来るのだと、見せつけるように。
王城の一室で、クリスは長い沈黙のあと、息を吐いた。窓の外には、祭りの名残がまだ残っている。白い花飾りは外され始め、女神像へ続く道に敷かれていた布も片づけられていた。昨日まで神話の中心だったものが、今日は人の手で巻き取られていく。
クリスの隣には、イレーネがいた。黒絹のような髪を背に流し、氷青の瞳で真っ直ぐ前を見ている。疲れているはずなのに、背筋は崩れていない。あの人は、最後まで自分で立つ人なのだと、ディアナは思った。
少し離れた場所に、リリアもいた。菫色の瞳は変わらない。けれど、その色を見て誰かが膝を折る空気はもうなかった。彼女は女神ではない。女神として置かれる少女でもない。ただ、リリアとしてそこに立っている。その事実に、ディアナは少しだけ息を吐いた。
「兄上」
クリスが言った。
「王国は、荒れますね」
「荒れるよ」
ジークムントはあっさり答えた。窓辺に立つ彼の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさが逆に怖い。怒鳴る必要がないほど、もう逃げ道を塞いだ後の声だった。
「女神の涙を失った国が、明日から急に自分の足で立てるわけがない。教会も、王妃派の残りも、古い貴族たちも、都合のいい神話を取り戻そうとするだろうね」
「そこまで分かっていて、明るい話のように言わないでください」
「明るい話ではないよ。ただ、分かりやすくはなった」
ジークムントの視線が、机上の書類へ落ちる。神殿の隠し帳簿。祭具の移送記録。王妃派が抱えていた古い誓約文の写し。サディアスが揃え、盗賊団が抜き、ジークムントが逃げ道を塞いだ証拠たち。
神話を戻したい者たちが、どこに手を伸ばし、誰を役へ置こうとしていたのか。
もう、隠せない。
「女神の涙の代わりに、新しい嘘を置く必要はない」
ジークムントは言った。
「女神の涙がなくても明日が来ると、何度も見せることだ。民は神話だけで生きているわけじゃない。今日を積み上げる場所を王国が守るなら、国はすぐには壊れない」
クリスが、兄を見た。いつもの軽さは少し薄い。けれど、消えてはいない。ちゃんと残っている。残したまま、別のものを背負おうとしている顔だった。
「僕に、それを表でやれと?」
「君は表に向いている」
「兄上は?」
「私は裏が向いている」
あまりにも当然のように言うので、ディアナは少しだけ目を細めた。
この人、本当に王国を裏側から牛耳る気だ。
王位が欲しいのではない。玉座に座って王冠をかぶりたいのでもない。ただ、王国という盤面を、教会も王妃派も古い神話も含めて、自分の手の届く場所へ置くつもりなのだ。
悪役王子のまま。
けれど、その悪を向ける先だけは、もう以前とは違っている。
「神話を失って泣く者には言葉を。神話を戻そうとする者には鎖を。分担しよう」
クリスは少しだけ目を見開き、それから苦笑した。
「兄上は、最後まで兄上ですね」
「褒め言葉として受け取るよ」
「それも違います」
ジークムントは笑った。
「君は、表で言葉を積みなさい。イレーネ嬢と一緒に」
イレーネの指が、わずかに動いた。
クリスは一瞬だけ彼女を見て、それから笑った。軽く、いつものように。けれど、その笑みは逃げではなかった。
「簡単に言ってくれますね」
「簡単ではないから君に言っている」
「褒めています?」
「使えると言っている」
「兄上らしいなあ」
クリスは肩をすくめた。
イレーネが静かに口を開く。
「わたくしも、隣に立ちます。王国が人の積み上げたもので立つのなら、その一部に、わたくしもなりたい」
その声は、よく通った。悪役令嬢ではない。責められる令嬢でもない。ただ、イレーネ・ブラディ・マルチェントとして立つ声だった。
リリアが小さく息を吸った。菫色の瞳が揺れる。それでも彼女は逃げなかった。
「私も」
リリアの声は、細かった。
けれど、途切れなかった。
「私は、女神ではありません。そう見たい人がいても、違うと言います。……たぶん、何度も怖くなると思います。でも、違うと言える人になりたいです」
