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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第五十六話 運命に選ばれなかった盗賊娘は


 迷いの森は、もう迷わせなかった。


 地下の空洞を出る時も、ジークムントはディアナの左手を支えていた。赤い宝石のはまった指輪ごと、下から包むように。


 湿った土の匂いも、絡みつく根も、行く手を塞ぐ枝も、そこにある。ただ、それだけだった。さっきまで耳元で囁いていた偽物の声も、足元をずらす悪意も、白い霧の奥から誰かを呼ぶような気配も消えている。


 森は、森になっていた。


 出口へ近づく頃には、支えられていた左手は、手を繋いでいる形になっていた。ジークムントは離さなかったし、ディアナも離せなかった。


 左手の指輪は、冷たくなかった。菫は抜け、深い黒の表面だけが、光を受けるとかすかに銀を返す。斜めに落ちる二つの縁のあいだに、赤い宝石が抱かれるようにはまっていた。


 抱きしめているようにも、縛っているようにも見える形。


 けれど、今は怖くなかった。


 リュクスが、森の出口で待っていた。


 そして、ものすごく嫌な顔をした。


「……おい」


 声が低い。ディアナは少しだけ肩を揺らした。泣いた後の目元がまだ熱い。手も、まだジークムントに握られている。


「父さん」

「何を自然に手ぇ繋いで帰ってきてんだ」

「いや、これは、その」

「殿下」


 リュクスの視線が、ジークムントへ移る。ジークムントは平然としていた。森から出たばかりだというのに、銀白色の髪は乱れすら綺麗に見える。深い青灰色の瞳が、リュクスを静かに見返した。


「支えていただけだよ」

「支え終わったなら離せ」

「本人が離していない」


 最悪だ。


 正論みたいな顔で、責任をこちらへ寄せないでほしい。


 ディアナが慌てて手を引こうとした瞬間、ジークムントの指がほんの少しだけ強くなる。逃がさないほどではない。ただ、まだここにある、と確かめるような力だった。それだけで、喉が詰まった。


「お嬢、泣いた顔で帰ってきたと思ったら、手ぇ繋いでるんだもんなあ」


 ミロが口笛を吹きかけ、カイルに肘で黙らされた。


「ミロ」

「はい黙ります」


 ガロは見なかったふりをして空を見上げ、ダンテは肩をすくめた。バルドだけが、ディアナの顔色と足取りを見てから、妙に真面目に頷く。


「まあ、泣いた後だからな」

「バルド、その納得はちょっと違う」

「歩けてるならいい」


 ディアナは返す言葉を失った。


 森から出た空は、思っていたより明るかった。木々の隙間から差す光は白く、土に落ちた影もただの影だった。世界が裏返るような感覚はもうない。足元を盗られる気配もない。


 初めてこの森へ来た時、ディアナは逃げていた。足元を奪われ、背後から鎖に捕まり、左手に偽の国宝をはめられた。


 今は、同じ森から出ていく。


 自分の足で。


 自分の手で、誰かの手を握ったまま。


「帰るぞ」


 リュクスが言った。その声はいつも通り乱暴で、けれどほんの少しだけ柔らかかった。


「帰って、飯食って、寝ろ。泣いた後の顔でうろつくな。面倒なのが増える」

「面倒なのって何」

「だいたい殿下だ」

「父さん」

「否定はしないよ」

「ジーク様も否定しないでください」


 ジークムントは笑った。


 森はもう、誰も引き止めなかった。


 王城へ戻った後、世界は急に変わらなかった。


 本物のオールトの指輪は消えた。女神の涙は、迷いの森の土へ還った。王国が長く国宝と呼び、正統性の証として掲げてきたものは、もうどこにもない。けれど、夜が明けても王都は崩れなかった。市場では人が行き交い、パン屋は朝の匂いを通りへ流し、馬車は石畳を鳴らして進む。王城の白い壁は光を受け、教会の鐘も鳴った。


 何もなかったように、ではない。何かを失っても、それでも朝は来るのだと、見せつけるように。


 王城の一室で、クリスは長い沈黙のあと、息を吐いた。窓の外には、祭りの名残がまだ残っている。白い花飾りは外され始め、女神像へ続く道に敷かれていた布も片づけられていた。昨日まで神話の中心だったものが、今日は人の手で巻き取られていく。


