第五十二話 積み上げてきたのは、人間です
盗った言葉は、白い会議の間で読み上げられた。
女神の涙帰座儀礼の次第書。菫色の乙女と妨げの令嬢が書かれた配置図。迷いの森の名を抱えた古い金具。ジークムントが記録させた、正統を語る者たちの声。
盗賊団が盗ったものが、今は表へ出されている。
ディアナは壁際に立っていた。喉はまだ痛い。声を出せないほどではないが、バルドに「喋ったら薬湯を増やす」と言われた。父さんにも「今日は黙って立ってろ」と言われた。盗賊団なのに、最近の旧訓練棟は健康管理が厳しい。
だから、石板を抱えている。
最悪だ。
最悪だけど、今の自分にはこれがいちばん速い。
長い卓の上には、写し取られた記録が並んでいた。原本はジークムントの側にある。盗ったものをむやみに人の手へ渡さないあたり、腹が立つほど抜け目ない。
ジークムントは卓の端にいた。中央ではない。けれど、端にいるのに場の逃げ道を細くしている。銀白色の髪には、白い壁の光を受けて淡い金の糸のような色が混じって見えた。青灰色の目は、静かに冷えている。
中央に立つのはクリスだった。
いつもの柔らかな笑みはない。だが、強張ってもいない。王ではない。それでも、この場で王国の言葉を受ける意味を、本人がいちばん分かっている顔だった。
その隣に、イレーネがいる。
黒絹の髪をきちんと結い、背筋を伸ばして立っている。クリスの後ろではない。責められるための席でもない。説明を求められる令嬢としてでもない。きちんと隣にいる。
それだけで、少し息がしやすくなった。
よかった。
イレーネは今、誰かの紙に書かれた場所へ置かれていない。
少し離れた場所には、リリアがいた。白い衣も、花の冠もない。菫色の瞳を持つ少女としてではなく、王城に招かれた一人の少女として、女官のそばに立っている。それでも、その瞳は不安げに揺れていた。
自分の瞳が、どんな紙に書かれていたのか。
もう、知っているのだろう。
クリスが記録紙を一枚手に取った。
「確認します」
声はよく通った。
「先ほど、教会および王妃宮の関係者から、こう発言がありました。『女神の涙を失えば、この国は何を正統性とするのか』」
広間の奥で、教会の男が目を伏せた。
「『豊穣は誰が保証するのか。民は何を信じればいいのか』」
王妃宮の使者らしき男が、唇を引き結ぶ。
「『菫色の瞳の少女が現れた以上、神話は戻らねばならない』」
リリアの肩が小さく跳ねた。
ディアナは一歩出そうになって、止まった。ここで自分が出れば、また話がずれる。盗賊娘が菫色の少女を庇った。悪役王子の側にいる娘が神話を妨げた。相手はいくらでも、都合のいい形に変える。
今、言葉を返す場所はここではない。
クリスの場所だ。
イレーネが、ほんの少しだけ手を動かした。クリスの袖に触れるほどではない。ただ、自分はここにいると示すような、小さな動きだった。
クリスの声は揺れなかった。
「さらに、帰座儀礼の配置図には、菫色の乙女、妨げの令嬢、竜の影、救済者の席が記されています。人名ではありません。けれど、現在の状況に当てはめれば、誰をどこへ置こうとしたのかは明らかです」
「儀礼上の形式です」
教会の男が言った。
「古くから伝わる神話を、象徴として再現するためのものにすぎません」
「象徴」
クリスはその言葉を繰り返した。
笑わなかった。
少し前のクリスなら、ここで柔らかく笑って、相手の言葉をほどいたかもしれない。けれど今は違う。抜いた棘を卓の上に置いて、これは誰に向けたものかと問う顔をしていた。
「リリア嬢」
呼ばれて、リリアが顔を上げた。
「あなたは、自分の瞳を女神の証として儀礼に立つことを承諾しましたか」
「……いいえ」
小さな声だった。
けれど、広間には届いた。
「私は、そのような儀礼があることも知りませんでした。私の瞳が、誰かを退けるための証にされることも、知りませんでした」
教会の男が息を吸う。
「リリア様。あなたは女神の徴をお持ちです。その瞳は、民に希望を」
「私の瞳で、誰かが責められるのは嫌です」
