第五十三話 最後の盗みへ
旧訓練棟に、聖水の匂いはなかった。
あるのは、革紐を締める音と、刃を布で包む音と、ミロが携帯食を一つ余分に懐へ入れようとしてリュクスに睨まれる気配だった。
「お嬢、森用の靴に替えとけよ。王城の床ならともかく、あの森で滑ったら笑うぞ」
「笑うな」
「笑ってから助ける」
「順番がおかしい」
神話へ向かう準備とは思えなかった。
卓の上に広げられているのは、白い布でも聖水でもない。縄、短剣、火打ち石、折り畳み式の小さな鉤、乾いた携帯食、薬包、替えの手袋、薄い外套、森で音を殺すための布巻き。
祈り方は知らない。女神の前でどう膝を折れば正しいのかも知らない。聖女らしい顔など、鏡の前で練習しても三秒で崩れる自信がある。
でも、盗みに行く準備なら分かる。
逃げ道を見る。足元を見る。相手が守っていると思っている場所ではなく、守らなくてもいいと思い込んでいる隙を見る。奪うものの重さを想像し、奪ったあとにどう走るかを決める。
それなら、できる。
喉はまだ少し痛む。けれど、石板はもう持たされていない。バルドに薬湯を飲まされ、父さんに「余計なことを喋るな」と釘を刺され、ミロに「喋らなくても気配でうるさい」と言われた。
腹が立つ。
だが反論すると喉が痛いので、今は許しておく。
「バルド、薬はどれだけ持つ」
リュクスが卓の端で尋ねた。
父親として止める顔ではなかった。盗賊団の頭として、最後の大仕事の荷を分ける顔だった。
「喉の薬と、熱冷ましと、傷薬。魔獣避けの香は持たせるが、森で効く前提にはするな。あそこは普通の森じゃねえ」
「分かってる。効いたら儲けもんだ」
「あと、ディアナは無茶をするな」
「しません」
「今の返事が一番信用ならねえ」
ひどい。
ディアナは言い返そうとして、リュクスに睨まれたので黙った。喉ではなく父さんが怖い。だが、怖いだけならまだいい。父さんは心配している顔をしているくせに、止めるとは言わない。
ここで止めても、ディアナが止まらないことを分かっているのだ。止めれば一人ででも行こうとする。だから盗賊団の頭として、危険を減らす形に組み替えている。
盗賊団アディンセルは、身内に甘い。
甘いが、甘やかし方がたいがい荒い。
「ガロ。道だけ見るな。風、湿り、音の返りを拾え」
「分かった」
「ダンテ。撃つ前に見ろ。森相手に弾を無駄にするな」
「森相手って、頭、言い方が雑だな」
「雑なもんに雑と言われたくねえ」
「俺、繊細なんだけどな」
ミロが噴き出しかけ、カイルに肘で小突かれた。
カイルは卓に広げられた地図を見ている。迷いの森の地図ではない。周辺の古道、干上がった川筋、昔の石切り場、王都から森へ向かう裏道を重ねたものだ。
森の中は描かれていない。
描いたところで変わるからだ。
「ディアナ」
カイルに呼ばれて、顔を上げた。
「お前は俺の前を走るな」
「なんで」
「背中が見えないと守りにくい」
「守られる前提なの、ちょっと腹立つ」
「俺が守りたいから守るだけだ」
さらっと言われると困る。
ディアナが言葉に詰まっていると、ミロが横から身を乗り出した。
「お、カイルが正面から重い」
「うるさい」
「お嬢、今の照れた?」
「照れてない」
「水飲んでごまかした」
「喉が痛いだけ!」
叫ぶと、やっぱり喉が痛い。
ディアナは水を飲んだ。バルドの目が怖い。薬湯を増やされる。あれは薬ではない。罰だ。
広間の扉が開いたのは、そのときだった。
先に入ってきたのはサディアスだった。いつもどおりきちんとした姿で、乱れたところがない。だが、その後ろから入ってきた人物のせいで、旧訓練棟の空気が少し変わった。
ジークムントだった。
さっきまで白い会議の間で、人の逃げ道を一つずつ潰していた男が、何事もなかったように旧訓練棟へ入ってくる。
黒い外套を羽織っている。王城の白い壁の中にいたときより、ずっとこちらの空気に近い。銀白色の髪は陽の薄い訓練棟の光を受け、淡い金の糸を一本だけ紛れ込ませたように見えた。
青灰色の目が、卓の上を見た。
「祈りの支度には見えないね」
「盗みに行くんですから」
ディアナは即答した。
喉が痛い。
でも、これは言いたかった。
