第四十九話 悪役令嬢にならなかった日のあと
指輪の色は、戻らなかった。
王城の大広間から旧訓練棟へ移され、喉に残った香を吐かされ、バルドに苦い薬湯を飲まされ、リュクスに無言で何度も顔を覗き込まれたあとも、ディアナの左手中指には黒と菫が沈んだままだった。
白金色だったはずの輪の下側に黒が沈み、その上に薄い菫色が差している。光を受ければ綺麗に見えなくもない。けれど、綺麗と言うには重すぎた。
何かが、そこに残っている。
そう思いかけて、ディアナはすぐに考えるのをやめた。
「喉、痛むか」
バルドが短く聞いた。
旧訓練棟の一室は、急ごしらえの処置室になっていた。机の上には薬草、布、湯を張った小鉢、香を封じた小瓶が並んでいる。窓は少しだけ開けられ、甘い香を含んだ空気がこもらないよう、ガロが風の流れを見ていた。
ディアナは首を横に振ろうとして、少しだけ喉が引きつるのを感じた。
「……少し」
「話すな」
「喉から入る香だ。声を奪う類だ。いま喋ると治りが遅くなる」
怒られた。
理不尽ではない。むしろかなり正しい。けれど、黙れと言われて素直に黙れるなら、盗賊団の娘はしていない。
横からリュクスが腕を組んだまま、低く息を吐いた。
「お前は口を閉じてろ」
「父さんまで」
「閉じろ」
閉じた。
父さんの顔が怖い。
怒っている顔ではない。怒っているだけなら、まだよかった。リュクスは盗賊団の頭で、怒る時は早い。怒鳴って、噛みついて、相手の首根っこを掴みに行く。けれど今は違う。
静かに、長く、覚える顔をしている。
娘を狙った相手を、盗賊団の頭として覚えた顔だった。
それはそれで怖い。
「お嬢、生きてる?」
ミロが軽口めかして言った。いつもの調子に聞こえなくもない。けれど、少しだけ硬い。花籠を放り出して駆け寄ってきた時の顔を、ディアナは見ている。見ているので、今の軽口が軽口だけではないことも分かってしまう。
ディアナは頷いた。
「……生きてる」
「頷くだけでいいだろ」
「それはそう」
バルドとリュクスに同時に睨まれた。
盗賊団、今日は全体的に厳しい。
カイルは扉の近くで、大広間から運ばれてきた細い紙束を見ていた。指示書の写しだろう。折り目の癖を確かめていたらしく、指先に薄く黒い粉がついている。
「殿下は?」
「隣だ」
リュクスが視線だけを扉へ向ける。
「サディアスと?」
「警衛騎士団もいる。あと、王城の連中が何人か」
ミロが顔をしかめた。
「お嬢を消そうとした後で、まだ顔出せるんだ。王城ってすげえな」
「ミロ」
カイルが短く止める。
けれど、否定はしなかった。
ディアナも、否定できなかった。
大広間の白い花。女神像の足元。裂けた祈り布。甘い香。舞台を壊した娘だけは残すな、と命じられた女官の青ざめた顔。
思い出すと、喉の奥がひりついた。
断罪劇は盗んだ。
イレーネは悪役令嬢にならなかった。リリアは罰する女神にならなかった。クリスは自分の足でイレーネの隣へ行った。
そのはずなのに。
舞台を壊した娘だけは、消されかけた。
ディアナは左手を見た。黒と菫を抱いた指輪が、黙っている。いつもの偽オールトなら、白金色の輪は冷たいだけだった。外せない、逃げられない、ジークムントの許可なく国外へは出られない。そういう最悪な拘束具だった。
今は、それだけではない。
何かを抱え込んで、沈んでいる。
「触るな」
リュクスの声が飛んだ。
ディアナは、指輪に伸ばしかけていた右手を止めた。
「まだ何か仕込まれてるかもしれねえ」
「でも、これは」
「でもじゃねえ」
父の声は低い。
「お前を縛ってる輪だろうが、今はお前が無事かどうかが先だ。調べるのは、あの殿下の仕事だ」
あの殿下。
名前を呼ばないあたりに、父さんの機嫌の悪さが詰まっている。
バルドは笑わなかった。薬湯の残りを見て、香の小瓶を見て、もう一度ディアナの喉元へ視線を落とす。
「声を完全に奪う量じゃねえ。吸ったのは浅い。殿下が口を塞いだのが早かった」
ディアナは返事をしなかった。
しない方がいい。
喉のためにも、心臓のためにも。
ジークムントの腕を思い出す。鎖ではなく、腕だった。逃がさないためではない。落とさないための力だった。口元を覆った手。耳元で落ちた低い命令。
息を止めろ。
あの声で、戻された。
最悪だ。
あの人は、本当に最悪だ。
怖いのに、怖さの向きが自分ではないと分かってしまう。怒っているのに、抱える腕は痛くなかった。あれで何も思うなという方が無理である。
非常に困る。
ミロが何か言いかけた。
カイルが無言で足を踏んだ。
「痛っ」
「今はやめろ」
「まだ何も言ってねえ」
「言う空気だった」
助かった。
助かったが、足を踏まれる前に止まってほしかった。
