第五十一話 女神の涙を返さない者たち
正統という言葉は、きれいな顔をして人を黙らせる。
廊下の向こうから聞こえてくる声は、よく通った。祈りを読むことに慣れた喉だ。人前で正しい言葉を並べることに慣れた人間の声だ。
「女神の涙を失えば、この国は何を正統性とするのです」
ディアナは机の上に置かれた儀式書を見た。
女神の涙帰座儀礼。
ついさっき、北回廊の飾り板の奥から盗ってきたばかりの紙だ。菫色の瞳の乙女。妨げの令嬢。迷いの森。そこに書かれていた言葉は、まだ目の裏に残っている。
廊下の向こうの男は、それを知らない。
自分たちの手の中に、まだ神話の段取りがあると思っている。
「豊穣は誰が保証するのです。民は何を信じればいいのです」
別の声が続いた。
王妃宮の者だろうか。教会の者だろうか。どちらでもよかった。言葉の形は違っても、置こうとしているものは同じだ。
女神の涙を王国の中心へ戻す。
リリアの瞳を証にする。
イレーネを入れるための席を残しておく。
ジークムントを竜の影へ押し戻す。
クリスを、女神を救う側へ並べる。
人の名前ではなく、場所だけが先にある。
気持ち悪い。
喉の奥が痛んだ。声を出せない痛みではない。言いたいことが多すぎるのに、今は言葉にしても届かないと分かっている痛みだ。
ディアナは石板へ手を伸ばしかけた。
その前に、サディアスが静かに扉のそばへ移動した。扉は閉じきっていない。向こうの声が聞こえる程度に、細く開いている。
聞かせている。
そう気づいて、ディアナはサディアスを見た。
サディアスは視線だけで答えるように、わずかに頭を下げる。
「菫色の瞳の少女が現れた以上、神話は戻らねばなりません」
その言葉の後、短い沈黙が落ちた。
そして、ジークムントの声がした。
「戻す?」
甘くない。
怒鳴ってもいない。
ただ、逃げ道がなかった。
「君たちは、まだ自分の手元に神話があるつもりなんだね」
ディアナは左手を握った。
黒と菫を抱いた指輪は、重く沈んでいる。熱くはない。冷たくもない。ただ、皮膚の上で確かにそこにあった。
机の上では、盗られた神話の段取りが黙っている。
リュクスが椅子の背に片腕をかけ、廊下の方へ目を向けた。
「殿下、やる気だな」
「怒鳴ってないのに?」
「怒鳴ってねえからだよ」
父さんが正しい。
ジークムントは、本当に怒っている時ほど静かになる。逃がす気がない時ほど、声を荒らさない。
向こうで、衣擦れの音がした。
「殿下。これは王国のためです」
「王国のために、誰をどこへ置くつもりだった?」
「置く、とは」
「配置図に、そう書いてある」
空気が止まった。
ディアナは机の上の配置図を見た。カイルが盗ってきた本物だ。飾り板の奥には白紙を戻してある。相手が気づくには、まだ少し時間がかかるはずだった。
けれど、ジークムントはもう使う。
早い。
最悪だ。
最悪だけど、こういう時のジークムントは、たぶん味方にいると一番怖い。
廊下の向こうで、教会の男の声が硬くなった。
「……配置図、と仰いましたか」
「知らないふりは、あまり勧めないよ」
紙の触れる音がした。
サディアスが、机の上の配置図を取った。ディアナたちの方へ一礼し、扉の隙間から隣室へ入る。動きに無駄がない。腹が立つほど、こういう場に慣れている。
リュクスが低く舌打ちした。
「あいつら、うちが盗ったもんを証拠にしてやがる」
「働いてるじゃん、契約分」
「嬉しそうに言うな」
「いやあ、最悪の使われ方で最高だなって」
「黙れ」
軽口はある。
けれど、誰も笑っていない。
サディアスが持っていった配置図の上には、菫色の乙女の位置と、妨げの令嬢の位置があった。人の名ではなく、役の名だけが書かれていた。
イレーネの名前ではない。
だからこそ、逃げ道がない。
必要なのはイレーネ本人ではない。妨げる令嬢という席だ。そこに合うように人を傷つけ、噂を流し、視線を向け、最後には名前ごと押し込める。
それが、あの紙の気持ち悪さだった。
「この国には、神話があります」
向こうの男が言った。
声はまだ折れていない。
むしろ、強くなっていた。
「王家は女神の涙を預かり、民は女神の加護を信じて生きてきました。雨も、麦も、子の誕生も、そのすべてに祈りがありました。女神の涙は、失われてよいものではありません」
正しいことを言っているように聞こえる。
信じるものを失う怖さ。
国が揺らぐ怖さ。
豊穣が途切れるかもしれない怖さ。
そこには、たぶん本物の恐れもある。
だから厄介だった。
ただの悪人なら、盗るのは簡単だ。悪いものを悪いと言えばいい。盗んで、暴いて、叩きつければいい。
けれど、この人たちは違う。
守りたいと言いながら、人を置く。
祈りだと言いながら、名前を消す。
国のためだと言いながら、リリアの瞳を使い、イレーネの場所を汚し、ジークムントをまた影へ戻そうとする。
たぶん、本人たちはそれを悪だと思っていない。