リリアが言った。
広間の空気が止まる。
リリア自身も、自分の声の強さに驚いたように目を見開いていた。それでも、引っ込めなかった。
「私のために誰かが裁かれるのも、私が何かの証だと言われて、誰かを退けることになるのも、嫌です」
イレーネが静かにリリアを見た。
責める目ではない。
たぶん、初めてきちんと見たのだと思う。菫色の瞳を持つ少女ではなく、女神役ではなく、ただのリリアを。
「リリア様は、女神ではありません」
イレーネが言った。
声は大きくない。けれど、凛としていた。
「私も、妨げの令嬢ではありません。名前を消した席に、人を入れないでください」
ディアナは石板を抱く手に力を入れた。
やっぱり、イレーネ様は素敵だ。
声に出せないので、石板にも書かない。書いたら絶対にからかわれる。
教会の男の顔が歪んだ。
「しかし、この国には神話があります。民は女神を信じ、王家は女神の涙を預かってきました。豊穣も、安寧も、王国の正統も、女神の加護によって」
「積み上げてきたのは、人間です」
クリスが言った。
静かな声だった。
けれど、その静けさが広間の奥まで届いた。
「畑を耕したのは、人間です。道を敷き、橋を直し、飢えた年に倉を開ける決断をしたのも、人間です。疫に倒れた者の手を取ったのも、祈りを胸に、それでも動いた人間です」
誰も口を挟めなかった。
「祈りがなかったとは言いません。女神を信じて歩いてきた者たちの心を、否定するつもりもありません。けれど、祈りだけで麦は育たない。祈りだけで道は敷けない。祈りだけで、倒れた人の身体は起き上がらない」
クリスは卓の上の記録紙へ視線を落とした。
「この国が立ってきたのは、女神の涙だけによってではありません。ここで生きてきた人々が、毎日、手を動かしてきたからです」
教会の男が、苦しげに眉を寄せる。
「それでも、民には信じるものが必要です」
「必要でしょう」
クリスは否定しなかった。
そこで否定しないところが、クリスらしかった。
「だからこそ、信仰を人を置くための紙にしてはならない。誰かを女神にし、誰かを妨げにし、誰かを竜の影にし、誰かを救済者に戻すことでしか保てない信仰なら、それは民のためではありません」
イレーネが隣で顔を上げた。
リリアも涙をこらえるように瞬きをして、それでも目を伏せなかった。
「王国の未来を、誰か一人の瞳や、誰か一人の断罪や、誰か一人の影に預けるべきではありません」
クリスの手が、配置図の写しに触れた。
「これは王国のためではない。人を役へ押し込め、神話の形に戻すための紙です」
広間の奥で、王妃宮の使者が一歩出た。
「クリス様。恐れながら、女神の涙は王家の正統そのものです。それを否定すれば、王国の根が揺らぎます」
「なら」
卓の端から、ジークムントの声が落ちた。
甘くない。
怒鳴ってもいない。
けれど、そこにいた誰もが息を止めた。
「その正統性のために、人間が積んだものを下敷きにする必要はないね」
ジークムントは中央へ出ない。
出ないまま、逃げ道だけを潰す。
「女神を守るために、女神役の少女を差し出す。王国を守るために、令嬢を妨げの席へ置く。便利だね。誰の名前も書かなければ、誰を壊しても儀礼で済む」
彼の視線が、配置図へ落ちた。
「正統を語る紙にしては、ずいぶん人間を軽く扱う」
「殿下。それは乱暴な」
「乱暴なのは、君たちの紙だと、さっきも言ったね」
相手の声が止まった。
ジークムントは薄く笑った。
「それに、君たちは大事なことを一つ隠している」
サディアスが進み出た。白い手袋をはめた手に、古い金具を載せている。三つの細い輪が重なったような、小さな留め具だ。ディアナたちが北回廊の飾り板の奥から盗ったもの。
迷いの森の名を抱えた金具。
広間の空気が、また変わった。
「女神の涙帰座儀礼。帰座、という言葉を選んだ理由は何かな」
ジークムントの声は静かだった。
「神殿へ戻すだけなら、帰座とは書かなくてもいい。王城の宝物庫へ戻すなら、なおさらだ。けれど、この金具には迷いの森の名が刻まれている。古い記録の留め具だ。女神の涙と迷いの森を結ぶ記録を、君たちは隠していた」