 クリスの隣には、イレーネがいた。黒絹のような髪を背に流し、氷青の瞳で真っ直ぐ前を見ている。疲れているはずなのに、背筋は崩れていない。あの人は、最後まで自分で立つ人なのだと、ディアナは思った。


 少し離れた場所に、リリアもいた。菫色の瞳は変わらない。けれど、その色を見て誰かが膝を折る空気はもうなかった。彼女は女神ではない。女神として置かれる少女でもない。ただ、リリアとしてそこに立っている。その事実に、ディアナは少しだけ息を吐いた。


「兄上」


 クリスが言った。


「王国は、荒れますね」

「荒れるよ」


 ジークムントはあっさり答えた。窓辺に立つ彼の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさが逆に怖い。怒鳴る必要がないほど、もう逃げ道を塞いだ後の声だった。


「女神の涙を失った国が、明日から急に自分の足で立てるわけがない。教会も、王妃派の残りも、古い貴族たちも、都合のいい神話を取り戻そうとするだろうね」

「そこまで分かっていて、明るい話のように言わないでください」

「明るい話ではないよ。ただ、分かりやすくはなった」


 ジークムントの視線が、机上の書類へ落ちる。神殿の隠し帳簿。祭具の移送記録。王妃派が抱えていた古い誓約文の写し。サディアスが揃え、盗賊団が抜き、ジークムントが逃げ道を塞いだ証拠たち。


 神話を戻したい者たちが、どこに手を伸ばし、誰を役へ置こうとしていたのか。


 もう、隠せない。


「女神の涙の代わりに、新しい嘘を置く必要はない」


 ジークムントは言った。


「女神の涙がなくても明日が来ると、何度も見せることだ。民は神話だけで生きているわけじゃない。今日を積み上げる場所を王国が守るなら、国はすぐには壊れない」


 クリスが、兄を見た。いつもの軽さは少し薄い。けれど、消えてはいない。ちゃんと残っている。残したまま、別のものを背負おうとしている顔だった。


「僕に、それを表でやれと?」

「君は表に向いている」

「兄上は?」

「私は裏が向いている」


 あまりにも当然のように言うので、ディアナは少しだけ目を細めた。


 この人、本当に王国を裏側から牛耳る気だ。


 王位が欲しいのではない。玉座に座って王冠をかぶりたいのでもない。ただ、王国という盤面を、教会も王妃派も古い神話も含めて、自分の手の届く場所へ置くつもりなのだ。


 悪役王子のまま。


 けれど、その悪を向ける先だけは、もう以前とは違っている。


「神話を失って泣く者には言葉を。神話を戻そうとする者には鎖を。分担しよう」


 クリスは少しだけ目を見開き、それから苦笑した。


「兄上は、最後まで兄上ですね」

「褒め言葉として受け取るよ」

「それも違います」


 ジークムントは笑った。


「君は、表で言葉を積みなさい。イレーネ嬢と一緒に」


 イレーネの指が、わずかに動いた。


 クリスは一瞬だけ彼女を見て、それから笑った。軽く、いつものように。けれど、その笑みは逃げではなかった。


「簡単に言ってくれますね」

「簡単ではないから君に言っている」

「褒めています?」

「使えると言っている」

「兄上らしいなあ」


 クリスは肩をすくめた。


 イレーネが静かに口を開く。


「わたくしも、隣に立ちます。王国が人の積み上げたもので立つのなら、その一部に、わたくしもなりたい」


 その声は、よく通った。悪役令嬢ではない。責められる令嬢でもない。ただ、イレーネ・ブラディ・マルチェントとして立つ声だった。


 リリアが小さく息を吸った。菫色の瞳が揺れる。それでも彼女は逃げなかった。


「私も」


 リリアの声は、細かった。


 けれど、途切れなかった。


「私は、女神ではありません。そう見たい人がいても、違うと言います。……たぶん、何度も怖くなると思います。でも、違うと言える人になりたいです」


 リリアの菫色の瞳が、ジークムントへ向く。けれどそこに、あの日見た熱はもうなかった。痛みが消えたわけではないのだろう。それでも彼女は、もう誰かの隣に置かれる少女ではなかった。


