第四十八話 悪役令嬢にならなかった日
白い花は、踏まれると案外あっけなく潰れる。
王城の大広間を埋めていた清らかな花々は、騎士や女官や貴族たちが慌ただしく行き来したせいで、あちこち形を崩していた。女神像の足元に整えられていた花の列も、銀盆の置かれていた祭具台の前も、もう儀礼のための美しい線ではない。
断罪劇を盗んだ後の大広間は、勝利の場所というより、嵐のあとに似ていた。
黒鉄色の鎖に押さえられたままの偽の指示書。裂けた祈り布。リリアの肩にかかっていた白いヴェール。サディアスの指示で、騎士たちがそれらを一つずつ証拠として運んでいく。さっきまで白い花と祈りの布の中に紛れていたものが、少しずつ名前と形を与えられていた。
白い場所ほど、汚れは見えにくい。けれど、一度引きずり出してしまえば、隠し場所は案外少ない。
「……盗ったな」
隣で、リュクスが低く言った。
大広間の端に立つ父は、いつもと同じ顔をしている。王城の女神祭だろうが、貴族だらけの大広間だろうが、盗賊団の頭はあまり変わらない。腕を組み、少し面倒くさそうに目を細めて、ディアナを見ていた。ただ、その目の奥だけが、ほんの少しだけやわらかい。
「盗った」
「舞台ごと」
「馬鹿みてえな盗みだ」
「褒めてる?」
「半分はな」
もう半分は、あとで説教だろう。
分かる。分かるが、今は聞きたくない。父さんの説教は、怒っている時より、心配した後のほうが長い。しかもリュクスは長く怒らないくせに、長く覚えている。厄介である。
ミロが花籠を片手に近づいてきた。まだ下働きの格好をしているせいで、変に似合っていた。
「お嬢、女神役盗るのはさすがに聞いてねえよ」
「その場の勢い」
「王城の女神祭で、その場の勢い」
「盗賊なので」
「便利な言葉だなあ」
便利ではない。だいぶ危険な言葉だ。
カイルは騎士に紙の折り目を示し、ダンテは伝令の若い従者を引き渡している。バルドは祈り布の香に鼻を皺め、ガロはまだ床を見ていた。
盗賊団が王城の大広間で仕事をしている。
とんでもない絵面だった。けれど、今はひどく頼もしい。
ディアナは小さく息を吐いた。吐けた、と思った。胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ動く。断罪台の冷たさ。悪役令嬢と呼ばれた声。誰にも届かなかった言葉。そういうものが、完全に消えたわけではない。
消えたわけではないけれど。
今のイレーネは、まだ立っている。
ディアナは視線を上げた。
少し離れた場所で、イレーネがクリスと向き合っていた。黒絹の髪は少しだけ乱れている。けれど、氷青の瞳は伏せられていなかった。クリスはその正面に立っている。先ほどのように遠い席ではない。誰かに決められた位置でもない。
自分の足で、イレーネの隣へ行った人だ。
「隣へ行くのが、少し遅れたね」
クリスの声は、いつもより少し低かった。
「いいえ」
「来てくださいました」
「次は、もっと早く行く」
「……はい」
その返事は、小さかった。けれど、責めるものではなかった。慰めるものでもない。ただ、差し出された言葉を受け取る声だった。
イレーネの指先が、ほんのわずかに動く。
「私は、一人で立つことが悪いとは思っておりません」
「うん」
「けれど」
イレーネは少しだけ視線を伏せ、それからクリスを見た。
「隣に立ってくださる方がいることは、悪くありませんね」
クリスが息を呑んだ。
ディアナは反射的に目を逸らした。
見てはいけないものを見た気がする。いや、見てもいいのかもしれない。婚約者同士だし。むしろ見届けるべきなのかもしれない。けれど、今のは少し、胸に来た。
よかった。
ただ、それだけで済ませられないくらい、よかった。
「ディアナ」
カイルの声が横から落ちる。
「手、止まってない」
「え」
見下ろすと、ディアナの指先が、無意識に腰のあたりを探っていた。針金も小刀も、今は抜く必要がない。なのに、まだ何かを盗ろうとしている。
終わった後なのに。
「……落ち着きがないのは、いつものことでは」
「自覚があるなら戻せ」
カイルは短く言い、すぐまた騎士の方へ戻った。
いつもの調子だ。
そのいつもの調子で返されたことに、ディアナは少し救われる。大広間の真ん中で、女神役のヴェールを盗って、断罪劇を壊して、それでもカイルはカイルのまま「手、止まってない」と言う。
