第五十五話 盗めなかった涙
森の奥は、静かだった。
さっきまで足音も呼吸も飲み込んでいた迷いの森が、急に黙った。枝は揺れている。根も湿った土の下でゆっくり動いている。けれど、押し返してくる力が変わっていた。こちらを外へ吐き出そうとする拒絶ではない。見てはいけないものを見られた時の、息を殺すような沈黙だった。
ディアナは黒鉄色の鎖を握ったまま、一歩ずつ進んだ。
足元の土は深い。踏めば沈むのに、泥ではない。雨を含んだ古い腐葉土の匂いがして、その奥から白い花の香りが細く流れてくる。王城で焚かれる香でも、教会の祈りに混じる香でもなかった。もっと湿っていて、もっと冷たくて、長いあいだ誰にも触れられなかった空気に似ていた。
「お嬢」
右後ろから、ミロの声がした。
ディアナは返事をしかけて、止まる。
本物のミロは左後ろにいる。
喉の奥が、ひやりとした。足を止めた瞬間、右の根元が音もなく沈んだ。土が落ちたのではない。そこにあったはずの地面が、最初からなかったことにされたように消えた。
「またそれ?」
ディアナは低く言って、沈んだ根元を睨んだ。
「最後まで性格悪いな、この森」
左後ろで、本物のミロが顔をしかめる。
「俺の声で誘うのやめてくんねえかな。俺が信用なくすだろ」
カイルが短剣を構えたまま、淡々と返した。
「元からそんなにねえよ」
「カイル、今のは傷ついた」
「生きてるからいいだろ」
「それ便利だな。今後それで全部流すわ」
軽口は小さい。けれど、完全には消えなかった。だから進める。
ジークムントの鎖が、ディアナの手の中でわずかに張った。引かれたわけではない。止まれ、という合図に近い。
次の声は、前から来た。
「左だ。早く来い」
ジークムントの声だった。
低く、短く、命じる声。けれど、その瞬間、ディアナは動かなかった。
本物のジークムントは、そんな言い方をしない。
いや、言う。言う時もある。逃げるな、見ろ、返事をしろ。そういう声を、ディアナは知っている。知っているからこそ、分かった。今の声は、命令だけを真似ている。こちらの足をどこへ置かせるかを考えていない。
「動くな」
背後から、本物の声が落ちた。
「私の声でも、信じるな」
ディアナは頷いた。
鎖を握る手に、少しだけ力を込める。黒鉄色の線は、逃げ道を塞いだ時と同じ硬さをしている。けれど今は、足元を奪うためではなく、こちらが落ちない場所だけを残すためにある。
ガロが地面を叩いた。返りはない。もう一度叩く。今度は、浅く返る。
「前じゃねえ。下だ」
バルドが土を指先で崩し、布へ移した。香りを確かめ、目を細める。
「白花の香りが下から上がってる。根の下に空気の通り道があるな」
ダンテが空の薬莢を爪ではじいた。小さな音は前へ飛ばず、足元で横へ流れた。見えない傾斜を滑るように、低い方へ吸われていく。
「そこだ」
ジークムントの鎖が、根の間へ潜った。
黒鉄色の線が土の下でぎしりと止まる。何かに絡んだのではない。何かの縁を捕らえたのだ。森が嫌がるように、周囲の根がいっせいに動く。白い花の香りが濃くなる。ディアナの左手の偽物の指輪に沈んでいた黒と菫が、さらに深く色を落とした。
近い。
そう思った途端、左耳に声が吹き込まれた。
「ディアナ」
今度の声は、甘かった。
ジークムントの声で、ディアナの名を呼ぶ。短いのに、胸の奥を撫でるような響きがあった。だからこそ、気持ちが悪かった。森は、ディアナがどの声に弱いかまでは知らない。ただ、弱そうな形だけを真似てくる。
「下手です」
ディアナは吐き捨てるように言った。
「ジーク様はもっと嫌な言い方をします」
「君は後で覚えておきなさい」
本物のジークムントが、後ろで静かに言った。
少しだけ、空気が戻る。ミロが噴き出しかけて、ガロに肩を叩かれて黙った。カイルは笑わなかった。ただ、ディアナの半歩後ろで短剣を構え直す。
リュクスが、根の沈んだ場所を見下ろした。
「殿下、開けられるか」
「壊すなら簡単だよ」
「聞き方を変える。壊さず開けられるか」
「君たちが通る一瞬なら」
ジークムントの指が動く。黒鉄色の鎖が土の下でほどけるように広がり、根と根の隙間を縫った。押し広げるのではなく、もともとあった隙間をなぞる。森が閉じようとするたび、鎖がそこだけを一瞬留める。
「一人ずつだ」
リュクスが言った。
ガロが先に滑り込む。次いで、バルド、ダンテ、ミロ、カイル。ミロは最後の一歩でわざと派手に滑りかけ、カイルに襟を掴まれた。
「今のは演出」
「黙って落ちろ」
「落ちたら助けてくれる?」
「先に怒る」
それでも二人とも消えた。根の下へ。森の奥へ。
ディアナの番になった。
黒鉄色の鎖が足元へ伸びる。かつて足を奪った鎖の上に、今度は自分から足を置く。ほんの少し沈む。けれど、逃げ場は塞がれない。むしろ、落ちない場所だけが手渡される。
