第五十四話 盗賊団、迷いの森を盗む
迷いの森は、通す気がなかった。
足を踏み入れた瞬間、湿った土が靴底を掴んだ。根が地面の下でうねり、風に揺れた枝が頭上で擦れる。なのに、足音だけが戻ってこない。吸われている。森が、こちらの人数も歩幅も呼吸も、まとめて飲み込もうとしている。
リュクスが懐から小さな羅針盤を出した。迷いの森を抜けるために使ってきた、妖精加護の針だ。けれど、蓋を開けた瞬間、針は狂ったように回り始めた。北も南も示さない。黒い針は円の中を何度も滑り、震えたまま止まらない。
「使えねえな」
「羅針盤が道を拾えてねえ」
それでも、ディアナの足は止まらなかった。湿った土も、絡む根も、黒鉄色の鎖も、もう怖いだけのものではない。捕まった記憶だけではなく、その鎖を握って帰った記憶もある。強く引かれるのではなく、歩幅に合わせるように緩んだことを、ディアナは覚えている。
だから、大丈夫だ。怖い。でも、行ける。
今度は逃げるためではなく、盗るために入る。
「離れるな」
ジークムントの声が低く落ちた。黒鉄色の鎖が地面を這い、ディアナたちの周囲へゆるく伸びる。森にばらばらに奪われないための線だ。
「森に数えられるな。数えられたら、位置を替えられる」
リュクスが片手を上げた。ガロはすでに足元を見ている。バルドは布で口元を覆い、香りの流れを確かめていた。ダンテは魔銃に手を置いたまま、まだ撃たない。ミロはいつものように何か言いかけ、森の空気を見て口を閉じた。カイルは何も言わず、ディアナの半歩後ろへつく。
父たちがいる。捕まった側だった盗賊団が、今度は捕まえた男の鎖の内側にいる。その事実だけで、足の裏に力が戻った。
「行くぞ」
リュクスの声で、全員が動いた。
最初の異常は、すぐに起きた。
ジークムントが鎖の先を前方の幹へ打ち込んだ。黒鉄色の線はまっすぐ伸び、苔むした木の根元へ絡んだはずだった。けれど、鎖を引いた瞬間、金属の音が横から返る。
鎖の先が、ガロの右足のそばに出ていた。
誰も声を上げなかった。
ジークムントの足が、ほんの一拍だけ止まる。この森で、ジークムントが足を止めた。それだけで、異常だと分かった。
「……ずらされたね」
ジークムントは静かに言った。慌ててはいない。けれど、いつものように盤面の端まで見えている顔ではなかった。森が、ジークムントの鎖の位置すら狂わせている。
「殿下」
「何かな」
「前もこうだったか」
「いいや」
リュクスの問いに、ジークムントは鎖を引き戻した。黒鉄色の線が足元へ滑り、湿った土を擦る。
「前は、ここまでこちらを拒まなかった」
「拒む、か」
リュクスの目が細くなった。
その瞬間、前方にあったはずの木が、ディアナの左手側へ立っていた。同じ苔。同じ裂け目。同じ低い枝。ガロがしゃがみ、地面へ指を置く。
「人だけ戻されてる。足跡は戻ってねえ」
「足跡は残して、人間だけ動かしたってことか」
「いや」
ガロは土を二度叩いた。音は吸われる。けれど、わずかに返る場所がある。
「外へ戻してるんじゃねえ。奥へ行く足だけ潰してる」
バルドが白花のない根元へ屈み、土を指先でこすった。匂いを直接吸わず、布へ移してから確かめる。
「香りも同じだ。前へ行くほど濃い。誘ってるように見せて、喉へ絡めてくる」
「森が嘘吐くのかよ」
ミロが顔をしかめる。
「性格悪いな」
「お前が言うな、ミロ」
「俺、森ほど性格悪くねえよ」
軽口はそこで切れた。笑える空気ではない。けれど、その一言で全員の肩からほんの少し力が抜けた。怖いまま、動ける程度に戻る。ミロの軽口は、いつもそういうところだけは役に立つ。
ジークムントがもう一度、鎖を前へ打った。今度は低く、地面を抉るように。黒鉄色の線は根の下へ潜り、見えない場所へ噛みついた。だが、次の瞬間、鎖の途中が不自然にたわむ。そこにあるはずのない空間へ引き込まれるように、線が曲がった。
「道を塞ぐだけなら壊せる」
ジークムントの声は冷静だった。
「けれど、これは道そのものを置き換えている。力で壊せば、こちらも巻き込まれる」
「迷わせてるだけじゃねえな」
リュクスが低く言った。
「奥の道だけ消してやがる」
壊せるなら壊しそうな男が、壊さないと言った。なら、壊したらまずい。羅針盤は狂い、ジークムントの鎖はずらされ、ガロは足元を拾い、バルドは香りで裏を取る。
