第四十五話 イレーネは、その役を降りる
盗ってきた紙は、どれも軽かった。
けれど、旧訓練棟の卓に広げた瞬間、それは人の座る場所と、黙るべき場所と、責められるべき場所を勝手に決め始めた。
リリアは女神像の正面。
イレーネは、その斜め後ろ。
クリスは、手が届かないほど遠く。
ジークムントは、竜扉の側。
紙の上でさえ、誰も自由ではなかった。
綺麗に並べられた文字を見て、ディアナは思った。このままでは、イレーネが知らないうちに置かれる。役目の名で、家の名で、婚約者の名で、祈りの名で。誰かが用意した場所へ、本人の足より先に名前だけを運ばれてしまう。
それが嫌だった。
だから会いに来た。
ジークムントが用意した訪問の口実を、今だけはありがたく使うことにした。第一王子の名が役に立つのは腹立たしいが、今は腹を立てている場合ではない。
マルチェント公爵家の小応接室には、淡い午後の光が入っていた。窓辺の白い花はよく手入れされ、卓の上には薄い焼き菓子と、香りの強すぎない茶が置かれている。何もかもが上品で、静かで、隙がない。
その隙のなさが、今は少し痛かった。
「女神祭の席については、こちらにも連絡が来ております」
イレーネはそう言って、封書を卓の上へ置いた。
ディアナは向かいの椅子に座ったまま、その封書を見た。白い。綺麗な白だ。綺麗すぎる白は、最近もう信用できない。
「リリア様の近くですね」
「ええ」
イレーネの返事は短かった。責める響きも、怯える響きもない。ただ、そう決まっているものを受け取る声だった。
イレーネ・ブラディ・マルチェントは、乱れない人だった。
背筋はいつもまっすぐで、声は低すぎず高すぎず、視線は相手を急かさない。茶器を置く指先まで、静かに整っている。けれど、それは冷たいからではない。怒らないからでも、傷つかないからでもない。
乱れれば、そこを責められると知っている人の、整え方だ。
「イレーネ様は、それでいいんですか」
聞いた瞬間、言い方が少し強かったと分かった。
けれど、引っ込めなかった。
イレーネは茶器へ伸ばしかけていた手を止める。氷青の瞳が、静かにディアナを見た。黒絹の髪が肩の上で揺れ、午後の光を受けても華やぎすぎない。凛としている。凛としていて、逃げ場がないように見えた。
「よい、とは?」
「リリア様の近くに置かれることです。……それから、クリス殿下から離されることも」
イレーネの指先が、ほんのわずかに茶器の縁へ触れた。
音はしない。
この人は、音を立てない。
「祭礼の場です。身分、役目、警備上の都合。理由はいくらでもございます」
「理由がいくらでもある時って、だいたい一番嫌な理由を隠してます」
「ディアナ様」
「盗賊の勘です」
イレーネの瞳が、ほんの少し揺れた。
言ってから、ディアナは小さく息を吸った。ここで引くなら、最初から来るべきではなかった。
「私は、盗賊の娘です」
応接室の空気が、ほんのわずかに変わる。
噂ではもう広がっているだろう。第一王子に捕らえられ、国宝に似た指輪をはめられ、社交の場へ連れ出されている盗賊娘。綺麗な言い方をしても、そういう目で見られていることくらい分かっている。
でも、噂で知るのと、自分の口から言うのは違う。
「ご存じだと思います。でも、私の口から言っておきたかったんです。私は、綺麗な言葉で人を正しい場所へ置く側じゃありません。欲しいものを盗る側です」
イレーネは黙って聞いていた。
拒まない。遮らない。けれど、完全に受け入れたわけでもない。誇り高い令嬢の顔のまま、目の前の盗賊娘を見ている。
それでよかった。
簡単に頷かれたら、たぶん違う。
「だから、誰かがイレーネ様を綺麗な言葉でどこかへ置こうとしているなら」
ディアナは膝の上で手を握った。左手中指の指輪は冷えない。ただ、輪郭だけが硬く返る。
「私は、その場所ごと盗みたい」
イレーネの目が、今度こそはっきり揺れた。
「……どうして、そこまでしてくださるのですか」
責める声ではなかった。
ただ、戸惑っていた。
当然だと思った。イレーネは知らない。ディアナが見た断罪台も、汚された名前も、もう一度同じ場所へ戻したくない理由も知らない。
言えることは、いくつもある。
ジークムントの命令だから。
女神祭の配置が不自然だから。
誰かがイレーネを利用しようとしているから。