ディアナは鎖を握ったまま、根の隙間へ身を滑らせた。
土の匂いが近くなる。白花の香りが喉ではなく、胸の奥へ入ってくる。湿った暗がりの中で、足元がなくなる感覚がした。次の瞬間、誰かの手ではなく、鎖が腰の横を支えた。
下へ降りた先は、空洞だった。
森の地下というには、明るすぎる。光源はない。けれど、壁そのものが薄く白んでいる。根が天井を這い、石と土の境目を抱え込んでいた。人工の神殿ではない。石を積んだ場所でもない。森が長い時間をかけて、何かを隠すために形を変えたような場所だった。
壁に、絵があった。
ディアナは息を止めた。
古い壁画だった。色はほとんど落ちている。けれど、線は残っている。白い花を踏まないように立つ女神。大きな竜。旅人らしき人影。妖精のような小さな影たち。
知っている神話なら、ここで竜が女神を縛っているはずだった。
けれど、壁の竜は女神を見下ろしていなかった。爪を立ててもいない。大きな体を丸め、女神の周りを囲っている。閉じ込めているようにも見える。けれど、女神の手は、その竜の額に触れていた。
ディアナは言葉を失った。
別の壁では、旅人が剣を持っていた。竜の頭へ突き立てるはずの剣。その刃は、竜と女神のあいだへ差し込まれている。
妖精たちは笑っていなかった。
小さな手が、女神の裾と竜の鱗に伸びている。祝福の絵には、見えなかった。
「……なんだ、これ」
ミロの声が、今度は本物の場所から落ちた。
誰も答えられなかった。
ディアナは壁画を見たまま、ゆっくり息を吸った。前世のゲームで知っていた神話とも、王国で語られる神話とも違う。けれど、胸の奥だけが、その絵を知らないと言い切れなかった。偽物の指輪をはめられた時、流れ込んできた断片。記憶が混ざり、意味だけが先に胸へ落ちてくる時の、あの感覚に似ている。
奥へ進むほど、白花の香りが静かになった。
濃くなるのではない。澄んでいく。
そして、開けた場所に出た。
祭壇はなかった。
王家の紋も、教会の祈り布も、宝を守るための箱もない。ただ、根に抱かれた石のくぼみがあり、その中央に、小さな白い輪があった。
宝石はない。
白く、静かな輪だった。
けれど、誰もそれをただの指輪だとは思わなかった。
リュクスが息を止める。ミロの軽口が消える。ガロも、バルドも、ダンテも、カイルも、動かなかった。ジークムントも、ただ静かにその輪を見ていた。
香りがした。
土と、雨と、白い花と、古い森の奥の香り。
ディアナは左手を握った。偽物の指輪に沈んでいた黒と菫が、深く沈み込む。まるで、その白い輪の前で膝をつく代わりに、色だけが下へ落ちていくようだった。
これは、宝ではない。国宝でも、王国の正統性でも、女神の証でもない。
輪の形をしている。けれど、輪ではない。
流れ落ちたものだ。
落ちて、誰かの手に受け止められて、そのまま長いあいだ返されなかったもの。
涙だ。
ディアナは、そう思った。
誰も、動かなかった。
先に動いたのは、ディアナだった。
祈る気はなかった。跪く気もなかった。聖女のように手を組む気も、女神の証を受け取る気もない。
誰かが勝手に国宝と呼んだ。
誰かを役に押し込めるために、涙を飾った。
なら、盗品だ。
盗品なら、盗る。
ディアナは左手を伸ばした。
「ディアナ」
リュクスの声がした。
止める声ではなかった。
ただ、娘を呼ぶ声だった。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。それでも、そう言った。怖くないわけではない。むしろ、怖い。胸の奥がひどく静かで、そこだけが深い水の底みたいになっている。
ディアナは白い輪へ指をかけた。
盗賊の手つきだった。
壊さない。乱さない。持ち主に気づかれる前に、重さと向きと逃げ道を読む。何度も練習した動き。父たちに叩き込まれた、盗るための指先。
その指先が、本物のオールトの指輪に触れた。
左手の偽物の指輪が、本物に触れる。
音はしなかった。
けれど、世界の底が抜けたような感覚がした。
白い光ではなかった。眩しくもなかった。ただ、胸の内側へ、知らないはずの悲しみが流れ込んでくる。偽物の指輪をはめられた時と似ていた。記憶が流れ込んできた日の、息ができなくなるような感覚にも似ていた。けれど、今度は誰かの記憶ではない。もっと古く、もっと深く、言葉になる前のものだった。
足を地に縫われた女神。
身を丸めて、その足元を守ろうとした竜。
救いの名で差し込まれた刃。
祝福の名で伸びた小さな手。
分からない。
でも、分かった。
これは、王国のものではない。
誰のものでもない。
ディアナの指先の下で、女神の涙がほどけた。