ジークムントの目がこちらへ向く。ほんの少しだけ、面白そうに細くなった。
「そうだった。君は聖女ではなかったね」
「今さらです」
「では、最後まで盗賊娘でいてもらおうか」
その言い方が、妙に胸の奥へ落ちた。
聖女ではない。女神でもない。悪役令嬢でもない。物語の外から来た誰かでも、前々世の痛みだけで動いている亡霊でもない。
盗賊娘。
ジークムントに捕まって、指輪をはめられて、腹が立って、怖くて、それでもここまで走ってきた今の自分。
それでいい。
ディアナは左手を握った。指輪は重い。黒と菫を抱えたまま、皮膚の上で硬く存在を返してくる。
ただ、今はこの指輪が、迷いの森へ行くことを拒んでいない。
むしろ、待っているようで気味が悪い。
「殿下」
リュクスがジークムントを見た。
「道はどうする。王城から正面切って馬車を出せば、見物人がつく」
「正面からは出ないよ。王妃宮と教会の残りは、サディアスが見ている。動いた者は拾う」
「拾う?」
「捕まえる、と言ったほうが安心するかな」
「しねえな」
リュクスが鼻で笑った。
「先に言っとく。娘を撒き餌に使う段取りなら、今ここで潰す」
「そのつもりはない」
ジークムントの返事は早かった。
ディアナは少し驚いた。
もっと軽く流すと思っていた。からかうと思っていた。けれど、ジークムントはリュクスの言葉を笑わなかった。
「今回、欲しいのは女神の涙だ。彼らの焦りではない。すでに十分見た」
「ならいい」
「信用が早いね」
「信用じゃねえ。目的が一致してるだけだ」
リュクスは卓上の縄を一本取った。
「国宝だろうが涙だろうが、持ち主が違うなら盗品だ。盗品は盗賊が扱う」
「王国の法では褒められない言い方だ」
「王国の法で抱え込んだ結果がこれだろうが」
リュクスの言葉は乱暴だった。
でも、広間の誰も否定しなかった。
ジークムントも否定しない。ただ、少しだけ口元を上げた。
「そうだね。王国の手の中にあると信じられていたものは、最初から王国の手の中になかった」
その言葉に、広間が静かになる。
王国の国宝。
女神の涙。
正統の証。
その全部が、実は王城にも、教会にも、宝物庫にもなかった。あるのは迷いの森。少なくとも、王城の鍵で閉じ込められる場所ではない。
思えば、始まりから変だった。
本物ではない指輪を盗まされ、偽物を本物のように扱われた。ただの拘束具だったはずのものが、いつの間にか王国の神話の奥へ手をかけている。
最悪だ。
最悪だけど、ここまで来たらもう、途中で降りられない。
「本物を盗ったら、どうするんですか」
ディアナは聞いた。
広間の空気が少しだけ張る。
盗る、と決めた。だが、盗ったあとが分からない。王城に渡すのか。教会から遠ざけるのか。迷いの森から持ち出すのか。それとも、持ち出してはいけないのか。
ジークムントはすぐに答えなかった。
珍しい。
「分からない」
ジークムントが、そう言った。
ディアナは思わず顔を上げた。
この人の口から出るには、あまりに似合わない言葉だった。
「……分からないまま行くんですか」
「そうだよ」
「ジーク様にしては雑ですね」
「君たちに合わせた」
「失礼です」
ミロが「いや、わりと合ってる」と小声で言い、リュクスに睨まれた。
ジークムントは卓に近づき、迷いの森周辺の地図を見下ろした。
「ただ、分かっていることはある。女神の涙は、王国のものではない。教会のものでもない。誰かを女神役にするための道具でもない」
「はい」
「なら、少なくとも彼らの手には渡さない」
「……それは、分かります」
「そして君は、盗りに行くと言った」
青灰色の目が、ディアナを見る。
「なら私は、君がそこへ届く道を作る」
胸の奥が、変なふうに鳴った。
道を作る。
それは、さっき白い会議の間で聞いた言葉だ。けれど今は、もっと近くに落ちてきた。神話の盤面を壊すためでも、王国を動かすためでもなく、ディアナが盗りに行くための道。
嬉しい、と思ってしまうには危ない。
この人の道は、だいたい鎖でできている。
「……その道、あとで足元ごと縛ったりしませんよね」
「必要なら」
「必要にしないでください」
「努力するよ」
「信用しにくい返事です」
