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運命に選ばれなかった盗賊娘は、悪役王子に選ばれる  作者: 篠瀬


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第四十七話 断罪劇を盗む


 何が、と誰かが問うより早く、ディアナの指がリリアの肩にかかる白いヴェールの留め具を外していた。


「え」


 リリアの声が落ちる。


 白い布が肩から滑る。落ちる前に、ディアナは左手でさらった。花飾りに絡みかけた端も、髪を乱さない角度で抜く。盗賊の指は、こういう時だけは妙に優しい。壊さず、傷つけず、欲しいものだけを抜き取る。


 盗った。


「な、何をしているのです!」


 典礼長の声が裏返った。


 ディアナは白いヴェールを片手に持ったまま、女神像の正面から半歩ずれる。


「女神役、盗りました」

「返しなさい!」


 典礼長が手を伸ばす。


 遅い。


 ディアナは一歩横へ滑った。白い花を踏まないように、けれど白い花の線からは外れる。典礼長の手は空を切り、祈り布を載せた銀盆の縁に当たった。銀が小さく鳴る。その音に合わせて、ディアナの右手は銀盆の上へ伸びていた。


 裂けた祈り布。


 白い布の端を指先でつまみ上げる。糸は切れているようで、切れていない。弱らせて、裂けたように見せている。嫌な細工だ。盗賊の指先は、こういう違和感を知っている。


「それにも触れてはなりません!」

「もう触りました」


 返事をした時には、祈り布も腕の中にある。


 大広間がざわめく。


「取り押さえなさい!」

「祭礼を乱す気か!」

「ジークムント殿下に飼われた娘が、女神の御前で何を」


 そう来ると思った。


 典礼長の手元には、まだ紙がある。マルチェント家の名で布を替えたとする指示書。イレーネを責めるための紙。綺麗に折られ、綺麗に差し出され、綺麗に罪の形をしている。


 そういうものほど、盗り甲斐がある。


「指示書も、いただきます」

「なっ」


 白い手袋の指が紙を押さえるより早く、ディアナの指先が紙の端をさらった。典礼長の手から紙が消える。近くの貴婦人が小さく悲鳴を上げた。


 ヴェール。

 裂けた祈り布。

 偽の指示書。


 腕の中に、舞台の道具が三つそろった。


「ジーク様!」


 ディアナはそれを、まとめて空へ放った。


 白いヴェールが広がる。裂けた祈り布がひらめく。偽の指示書が薄い鳥みたいに舞う。


 次の瞬間、黒鉄色の鎖が床から噴き上がった。


 一本がヴェールを絡め取る。一本が祈り布の端を傷つけないように受ける。一本が偽の指示書を空中で挟んだ。同時に、別の鎖が女官の足元を囲む。リリアの背後で何度もヴェールを整えていた女官だ。さらに一本が、脇扉へ下がろうとしていた小柄な男の前へ跳ね上がり、扉の取っ手に絡みつく。西側では、クリスの進路を塞いでいた騎士の足元にも黒鉄色の輪が落ちた。縛るほどではない。ただ、一歩も前へ出られない位置を正確に押さえている。