それが一番、気持ち悪い。
「民に信じるものが必要だとして」
ジークムントの声が返る。
「そのために、菫色の瞳を持つ少女を証にする必要がある?」
「彼女は女神の徴です」
「本人がそう望んだのかな」
「それは」
「妨げの令嬢と書かれた席に、誰を置くつもりだった?」
「それは儀礼上の役割です」
「便利だね。名前がなければ、誰でも入れられる」
淡々としていた。
淡々としているのに、一つずつ逃げ道が消えていく。
「殿下。そのような乱暴な解釈は」
「乱暴なのは、君たちの紙だよ」
ディアナは息を止めた。
紙。
人を置く紙。
人の名前を消す紙。
誰かを誰かの隣へ並べ、誰かを妨げの場所へ運ぶ紙。
それを盗ったのは、ディアナたちだ。
でも、突きつけているのはジークムントだ。
裏を握る人。
そう思った瞬間、胸の奥に嫌な納得が落ちた。
ジークムントは、正面で美しい言葉を言うために立っているのではない。逃げ道を塞ぎ、証拠を並べ、相手が自分の言葉で自分を追い詰める場所を作る。
そして、表で返すべき言葉の置き場所も、もう見ている。
廊下の向こうで、また紙の音がした。
「女神の涙を神話の中心へ戻す。それを王国の安定のためとする。なるほど」
ジークムントの声は静かだった。
「なら、その主張は表で言うべきだね」
「表、とは」
「王国の未来を語る者の前で、同じことを言えばいい。君たちは王国のためだと言ったのだから」
ディアナは顔を上げた。
王国の未来。
その言葉で、すぐに分かった。
クリスだ。
第二王子で、イレーネの婚約者で、明るい笑顔の奥で場の棘を抜いてきた人。表側に立つことから逃げない人。
ジークムントは、自分でその言葉を奪わない。
正統を語る相手へ、裏から刃を突きつける。けれど、王国の未来として返す言葉は、クリスの場所へ残す。
ずるい。
本当にずるい。
でも、その方が強い。
「第二王子殿下に、ですか」
向こうの声に、わずかな動揺が混じった。
「そうだよ」
「しかし、これは」
「君たちは王国のためだと言った」
少しだけ間が空いた。
「それとも、私の前でしか言えない話かな」
返事はなかった。
リュクスが低く笑った。
「性格が悪い」
「父さん、声」
「聞こえてもいいだろ」
たぶんよくない。
でも、ディアナも少しだけ同意した。
性格が悪い。
悪いけれど、今はその悪さが、誰かを舞台へ押し込める手を止めている。
サディアスが隣室から戻ってきた。
手には、配置図ではなく別の紙を持っている。薄い記録紙だ。ジークムントの側で何かを書き取ったらしい。サディアスはそれを机に置いた。
「殿下より。先ほどの発言記録です」
「仕事が早いな」
「早くなければ、殿下の補佐は務まりません」
サディアスは真顔で言った。
冗談なのか本気なのか分からない。たぶん本気だ。
ディアナは記録紙を見た。
女神の涙を失えば、この国は何を正統性とするのか。
豊穣は誰が保証するのか。
民は何を信じればいいのか。
菫色の瞳の少女が現れた以上、神話は戻らねばならない。
女神の涙は、失われてよいものではない。
きれいな言葉が、紙の上に並んでいる。
でも、もう違う。
これは祈りではない。主張だ。証拠だ。誰かを役へ押し込めるための言葉として、形を持ってしまった。
サディアスは続けた。
「この記録は、クリス殿下へ」
「ジーク様が?」
声が出かけて、喉が痛んだ。
サディアスがすぐにこちらを見る。怖い。バルドほどではないが、怖い。
ディアナは慌てて石板へ書いた。
『クリス殿下へ?』
「はい。殿下は、この記録をクリス殿下へ、と」
ディアナは、石筆を握ったまま止まった。
ジークムントは、自分でその言葉を奪わない。
そう気づいて、石筆を握る指に力が入った。
自分が言えば、相手は災いの王子に脅されたと言える。女神の涙を否定したのは悪い竜だと騒げる。その言葉まで、神話の役に回収される。
だから、言わない。
裏で逃げ道を塞ぎ、表の言葉は表に立つ人へ渡す。
たぶん、そういうことだ。
クリスが、自分の言葉で返せるように。
ディアナは石板に短く書いた。
『ずるい』
サディアスはそれを見て、わずかに目を伏せた。
「おそらく、殿下への評価としては正確です」
否定しないんだ。
ミロが吹き出しかけて、リュクスに睨まれた。
廊下の向こうでは、まだ声が続いている。だが、最初のような強さはもうない。正統を語る声は、紙に写され、証拠になり、次の場所へ運ばれる。
自分たちの台本はもう盗まれている。
自分たちの言葉はもう記録されている。
自分たちが王国のためだと思っているその主張は、次に、王国の未来の前へ出される。
ディアナは机の上の儀式書を見た。
神話の段取りは、もう盗った。
今度は、その神話に縋る人間たちの言葉が、表へ運ばれる。
王国の未来を語る人の前へ。
女神の涙を返さない者たちは、まだ知らない。
次に盗られるのは、正統を語るその言葉だ。