息ができる。
前々世の断罪台を思い出しても、今は息ができる。
同じ名前の少女は、同じ場所へ戻らなかった。イレーネは、誰かが用意した役にはならないと言った。リリアも、誰かを罰するための祈りはしたくないと言った。
悪役令嬢は、生まれなかった。
その事実が、胸の奥に遅れて落ちてくる。
重くて、あたたかくて、少し痛い。
「ディアナ様」
細い声がした。
振り向くと、リリアが立っていた。白いヴェールはもうない。花飾りも少しずれて、女神像の前にいた時よりずっと少女らしく見える。菫色の瞳はまだ揺れている。けれど、さっきのように誰かの視線に縫いとめられてはいなかった。
「少し、お話ししてもよろしいですか」
「はい」
ディアナは頷いた。
リリアは女神像の方を見た。正面からではなく、少し斜めの位置から。そこに立っていたはずの自分を、遠くから見直すように。
「私、あそこにいると、私ではないものみたいでした」
声は小さかった。
「白い布をかけられて、花を挿されて、皆様に見られて。綺麗だと、ありがたいと、そう言われているはずなのに」
リリアは自分の両手を見下ろした。
「何かを言おうとすると、私の言葉ではないものになっていく気がしました」
ディアナは、すぐには答えられなかった。
リリアは悪女ではない。誰かを陥れたかったわけでもない。たぶん、まだ全部は分かっていない。女神役も、菫色の瞳も、神話再演も。自分がどんな場所に置かれかけていたのか、言葉にできるほど整理できていない。
それでも、彼女は自分の違和感を、自分の言葉で掴もうとしている。
それだけで十分だった。
「それなら」
ディアナは言った。
「たぶん、その違和感は大事にしたほうがいいです」
「大事に、ですか」
「はい。誰かが綺麗な名前をつけてくれるものほど、たまに危ないので」
言ってから、少し雑だったかもしれないと思った。
けれど、リリアは小さく瞬いたあと、ほんの少しだけ笑った。
「危ない」
「危ないです。白くて、清らかで、ありがたい名前がついているものほど、逃げにくいので」
「ディアナ様は、そういうものを見分けるのがお上手なのですね」
「盗賊なので」
また便利な言葉を使ってしまった。
リリアは今度こそ、少しだけ息をこぼすように笑った。泣きそうな笑顔だった。けれど、女神像の前にいた時より、ずっと彼女本人の顔だった。
ディアナは胸の奥が少しほどけるのを感じた。
そこで、視線を感じた。
竜扉の側ではない。いつの間にか、ジークムントは少し近くへ来ていた。銀白色の髪が高窓の光を受けて淡い金を返している。深い青灰色の瞳は、証拠を運ぶ騎士たちではなく、ディアナを見ていた。
見ないでほしい時ほど、この人は見ている。
いつものことだ。
けれど、今日は少し違った。
ジークムントはからかわない。笑みも薄い。ディアナの顔を見て、左手を見て、それからまた目を上げる。
前々世のことを知っている人の目だった。
あの断罪台を、もう他人事として扱わない人の目だった。
「疲れた?」
穏やかな声だった。
ディアナは少し迷ってから、首を横に振る。
「疲れていません」
「嘘が下手だね」
「盗賊に向かってそれを言います?」
「今の君には言うよ」
静かな声だった。
いつものように逃げ道を塞ぐ声ではない。けれど、逃げられない声だった。
ディアナは少しだけ視線を落とした。左手中指の偽オールトは、白金色の輪のままだ。さっきまで何もかもが動いていたのに、この指輪だけは妙に静かに見える。
拘束具。
偽物。
ジークムントがはめた、逃げられない証。
そのはずなのに、今日はいつもより重く感じた。
「……少しだけ」
ディアナは認めた。
ジークムントの目が、わずかに細くなる。
「少しだけ、息ができました」
言った瞬間、自分でも驚いた。
疲れた、ではなく。
怖かった、でもなく。
痛かった、でもなく。
息ができた。
それが今、いちばん正しい気がした。
ジークムントは黙っていた。余計なことは言わなかった。大丈夫だったね、とも、よくやったね、とも言わない。ただ、ディアナの隣に立っている。竜扉側でも、女神像の影でもない。ディアナが白い花の乱れた床の上に立っている、その隣に。
それだけで、十分だった。
十分だった、はずだった。
「殿下」
サディアスの声が、空気を切った。
低い。硬い。さっきまでの後始末の声ではない。