その時、扉の外で足音が止まった。
室内の空気が変わる。ガロが窓辺から離れ、カイルが紙束を伏せる。リュクスの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。
扉が開いた。
入ってきたのはサディアスだった。黒い騎士服の袖に、白い粉が少しついている。大広間の花か、祈り布の繊維か。いつもの整った顔は崩れていないが、目だけが硬い。
「ディアナ様。お加減は」
「喋らせんな」
バルドが先に言った。
サディアスはすぐに頷く。
「失礼しました。では、私からご報告を」
ディアナは姿勢を正そうとした。すぐにリュクスに肩を押さえられる。
「寝てろ」
「寝てはない」
「寝てることにしろ」
「無茶言う」
掠れた声で返したら、バルドとリュクスにまた睨まれた。
サディアスは一瞬だけディアナの喉元を見てから、机の上に細い封蝋片を置いた。深い菫色の蝋だ。割れているが、かすかに花と杯の紋が見える。
「祈り布を保管していた箱の封蝋です。女神祭の正式な祭具台帳にはありません」
「混ぜられたってことか」
リュクスが言う。
「はい。王妃宮の予備布に紛れ込ませてありました。ですが、箱そのものは王妃宮へ入る前に、教会側の祭具保管記録へ一度載っています」
「教会か」
ミロの声が低くなった。
サディアスは頷かない。否定もしない。
「末端の女官は、典礼長補佐から受け取ったと言っています。そこから先は祈祷院の下役、古い儀礼箱の移送命令へと手を替えている。命令の出どころは、意図的に切られています」
「切ってるな」
カイルが短く言った。
「はい。ですが、殿下はすでに関係者の記憶を確認されています」
「見たのか」
リュクスの声に棘が混じる。
サディアスは顔色を変えなかった。
「必要な範囲で」
「便利な目だな、殿下は」
「否定はいたしません」
この二人、会話が硬い。
いや、リュクスが噛みついて、サディアスが受け流しているだけかもしれない。サディアスは昔からこういう顔なのだろうか。たぶんそうだ。腹心というより、腹の中で刃物を磨いているタイプの人だ。
ディアナは黙って封蝋片を見た。
花と杯。
白花ではない。女神像の足元に置かれていた銀盆の飾りとも違う。けれど、どこかで見た気がする。祈りの図譜。白花施療院。古物市で見た礼拝具。迷いの森の石道。その断片が頭の中で、かすかに繋がりかける。
まだ形にはならない。
けれど、嫌な感じがした。
「香は」
バルドが聞いた。
「白花香に似せていますが、施療院で出たものとは調合が異なるそうです。あなたの見立て通り、声を奪う、または意識を薄くする目的が強い。布の端に乾いた香粉が縫い込まれていました」
「祈り布じゃねえな。香を運ぶ布だ」
「殿下も同じ判断です」
サディアスの声が少し低くなる。
「祈り布は女神像の足元へ流れるよう置かれていました。舞台が壊れた後でも、香が広がれば、倒れる者は中央に出たディアナ様です」
「つまり」
リュクスが腕を組み直した。
「うちの娘を、女神像の前で黙らせる気だったわけだ」
誰もすぐに答えなかった。
答えなくても分かる。
喉の奥が、またひりついた。
ただ殺すのではない。刺すのでも、斬るのでもない。女神像の前で、白い花と祈り布の中で、声を奪う。
舞台を壊した娘を、舞台の中心で黙らせる。
ぞっとした。
綺麗な形をしている分だけ、余計に気持ち悪い。
「殿下は?」
カイルが聞いた。
「隣室で、王城側の者へ確認を取っておられます」
「確認?」
ミロが鼻で笑う。
「尋問じゃなくて?」
「形式上は確認です」
サディアスは淡々と言った。
形式上。
便利な言葉だ。
大変よくない響きがする。
「で」
リュクスがサディアスを見た。
「殿下は、うちの娘をまた餌にする気か」
室内の空気が落ちた。
ディアナは反射的に顔を上げる。喉が痛むのも忘れた。
サディアスはすぐに答えなかった。
その沈黙のせいで、少しだけ心臓が嫌な音を立てた。
ジークムントなら、やるかもしれない。
そう思ってしまう自分がいる。あの人は優しい王子ではない。悪役王子で、記憶を視る王子で、必要なら盤面に人を置く。ディアナだって、最初は餌で、手駒で、見世物だった。
でも。
大広間で、鎖ではなく腕が来た。
息を止めろ、と命じた声が来た。
その記憶が、嫌な想像の先に割り込んだ。
「いいえ」
サディアスが言った。
「殿下は、ディアナ様を餌にはされません」
リュクスの目が細くなる。
「言い切るな」
「言い切れます」
サディアスの声は揺れなかった。
「今回の件で、相手はディアナ様を排除対象として明確に認識しました。殿下はその時点で、ディアナ様を相手の視界から外す判断をされています」