 場が、音を立ててひっくり返った。


 竜扉側で、ジークムントが静かに立っていた。銀白色の髪が光を受けて淡い金を返し、その下で、深い青灰色の瞳が大広間を冷たく見渡している。


「さて」


 低い声だった。


 清らかな白で埋められた大広間の中で、その声だけが黒い鎖みたいに通った。


「説明してもらおうか」


 典礼長の顔から、整えられた公正さが剥がれた。


「殿下、これは祭礼への冒涜です」

「まずはその言い訳を置いておこう」


 ジークムントは片手を上げた。鎖が空中で三つの証拠を並べる。白いヴェール。裂けた祈り布。偽の指示書。見世物みたいに、けれど逃げられない形で。


「女神役を飾る。祈り布を裂く。マルチェント家の名を使う。正式な返答は止める。婚約者は遠ざける。私を竜扉側へ置く」


 ジークムントは一歩も動かない。


 動かないまま、場だけを支配していく。


「綺麗に並べたね。誰が描いた?」

「そのような意図はございません」

「なら、偶然を一つずつ片づけようか」


 ぞっとするほど穏やかだった。


「殿下、こんなのもあるぜ」


 祭具台の影から声がした。


 花籠を抱えた下働きが、軽く帽子を上げる。ミロだった。やっぱりミロだった。分かっていたけれど、今出てくると心臓に悪い。けれど、今出てくるから盗賊団なのだ。


 ミロは花籠の底から、小さな封筒を抜いた。


「こっちが、祭具庫から出るはずだった本物の控え札。途中で別の箱に移されてた」

「誰が移した」

「そこの女官に渡した祭具係の若い従者がいた。そっちはもうリュクスが押さえてる」


 女官の肩が跳ねる。


「違います、私は命じられて」

「誰に?」


 ジークムントの声が落ちる。


 女官は唇を震わせた。答えない。答えられない。脇扉の男が動きかけ、鎖が石床を打った。


「逃げるなら、逃げる理由まで置いていくことになるよ」


 男が青ざめて止まる。


 その扉の影で、リュクスが腕を組んでいた。いつからいたのか分からない。逃げ道の前に立つ姿は、王城の大広間なのに、裏路地の出口を塞ぐ盗賊そのものだった。


「そっちはもうねえぞ」


 低い声だった。


 それだけで十分だった。


 別の方向から、カイルがすっと現れる。騎士控えの影に紛れていたらしい。手には二つ折りの紙。無駄な音を立てず、ディアナの横を通って、鎖の下へ差し出す。


「差し替えられた紙はこっちだ。封は似せてる。けど折り目が違う」

「それは、マルチェント家からの」

「違う」


 カイルの声は短い。


「マルチェント家の紙は、こっちだ」


 西側から、ダンテの声がした。彼は若い伝令の腕を押さえている。乱暴ではない。だが、逃がす気もない腕だった。伝令は青ざめた顔で胸元の紙を握りしめている。


「こいつは悪くねえ。紙を届けようとして、別の用で呼ばれたことにされてた」

「別の用?」

「存在しない用だな」


 ダンテが紙を取り上げ、軽く振った。


「マルチェント家からの正式な返答。祈り布の差し替えなど認めていない。控えの布は典礼側の管理に戻せ、とある」


 大広間が、今度こそ揺れた。


 イレーネへ向いていた視線が、紙へ、女官へ、典礼長へ、脇扉の男へと散っていく。綺麗に一本の線になっていた悪意が、いくつもの綻びを見せ始める。


「その布、少し貸せ」


 バルドがディアナのそばへ来る。空中の祈り布をジークムントの鎖がすっと下ろした。バルドは布端をつまみ、鼻先へ近づけすぎない距離で止める。


「刃物で切ったんじゃねえな。糸を弱らせてある。香も残ってる」

「香?」

「白花の香に似せてるが、違うもんが混じってる。運ぶ前に仕込んだな」


 白花。


 その言葉で、ざわめきがまた色を変えた。


 女神祭には似合いすぎる。似合いすぎるから、隠れる。清らかなものの顔をして、布と紙と指先を汚す。


 ガロは南側の扉近くにいた。いつの間にか、扉の脇に膝をつき、床を見ている。指先で石目の隙間をなぞり、短く言った。


「祭具庫へ三つ。戻りは二つ。残りは脇廊下だ」

「その脇廊下へ向かったのが、そこにいる男か」


 ジークムントが言う。


 脇扉の男が、汗を浮かべた。


「わ、私は何も」

「なら、君が通った後に伝令が止められ、偽の指示書が典礼長の手元へ入り、正式な返答だけが別の箱へ移された理由を聞こう」


 男が黙る。


 黙ったことが、答えになる。


 典礼長が息を吸った。


「殿下、祭礼の場で盗賊の証言など」

「証言ではないよ。物だ」


 ジークムントの鎖が空中の紙を鳴らす。


「盗られた物。差し替えられた物。止められた物。隠された物。人の口より、よほど正直だ」


 ディアナは思わず、ほんの少しだけ口元を押さえた。


 悔しい。


 こういうところが、悔しいくらい格好いい。


 最悪だ。


 誰かが丁寧に並べた舞台を、ジークムントが証拠ごとひっくり返している。ディアナが盗った道具を、彼は空中に並べ、逃げようとする人間ごと鎖で押さえた。そこへ盗賊団が、紙と人と足跡を次々に差し出していく。


