第四十三話 私は、イレーネだった
白い布の上から、押収品が下げられていく。
封じられた白い小箱。折れた白花の髪飾り。粉の硝子瓶。香布。月桂の葉。そして札。
清らかな祈りに、古い誓約の影が差しませんように。
嫌な言葉だと思う。綺麗な言葉ほど、人を綺麗に傷つける。刃物の方がまだ親切だ。切られた場所が分かるから。これは違う。どこを切られたのか、すぐには分からない。気づいた時には、名前の方が先に汚れている。誰かが用意した意味の中に立たされている。言葉を返そうとしても、もう場の空気がこちらを悪者にしている。
知っている。その怖さを、ディアナは知っている。
「押収品は騎士団側の保管庫へ。記録は二通作る。一通は私の手元へ、もう一通は王妃宮へ回す。ただし、回す前に私が見る」
ジークムントの声が、小応接室を静かに動かしていく。サディアスが頷き、硝子瓶の蓋を確かめた。バルドは香布を見て、最後まで不愉快そうに眉間を寄せている。ミロは小さく舌を出し、ガロは札の端をもう一度だけ見た。ダンテは壁際で腕を組んだまま、何も言わない。
リュクスは、ディアナを見ていた。
盗賊団はもう知っている。ディアナが、かつてイレーネ・ブラディ・マルチェントだったこと。悪役令嬢として断罪され、処刑されたこと。今のイレーネを、自分のやり直しにも代わりにもしたくないこと。
知って、それでもディアナをディアナとして呼んだ。
だから、今も立っていられる。
けれど、ジークムントにはまだ渡していない。この人だけが、まだ知らない。
ディアナは左手を握らなかった。指輪はただ硬い輪郭を返している。赤も、菫色も、何もない。それなのに、そこにあるだけで胸の奥の重さを思い出させる。
次に差し出さなければならないのは、盗品ではない。
かつての名前。
そう思った瞬間から、息の仕方が少し分からなくなっていた。
「父さん」
ディアナは、リュクスを見た。
「先に戻ってて」
リュクスは、すぐには答えなかった。ディアナを見て、それからジークムントを見た。殴りたいものを見つけた時の目だったが、拳は動かなかった。
「無理なら呼べ」
「うん」
「呼ばなくても、戻らなかったら行く」
「それは困る」
「知らねえよ」
リュクスはそれだけ言って、引いた。
ミロも、ガロも、ダンテも、バルドも、カイルも何も言わなかった。言わないまま、それぞれのやり方でディアナを見ていた。軽口で逃がさない。心配を押しつけない。けれど、呼ばれたらすぐ戻れる距離にいる。
止めない。聞かない。けれど、背中は向けない。
それが、盗賊団アディンセルだった。
アディンセル子爵がジークムントへ一礼した。
「殿下。孫が自分で選んだことです。邪魔はいたしません」
「そう」
「ただし、傷つけられたと判断すれば、私は祖父として動きます」
「怖いね」
「王族相手でも、祖父は祖父です」
強い。
おじいちゃんは王族相手でも強い。
ジークムントはわずかに笑った。
「覚えておこう」
「ぜひ」
アディンセル子爵はディアナを見る。
「ディアナ」
「はい」
「差し出すものは、お前が選びなさい。全部を渡す必要はない」
「……うん」
「だが、渡すと決めたものは、他人のせいにするな」
「分かった」
アディンセル子爵は頷き、リュクスたちとともに部屋を出ていった。サディアスも押収品を抱えて下がる。最後に扉が閉まる直前、カイルがこちらを見た。何も言わない。ただ、いつでも走れる目をしていた。
扉が閉まる。
小応接室に、ディアナとジークムントだけが残った。さっきまで人の気配で満ちていた部屋は、急に広くなる。白い布だけが机の上に残っていた。押収品の形に少し皺が寄っている。そこにあったものはもうないのに、跡だけが残っている。
名前も、そうなのかもしれない。
奪われても、捨てても、別の生を生きても、跡だけが残る。
「座る?」
ジークムントが尋ねた。
「立ってます」
「倒れたら受け止めることになる」
「倒れません」
「君はそう言うと思った」
