第五十話 盗賊娘、儀式の段取りを盗む
喋れないなら、盗むしかない。
喉はまだ痛い。声を出せばバルドに睨まれる。父さんにも睨まれる。たぶんカイルにも睨まれる。盗賊団なのに、今日の旧訓練棟は妙に健康に厳しい。
だからディアナは、机の上に置かれた石板へ短く書いた。
『盗る』
ミロが覗き込み、うんうんと頷く。
「知ってた」
「お前は前に出すぎるな」
リュクスがすぐに言った。
ディアナは石筆を握ったまま、父を見上げる。何も言っていない。何も書いていない。けれど、リュクスは娘の顔だけで分かったらしい。
「顔で反抗すんな」
「お嬢、顔がうるさい」
「ミロも黙れ」
父さんが強い。
旧訓練棟の机には、サディアスが置いていった北回廊周辺の写し図が広げられていた。王妃宮、古い礼拝堂、使用人通路、今はほとんど使われていない祭具室。線は細く、古い。けれど、昨夜から人の流れが変わった場所だけが、紙の上でも妙に濃く見える。
正面はジークムントが塞いでいる。証拠はサディアスが固める。表の言い訳はクリスが受ける。
なら、盗賊団が走るのは、その隙間だ。
「ガロ。風は」
「北回廊の奥から、古い布と油の匂いが来てる。昨日の香とは違う。箱の中で寝てた匂いだ」
「祭具室か」
「たぶん。けど、人の足は祭具室だけじゃない。使用人通路にも流れてる」
ガロは窓辺から戻り、地図の端を指で叩いた。
「女官三人。下役二人。教会の靴が二つ。あと、抱えて運んだ箱がある」
「箱まで分かるのかよ」
ミロが感心したように言う。
「引きずってない。二人で抱えてる。重いけど、重すぎない。中身は布か紙か、小さい金具」
「犬?」
「殴るぞ」
いつもの軽口が戻りかけている。
でも、誰も笑いきらなかった。娘を狙われた父も、仲間を黙らされかけた盗賊団も、笑いながら忘れる顔はしていない。怒りはもう熱ではなく、刃になっている。
扉が開いた。
入ってきたサディアスは、いつも通り整っていた。整っているのに、袖口に残る白い繊維だけが昨日の大広間を連れている。祈り布か、白花か。どちらにしても、ろくなものではない。
「北回廊付近の使用人通路は三箇所だけ空けてあります。その他は警衛騎士団が押さえています」
「三箇所も空けたのか」
リュクスが目を細める。
「多すぎるな」
「相手に選ばせるためです」
「選ばせてるつもりで、選ばせてねえわけか」
「殿下のご判断です」
嫌な判断である。
とてもジークムントらしい。
サディアスはディアナの顔を見て、少しだけ声を抑えた。
「鎖も入っています。捕縛用ではありません。足場と、戻る道です」
ディアナは思わず左手を握った。
鎖。
最初に父たちを地面へ縫い付けたもの。逃げ道を塞ぎ、勝ったと思った瞬間に盤面ごと奪ったもの。
それが今は、戻る道になる。
最悪だ。
最悪なのに、使える。
ディアナは石板に書いた。
『利用する』
サディアスが小さく頷く。
「殿下も、そう仰ると思います」
言いそう。
声には出さなかった。出したら、バルドに薬湯を追加される。
北回廊は、王妃宮の華やかさから少し外れた場所にあった。
高い窓から入る光は弱く、壁の白さもくすんでいる。古い礼拝堂へ向かうための回廊だと聞いていたが、今は飾り布も少なく、行事の時にだけ形を整えられる場所らしい。床石の目地には、磨ききれない埃が残っていた。
その埃の上に、新しい足跡がある。
古い場所ほど、埃がしゃべる。掃除をした跡。拭き残し。踏まれた床石の色。隠した人間は黙っているつもりでも、場所の方が勝手に白状する。
ガロが屈み、床石を撫でた。
「女官三人は礼拝堂前で止まってる。教会の靴は祭具室。箱もそっちだ」
「じゃあ本命は祭具室?」
ミロが小声で聞く。