リリアの菫色の瞳が、ジークムントへ向く。けれどそこに、あの日見た熱はもうなかった。痛みが消えたわけではないのだろう。それでも彼女は、もう誰かの隣に置かれる少女ではなかった。
ディアナは胸の奥が少し痛くなった。
リリアは悪ではない。置かれた場所から、自分の足で降りようとしていた。
菫色の瞳は変わらない。人は見たいものを見る。女神を失った人たちは、彼女へ都合のいい祈りを重ねようとするかもしれない。それでも、リリアは今、自分の声で違うと言った。
ディアナはそれを、ちゃんと見ていた。
「なら、決まりだね」
ジークムントが言った。軽い言い方だった。けれど、その場にいた全員が分かっていた。これはただの確認ではない。ここから先の王国を、どう動かすかの始まりだ。
クリスは苦笑しながらも、逃げなかった。イレーネはその隣で、誰かに置かれたのではなく、自分の意思で背筋を伸ばしていた。リリアは菫色の瞳のまま、女神ではないと口にした。そしてジークムントは、その全員を見て、もう次の盤面を組んでいる顔をしていた。
ディアナは、少しだけ呆れた。
神話が終わっても、この人は止まらない。
でも、それが少しだけ安心でもあった。
そして、ディアナたちは。
「で」
リュクスが低く言った。
場所は旧訓練棟へ移っていた。高い窓から午後の白い光が差し、傷だらけの床板に細く伸びている。古い石壁には剣掛けの跡が残り、扉の隅にはまだ警衛騎士団の術式が沈んでいた。紙と薬草と埃の匂いがする。
帰ってきた場所だ。
盗賊団アディンセルが、王城の隅で勝手に根を張った場所。
リュクスは腕を組み、ジークムントを睨んでいる。
「まだ俺らに仕事させる気か」
「当然だよ」
ジークムントは少しも悪びれなかった。
「教会の隠し金庫、王妃派の抜け道、神殿に残った偽の記録。欲しいものはいくつかある」
「神話を還した直後に、よくそれが言えるな」
「神話が還ったから、人間の後始末が残ったんだ」
「殿下は本当に性格が悪い」
「褒め言葉として受け取るよ」
「褒めてねえ」
ミロが肩を揺らして笑った。
「でもまあ、神話を盗った後に帳簿盗るの、俺らっぽくていいんじゃねえ?」
「お前は黙ってろ」
「はい頭」
ガロは机上に広げられた簡易地図を覗き込み、細い指でひとつの通路を叩いた。
「この抜け道、古い。使っているなら足音が残る」
ダンテが魔銃の手入れをしながら、短く言う。
「逃げる連中がいるなら、出口を塞げばいい」
「撃つなよ」
「まだ撃たない」
「まだって言うな」
バルドは薬箱を閉じ、ディアナを見た。
「ディアナは今日は休め」
「え、でも」
「喉も目も腫れてる。泣いた後に動くな」
「泣いたことを何回も確認しないで」
カイルが少しだけ笑った。
「ディアナは休め。俺たちで行ける」
その言い方に、ディアナは一瞬だけ言葉をなくす。いつも通りだった。近すぎず、離れすぎず、盗賊団の仲間としてそこにいる声だった。
昔なら、置いていかれると思ったかもしれない。今は違う。帰る場所があるから、待つこともできる。逃げ道を知っているから、逃げないことも選べる。自分ひとりで全部を盗らなくてもいい。父さんたちがいる。盗賊団がいる。
それでも、盗るものを選ぶのは自分だ。
「じゃあ、私は盗るものを決める」
「寝ろって言ってんだろ」
「決めたら寝る」
「ディアナ」
「大丈夫。盗賊なので、寝る前に獲物の確認だけします」
リュクスは額を押さえた。
ジークムントが小さく笑う。
「良い子だね」
「殿下にだけは言われたくねえ」
「同感です」
ディアナが即座に返すと、ミロが吹き出した。カイルがまた肘で黙らせる。けれど、旧訓練棟の空気は重くなかった。
神話は還った。女神の涙は、誰の手にも残らなかった。
それでも盗賊団は盗賊団で、父さんは父さんで、ミロは余計なことを言い、カイルは近い距離で止め、ガロは道を見て、ダンテは物騒で、バルドは体調を見ている。
ディアナは、その真ん中にいる。
盗賊娘のまま。
やがて、リュクスたちが仕事の段取りに入り、サディアスがジークムントへいくつかの報告を持ってきた。旧訓練棟の中は、いつものように騒がしくなっていく。
その騒がしさから少し離れるように、ディアナは訓練庭へ出た。