 ディアナは胸の奥が少し痛くなった。


 リリアは悪ではない。置かれた場所から、自分の足で降りようとしていた。


 菫色の瞳は変わらない。人は見たいものを見る。女神を失った人たちは、彼女へ都合のいい祈りを重ねようとするかもしれない。それでも、リリアは今、自分の声で違うと言った。


 ディアナはそれを、ちゃんと見ていた。


「なら、決まりだね」


 ジークムントが言った。軽い言い方だった。けれど、その場にいた全員が分かっていた。これはただの確認ではない。ここから先の王国を、どう動かすかの始まりだ。


 クリスは苦笑しながらも、逃げなかった。イレーネはその隣で、誰かに置かれたのではなく、自分の意思で背筋を伸ばしていた。リリアは菫色の瞳のまま、女神ではないと口にした。そしてジークムントは、その全員を見て、もう次の盤面を組んでいる顔をしていた。


 ディアナは、少しだけ呆れた。


 神話が終わっても、この人は止まらない。


 でも、それが少しだけ安心でもあった。


 そして、ディアナたちは。


「で」


 リュクスが低く言った。


 場所は旧訓練棟へ移っていた。高い窓から午後の白い光が差し、傷だらけの床板に細く伸びている。古い石壁には剣掛けの跡が残り、扉の隅にはまだ警衛騎士団の術式が沈んでいた。紙と薬草と埃の匂いがする。


 帰ってきた場所だ。


 盗賊団アディンセルが、王城の隅で勝手に根を張った場所。


 リュクスは腕を組み、ジークムントを睨んでいる。


「まだ俺らに仕事させる気か」

「当然だよ」


 ジークムントは少しも悪びれなかった。


「教会の隠し金庫、王妃派の抜け道、神殿に残った偽の記録。欲しいものはいくつかある」

「神話を還した直後に、よくそれが言えるな」

「神話が還ったから、人間の後始末が残ったんだ」

「殿下は本当に性格が悪い」

「褒め言葉として受け取るよ」

「褒めてねえ」


 ミロが肩を揺らして笑った。


「でもまあ、神話を盗った後に帳簿盗るの、俺らっぽくていいんじゃねえ?」

「お前は黙ってろ」

「はい頭」


 ガロは机上に広げられた簡易地図を覗き込み、細い指でひとつの通路を叩いた。


「この抜け道、古い。使っているなら足音が残る」


 ダンテが魔銃の手入れをしながら、短く言う。


「逃げる連中がいるなら、出口を塞げばいい」

「撃つなよ」

「まだ撃たない」

「まだって言うな」


 バルドは薬箱を閉じ、ディアナを見た。


「ディアナは今日は休め」

「え、でも」

「喉も目も腫れてる。泣いた後に動くな」

「泣いたことを何回も確認しないで」


 カイルが少しだけ笑った。


「ディアナは休め。俺たちで行ける」


 その言い方に、ディアナは一瞬だけ言葉をなくす。いつも通りだった。近すぎず、離れすぎず、盗賊団の仲間としてそこにいる声だった。


 昔なら、置いていかれると思ったかもしれない。今は違う。帰る場所があるから、待つこともできる。逃げ道を知っているから、逃げないことも選べる。自分ひとりで全部を盗らなくてもいい。父さんたちがいる。盗賊団がいる。