ディアナは首を横に振った。
祭具室へ向かった足跡は濃い。重い箱を運んだ跡もある。いかにも何かを隠しました、という顔をしている。けれど、使用人通路へ戻った足跡の方が慎重だった。重いものを置いた後の足ではない。何かを持ったまま、軽く見せようとしている足。
途中で一箇所だけ、床が拭かれている。
拭いたなら、拭いた跡が残る。
雑。
とても雑。
しかし、雑な仕事は盗賊に優しい。
ディアナは石筆で地図の端を叩き、使用人通路側を指した。
「奥は囮か」
カイルがすぐに言った。
ディアナは頷く。
「じゃ、囮は囮のまま寝かせとく?」
ミロが笑う。
リュクスが顎で示した。
「本命を抜く。カイル」
「分かってる」
カイルが壁際の飾り板へ近づいた。古い礼拝堂にありがちな、花と蔓の浮き彫り。その下側に、指一本ぶんの傷がある。掃除道具が当たっただけにも見えるが、傷の奥だけ色が違う。
短剣の先が、そこへ入った。
音はほとんどしない。木の板が、ほんの少し浮く。
「ミロ」
「はいはい」
ミロが何気ない顔で通路の先へ出た。ちょうど向こうから来た女官二人へ、明るく声をかける。
「すみません、旧訓練棟から薬湯の器を返しに行きたいんですけど、厨房ってこっちで合ってます?」
「え、いえ、ここは」
「ですよねえ。王城、広すぎません? 俺、さっきから三回迷ってて」
「厨房なら、南側の」
「南。南ってどっちですかね」
「……こちらではありません」
嘘である。
ミロは迷わない。
迷ったふりが上手いだけだ。
女官たちの視線がミロへ向いた瞬間、カイルが飾り板を外した。中は狭い。人が入る場所ではない。けれど、紙束と小箱を隠すには十分だった。
ガロが鼻先を近づける。
「油。古い布。菫の蝋」
「当たりだな」
リュクスの声が低く落ちた。
ディアナは手を伸ばしかけて、父に手首を掴まれた。
「お前は触るな」
「……」
「顔で文句言うな」
また顔に出た。
仕方なく、少し後ろへ下がる。カイルが中から紙束を抜き出した。薄い羊皮紙。古いものではない。古い書式に似せて、新しく写されたものだ。端に王妃宮の印、反対側に教会の細い印。
正式なものに見せたいのか。
正式なものとして通したいのか。
どちらにしても、盗む価値がある。
カイルが一枚めを開いた。
『女神の涙帰座儀礼 次第』
ディアナの指先が冷えた。
帰座。
戻すのではなく、座へ帰す。
まるで、女神の涙がそこへあるべきものだと、最初から決まっているみたいな言い方だった。
カイルが続きへ目を走らせる。
「女神祭の乱れを正すため、女神の涙を神話の中心へ帰す。菫色の瞳の乙女を証とし、王家の祈りにより、古き誓いを再び結ぶ……」
菫色の瞳の乙女。
リリアだ。
あの子の瞳を、まだ使う気でいる。
リリアは女神ではない。イレーネは悪役令嬢にならなかった。ジークムントは悪い竜として舞台に置かれるための人ではない。クリスは、誰かを救う形へ押し戻されるための王子ではない。
そんな当たり前を、まだ盗まなければならないのか。
カイルが二枚めを開いた。
配置図だった。
古い礼拝堂の見取り図。中央に女神像。女神像の前に、菫色の乙女。右側に王族席。左側に証言者。奥に祈祷役。少し離れた位置に、小さく文字があった。
妨げの令嬢。
名前はない。
だから、余計に気持ち悪かった。
人間ではなく、置き場所だけが先にある。イレーネでもいい。イレーネでなくてもいい。役に合う誰かを、あとからそこへ押し込めればいい。そう言われているようだった。
胸の奥が、赤く痛む。
ディアナは左手を握った。黒と菫を抱いた指輪が、皮膚に重く当たる。
リュクスが配置図を見た。
「ふざけてんな」
「父さ……」
声が掠れて、そこで止めた。