「なら聞かないでください」
「確認は大事だろう?」
さっきと同じ言い方だった。腹立つ。腹立つのに、少しだけ息が戻る。
ジークムントは窓辺から離れすぎない位置に立っている。近づいてこない。手を伸ばせば届く距離ではない。けれど、声は届く。逃げたいなら逃げられる。話したいなら話せる。
そういう距離を、わざと選んでいる。
「ジーク様は、私が前世でこの世界に似た物語を知っていたことは、もう知っていますよね」
「知っている」
「父さんたちには話しました。……でも、まだ話していないことがあります」
ジークムントは頷いただけだった。続きを促さない。
「何も聞かないんですね」
「君が言うまで待つよ」
「……ずるいです」
「そうだね」
認めた。
この人は本当に、悪びれない。
「私は、君から奪いたいわけではない。少なくとも、今はね」
「今は」
「棘を残した方が、君らしくいられるだろう?」
「……本当に、性格が悪いです」
「知っている」
優しい言葉だけを渡されるより、ずっと呼吸がしやすい。慰められたら、たぶん崩れていた。かわいそうだと言われたら、逃げていた。
ジークムントは、それをしない。
「私には、前世の前に、もう一つ記憶があります」
ジークムントの目が、ほんの少しだけ細くなった。それでも、何も言わない。
「一番最初の名前は、ディアナじゃありませんでした」
喉が痛い。
名前が喉の奥に引っかかっている。刃の形ではない。もっと冷たい。長い間、胸の奥に沈めていた石を持ち上げるみたいだ。出したら、戻せない。
それでも。
「私は」
声が少し掠れた。
足裏に、冷たい石の感触がよみがえった。
違う。
ここは断罪台ではない。離宮の小応接室で、足元は絨毯で、窓からは柔らかい光が差している。白い布の上には、もう小箱も札もない。それなのに、膝が強張った。冷たい。硬い。逃げ場がない。名前を呼ばれて、罪を並べられて、自分ではない誰かが決めた場所へ立たされる。
息が、止まる。
「ディアナ」
ジークムントの声が落ちた。
「座るよ」
「……命令ですか」
「確認を省いただけだ」
ひどい言い方だった。
けれど、伸びてきた手は乱暴ではなかった。背に触れる前に一度止まる。触れる、と告げるような間があってから、ジークムントの手がディアナの背を支えた。
ゆっくり、ソファへ導かれる。
押しつけられたのではない。崩れる前に、足場を作られた。
それが分かるから、余計に悔しい。
「……座るとは言ってません」
「立てていなかった」
「言い方」
「正確だよ」
「腹立ちます」
「それだけ言えれば十分だ」
ディアナはソファへ腰を下ろした。柔らかい。柔らかいはずなのに、まだ足裏の冷たさが消えない。体の奥の方に、あの石が残っている。断罪台の冷たさは、死んでも消えなかったらしい。
嫌な持ち物だ。
盗賊娘の荷物としては、重すぎる。
それでも、息は少し戻った。
ジークムントが何も言わずに待っている。
その沈黙に、押し出されたわけではない。
その沈黙があったから、声にできた。
「私は、イレーネ・ブラディ・マルチェントでした」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
ジークムントは、すぐには何も言わなかった。驚いていないわけではないと思う。けれど、その驚きをこちらへ投げつけてこない。ただ、受け取っている。
白い布の皺が、まだ机の上に残っていた。
「今のイレーネ様ではありません。あの人は、あの人です。私のやり直しでも、代わりでもない」
足裏に、冷たい石の感触が残っている。
「物語の言い方をするなら、悪役令嬢です。ヒロインの邪魔者で、婚約者を奪われて、最後には断罪される役」
悪役令嬢。その言葉だけが、前世の記憶から剥がれずに残っている。
「私は断罪されました。人前で。罪を並べられて、悪女として立たされて、最後は処刑されました」
短くした。それ以上、飾れなかった。
ジークムントは、まだ黙っていた。