 それでも、盗るものを選ぶのは自分だ。


「じゃあ、私は盗るものを決める」

「寝ろって言ってんだろ」

「決めたら寝る」

「ディアナ」

「大丈夫。盗賊なので、寝る前に獲物の確認だけします」


 リュクスは額を押さえた。


 ジークムントが小さく笑う。


「良い子だね」

「殿下にだけは言われたくねえ」

「同感です」


 ディアナが即座に返すと、ミロが吹き出した。カイルがまた肘で黙らせる。けれど、旧訓練棟の空気は重くなかった。


 神話は還った。女神の涙は、誰の手にも残らなかった。


 それでも盗賊団は盗賊団で、父さんは父さんで、ミロは余計なことを言い、カイルは近い距離で止め、ガロは道を見て、ダンテは物騒で、バルドは体調を見ている。


 ディアナは、その真ん中にいる。


 盗賊娘のまま。


 やがて、リュクスたちが仕事の段取りに入り、サディアスがジークムントへいくつかの報告を持ってきた。旧訓練棟の中は、いつものように騒がしくなっていく。


 その騒がしさから少し離れるように、ディアナは訓練庭へ出た。


 外は夕方に傾き始めていた。石壁の影が長く伸び、庭の隅に残った草が風に揺れている。王城の奥から、遠く鐘の音が聞こえた。


 左手を上げる。黒い輪と赤い宝石の指輪が、夕陽を受けて小さく光を返した。


 もう偽物の国宝ではない。拘束具でもない。誰かに与えられた役の証でもない。


 ディアナの指に残った、ディアナ自身の痛みを抱く指輪だった。


「外す?」


 背後から声がした。


 振り向かなくても分かる。


 ジークムントだ。


 ディアナは左手を下ろさなかった。


「今、聞くんですか」

「今だから聞くんだよ」


 ジークムントは隣に立った。訓練庭の風が、彼の銀白色の髪を揺らす。月明かりではないのに、夕陽の中で淡い金の糸が混じるように見えた。深い青灰色の瞳が、ディアナの左手を見ている。


「それは、もう私が作った通りのものではない。君を縛るための指輪でもない」

「……はい」

「だから、外したいなら外していい」


 あの森で初めて捕まった時、ジークムントはディアナの意思など聞かなかった。左手を取って、偽の指輪をはめて、今日からお前は俺のものだと告げた。


 逃げ道を塞ぐ声だった。


 今は違う。


 逃げ道を見せた上で、選ばせる声だった。


 ディアナは指輪を見つめた。黒い輪が、赤い宝石を抱いている。抱きしめているようにも、縛っているようにも見える形。


 この人らしい、と思った。


 最悪で、綺麗で、危ない。


 けれど、今のディアナはそれを怖いだけとは思わない。


「今は、つけておきます」


 自分の声は、思ったより静かだった。ジークムントの視線が、指輪からディアナへ移る。


「今は?」

「はい。今は」

「理由を聞いても?」

「盗賊なので」

「それは理由になるのかな」

「なります」


 ディアナは指輪を握った。


「これは、もうジーク様に縛られるだけのものじゃないので。盗ったものというか、返したものというか、残ったものというか……うまく言えませんけど」

「うん」

「私のものに、なった気がします」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。けれど、ジークムントは笑わなかった。からかわなかった。ただ、ディアナの左手を見て、ゆっくりと目を細める。


