第四十六話 断罪劇は、幕を上げる
床へ落ちた役を、誰かが拾い上げようとしていた。
女神祭の日、王城の大広間は白い花で埋められていた。柱には祈りの布が垂れ、天井近くの高窓から落ちる光は、女神像の足元をまっすぐ照らしている。磨かれた床も、銀の燭台も、参列者の衣装も、何もかもが清らかな場にふさわしい顔をしていた。
けれど、ディアナには分かった。
これは祈りの場ではない。
誰かを置くための舞台だ。
女神像の正面には、リリアが立っていた。白いヴェールを肩にかけ、淡い花飾りを髪に挿している。菫色の瞳は綺麗だった。綺麗で、けれど落ち着きなく揺れていた。あの少女は自分がどんな絵の中心に置かれているのか、まだ全部は分かっていないのかもしれない。
リリアがほんの少し肩を引くと、背後の女官がそっとヴェールの端を整えた。
逃がすためではない。
綺麗に見せるための手つきだった。
その斜め後ろに、イレーネがいる。
黒絹の髪を結い上げ、氷青の瞳を伏せすぎず、上げすぎず、正しい角度で前を見ている。小応接室で「私は、イレーネとして立ちます」と言った人だ。乱れないためではなく、自分で立つために姿勢を正した人。
なのに、場所は変わっていない。
紙で見た通りだった。
リリアは女神像の正面。イレーネは、その斜め後ろ。クリスは西側の騎士控え近く。ジークムントは古代竜の彫られた扉の側。警備上の理由。儀礼上の配置。いくらでも綺麗な言葉はつけられる。
けれど、ディアナの目には別の絵に見えた。
女神の前に置かれた少女。
その影に置かれた令嬢。
遠ざけられた婚約者。
竜の側へ置かれた王子。
嫌なほど、整っている。
「……紙の上で見た時より、性格が悪い」
小さく呟くと、隣に立つサディアスがわずかに視線を寄越した。今日は警衛騎士団側の補助という扱いで、ディアナは竜扉に近い壁際にいる。もちろん正式な席ではない。正式な席など、最初から持っていない。
それが今は、少しだけありがたかった。
決められた場所に縫いつけられていないなら、動ける。
「ディアナ様」
サディアスの声は低い。
「まだです」
「まだって言われる前に、まだって分かってます」
「お顔が、すでに出ています」
「顔はしまえません」
「努力はなさってください」
無茶を言う。
だが、騒ぐには早い。盗賊は獲物へ飛びつく前に、まず手の位置を見る。鍵の形、見張りの癖、逃げ道、戻り道。今回の獲物は宝石でも金貨でもない。舞台だ。なら、誰が幕を引き、誰が照明を当て、誰を中心へ置こうとしているのかを見る必要がある。
南側の扉近くで、見覚えのない下働きが花籠を抱えて通り過ぎた。
見た目は、ただの下働きだった。
けれど、歩き方だけはミロだった。
ディアナは目を向けない。向けたら負けだ。あちらもこちらを見ない。ただ、花籠を抱えたまま、祭具台の影へ消えていく。裏でも動いている。紙を盗る手も、人の流れを見る目も、ここにある。
まだ、幕は上がりきっていない。
なら、盗れるものはある。
大広間の中央で、典礼長が祝詞を読み上げた。
「豊穣の女神オールトの御前に、今年の祈りを捧げる。清らかな花と、清らかな布と、清らかな心をもって、王国の安寧を願わん」
清らか、清らか、清らか。
何度も言われると、逆に信用できない。
リリアの前へ、白い祈り布を載せた銀盆が運ばれてくる。女神役がその布へ触れ、祭壇へ捧げる。そのあと貴族たちが順に花を捧げる。そういう進行だと、盗ってきた紙にあった。
リリアはそっと手を伸ばした。
その時だった。
銀盆の上の白い布が、はらりとずれた。裂けている。端のところが細く切られ、留め糸がほつれていた。真っ白な布だからこそ、傷が目立つ。女神像の足元へ向けられていた視線が、一斉にそこへ落ちる。
大広間の空気が、わずかに歪んだ。
「これは……」
典礼長の声が固まる。
リリアの手も止まった。菫色の瞳が、困惑に揺れる。彼女はすぐに誰かを責める顔をしなかった。ただ、何が起きたのか分からない顔をしている。
その沈黙を、周囲が勝手に意味へ変え始めた。
「女神役の祈り布が」
「なんてことを」