窓の外の葉擦れだけが、妙に遠く聞こえる。
「だから、今のイレーネ様を、あそこへ行かせたくありません。あの人は私じゃない。でも、あそこへ運ばれる痛みを、私は知っています。見ていられないんです。助けたい。私のためでもあるかもしれない。でも、それだけじゃない。あの人を、ちゃんとあの人として、あの場所から盗み出したい」
言い切った瞬間、喉の奥が痛くなった。
ジークムントは、そこでようやく口を開いた。
「君をそこへ落としたものが、まだ残っているわけだ」
低い声だった。
ディアナは息を止めた。
欲しかった言葉ではない。
けれど、たぶん、欲しかった。
つらかったね、ではない。怖かったね、でもない。かわいそうに、でもない。
そこへ落としたもの。
ジークムントは、ディアナの痛みをディアナの弱さにしなかった。昔のイレーネの愚かさにも、可哀想な過去にも、綺麗な傷にも変えなかった。
そこへ落としたものがある。まだ残っている。だから壊す。
その言葉の向きが、まっすぐだった。
息を吸おうとして、失敗した。
「ディアナ」
ジークムントの声が近づく。
「触れても?」
手を取られるのだと思った。肩か、背中か。崩れそうな体を支えるために、ほんの少し触れるのだと。
「……はい」
そう答えた瞬間、ジークムントが隣へ座った。
近い、と思う間もない。手を取られ、引かれる。強くはない。けれど、いつもの滑らかな誘導とは違った。ほんの少しだけ、乱れていた。
気づいた時には、ジークムントの膝の上だった。
左手の指輪に、ほのかな赤が差す。
痛みの赤ではない。怒りの赤でもない。胸の奥で何かが跳ねたような、淡い色だった。名前をつける前に、その赤はすぐ輪の奥へ沈んで消える。
ディアナ自身が見たかどうかも分からないほどの、一瞬。
けれど、ジークムントは見た。
見たはずなのに、何も言わなかった。いつもなら拾う。からかう。逃げ道を塞ぐような甘い声で、こちらの弱いところへ触れてくる。なのに、何も言わない。
ただ、腕が回った。
強い。
痛くはない。けれど、逃がす気がある力でもなかった。
「ジーク様」
呼んでも、すぐには返事がなかった。
背中に触れた手が、わずかに震えている。
この人が。
いつも余裕で、微笑んで、逃げ道を塞いで、人を盤面に置いて、欲しいものを欲しい形で受け取るために待つことまで覚えたこの人が。
今、言葉をなくしている。
怖い、とは少し違った。
あの夜の膝の上とは違う。あの時は、選べなかった。偽の指輪をはめられて、父たちを握られて、飼い猫みたいに膝へ乗せられて、逃げる道を全部潰されていた。
今日からお前は私のものだ。
低い声を思い出して、背筋が少し震える。
でも、今は違う。
この人は、触れる前に聞いた。
それなのに、抱き締めずにはいられなかった。
「……苦しいです」
そう言うと、腕の力がほんの少しだけ緩んだ。離すためではない。壊さないための隙間だった。
「……ごめん」
低い声だった。
謝られた。
そのことに、ディアナは少しだけ呆然とした。
「謝れるんですね」
「今、それを言う?」
「言います。びっくりしたので」
「君は本当に」
そこで言葉が切れた。
いつもなら続くはずのからかいが、続かなかった。
ジークムントは、ディアナの肩先に額を寄せるように少しだけ俯いた。触れるか触れないかの距離。銀白色の髪が頬の端をかすめる。
「……今は、少し黙っていなさい」
「命令ですか」
「頼みだ」
頼み。
その言葉はずるい。命令なら反発できる。支配なら噛みつける。けれど、頼みと言われると、聞くかどうかを自分で選ばなければならない。
「頼みなら、聞かなくてもいいんですよ」
「知っている」
「……最悪」
「知っている」
その返事があまりにもジークムントで、ディアナは泣きそうなのに、少し笑ってしまった。笑ったせいで、目の奥に溜まっていた熱が一粒だけ落ちた。
泣くつもりはなかった。けれど、一粒だけなら、たぶん盗賊娘の負けにはならない。たぶん。
「君を慰める言葉は、いくつか思いつく」
