第四十四話 共犯たち、舞台の裏を盗む
紙を盗む仕事は、地味なくせに面倒だ。
宝石なら目が喜ぶ。金貨なら袋が鳴る。剣なら重さで価値が分かる。けれど紙は駄目だ。軽い。薄い。火をつければすぐ燃えるくせに、人の名前も、居場所も、罪も、人生も、平気で動かす。
つまり、今回の獲物はとても性格が悪い。
「紙のくせに、殺意が高い」
ディアナが言うと、訓練棟の古い卓を挟んだ向こうで、ミロが真顔で頷いた。
「分かるぜ、お嬢。紙は腹に入らねえし売りにくい」
「感想の方向が違う」
「売れない獲物は盗賊泣かせだろ」
「今回は売らない。使う」
卓の上には、王城の簡略図、女神祭の警備導線、マルチェント家から押収した記録の写し、そして空白だらけの席順表が並んでいた。綺麗に並んだ文字は、刃物よりずっと静かに人を切る。切られた場所が分からないまま、名前の方が先に汚れている。
清らかな祈りに、古い誓約の影が差しませんように。
嫌な札の文言が、まだ耳の奥に残っている。あの綺麗な言葉が、誰の名前を切るために置かれたものなのか。分からないまま、放っておくわけにはいかない。
盗る。
破る前に、燃やす前に、差し替える前に、まず盗る。
「今日拾うものは三つだ」
ジークムントが、卓の端に指を置いた。銀白色の髪が朝の光を受けて、わずかに淡い金を含む。腹立たしいくらい綺麗な顔で、言っていることはだいたい物騒だ。
「一つ目。マルチェント家から表に出る記録と、出ない記録の差」
「表に出ない方を盗るんですね」
「うん。出してくれないなら、こちらで取りに行く」
穏やかに言うことではない。
リュクスが腕を組んだまま、低く笑った。
「殿下。王城の中で堂々と盗みの相談か」
「君たちの前で隠す方が失礼だろう?」
「失礼の向きが違うんだよ」
父さんの声は相変わらず刺々しい。けれど、本気で止める気はない。盗るべきものがあるなら盗る。それが盗賊団アディンセルで、今のディアナにはそれがありがたい。
かつての名前は、もうジークムントに渡した。
奪われたのではない。差し出した。
だから今日は、その名前を断罪の舞台へ戻さないために動く。重い。重いが、止まっている方がもっと重い。
「二つ目は、女神祭の席順と進行表。まだ正式なものではないが、仮の配置は動き始めている」
「リリア様とイレーネ様を近づける配置があるなら、そこを崩す」
「そう。ついでに、クリスがどこへ置かれるのかも見る」
「孤立させる動き、ですね」
ジークムントが頷く。
「三つ目。証言者の移動」
「証言者?」
カイルが短く聞いた。カイルの手は、すでに卓の端に置かれた細い針金を弄っている。顔には出さないが、指先はもう仕事の形を探していた。
「女神祭の前後で、マルチェント家に関わる人間が何人か王都へ入る。公式には礼拝関係者、寄付人、古い使用人の確認だ。だが、その中に一人、妙な動きをしている者がいる」
「妙って?」
「呼ばれているのに、会わせる相手が書かれていない」
ミロが眉を寄せた。
「それ、呼んだ側も怪しくねえか」
「怪しいね」
「なんで嬉しそうなんだよ、殿下」
「怪しいものは、使い道がある」
最悪である。
けれど、今はその最悪さが頼もしい。複雑だ。人としては終わっている。共犯としては非常に助かる。
ディアナは紙の一枚を覗き込んだ。細い筆跡で、王城の控え部屋らしい番号と、出入りする者の名が並んでいる。知らない名前ばかりだ。その中に、一つだけ線が引かれていた。
姓も名も、写しの端が切れている。わざとなのか、ただの写し損ねなのかは分からない。ただ、備考欄に短い文字が残っていた。
マルチェント旧領、礼拝堂勤め。
十年前、令嬢の慈善記録を確認。
恋文ではない。招待状でもない。甘い匂いのする話でもない。
誰かの優しさを、記録として知っている人間の痕跡だった。
「この人が、証言者ですか」
「候補だよ。まだ決めつけるには早い」
「ジーク様が決めつけないの、珍しいですね」
「君にそう言われるのは心外だな」
「日頃の行いです」
「否定しにくい」
ジークムントは少し笑った。その笑みはいつも通りに見えた。けれど、ディアナの左手へ視線を落とさない。指輪を見ない。
かつての名前を渡してから、彼は何度かそれをしている。