バルドの目が怖かった。
リュクスは怒鳴らなかった。配置図を見たまま、低く言う。
「人間の名前も書かずに、置き場所だけ決めてやがる」
「だから盗る」
カイルの声は短く、冷たかった。
紙束を畳み、懐へ入れる。代わりに、同じ折り方をした白紙を差し込む。外から見れば、まだ何かがあるように見える。
盗んだことを、すぐには気づかせない。
気づかせないから、相手は次の言葉を言う。まだ自分たちの手元に段取りがあると思って、堂々と正統を語る。
そこを、ジークムントが塞ぐ。
最悪の王子と盗賊団の相性が悪くないのが、本当に最悪である。
小箱もあった。
掌に乗るほどの古い箱だ。表面には白花ではなく、杯を囲む蔓の紋様が彫られている。鍵はかかっていない。かかっていないことが、逆に嫌だった。
ガロが眉を寄せる。
「香じゃない。中身が嫌だ」
「何それ、怖いな」
ミロが戻ってきた。女官たちは別の通路へ行ったらしい。
「厨房は逆って教えてもらった」
「知ってただろ」
「もちろん」
カイルが小箱を開けた。
中には、小さな金具が入っていた。
指輪ではない。細い輪を三つ重ねたような、古い留め具だ。布や冊子を束ねるためのものに見える。けれど、内側にごく細い文字が刻まれていた。
カイルが目を細める。
「古い字だな」
「読める?」
「全部は無理だ。けど、ここ」
カイルが金具の内側を指した。
「迷いの森、に見える」
ディアナの息が止まった。
迷いの森。
最初にジークムントに捕まった場所の名が、女神の涙を戻すための金具に刻まれている。
偶然で済ませるには、あまりに嫌な繋がり方だった。
女神の涙、帰座儀礼、菫色の瞳の乙女、妨げの令嬢、迷いの森。
ばらばらだったものが、すぐそこまで近づいている。
でも、まだ繋がりきらない。
見えているのに、触れない。
それが気持ち悪い。
「持って帰る」
リュクスが言った。
「本物を?」
「当たり前だ。偽物を入れとけ」
ミロが小さな金具に似た重さの別物を取り出した。どこから出したのか分からない。たぶん聞かない方がいい。
「お前、そんなもん持ち歩いてんのか」
「使うかと思って」
「何に」
「こういう時に」
「こういう時とは」
盗賊団、準備が雑に見えて妙に深い。
小箱へ偽物を戻し、飾り板も元通りにはめる。埃の筋をガロが軽く整えた。整えすぎない。拭かれた跡はそのまま残す。相手が雑に隠した雑さを、こちらが勝手に直してやる必要はない。
盗みは、盗んだ後の景色まで含めて盗みだ。
去ろうとした時、通路の奥で足音がした。
教会の靴音。
軽いが、急いでいる。
リュクスが手を上げる。全員が止まった。
逃げ道は二つ。
来た道と、横の細い階段。
その細い階段の下に、黒い影が一本、薄く伸びていた。
鎖だ。
影に紛れている。普通なら見えない。けれど、ディアナには分かった。
逃げ道を塞ぐ線ではない。
逃げ道を作る線だった。
リュクスも気づいたらしく、ひどく嫌そうな顔をした。
「殿下の鎖か」
「使う?」
ミロが小声で聞いた。
「使うに決まってんだろ。気に食わねえが、便利なもんは便利だ」
父さんが正しい。
そして悔しい。
リュクスが先に階段へ足をかける。黒鉄色の鎖が、足場のように沈まずそこにあった。ガロが続き、カイルが紙束を抱えたまま降りる。ミロが最後に飾り板の前を一度振り返り、わざと小さく咳払いした。
通路の奥から来た教会の若い男が、こちらを見る。
「誰かいるのですか」
「すみませーん、厨房ってこっちですか?」
「違います」
「ですよねえ」
軽い。
軽すぎる。
教会の男が眉をひそめた瞬間、ミロは階段を滑るように降りた。黒鉄色の鎖が、ミロの足元だけわずかに持ち上がる。落ちるはずの段差を、落とさない。