 息が合っている。


 そのことが少しだけ嬉しくて、少しだけ怖かった。


「このような乱入を認めれば、女神祭の尊厳が」

「尊厳?」


 ジークムントの声が冷える。


「少女の言葉を奪い、令嬢の沈黙を罪に見せ、婚約者を遠ざけ、偽の紙で場を整える。それを尊厳と呼ぶなら、ずいぶん安い」


 大広間が静まった。


 典礼長の口が、閉じる。


 だが、すぐに別の貴族の声が上がった。


「ですが、マルチェント公爵令嬢ご自身から説明がなければ、クリス殿下のお立場にも疑いが残るのではありませんか」


 その言葉に、イレーネの指先がわずかに動いた。


 違う。


 今度は、クリスまで重しに使う気だ。


 ディアナが息を呑むより早く、西側で椅子の引かれる音がした。


「その席からでは、遠すぎるね」


 明るい声だった。


 けれど、軽くはない。


 クリスが歩き出していた。


 さっきまで彼の前を塞いでいた騎士は、ジークムントの鎖によって一歩も動けない。クリスはその横を通り過ぎた。急がない。走らない。けれど、一歩も迷わない。


 大広間の視線が、今度はクリスへ向く。


 第二王子。

 イレーネの婚約者。

 本来なら、誰より近くにいるはずだった人。


 遠くに置かれていた人が、自分の足で、その距離を壊していく。


 クリスはイレーネの隣に立った。


 イレーネの睫毛が、ほんの少し震えた。


 たったそれだけだった。けれど、ディアナには分かった。さっきまで一人で選んでいた言葉の重さが、ほんの少しだけ彼の方へ分けられたのだ。


 クリスは典礼長を見る。


「僕は、ここに立ちます。イレーネ嬢を疑うためではなく、彼女の隣に立つために」

「クリス殿下。今は儀礼の途中です」

「分かっています。だから、儀礼の場で言います」


 クリスの声は、いつものようにやわらかかった。


 だが、空気を丸めるためのやわらかさではなかった。彼は、ただ自分の立つ場所を決めている。


「僕の婚約者は、誰かを踏み台にして隣へ来る人ではありません。彼女が黙っているなら、僕が言う。彼女は、そんな人ではない」


 イレーネが、ゆっくりと息をした。


 胸の奥に押し込めていたものを、少しだけ外へ出すような息だった。


 それから、イレーネは一歩前へ出た。


 クリスの後ろに隠れない。

 ディアナの後ろにも隠れない。


 リリアの斜め後ろではなく、自分の足で、少しだけ中央へ出る。


「私は、リリア様を責めません」


 凛とした声だった。


 大広間のざわめきが細くなる。イレーネはリリアを見た。氷青の瞳は冷たく見える。けれど、その奥にあるものを、ディアナはもう知っている。


 この人は、冷たいのではない。


 崩れないように、立っている。


「リリア様がこのような場に置かれることを、私は望んでおりません。けれど」


 イレーネは視線を典礼長へ戻した。


「私が罪を着ることで場が整うのなら、それもお断りいたします」

「マルチェント公爵令嬢」

「私の沈黙を、誰かを責めるために使わないでください」


 典礼長が口を開きかけた。


 しかし、その前にイレーネの声が続いた。


「私は、誰かが用意した役にはなりません。私は、イレーネとして立ちます」


 その瞬間、ディアナの胸の奥で、何かが強く鳴った。


 前々世の断罪台。

 悪役令嬢と呼ばれた声。

 何を言っても届かなかった場所。


 そこへ、今のイレーネの声が届いた気がした。


 私は、イレーネとして立ちます。


 同じ名前の少女が、同じ役へ戻されなかった。


 ディアナは唇を噛みそうになって、やめた。泣く場所ではない。まだ盗り終わっていない。


 白いヴェールを外されたリリアが、両手を握った。


 肩にかかっていた白がない。花飾りも、女官の手によって整えられる前に少しずれている。女神像の正面に置かれた美しい絵から、ほんの少し外れた少女が、そこにいた。


 リリアは怖いのだと思う。違和感も、戸惑いも、善意も、誰かに利用された痛みも、まだ全部が言葉になっていない。


 それでも、彼女は口を開いた。


「私は、イレーネ様に責められたとは思っていません」


 細い声だった。


 けれど、聞こえた。


「祈り布が裂けていて、驚きました。怖くもなりました。でも、それはイレーネ様に傷つけられたからではありません」

「リリア様、ご無理をなさらず」


 典礼長がまた遮ろうとした。


 その瞬間、黒鉄色の鎖が典礼長の足元を打った。


 石床に、低い音が響く。


 ジークムントの声が落ちる。


「彼女は話している」

「殿下、しかし」

「遮る理由は?」


 典礼長が黙った。


 リリアはジークムントを見た。ほんの一瞬だけ。けれど、すぐに視線を戻す。女神像でも、典礼長でも、裂けた布でもない。イレーネと、ディアナの方へ。


「私のために誰かが裁かれることを、望んでいません。私が黙っていたことを、誰かを責める言葉にしないでください」