外は夕方に傾き始めていた。石壁の影が長く伸び、庭の隅に残った草が風に揺れている。王城の奥から、遠く鐘の音が聞こえた。
左手を上げる。黒い輪と赤い宝石の指輪が、夕陽を受けて小さく光を返した。
もう偽物の国宝ではない。拘束具でもない。誰かに与えられた役の証でもない。
ディアナの指に残った、ディアナ自身の痛みを抱く指輪だった。
「外す?」
背後から声がした。
振り向かなくても分かる。
ジークムントだ。
ディアナは左手を下ろさなかった。
「今、聞くんですか」
「今だから聞くんだよ」
ジークムントは隣に立った。訓練庭の風が、彼の銀白色の髪を揺らす。月明かりではないのに、夕陽の中で淡い金の糸が混じるように見えた。深い青灰色の瞳が、ディアナの左手を見ている。
「それは、もう私が作った通りのものではない。君を縛るための指輪でもない」
「……はい」
「だから、外したいなら外していい」
あの森で初めて捕まった時、ジークムントはディアナの意思など聞かなかった。左手を取って、偽の指輪をはめて、今日からお前は俺のものだと告げた。
逃げ道を塞ぐ声だった。
今は違う。
逃げ道を見せた上で、選ばせる声だった。
ディアナは指輪を見つめた。黒い輪が、赤い宝石を抱いている。抱きしめているようにも、縛っているようにも見える形。
この人らしい、と思った。
最悪で、綺麗で、危ない。
けれど、今のディアナはそれを怖いだけとは思わない。
「今は、つけておきます」
自分の声は、思ったより静かだった。ジークムントの視線が、指輪からディアナへ移る。
「今は?」
「はい。今は」
「理由を聞いても?」
「盗賊なので」
「それは理由になるのかな」
「なります」
ディアナは指輪を握った。
「これは、もうジーク様に縛られるだけのものじゃないので。盗ったものというか、返したものというか、残ったものというか……うまく言えませんけど」
「うん」
「私のものに、なった気がします」
言ってから、少し恥ずかしくなった。けれど、ジークムントは笑わなかった。からかわなかった。ただ、ディアナの左手を見て、ゆっくりと目を細める。
「そう」
その一言が、ひどく優しかった。
優しいだけではない。
たぶん、少し悔しそうでもあった。
自分が縛るために作ったものが、自分の知らない理屈で変わり、最後にはディアナ自身のものになった。それが気に入らなくて、でも手放せないのだと、そんな顔だった。
ディアナは目を伏せた。
「ジーク様」
「何?」
「もう、証にできるものは何もありませんね」
「そうだね」
「女神の涙も、国宝も、運命も」
「何も残っていない」
ジークムントはあっさり言った。その声に、未練はなかった。少なくとも、ディアナにはそう聞こえた。
言葉にすると、少し怖かった。
リリアの菫色の瞳。ジークムントと目が合った瞬間の、あの空気。運命という名で説明されそうだったもの。物語の筋書き。前世のゲーム。前々世の断罪台。
全部が終わったわけではない。けれど、本物の指輪はもうない。女神の涙は還った。誰かが決めた役へ人を置くための中心は、土の下へ消えた。
ジークムントがディアナを選ぶ理由に、もう神話は使えない。
運命も使えない。
それが、怖くて。
それ以上に、少しだけ安心した。
「君は」
ジークムントが言った。
「運命が残っているうちは、きっと私の言葉まで疑っただろうね」
ディアナは息を止めた。こちらを見透かすような言い方だった。けれど、責めている声ではなかった。
「物語のせいだと。役割のせいだと。私が誰かを選ぶことさえ、何かに選ばされた結果だと」
「……言いそうですか、私」
「言うよ」
即答だった。ディアナは少しだけ唇を尖らせた。
「そこは迷ってください」
「迷う必要がない」
「ひどい」
「君は逃げ道を探すのが上手い。自分が傷つく時ほど、特に」
言い返せなかった。ジークムントの声は穏やかなままだ。けれど、その奥にある温度が、少しだけ近い。
「だから、今でいい」
夕方の風が、訓練庭を抜けた。旧訓練棟の中から、ミロの笑い声とリュクスの怒鳴り声が聞こえる。いつもの音だ。その音があるから、ディアナは立っていられる。
ジークムントは、ディアナの左手を取った。