悔しいが、見事だった。
鎖の使い方も、ミロの逃げ方も。
ディアナも足をかけようとした。
その前に、リュクスが下から手を伸ばす。
「ゆっくり来い」
「……」
「顔で文句言うな。石板もしまえ」
ばれている。
ディアナは石板をしまい、黒鉄色の鎖へ足を置いた。
冷たくはなかった。
硬く、沈まない。
捕まえる鎖ではない。進ませる鎖だ。
その違いが、嫌なくらい分かってしまった。
旧訓練棟へ戻ると、サディアスが待っていた。
待っていたというより、戻る時間を知っていた顔だった。腹が立つ。ジークムントの腹心は、腹心らしく嫌なところまで似ている。
「成果は」
「契約分は盗った」
リュクスが紙束を机に置く。
カイルが小箱から抜いた本物の金具を布の上へ出した。
サディアスの目が、わずかに細くなる。
「これは」
「迷いの森って読めるらしい」
ミロが軽く言った。
軽く言ったのに、部屋の空気は軽くならなかった。
サディアスは金具へ手を伸ばしかけ、すぐに止めた。代わりに手袋をはめる。慎重だ。とてもサディアスらしい。
「ディアナ様。ご覧になりましたか」
ディアナは石板を出した。
『見た。菫色の乙女。妨げの令嬢。迷いの森』
書いているうちに、指先が少し震えた。
妨げの令嬢。
その役は、イレーネへ戻されるために残されている。
名前を消して、役だけを残している。
それが何より気持ち悪い。
サディアスは石板を読み、静かに頷いた。
「殿下へお渡しします」
「もう知ってるんじゃない?」
ミロが言う。
「殿下なら」
サディアスは否定しなかった。否定しないのが、いちばん腹立たしい。
ちょうどその時、廊下の向こうから声が聞こえた。
ジークムントではない。知らない男の声だ。昨日、隣室で聞いた震える声に少し似ていた。だが、今は震えていない。むしろ、正しいことを言っている人間の声だった。
「女神の涙を失えば、この国は何を正統性とするのです」
部屋の中で、誰も動かなかった。
続いて、別の声。
「豊穣は誰が保証するのです。民は何を信じればいいのです」
ディアナは、机の上に広げられた儀式書を見た。ついさっき盗ってきたばかりの紙。それがもう、相手の言葉を薄くしている。
彼らはまだ知らない。自分たちが守っていると思っている段取りが、もうここにあることを。
菫色の瞳の乙女を証にする配置図。妨げの令嬢を置くための席。迷いの森へ繋がる古い金具。
その全部が、もう盗まれていることを。
「菫色の瞳の少女が現れた以上、神話は戻らねばなりません」
その言葉の後に、静かな間が落ちた。
そして、ジークムントの声がした。
「戻す?」
甘くない。冷たすぎもしない。
ただ、逃げ道のない声だった。
「君たちは、まだ自分の手元に神話があるつもりなんだね」
ディアナは左手を握った。
黒と菫の指輪が、重く沈んでいる。
まだ終わっていない。
でも、今度は舞台に置かれてから気づいたのではない。
先に盗った。先に見た。先に、相手の手から抜いた。
リュクスが低く笑った。
「いい顔してんぞ、ディアナ」
ディアナは石板に書く。
『喉が痛い』
「顔の話だ」
ディアナは石板を抱え直した。
ミロが肩をすくめる。
「で、お嬢。次は?」
ディアナは机の上の三つを見た。
儀式書。
配置図。
迷いの森の名を抱えた古い金具。
まだ、どうすれば終わるのかは分からない。でも、どこへ向かわされているのかは見え始めた。
ディアナは石筆を握り直し、石板に短く書いた。
『神話の段取りは盗った』
廊下の向こうでは、まだ正統を語る声が続いている。
女神の涙を手放さない者たちは、自分たちがまだ舞台を持っていると思っている。
けれど、その段取りはもう、盗賊娘の手の中にあった。