「誰がこのような」
ざわめきは、最初は低かった。けれど、低いざわめきほど嫌な方向へ広がる。白い布の傷。女神役の戸惑い。斜め後ろに立つイレーネ。遠くにいるクリス。
視線が、少しずつ動く。
リリアから、裂けた布へ。
裂けた布から、イレーネへ。
ディアナは奥歯を噛んだ。
やっぱり、来た。
「控えの布は」
典礼長が周囲へ目を向ける。白い顔をした女官が一人、進み出た。手には折り畳まれた紙がある。震えている。震えているのに、震え方が少し大きすぎる。怖がっている人間の震えというより、怖がっていると見せたい震えだ。
嫌な芝居だ。
「控えは、替えられております」
「替えられている?」
「はい。マルチェント家の方から、女神役の布をこちらへ改めるようにと」
大広間のざわめきが、今度こそはっきり形を持った。
イレーネは動かなかった。
けれど、動かなかったことまで責められる材料になるのが分かった。驚かない。乱れない。怯えない。その全部を、冷たさに変えられる。
「マルチェント家から?」
典礼長の声は、公正に聞こえるよう整えられていた。
その整い方まで、紙に書かれていたようで嫌だった。
女官は紙を差し出す。
「こちらに、指示が」
リリアは小さく息を呑んだ。
「イレーネ様が、そのようなことを?」
責める声ではない。
むしろ、信じられないという声だった。
けれど、その声すら使われる。
「リリア様はお優しい」
「ご自分がこのような扱いを受けても、まだ」
「お気の毒に」
違う。
リリアはそんな意味で言ったのではない。
だが、言葉は一度他人の手に渡ると、いくらでも向きを変えられる。リリアの戸惑いは被害者の優しさにされ、イレーネの沈黙は加害者の冷淡さにされる。
嫌になるほど、よくできた舞台だ。
イレーネが、ゆっくりと口を開いた。
「そのような指示は、出しておりません」
声は静かだった。
静かすぎるほど、静かだった。
周囲の何人かが、顔を見合わせる。言葉にはならない。けれど、視線の向きだけで分かる。あれほど落ち着いて否定するなんて。やはり冷たい。やはり動じない。やはり、何かを隠しているのではないか。
見たいように見る人間は、どこまでも見たいように見る。
イレーネは続けようとして、わずかに言葉を止めた。
分かる。
ここで「リリア様を傷つける意図はありません」と言えば、リリアを傷つけたこと自体はあったように聞こえる。「私ではありません」と強く言えば、誰かに罪を押しつけているように見える。「調べてください」と言えば、公の祭礼を乱す令嬢になる。
何を言っても、用意された役へ戻される。
ディアナの指先が、じり、と熱を持った。
指輪は見ない。
今見るべきなのは、輪ではない。
リリアが一歩、前へ出かけた。
「私は、イレーネ様が」
「リリア様」
典礼長が、穏やかに遮った。
やわらかい声だった。やわらかい分だけ、気味が悪かった。
「今はご無理をなさらず。女神役であるあなた様に、このような騒ぎの中で言葉を求めるべきではありません」
求めない、と言いながら、立たせている。
言葉を奪いながら、沈黙に意味を与えている。
リリアの唇が、小さく閉じた。菫色の瞳が揺れる。彼女は何かを言いたい。けれど、何を言えばこの場が正しくなるのか分からない顔をしていた。
その背後で、女官がまたヴェールを直した。
乱れたわけでもない布を、白く、綺麗に、女神像の光の中へ収まるように。
ディアナは、その手つきを見てしまった。
イレーネだけではない。
この舞台は、リリアも置いている。
女神役として。傷つけられた中心として。誰かを責めるための白い場所として。
違う。
この少女も、そんな場所に立ちたくて立っているわけではない。
西側で、クリスが動いた。
ほんの一歩だ。けれど、その一歩の前に、祭具台へ向かう騎士が進路を塞ぐ。偶然に見える。けれど、偶然がこうも都合よく重なるなら、それはもう段取りだ。
クリスの笑顔が消えていた。
明るく軽い、場を柔らかくする笑顔がない。遠くからイレーネを見ている。自分の席が遠いと分かっている顔だった。遠く置かれたことの意味を、今はっきり理解した顔だった。