ディアナは左手を握った。偽オールトの指輪は、森の薄闇の中で黒と菫を深く沈ませている。光ってはいない。ただ、色が奥へ落ちていく。水底の石のように、重く、静かに、そこにある。
近づくな、と押し返されている。土の湿りが変わり、花の香りが濃くなり、根が絡む。見られたくない扉の前で余計な家具が増えていく時と同じだ。
「ジーク様」
ディアナは左手を握ったまま言った。
「指輪、嫌がられてます」
「嫌がられている?」
「はい。近づくなって押し返されてる。隠したい場所ほど、嫌がり方が強いです」
ジークムントの青灰色の目が、こちらを向く。
「森に顔はないよ」
「ありますよ。盗みに入る側には分かります」
一瞬、ジークムントが黙った。その目が、ディアナの左手から、足元の土へ、森の奥へと流れる。見ている。記憶ではなく、今この場のディアナの言葉と判断を見ている。
「いいね」
短い一言だった。甘くはない。危険で、冷静で、少しだけ愉快そうで、それなのに胸の奥を叩くような声。
ディアナは唇を引き結んだ。褒められて浮かれる場面ではない。今は、盗る場面だ。
「父さん」
呼ぶと、リュクスはもう笑っていた。父親ではなく、盗賊団の頭の顔だった。
「道を探すな」
その一言で、盗賊団の空気が変わる。
「道になる前を見ろ。閉じる前の隙を盗る」
ガロが動いた。靴裏で土を二度叩き、音の返りを聞く。足音は吸われる。けれど完全には消えない場所がある。戻される場所と、戻されにくい場所。その違いを拾い、ガロが指で短く示した。
「右は戻る。左は浅い」
バルドがその方向の土を拾い、布へこすりつける。
「左は香りが濃すぎる。誘いだ。半歩手前」
「半歩かよ」
「その半歩で食われる」
ミロが低く息を吐いた。
「森のくせに、やることが細けえな」
ダンテが空の薬莢を指で弾いた。小さな金属音が森の奥へ飛ぶ。途中で、ぷつりと切れた。消えたのではない。途切れた。そこに、音を飲む裂け目がある。
「殿下、そこだ」
ダンテの声に、ジークムントの鎖が走った。
黒鉄色の線が音の切れ目へ突き刺さる。何もないはずの空間で、鎖がぎり、と止まった。森が押し返す。鎖の位置がずれかける。ジークムントの指がわずかに動き、二本目、三本目の鎖が重なった。
道ではない。けれど、道になる前の傷のようなものが、そこに一瞬だけ留まる。
「長くは持たない」
「長く持たせる必要はねえ」
リュクスが言った。
「盗みは一瞬だ」
ミロが囮の足跡をばらまいた。わざと重心をずらし、右へ踏み込んだように見せて、枝の影だけを揺らす。森の気配がそちらへ寄った瞬間、ガロが先に滑り込む。バルドが続き、香りの濃淡で足場を選ぶ。ダンテは撃たない。鎖へ魔銃の金属部を軽く当て、響きで歪みの縁を拾う。
盗賊団が見つけた隙を、ジークムントが留める。ジークムントが留めた隙を、盗賊団が駆け抜ける。捕まえる側と逃げる側だったはずの動きが、ひとつの盗みに変わっていく。
ディアナの足元へ、黒鉄色の鎖が伸びた。
かつて、足を奪った線。逃げ道を塞ぎ、捕まえ、左手に指輪をはめるところまで運んだ線。その鎖を、今は踏む。足場として。合図として。父たちの走る先を一瞬だけ現実に留める、細い道として。
「走れ」
ジークムントの声と同時に、鎖が次の足場を作る。
命じられた、というより、次の一歩を置かれた。ディアナは迷わず踏み込む。鎖の上に足を置く。硬いはずの黒鉄色の線は、ディアナの踏み込みに合わせてわずかに沈み、次の足場へ弾く。強く引かない。押しつけない。ただ、落ちる前に受け止める。
優しい、とは言いたくない。けれど、今の鎖はディアナを奪わない。落ちる前に、次の一歩を置いてくれる。
「ディアナ、右上」
カイルの声は短かった。
ディアナが顔を向けるより早く、短剣が横から伸びる。枝を斬らない。触れさせない角度へ弾く。枝先が空を掠めた瞬間、そこにあったはずの影が歪んだ。触れていたら、きっと足場ごとずらされていた。
「助かった」
「見てる」
「うん」
それだけで十分だった。
森が閉じる。前方の隙間が、根と影で埋まっていく。ジークムントの鎖がそこへ噛みつき、黒鉄色の線が軋む。一本では足りない。二本でも足りない。三本目が絡み、四本目が空間の縁を縫う。ジークムントの顔から、いつもの余裕が削れていく。
それでも、折れない。ジークムントだけでは届かない。けれど、ジークムントがいなければ、誰もそこへ足をかけられない。
「お嬢!」
ミロが叫び、わざと派手に枝を踏んだ。乾いた音が森へ跳ねる。森の影がそちらへ寄る。ガロがその反応を見て、すぐに足元を叩く。