「閉じ込めるってことか」
リュクスの声がさらに低くなる。
ディアナも思わず眉を寄せた。
箱にしまわれるのは困る。
守られるために棚へ戻される人形ではない。盗賊娘である。喉が痛くても、怖くても、そこは譲れない。
サディアスは、ディアナの顔を見た。
「閉じ込める、ではありません」
「では?」
「安全網を敷く、です」
言葉の違い。
でも、少しだけ違う。
ディアナは黙ったまま、続きを待った。
「殿下は逃げ道を塞ぎます。私は証拠を固めます。移送経路と保管庫は、すでに警衛騎士団が押さえています。クリス殿下は女神祭の後処理を理由に、王妃宮側を表から止める」
サディアスの視線が、リュクスへ向く。
「その上で、盗賊団アディンセルには、相手が隠した最後の記録と祭具、儀式の成立条件を抜いていただきたい」
リュクスは笑わなかった。
ミロも、カイルも、ガロも、ダンテも笑わなかった。
バルドだけが、薬湯の器を置いた。
「仕事か」
「はい」
「娘を狙われた直後に?」
「だからこそ、です」
サディアスは一歩も引かなかった。
「殿下は、相手が次に守りに来るものを読んでいます。断罪劇は潰れました。イレーネ様は裁かれず、リリア様も女神像の前から降りた。なら、相手が次に守るのは舞台ではありません」
ディアナの左手が、重くなる。
黒と菫の指輪が、静かに光を沈めている。
見たくないものが、そこにあった。
「……女神の涙」
掠れた声が、勝手に落ちた。
全員の視線が集まる。
バルドが怒るより早く、ディアナは自分の喉を押さえた。痛い。けれど、言葉は止められなかった。
「次に、守りに来るのはそれです」
悪役令嬢は生まれなかった。
罰する女神も、舞台には残らなかった。
それでも、舞台を作った理由だけは残っている。
ディアナは指輪を見た。
偽物の輪。
戻らない黒と菫。
ただの拘束具だと、もう言い切れなかった。
「まだ、盗み終わってない」
声は小さかった。
けれど、部屋の中ではっきり響いた。
リュクスが、長く息を吐く。
「喉を潰されかけた娘の台詞じゃねえな」
「盗賊なので」
「便利に使うな」
「父さんも使うでしょ」
「俺はいい」
理不尽だ。
けれど、少しだけ空気が戻った。ミロが口の端を上げ、カイルが呆れたように視線を逸らす。ガロは窓の外を見たまま、低く言った。
「王妃宮の裏門、今日は人の流れが変だ」
「もう見てたのかよ」
「香の流れを見るついでだ」
ガロらしい。
ダンテが紙束を指で叩く。
「伝令の足も変わってる。大広間の後始末にしちゃ、北回廊が使われすぎだ」
「北回廊?」
ディアナは聞き返しかけて、喉を押さえた。
痛い。
黙るべきだった。
サディアスが答える。
「王妃宮と古い礼拝堂側を繋ぐ回廊です。現在は通常の儀礼にはほとんど使われません」
「つまり、使われる理由ができたってことか」
リュクスの目が、ようやく盗賊団の頭の目になった。
怒りが消えたわけではない。むしろ、沈んだ。沈んで、刃になった。
「条件を出せ、サディアス。報酬じゃねえ。これは契約だ」
「承知しています」
サディアスは、初めからそのつもりだったように頷いた。
「殿下からの言伝です。盗賊団アディンセルの可動範囲を、旧訓練棟、外壁沿い、北回廊付近の使用人通路まで広げます。ただし、警衛騎士団の配置と連動していただく」
「監視つきか」
「連携です」
「言い方を変えたな」
「必要なら、監視でも構いません」
「構うわ」
リュクスが鼻で笑った。
「だが、娘を狙った連中の尻尾を掴むなら話は別だ。こっちの足まで縛るなよ」
「殿下は、足を縛るつもりはないと」
「鎖の王子が言うと冗談にもならねえな」
非常にその通りである。
ディアナは笑いそうになって、喉が痛くてやめた。
その時、廊下の向こうから低い声が聞こえた。
扉は開いていない。
けれど、ジークムントの声だと分かった。
「女神の涙を、神殿へ戻す?」
静かな声だった。
静かすぎて、部屋の中の全員が黙る。
続いたのは、聞き慣れない男の声だった。震えている。王城の文官か、教会側の使者か。
「古い儀礼記録に、そう記されております。女神の涙は、神話の中心へ戻されねばなりません。女神祭が乱れた今こそ、正統な祈りにより」
「正統」
ジークムントがその言葉を繰り返した。
甘くも、冷たくもない。
その声だけで、空気が切れた。
「誰の正統だろうね」
ディアナの左手中指が、重く沈んだ。
黒と菫が、ほんのわずかに深くなる。
悪役令嬢は生まれなかった。
罰する女神も、舞台には残らなかった。
けれど、女神の涙を手放さない者たちは、まだ舞台の外にいる。
ディアナは痛む喉を押さえたまま、自分の左手を見た。
次の獲物が、見えた。