盗賊として、置かれた獲物を見逃せないから。
どれも嘘ではない。
けれど、どれも一番奥には届かなかった。
「……イレーネ様が」
名前を呼んだだけで、胸の奥から勝手に何かがほどけた。
「好きだから、かもしれません」
言葉にした声は、自分でも少し情けなかった。けれど、笑っていた。止めようと思ったのに、止まらなかった。
令嬢として一人で立ち続けてきた人。正しくあることを冷たいと言われても、乱れず、逃げず、それでも誰かを踏み台にしようとはしなかった人。
ずっと、素敵だと思っていた。
「いえ、変な意味ではなくてですね。今までイレーネ様を見ていて、素敵だなって、ずっと思っていたので。その、だから、ええと」
言えば言うほど、盗賊らしくない。
盗みより難しい。
イレーネは、しばらく何も言わなかった。
それから、困ったように笑った。
社交用の笑みではなかった。相手を遠ざけるための薄い笑みでもない。ほんの少し眉を下げた、少女のような笑みだった。
「……ディアナ様は、本当に不思議な方ですね」
「よく言われます」
「今のは、褒めています」
「なら、受け取ります」
イレーネは小さく息を吐いた。笑みはまだ、消えていなかった。
その笑みを見て、ディアナも少しだけ息を吐いた。
盗れた、とは思わない。でも、ほんの少しだけ、隣に立てた気がした。
「けれど」
イレーネは、ゆっくりと視線を落とした。
卓の上には、女神祭の封書がある。白く、綺麗で、隙のない紙。そこに書かれている席は、もう決まったものとしてこちらへ届いている。
「私は、乱れません」
静かな声だった。
イレーネは茶器を持ち上げ、けれど口をつけずに戻した。音はしなかった。
「私が乱れれば、マルチェントの名が乱れたことになります。クリス殿下の婚約者が、リリア様を妬んだと見られます。……そう見たい方々が、いるのでしょう」
正しい。
正しすぎる。
正しい言葉は時々、自分を縛る縄になる。
「ですから、私は正しく立ちます。礼を失わず、場を乱さず、クリス殿下にご迷惑をおかけしないように」
「それ、イレーネ様はどこにいますか」
イレーネの目が、ディアナへ戻った。
空気が止まる。
やってしまったかもしれない、と思った。けれど、もう遅い。盗賊は手を伸ばしたあとで、やっぱりやめたとは言えない。
「公爵令嬢として正しいとか、婚約者として迷惑をかけないとか、王国の祭礼だから乱さないとか。全部、分かります。分かるんですけど」
言葉を選ぶのは苦手だ。
盗る方がずっと簡単だ。鍵なら開ければいい。紙なら抜けばいい。けれど、人の心は鍵穴が見えない。
それでも、言わなければならない。
「それだと、イレーネ様がいなくなります」
イレーネは何も言わなかった。
怒らない。
否定しない。
ただ、静かに黙る。
その沈黙が、ディアナの胸に刺さった。
「正しく立たなくていい、とは言いません。イレーネ様がそういう方なのは分かっています。でも、正しくあるために、あなた自身まで消さないでください」
声が、少しだけ揺れた。
まずい、と思った。
必死すぎる。
イレーネは知らない。知らない人に、こんなに必死な言葉を向けられたら戸惑うに決まっている。それでも、止められなかった。
「お願いです。黙って正しくならないでください」
応接室の外で、かすかに足音がした。
控えていた侍女のものではない。軽い。けれど、軽薄ではない。この家の床に遠慮している足音だった。
扉が叩かれる。
「イレーネ。入ってもいいかな」
クリスの声だった。
イレーネの瞳が、一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬だ。普通なら見逃す。けれど、ディアナは盗賊だ。欲しいものの気配には敏い。
「どうぞ」
イレーネが答える。
扉が開き、クリスが入ってきた。いつものように明るい笑顔を浮かべている。けれど、今日の笑みは少し薄い。薄い分だけ、奥にあるものが見えやすかった。
「ごめんね。邪魔をしたかな」
「いいえ。ディアナ様と、女神祭の席についてお話ししておりました」
「それなら、僕も邪魔じゃないね」
クリスは軽く言って、イレーネの隣ではなく、少し斜め前に立った。
距離を詰めすぎない。
けれど、離れすぎもしない。
この人は、そういう場所の取り方がうまい。