今度は強くない。
逃げようと思えば逃げられる。けれど、ディアナは逃げなかった。
「運命が君を選ばなかったなら、都合がいい」
ジークムントは言った。
「横取りできる」
その言い方に、胸が鳴った。
最悪だ。
最悪なのに、どうしてこんなに安心するのだろう。
「君が誰の役でもないなら、私が選べる。女神でも、悪役令嬢でも、物語の駒でもない君を」
ディアナの指先が震えた。ジークムントの親指が、指輪の縁をそっとなぞる。黒い輪に触れ、赤い宝石の手前で止まる。
「逃げ道は残しておく」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
「けれど、戻る場所に私を選びなさい」
逃げ道を残すくせに、戻る場所は自分であれと言う。
最悪だ。
最悪なのに、胸の奥がほどける。
「命令ですか」
「望みだよ」
「命令みたいに聞こえます」
「なら、そう受け取ってもいい」
「本当に最悪ですね」
「知っている」
ジークムントは笑った。
ディアナはその笑みを見上げた。危険で、甘くて、逃げ道を塞ぎたがるくせに、今は逃げ道を消さない人。
善人になったわけではない。
この人は、きっとこれからも悪い。必要なら裏で逃げ道を塞ぎ、相手の喉元に黒鉄色の鎖をかける。王国も教会も盤面に乗せ、笑いながら利用する。けれど、その悪を向ける先だけは、もう以前とは違っている。
ディアナは、そんなジークムントを見ていた。推しだからではない。物語の隠しキャラだからでもない。悪役王子だからでもない。
目の前にいる、この人を。
「逃げません」
ディアナは言った。
ジークムントの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「前にも聞いたね」
「はい。でも、今は前より意味が分かっています」
あの時の「逃げません」は、ただ必死だった。全部から逃げないと言うので精一杯だった。ジークムントからも、リリアからも、運命からも、物語からも、イレーネを救う痛みからも。
今は、その先に立っている。
逃げ道はある。
父さんたちのところへも戻れる。
ひとりで走る足もある。
それでも、ここにいる。
「私は盗賊なので、欲しいものは自分で盗ります」
「うん」
「選ばれるだけは癪なので」
喉が熱くなる。泣くのは、さっき散々やった。もう泣きたくない。なのに、言葉の奥がまた滲みそうになる。
ディアナは息を吸った。
「私も、選びます」
そのあとで、ジークムントが笑った。
整えそこねたような、無防備な笑みが一瞬だけこぼれた。
それを見た瞬間、ディアナの胸がまた変な音を立てた。
ずるい。
この人は、本当に最後までずるい。
「それなら」
ジークムントが言った。
「結婚しても問題ないね」
時間が止まった。
たぶん、止まった。
少なくともディアナの中では、完全に止まった。
「…………はい?」
「互いに選んだ。逃げ道も確認した。指輪もある」
「待ってください」
「何を?」
「何を、じゃないです。今、話が何段飛びました?」
「一段くらいかな」
「百段です」
「盗賊なら登れるだろう」
「そういう問題じゃないです!」
声が裏返った。顔が熱い。耳まで熱い。指輪の赤い宝石が夕陽を拾っただけなのか、自分の顔が赤すぎてそう見えるのか分からない。
ジークムントは楽しそうだった。
ものすごく楽しそうだった。
「返事は?」
「今できるわけないでしょう!」
「そう」
ジークムントは少しだけ首を傾げる。
「では、保留にしておこう」
「保留にする話でもないです!」
「断らないんだね」
ディアナは口を開いた。閉じた。言葉が出ない。それが答えになってしまった気がして、さらに顔が熱くなる。ジークムントの笑みが深くなった。
「ディアナ」
「戻ります!」
ディアナは勢いよく言った。
「父さんたちのところに戻ります! 仕事の段取りもありますし、私は寝ろと言われていますし、ええと、とにかく戻ります!」
「逃げないと言ったばかりなのに?」
「これは逃亡ではありません。戦略的撤退です」
「盗賊らしいね」
「褒めないでください」
ディアナは身をひるがえそうとした。その肩を、ジークムントの手が軽く掴む。