指輪ではなく、ディアナを見る。
それが落ち着かない。
落ち着かないので、仕事を見ることにした。仕事はいい。盗るものがある。動けばいい。足と手と頭を使えば、余計なことを考えずに済む。
「で、私たちはどこへ?」
「君とカイル、ミロは典礼局の東廊下。祭具の飾り布が入る時間に紛れる。ガロとダンテは南門側で証言者の馬車筋を追う。バルドは香布の残りを見て、同じ香が控え室に使われていないか拾う」
「俺は?」
リュクスが聞くと、ジークムントはにこりとした。
「君は私と一緒に表へ出る」
「は?」
「マルチェント家の記録を確認する場に、君が必要だ」
「殿下。俺を王城の表に出してどうする気だ」
「目立ってもらう」
「殺すぞ」
「父さん」
止めたのはディアナだった。
リュクスが顔をしかめる。
「ディアナ」
「父さんが表に出たら、向こうは母さんを思い出す。嫌でも、目が逸れる」
「お前まで殿下側の顔すんな」
「してない。盗賊側の顔をしてる」
リュクスは黙った。黙って、すごく嫌そうな顔をした。
勝った。
たぶん勝ってはいないけれど、言葉では少し押した。
「お嬢、今の顔ちょっと頭領に似てたぞ」
「やめて。褒め言葉なのか判断に困る」
「俺は褒めてる」
「なお困る」
少しだけ空気が緩む。
その緩みの中で、ジークムントが紙を一枚裏返した。王城東棟の簡略図。赤い線が典礼局へ伸び、青い線が女神祭の控え室へ続いている。黒い印は警衛騎士団の詰所。白い丸は、リリアが通る予定の導線。薄墨の丸は、イレーネの控え位置。
近い。
近すぎる。
紙の上の距離なのに、胸の奥が少し冷えた。指輪ではない。逃亡の冷えではない。ただ、あの断罪台へ敷かれる道の冷たさだった。
「ここで会わせる気ですね」
ディアナは薄墨の丸を指先で押さえた。
「まだ仮だ」
「でも、置かれかけています。リリア様は女神像の近く。イレーネ様はその斜め後ろ。クリス様は」
「西側の騎士控えに回されている」
ジークムントが言った。
離されている。
リリアとイレーネは近づける。クリスは遠ざける。ジークムントは竜扉側の警備へ置く。綺麗に並べれば、ただの祭礼配置に見える。祈りの場。身分の順。警備の都合。
けれど、視点をずらせば違う。
誰かを中心に置き、誰かを影に置き、誰かを遠ざけ、誰かを悪い場所へ立たせる配置。
舞台だ。
これは、舞台の下書きだ。
「……紙のくせに」
ディアナは呟いた。
人を動かす気でいる。
「いい顔だ」
「褒めてませんよね」
「褒めているよ。使える顔だ」
「言い方」
「君らしいと言い直そうか」
「それも嫌です」
ジークムントの声が、少しだけ甘くなる。
こういう時だけ甘くしないでほしい。心臓に悪い。仕事前の盗賊に余計な揺れを与えないでいただきたい。
ミロが肩をすくめた。
「お嬢、耳赤い」
「ミロ」
「はい黙る」
黙るのが早い。賢い。
カイルは見なかったことにしてくれている。優しさが実務的で助かる。
「サディアス」
ジークムントが呼ぶと、壁際に控えていたサディアスが一歩進んだ。
「典礼局へは、私が正式な照会を入れる。祭具の保管と警備導線の確認だ。向こうは私を嫌がるが、断れない」
「承知しました」
「その間、東廊下の人の流れが止まる。止まった場所の裏を、ディアナたちが通る」
「殿下が表で嫌がられる係ですね」
「君は私を何だと思っているのかな」
「表で嫌がられる役に向いている殿下です」
「正確で困るね」
サディアスが目を伏せた。笑ったのかもしれない。たぶん笑っていない。いや、少し笑った気がする。
ジークムントは最後に、ディアナへ視線を向けた。
「ディアナ」
「はい」
「無理はしなくていい」
「します」
「返事が早い」
「無理をしない盗賊は、たぶん盗賊じゃないです」
「では、壊れる前に戻ること」
「願いですか」
「命令にしておく」
「願いじゃないんですか」
「君は願いだけだと聞かない時がある」
聞きます、と言えないところが悔しい。
ディアナは小さく息を吐いた。
「分かりました。壊れる前に戻ります」
「よろしい」
「でも、壊れない範囲で盗ります」
「それなら許可する」
許可。
また許可。