ジークムントは、動かない。
竜扉の側に立ち、銀白色の髪を白い光の中に置いている。あの人は、絵としては最悪の位置にいる。女神像から遠く、古代竜の彫刻に近く、警戒する騎士たちに囲まれている。
けれど、ジークムントの目だけは、舞台の外側を見ていた。
証言した女官。
紙を受け取った典礼長。
リリアの後ろで祈るふりをする司祭。
西側通路でクリスの進路を塞いだ騎士。
そして、騒ぎに紛れて脇扉へ下がろうとした小柄な男。
見ている。
まだ鎖は伸びない。けれど、足元の影がほんのわずかに濃くなった気がした。
今はまだ、捕まえない。
逃げ道を覚えている。
そういう目だった。
最悪だ。
けれど、今はその最悪さが舞台裏を見ている。
ディアナは息を吸った。
このままなら、イレーネは影になる。
リリアは、白い中心に縫いとめられる。
クリスは届かない場所で、ジークムントは竜の側で、ただ見ているしかない形にされる。
誰かが描いた絵の中へ、全員が収まっていく。
イレーネは、役を降りた。
リリアは、まだ自分が役を着せられていることに気づききれていない。
なら。
盗るしかない。
「マルチェント公爵令嬢」
典礼長の声が響いた。
イレーネへ向けられた声だった。礼を失ってはいない。失っていないからこそ、逃げ場がない。
「この指示書について、ご説明を」
イレーネが一度、目を伏せた。
たぶん、言葉を選んでいる。
誰も責めない言葉。
リリアを踏み台にしない言葉。
クリスへ迷惑をかけない言葉。
マルチェントの名を乱さない言葉。
自分を消さない言葉。
そんなものを、この場で一人で選ばせるな。
「リリア様のお心を思えば、これ以上お尋ねするのも酷でしょう」
「ですが、マルチェント公爵令嬢には、ご説明いただかねば」
「ええ。公爵家の名においても、曖昧にはできませんものね」
誰の声か、すぐには分からなかった。
分かりたくもなかった。
上品な声だった。悲しげで、心配そうで、どこまでも礼儀正しい。誰も怒鳴らない。誰も断罪とは言わない。ただ、白い花と祈りの布の中で、イレーネを一歩ずつ決められた場所へ戻していく。
リリアは、傷つけられた白い中心へ置かれる。
イレーネは、説明すべき令嬢へ戻される。
クリスは遠く、ジークムントは竜の側。
絵が、完成する。
完成してしまえば、あとは誰かが幕を下ろすだけだ。
白い花の中で、綺麗な顔をした断罪劇が始まってしまう。
なら、始まる前に盗るしかない。
ディアナの足が、前へ出た。
「ディアナ様」
サディアスの声がした。
止める声ではなかった。
確認する声だった。
ディアナは答えなかった。答える時間が惜しい。壁際から一歩、白い花の敷かれた中央へ踏み出す。最初に気づいたのは、近くにいた騎士だった。次に、貴族たちの視線が集まる。
盗賊娘。
第一王子に捕らえられた娘。
正しい席など、最初から持っていない者。
だからこそ、踏み越えられる線がある。
ジークムントがこちらを見た。
銀白色の髪が光を受けて淡い金を返し、その下で、深い青灰色の瞳が静かに細くなる。止めるなら、今だった。命じるなら、今だった。
けれど、彼は止めなかった。
ただ、ほんの一歩、竜扉側の影から身を引いた。
警戒していた騎士の視線が、そちらへ流れる。ディアナを止めようとした手が、一拍遅れた。
道が空く。
それだけで十分だった。
ディアナは、イレーネとリリアのあいだへ向かう。白い花を踏まないように歩く余裕はなかった。けれど、踏んだ花の音まで大広間に響いた気がした。
「違います」
声が出た。
出した以上、もう盗るしかない。
大広間が止まる。
白い花も、祈りの布も、女神像へ向いていた視線も、一瞬だけディアナへ向いた。イレーネの氷青の瞳が、わずかに見開かれる。リリアの菫色の瞳も揺れる。クリスが遠くで息を止めたのが、なぜか分かった。
もう戻れない。
戻るつもりもない。
ディアナは、イレーネとリリアのあいだへ踏み出した。
誰かが用意した断罪の線を、靴底で踏み越える。
今度は、紙ではない。
舞台そのものを盗りに来た。