ディアナが振り向くより早く、床に置かれていた証拠品の一つが、かすかに揺れた。
裂けた祈り布だった。
白い布の端から、甘い香が立つ。
白花に似た香り。
けれど、違う。
バルドが顔色を変えた。
「吸うな!」
その声が届くより早く、ディアナの喉がひゅっと狭くなった。
息が、浅くなる。
白い花の匂いが、胸の奥へ入り込む。甘い。清らかで、やさしげで、だからこそ最悪な匂いだった。膝から力が抜けるより早く、黒鉄色の鎖が床を叩いた。
祈り布を載せていた銀盆が、弾き飛ばされる。
布が宙に舞う。甘い香がほどけ、女神像の足元へ流れかけた。その向こうで、連行されかけていた女官の唇が、かすかに動いた。
「……舞台を壊した娘だけは」
最後まで言わせなかった。
ジークムントの鎖が、女官の足元を囲む。逃げるためではない。潰すためでもない。ただ、そこから一歩も動けない形で、正確に場へ縫い止める。
次の瞬間、ディアナの身体は強く引かれていた。
鎖ではなかった。
ジークムントの腕だった。
「ディアナ!」
リュクスの声が響く。
カイルが駆ける気配。ミロの花籠が床へ落ちる音。ダンテが何かを構え、バルドが低く毒の名を吐き、ガロが女官の逃げ道ではなく、香の流れを追う。
全部が少し遠い。
ディアナの背は、ジークムントの腕の中にあった。片腕で腰を支えられ、もう片方の手で口元を覆われている。手袋越しなのに、やけに冷たい。いや、冷たいのはジークムントではない。ディアナの身体の方だ。
「息を止めろ」
低い声が耳元で落ちる。
命令だった。
けれど、あの夜と違う。従わせるための声ではない。戻すための声だ。ディアナは反射的に息を止めた。甘い香が喉の手前で止まり、胸の奥がぎゅっと痛む。
黒鉄色の鎖が次々に走った。祈り布を囲み、甘い香を押し込めるように空気の流れを切る。女官の両側、脇扉、祭具台の下、女神像の足元。逃げ道だけではない。香の道まで塞いでいく。
ジークムントは、ディアナを抱えたまま動かなかった。
動かないまま、場を止めていた。
「バルド」
リュクスの声がした。
「分かってる。吸わせるな。白花に似せてるが別物だ。喉から入る。多分、声を奪うか、意識を落とす類だ」
声を奪う。
その言葉に、ディアナの背筋が冷えた。
あの場で、誰が邪魔だったのか。
誰の声が、舞台を壊したのか。
分かりやすすぎて、吐き気がした。
女官が震えている。さっきまでリリアのヴェールを整えていた女官だ。今は鎖に囲まれ、白い顔で唇を噛んでいる。典礼長は騎士に押さえられている。脇扉の男も動けない。誰も大きな声を出せない。
その沈黙の中で、ジークムントが言った。
「誰を狙った?」
静かな声だった。
静かすぎて、空気が凍る。
女官は答えない。答えられない。膝が震え、視線だけが祈り布へ流れる。
ジークムントの腕に、わずかに力が入った。
ディアナは息を止めたまま、その変化に気づいてしまった。強い。けれど痛くない。壊さないように、抱えている。逃がさないためではない。落とさないために。
「もう一度聞こう」
ジークムントの声は穏やかだった。
穏やかなのに、大広間の誰も動けない。
「誰を、消すつもりだった?」
女官の目から涙が落ちた。
「わ、私は……命じられただけで」
「誰に」
「知りません。私は、ただ」
「ただ?」
鎖が床を擦った。
黒鉄色の音が、白い大広間に低く響く。
「舞台を壊した娘だけは残すなと、そう命じられたのかな」
女官の顔が、はっきり青ざめた。
答えだった。
ディアナの喉の奥が痛む。息を止めているせいだけではない。
舞台を壊した娘。
それは、ディアナだ。
イレーネでも、リリアでも、クリスでもなく。さっきまで断罪劇の外にいたはずの盗賊娘。役を持たないからこそ踏み込めた自分を、今度は舞台そのものが見つけた。
背筋がぞっとした。
その瞬間、左手中指が熱を持った。
熱い。
いや、冷たい。
どちらか分からない感覚が、指の根元から走る。ディアナは思わず左手を握ろうとした。けれど、ジークムントの手がその手首を取る方が早かった。
「動かないで」
低い声だった。
怒っている。
ディアナではない。ディアナに向けたものではない。けれど、あまりに近い場所で怒っているから、皮膚の下まで震えるようだった。
偽オールトの指輪が、黒く濁っていた。