ジークムントが少し笑った。
広間の空気が、わずかに緩む。
その緩みを、リュクスが手を叩いて壊した。
「よし。色気づいた会話は終わりだ」
「父さん」
「違うって言うなら仕事しろ。ディアナ、お前は荷を減らせ。森で動けねえ格好はするな。カイル、お前はこいつの斜め後ろ。ミロ、余計な軽口で森に返事すんな。ガロ、先行しすぎるな。ダンテ、撃つ前に見ろ。バルド、香の扱いはお前に任せる」
命令が飛ぶ。
盗賊団が動き出す。
その音を聞いた瞬間、ディアナの中の迷いが一つ消えた。
神話へ向かうのではない。
仕事へ向かうのだ。
ディアナは自分の手袋を締め直した。左手中指の指輪の形が、布越しに硬く浮く。外せない。逃げられない。最初はただの枷だった。
けれど、今はその枷ごと森へ行く。
逃げるためではない。
盗るために。
「ディアナ」
ジークムントの声がした。
振り返ると、彼は黒鉄色の鎖を一筋、指先から落としていた。床に触れた鎖は、音もなく伸びる。まるで線を引くように、ディアナの足元近くで止まった。
「迷いの森では、はぐれないように」
「また鎖ですか」
「嫌なら、手でもいいけれど」
リュクスの視線が刺さった。
ジークムントは平然としている。最悪だ。この人は本当に、場を選ぶようで選ばない。
ディアナは鎖を見た。
あの森で、最初にディアナの足元を奪ったもの。
そして、迷いの森から戻るとき、ディアナが自分の手で握ったもの。
同じ鎖なのに、意味が少しだけ変わっている。それが腹立たしくて、少しだけ心強い。
「森に入ってから考えます」
「慎重だね」
「盗賊なので」
「それはいい」
ジークムントは鎖を引いた。黒鉄色の線が床から消える。
その一瞬、ディアナは思った。
あの森に入れば、きっとまた思い出す。湿った土。絡む根。逃げる足音。背後から迫った鎖。捕まった悔しさ。左手に指輪をはめられた瞬間の、世界が裏返るような感覚。
それだけではない。
帰り道、離すなと言われた鎖を握ったことも思い出す。森の暗さの中で、黒鉄色の線が道になったこと。強く引かれるのではなく、歩幅に合わせるように緩んだこと。
怖いだけの場所では、もうなくなっている。
だからこそ、戻るのが怖い。
旧訓練棟の窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。迷いの森へ向かうなら、夜明け前がいい。人目が少なく、森の湿りが強く、足音が沈む時間。
盗賊には向いている。
女神には、たぶん向いていない。
だからこそ、ちょうどいい。
最後の盗みの準備は、祈りではなく、盗賊団の手で進んでいく。
縄を結ぶ音。
薬包をしまう音。
刃を布で包む音。
軽口を小声で潰す音。
父さんが全員の位置を決める声。
ジークムントが黙って地図を見る気配。
その全部を聞きながら、ディアナは左手を握った。
その夜、旧訓練棟の灯はいつもより遅くまで消えなかった。
夜明け前、迷いの森はまだ眠っているように見えた。
けれどディアナは知っている。
この森は、眠ってなどいない。
道を隠し、人を迷わせ、逃げる足を絡め取る場所だ。湿った土の匂いが、薄い朝靄の下からじわりと上がってくる。木々の影はまだ黒く、枝の先に残った夜が、こちらを見ているようだった。
ディアナは森の入口に立った。
父さんたちが後ろにいる。カイルが斜め後ろにいる。ミロが何か言いかけて、珍しく黙った。ガロは土を見ている。ダンテは銃ではなく木々の間を見ている。バルドは香の袋を握り、眉をひそめていた。
少し離れたところに、ジークムントがいる。
黒い外套の裾が、朝の湿りを吸って重く揺れていた。彼の指先から、黒鉄色の鎖が一筋、地面へ落ちる。
今度は逃げ道を塞ぐためではない。
たぶん。
いや、たぶんをつけなければならないところが、この人の最悪なところだ。
ディアナは息を吸った。
喉の奥が少し痛い。左手の指輪が重い。胸の奥には、怖さと、悔しさと、ほんの少しの心強さが混じっている。
今度は逃げるためではない。
王国のものだと言われてきた涙を、誰かの役にされてきた神話を。
まとめて盗り返すために。
ディアナは、自分の足で迷いの森へ踏み込んだ。