「それは……古い異本にすぎません」
教会の男が言った。
早い。
否定が早すぎる。
ディアナは石板に書いた。
『知ってた反応』
隣にいたミロが覗き込み、小さく頷いた。
「だな」
リュクスが低く言う。
「黙れ、ミロ」
「今の俺だけ?」
たぶん今のはディアナも怒られる側だった。
ジークムントの目が、ほんの少し細くなった。
「異本。なるほど。存在は認めるんだね」
最悪だ。
一言で足場を外した。
「女神の涙は王城にあるべき国宝だと、君たちは言った。だが、その一方で、迷いの森へ帰すための古い記録を隠していた。菫色の瞳の少女を証にし、妨げの令嬢を置き、竜の影を遠ざける段取りまで整えて」
ジークムントは、相手を見た。
「本当に守りたいのは王国かな。それとも、王国を動かせる神話かな」
誰もすぐには答えなかった。
王妃宮の使者の額に汗が浮いている。教会の男は祈るように指を組みかけ、途中でやめた。その仕草まで、見られていると気づいたのだろう。
クリスが静かに口を開いた。
「女神の涙を、王国の正統として利用することはできません」
「クリス様」
「私は、女神を救う旅人ではありません」
その言葉に、イレーネが隣で息を止めた。
クリスは彼女を見なかった。見なくても、隣にいることは分かっている。そういう立ち方だった。
「私は、この国で生きる人間です。ここで積み上げてきた人々の方を見ます。誰かを妨げとして置き、誰かを証として使い、誰かを影として遠ざける紙ではなく」
少しだけ、間があった。
「今、ここにいる人の名前を見ます」
イレーネの指が、ほんのわずかに震えた。
でも、俯かなかった。
リリアも目を伏せなかった。
ディアナは胸の奥が熱くなるのを感じた。声を出したら、きっと喉が痛い。だから出さない。出さない代わりに、石板を抱きしめるように持った。
王妃宮の使者が、苦しげに言った。
「では、女神の涙はどうなさるおつもりです。王国の正統を示すものを、失われたままにするのですか」
「失われたまま、ではないよ」
ジークムントが答えた。
その声で、ディアナは顔を上げる。
ジークムントはこちらを見ていない。だが、なぜか自分に聞かせている気がした。
「君たちが隠していた記録が示している。女神の涙は、王城にも教会にもない」
広間の奥で、誰かが息を呑んだ。
「迷いの森だ」
たった一言で、あの森の湿った空気が蘇った。
逃げた森。
捕まった森。
ジークムントの鎖に足元を奪われ、左手の中指に偽の指輪をはめられた場所。
あの場所へ、また戻る。
今度は逃げるためではない。
ディアナは左手を握った。
黒と菫を抱いた指輪が、皮膚の上で重く返る。
王国のものではない。
教会のものでもない。
誰かを女神役にするための道具でもない。
なら、盗る。
ディアナは石板に書いた。
『迷いの森へ行く』
すぐ隣で、リュクスがそれを見た。
「だろうな」
止める声ではなかった。
盗賊団の頭の声だった。
「国宝だろうが涙だろうが、持ち主が違うなら盗品だ」
ミロが小さく笑った。
「じゃあ、盗賊団の出番じゃん」
「嬉しそうに言うな」
「いや、これは嬉しいでしょ。お嬢、とんでもない獲物だよ」
クリスがこちらを見た。イレーネも、リリアも。
ジークムントだけは、少し遅れてディアナを見た。
青灰色の目が、静かに細くなる。
「君が盗るなら」
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
「私は道を作る」
ディアナは石板を持ち直した。
指先は少し震えていた。喉も痛い。足も、たぶん本当は疲れている。
でも、もう決まっている。
神話の段取りは盗った。
正統を語る言葉も、表へ出した。
なら、次は本物だ。
ディアナは石板に、もう一度書いた。
『盗りに行く』
ジークムントが、ほんの少しだけ笑った。
「では、盗りに行こう」
最悪だ。
でも今は、その道を使ってでも盗りたいものがあった。