白金色だった輪の表面に、墨のような色が走る。じわりと深く、底から染み出すように黒が広がり、大広間の白い光を受けても、そこだけが光を返さなくなった。
ジークムントの瞳が細くなる。
深い青灰色の奥に、見たことのない冷え方があった。
「殿下、香は抑えました」
サディアスの声がした。
「関係者は、こちらで」
「逃がしていないよ」
ジークムントは女官から目を逸らさなかった。
「ただし、まだ足りない」
ぞっとするほど静かだった。
「この命令を出した口まで、鎖で引きずり出す」
大広間の空気が固まる。
ジークムントは声を荒らげなかった。怒鳴らなかった。けれど、今この場で一番危険なものが何かは、誰の目にも明らかだった。古代竜の扉の側に置かれた王子。災いの血を持つと囁かれる第一王子。その足元から伸びる黒鉄色の鎖。
今、その全部が、ディアナを狙ったものへ向いている。
ディアナは息を止めたまま、ジークムントの腕の中で震えそうになった。怖い。怖いのに、その怖さの向きが自分ではないことが分かってしまう。
最悪だ。
この人は、本当に最悪だ。
こんな場所で、こんな怒り方をする。
ディアナのために。
「ジーク、さ……」
声になりきる前に、喉が引っかかった。
ジークムントの視線が、すぐに落ちる。女官から、ディアナへ。冷えきっていた目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「話さない」
「でも」
「今は、話さない」
短い命令だった。
それでも、支配ではない。守るための命令だと分かってしまうから、余計に胸が苦しい。
リュクスが近づいてきた。今にもジークムントの腕からディアナを奪い返しそうな顔をしている。実際、半分くらい奪い返す気だと思う。けれど、バルドが短く止めた。
「動かすな。香を吸ってる。殿下、そのまま口元を塞いでろ」
「分かっている」
「……分かってんならいい」
リュクスの目が、ジークムントの腕とディアナの顔を行き来する。父親としては非常によろしくない状況だろう。けれど、今は文句を飲み込んだらしい。
父さんが文句を飲み込んだ。
それだけで、今がどれだけまずい状況なのか分かった。
息を止めているのに、喉の奥が熱い。視界の端が白く滲み、女神像の輪郭が遠くなる。立っているのか、抱えられているのか、一瞬分からなくなった。それでも、左手だけは見えた。
指輪の黒は、まだ広がっていた。
ジークムントの怒りに呼ばれたみたいに。あるいは、ディアナを消そうとした何かを飲み込んだみたいに。黒は輪の下側へ沈み、そこから動かない。やがて、その上に淡い菫色が浮かんだ。
菫色だった。
女神像の装飾に使われていた、あの色。
けれど、もう誰かの肩にかかるヴェールの白ではない。誰かを罰する祈りの色でもない。黒の上に、薄く、冷たく、沈むように差している。
ジークムントの手が、ディアナの左手を包んだ。
力は強い。けれど、痛くない。そのことに、また胸が詰まる。
「ジークムント殿下」
サディアスが低く呼んだ。
「香の発生源は封じました。関係者は拘束済みです。ディアナ様は、このまま離宮へ」
「待て」
バルドが短く止めた。
「今すぐ動かすな。まだ浅く吸ってる。息と脈を見る」
ジークムントの腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「……分かった」
低い声だった。
それから、彼の視線がディアナの左手へ落ちた。
黒は、消えなかった。
ジークムントの声はもう落ち着いている。黒鉄色の鎖も大半が床へ戻り、連行されていく女官の足音も遠ざかっていた。大広間には、踏み荒らされた白い花と、片づけられない沈黙だけが残っている。
それなのに、ディアナの左手中指には、まだ黒が残っていた。
白金色だったはずの輪の上側に、淡い菫色が差している。
その下に、黒が沈んでいる。
綺麗ではなかった。
けれど、ただ汚れた色にも見えなかった。
ジークムントが、ディアナの手を取った。
「……戻らないね」
低い声だった。
ディアナは自分の指輪を見た。
偽物の女神の指輪。
ジークムントが作った、ただの拘束具だったはずの輪。
そのはずだった。
悪役令嬢は、生まれなかった。
罰する女神も、舞台の上には残らなかった。
けれど、物語はまだ諦めていない。
ディアナの指で、偽物の指輪だけが、黒と菫を抱いたまま沈黙していた。