「そう」


 その一言が、ひどく優しかった。


 優しいだけではない。


 たぶん、少し悔しそうでもあった。


 自分が縛るために作ったものが、自分の知らない理屈で変わり、最後にはディアナ自身のものになった。それが気に入らなくて、でも手放せないのだと、そんな顔だった。


 ディアナは目を伏せた。


「ジーク様」

「何?」

「もう、証にできるものは何もありませんね」

「そうだね」

「女神の涙も、国宝も、運命も」

「何も残っていない」


 ジークムントはあっさり言った。その声に、未練はなかった。少なくとも、ディアナにはそう聞こえた。


 言葉にすると、少し怖かった。


 リリアの菫色の瞳。ジークムントと目が合った瞬間の、あの空気。運命という名で説明されそうだったもの。物語の筋書き。前世のゲーム。前々世の断罪台。


 全部が終わったわけではない。けれど、本物の指輪はもうない。女神の涙は還った。誰かが決めた役へ人を置くための中心は、土の下へ消えた。


 ジークムントがディアナを選ぶ理由に、もう神話は使えない。


 運命も使えない。


 それが、怖くて。


 それ以上に、少しだけ安心した。


「君は」


 ジークムントが言った。


「運命が残っているうちは、きっと私の言葉まで疑っただろうね」


 ディアナは息を止めた。こちらを見透かすような言い方だった。けれど、責めている声ではなかった。


「物語のせいだと。役割のせいだと。私が誰かを選ぶことさえ、何かに選ばされた結果だと」

「……言いそうですか、私」

「言うよ」


 即答だった。ディアナは少しだけ唇を尖らせた。


「そこは迷ってください」

「迷う必要がない」

「ひどい」

「君は逃げ道を探すのが上手い。自分が傷つく時ほど、特に」


 言い返せなかった。ジークムントの声は穏やかなままだ。けれど、その奥にある温度が、少しだけ近い。


「だから、今でいい」


 夕方の風が、訓練庭を抜けた。旧訓練棟の中から、ミロの笑い声とリュクスの怒鳴り声が聞こえる。いつもの音だ。その音があるから、ディアナは立っていられる。


 ジークムントは、ディアナの左手を取った。


 今度は強くない。


 逃げようと思えば逃げられる。けれど、ディアナは逃げなかった。


「運命が君を選ばなかったなら、都合がいい」


 ジークムントは言った。


「横取りできる」


 その言い方に、胸が鳴った。


 最悪だ。

 最悪なのに、どうしてこんなに安心するのだろう。


「君が誰の役でもないなら、私が選べる。女神でも、悪役令嬢でも、物語の駒でもない君を」


 ディアナの指先が震えた。ジークムントの親指が、指輪の縁をそっとなぞる。黒い輪に触れ、赤い宝石の手前で止まる。


「逃げ道は残しておく」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


「けれど、戻る場所に私を選びなさい」


 逃げ道を残すくせに、戻る場所は自分であれと言う。


 最悪だ。

 最悪なのに、胸の奥がほどける。


「命令ですか」

「望みだよ」

「命令みたいに聞こえます」

「なら、そう受け取ってもいい」

「本当に最悪ですね」

「知っている」


 ジークムントは笑った。


 ディアナはその笑みを見上げた。危険で、甘くて、逃げ道を塞ぎたがるくせに、今は逃げ道を消さない人。


 善人になったわけではない。


 この人は、きっとこれからも悪い。必要なら裏で逃げ道を塞ぎ、相手の喉元に黒鉄色の鎖をかける。王国も教会も盤面に乗せ、笑いながら利用する。けれど、その悪を向ける先だけは、もう以前とは違っている。


 ディアナは、そんなジークムントを見ていた。推しだからではない。物語の隠しキャラだからでもない。悪役王子だからでもない。


 目の前にいる、この人を。


「逃げません」


 ディアナは言った。


 ジークムントの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「前にも聞いたね」

「はい。でも、今は前より意味が分かっています」


 あの時の「逃げません」は、ただ必死だった。全部から逃げないと言うので精一杯だった。ジークムントからも、リリアからも、運命からも、物語からも、イレーネを救う痛みからも。