強くない。止めるだけ。
ディアナが振り向くより先に、ジークムントが少し身をかがめた。
耳元に、低い声が落ちる。
「好きだよ」
呼吸が止まった。
世界が裏返るような感覚はない。
指輪をはめられた時のような強制もない。
ただ、たった一言が、胸の奥をまっすぐ貫いた。
ジークムントはすぐに離れた。
言い逃げだ。
最悪だ。
最悪なのに、足が動かない。
「では、戻ろうか」
何事もなかったように言って、ジークムントが先に歩き出す。ディアナはその背中を見た。銀白色の髪。黒い外套。悪役王子らしい、綺麗で危険な背中。
好きだよ。
耳元に残った声が消えない。
ディアナは両手で顔を押さえた。
「……最悪」
小さく漏れた声は、たぶん誰にも聞こえていない。
聞こえていないはずだった。
旧訓練棟の扉の近くで、リュクスが仁王立ちしていた。その横で、サディアスが書類を抱えたまま立っている。深くは突っ込まない顔をしていた。たぶん全部聞いていた。聞いていたうえで、聞かなかったことにする顔だった。
「殿下」
リュクスの声は、ものすごく低かった。
「その前に俺に許可を取れ、許可を」
聞こえていた。
最悪だ。
ディアナは顔を押さえたまま固まった。ミロが腹を抱えて笑い、カイルがそれを止めようとして失敗している。ガロは今度こそ完全に空を見ていて、ダンテは「撃つか」と真顔で呟き、バルドが「撃つな」と止めた。
サディアスだけは、静かに書類を一枚めくった。
ジークムントは振り返りもしなかった。
「考えておくよ」
「考えるな。取れ」
「父さん!」
「お前は黙ってろ。顔が真っ赤だ」
「言わないで!」
叫んだ瞬間、旧訓練棟の中から黒い影が飛び出した。ノアだった。
黒猫は迷いなくジークムントの足元へ走り、軽く跳ぶ。ジークムントは当然のように片腕を上げた。ノアはその腕を足場にして、黒い外套を伝い、彼の肩へ乗る。
あまりにも自然だった。
悪役王子の肩に黒猫。
絵面だけなら、完全にどこかの魔王である。
「ノアまでそっちに行くの?」
ディアナが思わず言うと、ノアはジークムントの肩で尻尾を揺らした。ジークムントが少しだけ得意そうに笑う。
「見る目があるね」
「猫にまで張り合わないでください」
「張り合ってはいないよ。懐かれているだけだ」
「腹立つ」
ミロがまた笑った。
リュクスはまだ嫌な顔をしている。カイルは苦笑し、バルドは薬箱を持ち直し、ガロとダンテはすでに次の仕事の話へ戻っていた。サディアスはジークムントの肩のノアを一瞥し、何も言わずに書類を閉じる。
旧訓練棟は騒がしい。
王城の隅で、盗賊団がいて、警衛騎士団の術式が沈み、腹心が書類を抱え、悪役王子が黒猫を肩に乗せている。
おかしな場所だ。
けれど、帰る場所だった。
ジークムントが振り返る。
深い青灰色の瞳が、ディアナを見る。
逃げ道はある。
森へも、街へも、父さんたちの腕の中へも、自分ひとりの足でも、どこへだって行ける。
戻る場所もある。
盗賊団アディンセル。
父さんたち。
そして、今はこちらを見ている、最悪で危険な悪役王子の隣。
ディアナは息を吸った。
それから、歩き出す。
捕まった時とは違う。
手を引かれたからではない。
命じられたからでもない。
自分の足で、ジークムントの隣へ行く。
ジークムントが、少しだけ笑った。
ディアナも、少しだけ笑い返す。
左手の黒い輪が、夕方の光を受けて鈍く銀を返した。二つの縁に抱かれた赤い宝石は、もう石畳へ落ちない。誰にも届かなかった声も、流せなかった涙も、今はここにある。
運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれた。
けれど、その隣に立つことを選んだのは、ディアナ自身だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて本編完結です。
盗賊娘たちの物語を最後まで見届けていただけたこと、心から嬉しく思います。
少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。
ありがとうございました。