捕まった頃なら、その言葉だけで噛みついていた。今も噛みつきたい気持ちはある。けれど、今日はそれより先に思うことがあった。
この人の許可の中に、心配が混ざっている。
ずるい。
指輪よりたちが悪い。
ディアナはその感想を飲み込んで、卓の上の紙をまとめた。
「行こう、カイル、ミロ」
「了解」
「任せろ、お嬢」
外へ出る前、リュクスがディアナの頭に手を置いた。乱暴に撫でるのではなく、ただ一度だけ置く。
「盗ってこい」
「うん」
「無理なら呼べ」
「分かってる」
「分かってねえ顔だ」
「父さんもでしょ」
「俺は殿下の横で大人しくするだけだ」
「絶対嘘」
「だな」
認めた。
父さんは本当に、こういうところが父さんで困る。
ディアナは少しだけ笑って、扉へ向かう。
重さは消えていない。胸の奥にはまだ、かつての名前がある。断罪台の冷たさも、イレーネの名が汚される怖さも、綺麗な祈りが人を切る嫌悪も、全部残っている。
けれど、置いていかないと決めた。
全部持って、盗みに行く。
王城東棟の典礼局は、華やかな祭具を扱う場所のくせに、裏口の守りが甘かった。
正確には、守りが甘いのではない。守るべき場所を間違えている。祭具庫の扉には魔法錠が三つ、番兵が二人、記録係が一人。けれど、飾り布と花台を運び込む裏廊下には、忙しそうな下働きと、眠そうな事務官しかいない。
綺麗なものを置く場所は守る。
綺麗なものを作るために動く紙と人は、見落とす。
貴族のやり方だ。
「お嬢、右」
「見えてる」
ミロの低い声に合わせて、ディアナは空の花籠を抱え直した。髪は地味な布で隠し、服は下働きの灰色。カイルは少し離れた荷台の影にいる。目立たない。気配が薄い。あの短剣使いは、王城の石壁より無口になれる。
東廊下の先で、事務官が二人、慌てて書類を抱えて走っていく。
「第一王子殿下が典礼長を呼んでいるそうだ」
「今か? 祭具確認の最中だぞ」
「警備導線に不備があると言われたらしい」
ジークムント、きっちり嫌がられている。
表で嫌がられる才能だけは、本当に一級品だった。
ディアナは花籠を抱えたまま、目を伏せた。走る事務官の袖が、卓の端に積まれた紙束をわずかに崩す。誰も拾わない。忙しい時ほど、人は落ちたものを見ない。
ディアナの指が動いた。
落ちた紙を拾う。親切な下働きの顔で、紙束の一番上に戻す。その一瞬で、紙の端に挟まっていた薄い控えを抜く。
軽い。
紙は軽い。
人の人生を動かすくせに、腹が立つほど軽い。
籠の底へ滑らせる。ミロが何食わぬ顔で前を通り、視線を塞いだ。カイルの気配が荷台の影からずれる。後ろの扉が、音もなく少しだけ開いた。
典礼局の控え室。
中には誰もいない。
今、典礼長はジークムントに呼ばれている。記録係は書類を抱えて走った。番兵は祭具庫の前。ほんの短い空白。
盗賊には、それで足りる。
ディアナは滑り込んだ。
控え室は紙と蝋の匂いがした。壁際の棚には進行表、寄付人名簿、祭具配置図、控え室割り振り。華やかな女神祭の裏側が、地味な文字でぎっしり詰まっている。
「時間は」
「短い」
カイルが答える。短い。知っている。
ディアナはまず、席順表を探した。正式なものはない。仮組み。下書き。修正案。その中に、薄墨で印のついた一枚があった。
白花席。
女神像正面。
リリア。
その斜め後ろ。
マルチェント公爵令嬢。
ディアナは唇の内側を噛んだ。
名前の書き方が嫌だった。イレーネではなく、家名と役割だけで置かれている。公爵令嬢。婚約者。古い誓約の家。名前の前に、場所がある。
「お嬢」
ミロが小さく呼ぶ。
分かっている。怒って止まるな。
ディアナは席順表を写しの紙と重ね、細い炭で必要な線だけを拾った。全部写す時間はない。誰が近いか。誰が遠いか。誰が視線の中心に置かれるか。それだけでいい。
クリスの名は西側にあった。
遠い。
しかも、途中に騎士控えと祭具台が挟まる。すぐには動けない位置だ。
ジークムントの印は、竜扉側。
古代竜を象った扉飾りの近く。
紙の上でも、悪い場所へ置かれている。
ふざけるな、と思った。
声には出さなかった。出さない代わりに、その紙も盗る。
「手、動いてるぞ」
カイルが言った。
「動かしてる」
「ならいい」
いいらしい。