「今の反応、本物だ。嫌がってる方は逆」
「左か」
リュクスが言う。
バルドが即座に首を振った。
「左は香りが嘘だ。左へ行かせたいだけだ」
ダンテが薬莢をもう一つ弾く。音は左で消え、右斜め前で返った。
「右斜め前。見えてる道じゃねえ。根の下だ」
ジークムントの鎖が根の下へ潜る。森が嫌がるように根を動かした。湿った土が盛り上がる。白花の香りが一瞬、ひどく濃くなる。
ディアナの左手が重くなった。黒と菫が、指輪の奥で深く沈む。冷たいわけではない。熱いわけでもない。ただ、輪郭が硬くなる。そこへ行くなと、森が全身で押し返している。
「そこ」
ディアナは息を吸った。
「一番、嫌がってる」
リュクスが笑った。
「よし。そこを盗る」
森の拒絶が強くなる。根が足元へ絡み、白花の香りが喉へまとわりつく。音が消える。影の向きが合わない。さっきまで前にあったはずの鎖が、横から見える。距離が狂う。上下すら怪しくなる。
それでも、盗賊団は止まらない。ガロが戻される足場を蹴って捨てる。バルドが香りの濃すぎる場所を避ける。ダンテが音の切れ目を拾う。ミロが囮の足跡で森の反応を散らす。カイルがディアナの死角を塞ぐ。リュクスが全員の呼吸を束ねる。
ジークムントの鎖が、その全部を繋いでいく。足場になり、手すりになり、命綱になり、合図になり、仮の道になる。
かつてディアナを捕まえた鎖が、今はディアナと父たちを先へ進ませている。
森の奥で、低い音がした。木が軋む音ではない。獣の唸りでもない。地面の奥で、古い何かが長く息を吐くような音だった。
怖い。当たり前に怖い。けれど、足は止まらない。
「行け、ディアナ」
リュクスの声が背中を押した。逃げろ、ではない。
行け。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
ディアナは鎖を踏んで跳んだ。閉じかけた根の隙間へ身体を滑り込ませる。白花の香りが視界を白くする。足元が消える。次の瞬間、黒鉄色の鎖が目の前へ伸びた。
掴め、とは言われなかった。けれど、ディアナは手を伸ばした。
鎖を握る。
冷たくはなかった。湿った森の空気より、ずっと確かな硬さが手の中にある。ジークムントの鎖が、一瞬だけ止まった。本当に一瞬だけ。すぐに、その線はディアナの手の中で緩み、歩幅に合わせるように長さを変えた。
ディアナは、何かを言われる前に鎖を握り直した。
離さない。
言葉にする暇はなかった。けれど、手の力だけで十分だった。背後で、ジークムントが小さく笑った気がした。見ている余裕はない。けれど、鎖の引き方が変わった。強くなるのではなく、先を譲るように。
ディアナは走った。
背後でミロが滑り込み、ガロに襟首を掴まれる。
「今の俺、格好よかったろ」
「転がってただけだろ」
「生きてるから格好いい」
「それでいく」
最後にリュクスが入った瞬間、森の影が背後で閉じた。
閉じた、というより、追い出されたのかもしれない。
音が戻ったわけではない。明るくなったわけでもない。けれど、空気が変わっていた。足元の土の湿りが深くなる。腐葉土の匂いに、雨の気配が混じる。白花の香りが、今度は逆からではなく、まっすぐ奥から流れてきた。
王城の香ではない。
教会の香でもない。
土と、雨と、白い花と、古い森の奥の匂い。
ディアナは鎖を握ったまま、息を吸った。左手の指輪に沈んでいた黒と菫が、深く、重く、静かに揺れる。森はまだ拒んでいる。けれど、もう隠しきれていない。
越えたのだ。
この森が閉じようとした最後の隙を、盗賊団とジークムントの鎖で盗った。
ジークムントが隣に立つ。青灰色の目が、森の奥を見ている。勝ち誇ってはいない。王族として国宝へ近づいた顔でもない。ただ、何かを確かめるように、静かに奥を見ていた。
リュクスが短く息を吐く。
「……近いな」
「分かるの?」
「分かるだろ」
父は笑った。乱暴ではない。盗品を前にした時の、ひどく静かな笑みだった。
「持ち主に隠されてる品じゃねえ。持ち主を間違えられた品の匂いがする」
ディアナは左手を握った。
涙でも、国宝でも、神話でも。
持ち主が違うなら、盗品だ。
「行こう」
ディアナは言った。
祈りに来たのではない。選ばれに来たのでもない。誰かが王国のものだと言い張るなら、その前に盗る。
ディアナは黒鉄色の鎖を離さないまま、一歩を踏み出した。
迷いの森の隙を、盗った。