「僕のところにも、席の知らせが来た。君にも同じものが届いていると思って、来たんだ」
イレーネの表情が、かすかに強張った。
「警備上の都合と伺っております」
「うん。そういうことになっている」
クリスは笑った。
笑ったまま、目だけが笑っていなかった。
「イレーネ。君はまた、自分が正しくしていればいいと思っている?」
イレーネはすぐには答えなかった。
卓の上の封書。白い花。冷めかけた茶。
綺麗に整った小応接室の中で、初めて小さな歪みが見えた気がした。
「私は、私の立場でできることをするだけです」
「それは、君が傷ついても?」
「傷ついた顔を見せなければ、傷にはなりません」
「なるよ」
クリスの声は、軽くなかった。
イレーネが黙る。
「君が見せなくても、なる。君が飲み込んでも、場を乱さないように笑っても、傷は傷だ。少なくとも、僕にはそう見える」
「クリス殿下」
「殿下、は少し遠いな」
その言い方だけ、いつもの軽さが戻った。
イレーネの眉がわずかに動く。
「今、そのお話をなさいますか」
「大事だよ。君は遠く置こうとすると、言葉から遠くするから」
ディアナは黙って二人を見ていた。
入っていいのか、黙っていた方がいいのか、微妙なところだ。けれど、この微妙さこそ必要なのかもしれない。二人は婚約者だ。役割として並んできた。けれど、今ここで必要なのは、役割の会話ではない。
クリスが一歩、イレーネに近づく。
「僕は、君に迷惑をかけられたいわけじゃない」
「それは当然です」
「でも、僕に迷惑をかけないために、君が自分を消すのは違う」
イレーネの指先が、今度こそ小さく震えた。
ディアナは息を止める。
「君が僕の隣に立つために、君自身を殺すなら、それは隣じゃないよ」
「……ずいぶん、真面目なお顔をなさるのですね」
「僕もたまにはするよ。今は、特にね」
甘いだけの言葉ではなかった。
けれど、たぶん、甘いだけの言葉よりずっと強い。
イレーネは長い沈黙のあと、静かに目を伏せた。黒絹の髪が頬の横へ落ちる。その横顔は、いつもより少しだけ少女に見えた。
「私は」
声が、かすかに揺れる。
「私は、役目を果たすことだけを考えてきました。マルチェントの令嬢として。あなたの婚約者として。公の場で、誰にも恥じないように」
「うん」
「そうしていれば、間違えないと思っていました」
「うん」
「けれど」
イレーネは言葉を止めた。
卓の上の封書を見る。
白く、綺麗で、隙のない紙。そこに書かれた席は、もう彼女のために用意されている。何を思い、何を見て、誰の隣に立つのか。それより先に、紙が場所を決めている。
イレーネは、ゆっくりと顔を上げた。
氷青の瞳に、光が入る。
冷たい光ではない。折れないための光だ。
「それだけでは、誰かが用意した場所に、自分から立つことになるのですね」
ディアナの胸が、ぎゅっと痛んだ。
イレーネは、分かっている。
分かってしまった。
自分がどこへ置かれようとしているのか。正しさを盾にして、どんな役へ押し込まれようとしているのか。
「ディアナ様」
「はい」
「私は、リリア様を責めたくありません」
「はい」
「踏み台にもしたくありません」
「はい」
「けれど、私自身を踏み台にすることも、もう正しさとは呼びたくありません」
ディアナは、頷いた。
声を出すと、変なものが混ざりそうだった。
イレーネは立ち上がる。姿勢はやはり綺麗だった。けれど、さっきまでの綺麗さとは違う。乱れないための姿勢ではなく、自分で立つための姿勢に見えた。
「私は」
イレーネは一度、息を吸った。
「誰かを責める役にはなりません」
静かな声が、応接室に落ちる。
「リリア様を踏み台にもしません。クリス殿下の隣に立つために、私を消すこともしません」
クリスが、何も言わずにイレーネを見る。
その目が、少しだけ柔らかくなる。
ディアナは膝の上で握っていた手をほどいた。指先が熱い。指輪がどうなっているかは見なかった。今見るべきなのは、輪ではない。
目の前にいる人だ。
イレーネが、まっすぐ前を見た。
「私は、イレーネとして立ちます」
その言葉は、叫びではなかった。
誰かを責めるための刃でもなかった。
けれど確かに、その瞬間。
誰かが彼女へ着せようとしていた役が、ひとつ床へ落ちた。