盗賊団のこういうところが好きだ。理由を聞かない。動いている手を止めない。盗るなら手伝う。
ディアナは席順表を籠の底へ入れようとして、ふと棚の下段に目を止めた。
封筒が一通。
白い封蝋。女神祭の印ではない。マルチェント家の紋でもない。けれど、宛名が嫌だった。
イレーネ・ブラディ・マルチェント嬢へ。
差出人は空白。
中を読む時間はない。けれど、封筒の端にごく薄い香が染みていた。白花香油ほど強くない。もっと薄い。祈りの場に紛れるような、清潔で、嫌な匂い。
「……置き方が綺麗すぎる」
カイルが低く言った。
ディアナの指が、封筒の端で止まる。
「罠?」
「罠なら雑だ。けど、隠した紙じゃない」
「どういうこと」
「見つけてほしい紙だ」
背筋が、ゆっくり冷えた。
盗られたくない紙は、もっと奥へ入れる。もっと雑に紛れさせる。あるいは誰かの手元から離さない。なのに、この封筒は棚の下段に置かれていた。見えにくい。けれど、探せば見つかる。盗賊の目なら、引っかかる。
嫌な置き方だ。
誘われている。
「持っていく」
「いいのか」
「見つけてほしいなら、見つけてやる。でも、相手の思った通りには使わない」
ディアナは空の封筒を一枚取り、同じ厚みになるよう余り紙を入れた。封蝋までは完全に似せられない。だが、ここで必要なのは本物ではなく、数刻だけ気づかれない偽物だ。
偽物にも礼儀がある。雑に作ればすぐにばれる。丁寧に作れば、本物より本物らしくなることもある。
ジークムントの偽指輪のことを思い出して、少し腹が立った。
今は助かる知識なので、もっと腹が立つ。
差し替えた封筒を元の場所に置く。角度も、紐の向きも、棚の埃の切れ方も戻す。
その瞬間、廊下から足音が戻ってきた。
「早い」
カイルが呟く。
ディアナは籠を抱えた。ミロが扉の向こうで、わざと花台に膝をぶつけた。
「いてっ」
「何をしている!」
「すみません、花台が引っかかって」
間抜けな声。
上手い。
腹立つほど、上手い。
その隙にディアナとカイルは控え室を抜けた。扉を閉める。花籠を抱え直す。何食わぬ顔で廊下へ戻る。
戻った瞬間、廊下の向こうから、ジークムントの声がした。
「祭具の移動記録も確認したい。女神像周辺の警備は、書面だけでは信用できないからね」
穏やかだった。
穏やかなのに、典礼局の人間たちが揃って青ざめている。
ディアナは花籠を抱えたまま、目を伏せて通り過ぎようとした。
すれ違う寸前、ジークムントの視線が一瞬だけ落ちる。籠の底ではない。ディアナの顔でもない。
左手。
そこにある指輪ではなく、紙を握る指の強さを見た。
見たうえで、何も言わない。
代わりに、典礼長へ微笑む。
「それから、控え室の割り振りを誰が変更したのかも見せてもらえるかな」
「そ、それはまだ仮で」
「仮のものほど、人の本音が出るよ」
性格が悪い。
本当に、性格が悪い。
けれどその一言で、典礼長の喉が詰まった。
拾った。
何かを。
ディアナは足を止めずに廊下を抜けた。ミロが後ろから追いつく。カイルはもう別の影に消えている。
籠の底には、席順の写し、進行表の一部、控え室割り振り、そしてイレーネ宛ての封書。
紙ばかりだ。
軽いくせに、重い。
東廊下を出たところで、ミロが小さく息を吐いた。
「お嬢」
「何」
「顔、怖い」
「今それ言う?」
「言う。怖い顔のまま戻ると、頭領が殿下を殴る」
「それは困る」
「だろ」
ディアナは一度、目を閉じた。
怒りは使える。
でも、怒りだけで走ると、たぶん間違える。イレーネを救いたい。リリアを白い中心から盗みたい。クリスを見える場所へ戻したい。ジークムントを竜の側へ置かせたくない。
その全部を持っていくなら、今ここで怒りに飲まれるわけにはいかない。
息を吸う。
吐く。
「大丈夫」
「嘘くせえ」
「大丈夫にする」
「それならよし」
よしなのか。
よしらしい。
ミロは笑わなかった。軽口で逃がさない。けれど、足は揃えてくれる。盗賊団アディンセルのそういうところが、今はやけに胸にくる。
「戻ろう」
「おう」
女神祭の綺麗な廊下を、灰色の下働き二人が歩いていく。
籠の底に、断罪の舞台の裏側を隠して。
盗みは、始まったばかりだった。