金属が崩れたのではない。壊れたのでもない。涙が土に落ちる時のように、形を保てなくなっただけだった。白い輪は光ではなく、薄い雫のようになって石のくぼみへ落ちる。落ちた先から、根が静かにそれを受け止めた。
誰も手を伸ばせなかった。
王国にも、教会にも、ジークムントにも、ディアナにも渡らない。
本物のオールトの指輪は、盗られる前に地へ還った。
ディアナの手には、何も残らなかった。
盗れなかった。
そう思った瞬間、胸の奥から涙がこぼれた。
声は出なかった。悲しいのか、悔しいのか、それともほっとしたのかも分からない。頬を伝う涙は静かで、熱くなかった。自分のものではないみたいだった。誰かが長いあいだ流せなかった涙が、やっと目を通って外へ出ていくようだった。
「ディアナ」
最初に駆け寄ってきたのは、リュクスだった。
父の手が、ディアナの肩を掴む。強い。乱暴で、温かい。いつもの手だった。
「おい、しっかりしろ」
「父さん」
「怪我は」
「してない」
「本当か」
「うん」
リュクスの顔が、ほんの少し歪んだ。
ミロが近づきかけて、足を止めた。ガロも、バルドも、ダンテも、カイルも、少し離れたところで止まっている。いつもなら誰かが軽口を入れる。盗れなかったのかよ、とか、国宝のくせに逃げ足が速いな、とか、きっと何か言った。けれど、誰も言わなかった。
言えないのだと、ディアナにも分かった。
これは失敗ではない。
盗れなかった。けれど、盗みに失敗したのではない。最初から、誰かの手に収まるべきものではなかった。所有から外すべきものだった。それが、触れた瞬間に分かってしまった。
だから、涙が止まらない。
静かな涙だった。自分の奥から出ているのに、自分だけのものではない。引き離され、奪われ、違う名前で語られてきたものたちの涙。
ずっと返されなかったものが、ようやく土へ戻っていく。
そう分かった瞬間、ディアナは顔を上げた。
ジークムントが、少し離れたところに立っていた。
青灰色の目が、ディアナを捉えていた。
その視線が、ふと落ちた。
ディアナの左手へ。
ジークムントの瞳が、揺れた。
ディアナは、その視線に追われるように自分の左手を見た。
偽物の指輪が、変わっていた。
黒と菫に染まっていた輪から、菫が抜けている。黒だけが残った、というのとも少し違った。深い黒の表面が、光を受けるとかすかに銀を返す。黒鉄色の鎖とは違う。もっと細く、もっと静かで、けれど逃げない硬さがある。
輪の正面には、斜めに落ちる二つの縁が、小さな谷のような切れ込みを作っていた。
その谷の底に、赤い宝石がはまっている。
小さな赤だった。
燃える赤ではない。飾るための赤でもない。深く沈んで、それでも消えない赤。黒い輪は、その赤を両側から包んでいる。なにかを抱きしめているようにも、縛っているようにも見える形だった。
ディアナの息が止まった。
触れた瞬間に分かった涙とは違う。
これは、もっと近い。
もっと痛い。
赤い宝石を見た瞬間、石畳の冷たさが足元から戻ってきた。落ちる刃。聞こえなかった声。悪役令嬢の名で終わらされた、誰かを愛そうとして苦しんだ思い。
あの日、前々世のイレーネだった自分が流したもの。
血だけではない。
石畳へ落ちるしかなかったもの。
それが今、落ちていない。
黒い輪の中に、ある。
抱きしめられているようにも、縛られているようにも見える形の中で、赤だけが静かに残っている。
「……っ」
喉が詰まった。
今度の涙は、静かではなかった。
胸の奥から、壊れたみたいに溢れてきた。あの日のイレーネが流せなかった涙。誰にも届かなかった心が、今になってようやく泣いている。
それから、今のディアナの涙。
父たちに呼ばれて、イレーネを救おうとして、逃げないと決めて、それでもここまで来た盗賊娘の涙。
「ディアナ」
最初に声をかけたのは、ジークムントだった。
声は近かった。
いつの間に近づいたのか分からなかった。けれど、黒鉄色の鎖の音はしなかった。逃げ道を塞ぐ音も、命じる声もない。ただ、ジークムントがそこにいた。
ジークムントの手が、ディアナの左手に触れる。
指輪のはまった手を、下から支えるように取った。力は強い。けれど、痛くはない。
その手に支えられた瞬間、堪えていたものが崩れた。
ぼろぼろと、止まらなかった。
リュクスが何か言いかけて、言わなかった。ミロも黙った。ガロが目を逸らし、バルドが布を握り、ダンテが帽子のつばを下げる。カイルだけが、短剣を下ろさないまま、ディアナの背中側に立っていた。
ジークムントは、ディアナの手を離さなかった。
黒い輪の中で、赤い宝石が静かに色を宿している。
もう、落ちていない。
もう、石畳へ広がるだけではない。
赤は、そこにあった。