 今は、その先に立っている。


 逃げ道はある。


 父さんたちのところへも戻れる。


 ひとりで走る足もある。


 それでも、ここにいる。


「私は盗賊なので、欲しいものは自分で盗ります」

「うん」

「選ばれるだけは癪なので」


 喉が熱くなる。泣くのは、さっき散々やった。もう泣きたくない。なのに、言葉の奥がまた滲みそうになる。


 ディアナは息を吸った。


「私も、選びます」


 そのあとで、ジークムントが笑った。


 整えそこねたような、無防備な笑みが一瞬だけこぼれた。


 それを見た瞬間、ディアナの胸がまた変な音を立てた。


 ずるい。


 この人は、本当に最後までずるい。


「それなら」


 ジークムントが言った。


「結婚しても問題ないね」


 時間が止まった。


 たぶん、止まった。


 少なくともディアナの中では、完全に止まった。


「…………はい?」

「互いに選んだ。逃げ道も確認した。指輪もある」

「待ってください」

「何を?」

「何を、じゃないです。今、話が何段飛びました?」

「一段くらいかな」

「百段です」

「盗賊なら登れるだろう」

「そういう問題じゃないです!」


 声が裏返った。顔が熱い。耳まで熱い。指輪の赤い宝石が夕陽を拾っただけなのか、自分の顔が赤すぎてそう見えるのか分からない。


 ジークムントは楽しそうだった。


 ものすごく楽しそうだった。


「返事は?」

「今できるわけないでしょう!」

「そう」


 ジークムントは少しだけ首を傾げる。


「では、保留にしておこう」

「保留にする話でもないです!」

「断らないんだね」


 ディアナは口を開いた。閉じた。言葉が出ない。それが答えになってしまった気がして、さらに顔が熱くなる。ジークムントの笑みが深くなった。


「ディアナ」

「戻ります!」


 ディアナは勢いよく言った。


「父さんたちのところに戻ります! 仕事の段取りもありますし、私は寝ろと言われていますし、ええと、とにかく戻ります!」

「逃げないと言ったばかりなのに?」

「これは逃亡ではありません。戦略的撤退です」

「盗賊らしいね」

「褒めないでください」


 ディアナは身をひるがえそうとした。その肩を、ジークムントの手が軽く掴む。


 強くない。止めるだけ。


 ディアナが振り向くより先に、ジークムントが少し身をかがめた。


 耳元に、低い声が落ちる。


「好きだよ」


 呼吸が止まった。


 世界が裏返るような感覚はない。


 指輪をはめられた時のような強制もない。


 ただ、たった一言が、胸の奥をまっすぐ貫いた。


 ジークムントはすぐに離れた。


 言い逃げだ。


 最悪だ。


 最悪なのに、足が動かない。


「では、戻ろうか」


 何事もなかったように言って、ジークムントが先に歩き出す。ディアナはその背中を見た。銀白色の髪。黒い外套。悪役王子らしい、綺麗で危険な背中。


 好きだよ。


 耳元に残った声が消えない。


 ディアナは両手で顔を押さえた。


「……最悪」


 小さく漏れた声は、たぶん誰にも聞こえていない。


 聞こえていないはずだった。


 旧訓練棟の扉の近くで、リュクスが仁王立ちしていた。その横で、サディアスが書類を抱えたまま立っている。深くは突っ込まない顔をしていた。たぶん全部聞いていた。聞いていたうえで、聞かなかったことにする顔だった。


「殿下」


 リュクスの声は、ものすごく低かった。


「その前に俺に許可を取れ、許可を」


 聞こえていた。


 最悪だ。


 ディアナは顔を押さえたまま固まった。ミロが腹を抱えて笑い、カイルがそれを止めようとして失敗している。ガロは今度こそ完全に空を見ていて、ダンテは「撃つか」と真顔で呟き、バルドが「撃つな」と止めた。


 サディアスだけは、静かに書類を一枚めくった。


 ジークムントは振り返りもしなかった。


「考えておくよ」

「考えるな。取れ」

「父さん!」

「お前は黙ってろ。顔が真っ赤だ」

「言わないで!」


 叫んだ瞬間、旧訓練棟の中から黒い影が飛び出した。ノアだった。


 黒猫は迷いなくジークムントの足元へ走り、軽く跳ぶ。ジークムントは当然のように片腕を上げた。ノアはその腕を足場にして、黒い外套を伝い、彼の肩へ乗る。


 あまりにも自然だった。


 悪役王子の肩に黒猫。


 絵面だけなら、完全にどこかの魔王である。


「ノアまでそっちに行くの?」


 ディアナが思わず言うと、ノアはジークムントの肩で尻尾を揺らした。ジークムントが少しだけ得意そうに笑う。


「見る目があるね」

「猫にまで張り合わないでください」

「張り合ってはいないよ。懐かれているだけだ」

「腹立つ」


 ミロがまた笑った。


 リュクスはまだ嫌な顔をしている。カイルは苦笑し、バルドは薬箱を持ち直し、ガロとダンテはすでに次の仕事の話へ戻っていた。サディアスはジークムントの肩のノアを一瞥し、何も言わずに書類を閉じる。


 旧訓練棟は騒がしい。


 王城の隅で、盗賊団がいて、警衛騎士団の術式が沈み、腹心が書類を抱え、悪役王子が黒猫を肩に乗せている。


 おかしな場所だ。


 けれど、帰る場所だった。


 ジークムントが振り返る。


 深い青灰色の瞳が、ディアナを見る。


 逃げ道はある。


 森へも、街へも、父さんたちの腕の中へも、自分ひとりの足でも、どこへだって行ける。


 戻る場所もある。


 盗賊団アディンセル。


 父さんたち。


 そして、今はこちらを見ている、最悪で危険な悪役王子の隣。


 ディアナは息を吸った。


 それから、歩き出す。


 捕まった時とは違う。


 手を引かれたからではない。


 命じられたからでもない。


 自分の足で、ジークムントの隣へ行く。


 ジークムントが、少しだけ笑った。


 ディアナも、少しだけ笑い返す。


 左手の黒い輪が、夕方の光を受けて鈍く銀を返した。二つの縁に抱かれた赤い宝石は、もう石畳へ落ちない。誰にも届かなかった声も、流せなかった涙も、今はここにある。


 運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれた。


 けれど、その隣に立つことを選んだのは、ディアナ自身だった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


これにて本編完結です。

盗賊娘たちの物語を最後まで見届けていただけたこと、心から嬉しく思います。


少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。

ありがとうございました。

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