 白い花が、しんと揺れた気がした。


 リリアは喉を震わせた。けれど、もう一度、言う。


「女神のように祈ることを求められても、私は、誰かを罰するための祈りはしたくありません」


 言った。


 言ってくれた。


 リリアは、自分の置かれた場所をまだ全部は理解していないかもしれない。女神役とは何か。菫色の瞳とは何か。誰がこの絵を描いたのか。分かっていないことは、きっと多い。


 それでも今、自分の口で拒んだ。


 誰かを罰する白い中心にはならない、と。


 ディアナは、ゆっくり手を伸ばした。


 まず、イレーネの手を取る。


 イレーネの指先は少し冷たかった。けれど、逃げなかった。ディアナの手を拒まなかった。氷青の瞳が、ほんのわずかに揺れる。


 それから、リリアの手も取った。


 リリアの手は震えていた。菫色の瞳が大きく見開かれる。けれど、彼女もまた逃げなかった。


 罰する女神と、責められる令嬢。

 誰かがそう呼ぶ前に、その線を盗む。


 ディアナは二人の手を握ったまま、女神像の正面から横へ出た。


 ただ一歩、場所を盗んだだけだった。


 けれど、女神像の光の下から、リリアが外れる。イレーネはその影ではなくなる。白い花の列が乱れ、銀盆と裂けた布と偽の指示書が置き去りになる。


 配置が、崩れた。


 紙で見た通りの絵が、もう絵ではなくなった。


「二人とも、そこから出ます」


 ディアナは言った。


 大広間の中央で、盗賊娘が二人の令嬢の手を引いている。


 礼儀も、儀礼も、たぶん滅茶苦茶だ。


 けれど、これ以上なく盗賊らしい。


 決められた場所から、欲しいものを盗り出した。


 イレーネは自分の足で歩いた。

 リリアも、自分の足で女神像の正面から外れた。


 クリスはイレーネの隣にいる。

 ジークムントは竜扉側で嘘と逃げ道を封じている。

 盗賊団は舞台裏の紙と人を表へ引きずり出した。


 サディアスが静かに頭を下げ、騎士たちへ指示を飛ばす。さっきまで儀礼の白に紛れていた者たちが、一人、また一人と切り分けられていく。女官。脇扉の男。偽の指示書を通した者。伝令を止めた者。布に触れた者。


 白い花の中から、汚れた糸が引き抜かれていく。


 ディアナは、イレーネとリリアの手をそっと離した。


 リリアが、小さく息を吸った。


「ディアナ様」

「はい」

「私、ここに立たなくていいんですね」


 その声は、幼いほど頼りなかった。


 だから、ディアナは笑わなかった。励ますように大きく頷くこともしなかった。ただ、さっきまで握っていた手の温度を残したまま答える。


「はい。立ちたい場所は、自分で選んでいいと思います」


 リリアの瞳が、少しだけ濡れた。


 イレーネが、そのリリアを見る。


「リリア様」

「はい」

「先ほどは、あなたに言葉を選ばせてしまいました」

「いいえ。私こそ、何も言えなくて」

「言えなかったことを、誰かが都合よく使ったのです。あなたのせいではありません」


 リリアの唇が震える。


 イレーネは、ほんの少しだけ声をやわらげた。


「そして、私のせいでもありません」


 その言葉に、リリアがはっと顔を上げた。


 ディアナは息を止めそうになる。


 イレーネが、自分で言った。


 誰かを責めないだけではなく、自分にも罪を着せないと、自分で言った。


 その隣で、クリスが静かに微笑んだ。派手な笑みではない。場を流すための笑みでもない。イレーネの言葉を受け取った人の顔だった。


「うん」


 クリスは、短く言った。


 たったそれだけなのに、イレーネの肩から、ほんの少し力が抜けた。


 ディアナは泣きそうになった。


 泣くな。


 盗賊娘、今は泣くな。


 泣くなら、あとで父さんたちの前で泣けばいい。たぶんリュクスは面倒くさそうに頭を撫でるし、ミロは余計なことを言うし、カイルは黙って横にいてくれる。今はまだ、大広間の真ん中だ。


 清らかな白で埋められた大広間の中で、舞台裏だけが剥がされていく。


 ディアナは、鎖に絡め取られた白いヴェールを見た。


 さっきまでリリアの肩にあったもの。

 彼女を女神のように見せていたもの。


 裂けた祈り布も、偽の指示書も、もう同じ場所にある。


 道具は盗られた。

 役は剥がされた。

 立ち位置は崩された。


 盗るべきものは、盗った。


 断罪劇は、盗まれた。


 悪役も、罰する女神も、もう舞台の上にはいない。


 残ったのは、自分の足で立つイレーネとリリア。

 その隣に立つクリス。

 嘘を逃がさないジークムント。

 そして、白い花の真ん中で息を切らした盗賊娘だけだった。


 上出来だ。


 ディアナは、ようやく笑った。


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