ジークムントが言った。
「でも、どれも君には似合わない」
「……ひどくないですか」
「君は、かわいそうな令嬢として扱われたいわけではないだろう」
「それは、そうですけど」
「なら、憐れまない」
短い言葉だった。
胸の奥を、まっすぐ突かれる。
「君がイレーネだったことを、私は憐れまない。君が処刑されたことを、綺麗な傷にもしてやらない」
「……」
「君が、私の過去を安っぽいものにするなと怒ったと聞いた」
ディアナは息を止めた。
リリアが謝った日のことだ。ディアナは、ジークムントとリリアの会話を最後まで聞かなかった。だから、何がどこまで伝わったのか知らなかった。
ジークムントの声が、低く続く。
「なら、私も君の過去を安い慰めの形には削らない。君をそこへ落としたものが残っているなら、見る。見つける。使えるものは使う。邪魔なら壊す」
腕はまだ離れない。
言葉だけが、静かに刃を持つ。
「それだけだ」
「それだけ、ですか」
「足りない?」
「足りないというか、物騒です」
「私に穏当な慰めを期待していた?」
「してません」
「賢明だ」
こんな会話をしている場合ではない。ないのに、救われる。自分の痛みを綺麗に包まれないことが、こんなに息をしやすいなんて思わなかった。
「ジーク様」
「何」
「私、復讐にしたいわけじゃありません」
「うん」
「今のイレーネ様を、昔の私の代わりにしたいわけでもないです」
「分かっている」
「でも、たぶん怒っています。昔の自分をそこへ落としたものにも、今のイレーネ様をそこへ運ぼうとしているものにも。リリア様を白い中心に置こうとしているものにも。ジーク様を竜の側へ置こうとするものにも」
言いながら、少しだけ怖くなった。
怒りは汚い。人を救いたい気持ちに混ざっていると、余計に汚く見える。
けれど、ジークムントは笑った。
「いいね」
「いいね?」
「怒りは使える」
「使える」
「綺麗な祈りより、よほど信用できる時がある」
悪役王子の言葉だった。とんでもない。とんでもないのに、救われる。
自分の中の怒りを、汚いから捨てろと言われなかった。優しい子でいろとも、救いたいなら綺麗でいろとも言われなかった。
使える。
そう言われた。
盗賊娘には、その方がずっといい。
「復讐にしたくないなら、そうしなければいい。イレーネ嬢を選ぶなら、その道を作ればいい。怒りも持っていけばいい。邪魔なら、私が使い道を考える」
「怖いこと言ってます」
「私は怖い男だよ」
「知ってます」
「それでも、今ここにいる」
「……います」
言わされた気がする。でも、嘘ではない。
ディアナは今、ここにいる。自分で残った。父たちを先に戻して、ジークムントと二人きりになって、かつての名前を差し出した。
奪われたのではない。差し出した。
その違いが、胸の奥でゆっくり形になる。
「ジーク様は」
ディアナは、上着を掴んだ指に少し力を入れた。
「気持ち悪くないんですか」
「何が」
「私が、前々世で別の人間だったこと。今のイレーネ様と同じ名前だったこと。死んだ記憶を持っていること。前世でこの世界を一度、物語みたいに見ていたこと」
言ってから、自分で痛くなった。
目の前にいる人を見る。その当たり前が痛かった日のことを思い出す。リリアを物語のヒロインとして見てしまったこと。ジークムントを推しの傷ついた王子として見ていたこと。今のイレーネを、自分の痛み越しに見てしまうこと。
全部、綺麗ではない。
「君は、私を隠しキャラとして見ていたんだろう」
「今それ言います?」
「腹立たしいからね」
「怒るところそこですか」
「そこも、だよ」
そこも。
ディアナは黙った。
ジークムントの声が少しだけ低くなる。
「でも、君は今、それを自分で嫌がっている。物語越しに見たことを、なかったことにしていない。なら、気味悪がる理由にはならない」
「……」
「私は、君が見たものを使う。君が知っている物語も、君の後悔も、怒りも、使えるなら使う。けれど、君を物語の残骸として扱う気はない」
腕が少しだけ緩んだ。
離れるのかと思った。
でも、離れない。ディアナが息をしやすい分だけ、隙間を作っただけだった。
「君が何度名前を変えても、今ここにいる君を見間違えるほど、私は優しくないよ」
静かな声だった。
優しくない。
その言い方に、なぜか胸の奥が震えた。
優しいから受け入れるのではない。哀れだから許すのでもない。見間違えない。そう言われた。
ジークムントらしい、ひどくて、傲慢で、救いになる言葉だった。
「……本当に、言い方」
「気に入らなかった?」
「少し、気に入りました」
「それはよかった」
よくない。よくないのに、少し笑ってしまう。
「リュクスたちは知っているんだね」
「はい」
「なら、君はもう一人でそれを抱えているわけではない」
「……はい」
「いいことだ」
「意外です」
「何が」
「ジーク様は、自分だけが知っている方がいいのかと」
「私は欲張りだけれど、愚かではないよ」
ジークムントの手が、背中でゆっくり止まる。
「君を支える手が多い方が、君は遠くまで盗みに行ける」
「盗みに行く前提なんですね」
「違う?」
「違いません」
「なら、私もその一つに入れておきなさい」
「手、ですか」
「鎖でもいいよ」
「それはちょっと」
「選り好みが多いね」
軽口なのに、軽くない。
ずるい。そんなの、拒みにくい。
「ジーク様」
「何」
「私、イレーネ様を助けたいです」
「うん」
「リリア様も、白い中心に置かれる場所から盗みたい」
「うん」
「クリス様にも、ちゃんとイレーネ様を見ていてほしい」
「彼は見るよ。見られなければ、見える場所まで引きずる」
「言い方」
「必要ならね」
必要ならやる人だ。そこが怖い。でも、今は少し頼もしい。
「それから」
言いかけて、迷った。
ジークムントが待つ。待たれると、言うしかなくなる。
「ジーク様も、竜の側に置かれたままにしたくないです」
腕の力が止まった。
ほんの一瞬。
それだけで、言った言葉の重さを理解した。ディアナは逃げたくなった。今すぐ膝の上から降りて、すみません今のは忘れてくださいと言いたくなった。
けれど、言った。言ってしまった。
忘れてほしくなかった。
「……私まで盗むつもり?」
ジークムントの声は、低かった。
「置かれた場所からなら」
「欲張りだね」
「盗賊なので」
「それは困った」
困った、という声ではなかった。
近い。近すぎる。膝の上にいるせいで、ジークムントが笑ったのかどうかは見えない。けれど、声の奥に何かが揺れた。からかいでも、支配でも、盤面を読む冷静さでもないもの。
ディアナは、それ以上見てはいけない気がした。
見たら戻れない。
もうだいぶ戻れない気もする。
「ディアナ」
名前を呼ばれた。
低く、近く。
「はい」
「君が今言ったことを、忘れる気はないよ」
「……忘れてくださいと言ったら?」
「断る」
「ですよね」
「うん」
でしょうね。
この人は、欲しいものを欲しい形で受け取るために待つ人だ。そして、受け取ったものは返さない。
最悪だ。
最悪なのに。
「ジーク様」
「何」
「そろそろ降りても」
「……そうだね」
ほんの少し間があった。
その間に、また胸が鳴る。
ジークムントの腕が緩む。今度は離すための隙間だった。ディアナは膝の上から降りた。自分で。ソファの隣へ座り直す。空気が入る。距離が戻る。呼吸を思い出す。
けれど、離れた後の方が落ち着かない。
ジークムントの手が、ディアナの左手へ伸びかけた。
そこで止まる。
触れない。
彼は、指輪ではなくディアナを見ていた。
「君がそこまで痛む理由を、私は知った」
「……はい」
「でも、全部ではない」
「全部話したつもりです」
「違うよ」
ジークムントの声は静かだった。
「痛みの形を知っただけだ。君がそれをどう抱えてきたのか、どこで笑って、どこで怒って、どこで諦めなかったのかは、まだ知らない」
「そんなことまで知る必要ありますか」
「ある」
即答だった。
ディアナは言葉を失った。
ジークムントは、微笑まなかった。ただ、見ている。盗賊娘でも、前々世のイレーネでも、前世で物語を知っていた誰かでもなく、その全部を抱えたディアナを見ている。
「私は、君をそこへ落としたものを壊す」
ジークムントは言った。
「だが、君を壊したいわけではない」
「……」
「次からは、もう少し上手く話しなさい。君が壊れる前に」
「命令ですか」
「願いにしておく」
「願いが多いです」
「君が聞いてくれるからね」
「聞くとは言ってません」
「聞かなかったら、別の手を考える」
「最悪」
「知っている」
もう、何度目か分からない。でも、そのやり取りがなかったら、たぶん立っていられなかった。
ディアナは深く息を吸った。
胸の奥に沈めていた名前は、もうそこにはない。差し出してしまった。戻せない。けれど、奪われたのではない。
それだけで、重さが少し変わる。
ジークムントは、受け取った。
慰めず、憐れまず、綺麗な傷にせず。
怒りの向きを、断罪の舞台へ向けて。
「ジーク様」
「何」
「明日から、何を盗りますか」
「君は本当に切り替えが早いね」
「切り替えないと、たぶん崩れます」
「正直でよろしい」
ジークムントはようやく、いつもの微笑みに近いものを戻した。
「まずはマルチェント家の記録だ。表から出るものと、出ないものを分ける。出ないものは盗る」
「分かりやすい」
「次に、女神祭の席順と進行表。リリア嬢とイレーネ嬢を近づける配置があるなら、そこを崩す」
「クリス様は」
「孤立させられる前に、使える場所へ置く」
「使う」
「彼には彼の役目がある。もちろん、本人の意思で動いてもらうよ」
「ジーク様が言うと、本当に本人の意思か不安になります」
「失礼だね」
「日頃の行いです」
「否定しにくい」
少しだけ笑えた。笑えたことに、自分で驚く。
かつての名前を差し出した後でも、笑える。盗みの話ができる。ジークムントに腹を立てられる。
ディアナは、まだディアナだった。
「ジーク様」
「うん」
「待つの、上手くなりましたね」
「褒めている?」
「たぶん」
「なら、受け取っておく」
ジークムントは少しだけ目を細めた。
「君が私を見るようになるなら、待つ価値はある」
「そういうところです」
「どこ?」
「最悪なところ」
「知っている」
ディアナは今度こそ、ちゃんと笑った。
泣いた後の笑いだから、たぶんひどい。けれど、ジークムントはそこには触れなかった。代わりに、机の上に残った白い布を指先で軽く押さえた。
押収品の跡が残っている白い布。
そこにはもう何もない。
それでも、跡はある。
「ディアナ」
「はい」
「次に盗るのは、記録だけではないよ」
「分かっています」
ディアナは頷いた。
マルチェント家の古い記録。女神祭の進行。リリアとイレーネを並べるための席順。クリスを孤立させる手。ジークムントを竜の側へ置く噂。断罪の舞台を作るための、全部。
盗るものは多い。
けれど、一番大事なものはもう決まっている。
「イレーネ様を、悪役令嬢の場所から盗みます」
ジークムントが頷いた。
「そして、君もそこへ戻さない」
胸が、また強く鳴った。
ディアナはすぐに返事ができなかった。ジークムントはそれ以上、言葉を足さない。
足さないから、余計に残る。
ずるい。
本当に、ずるい。
「……共犯なので」
「うん」
「最後まで働いてもらいます」
「望むところだよ」
その夜、ディアナは初めて、ジークムントにかつての名前を渡した。
奪われたのではない。
差し出した。
受け取った男は、慰めず、憐れまず、ただその名前ごと、断罪の舞台を壊す場所へ置いた。
だからディアナは、もう一度息を吸った。
イレーネ・ブラディ・マルチェントだった自分。前世で物語を見ていた自分。今、ジークムントの前に座っている盗賊娘の自分。
どれも捨てない。どれも、置いていかない。
全部持って、盗みに行く。
今度こそ、断罪の舞台そのものを。




