第四十二話 マルチェント家の古い役目
封じられた白い小箱は、離宮の小応接室へ運ばれても、まだ白かった。
白い布の上に置かれた箱。外された飾り紐。月桂の葉が二枚。粉を採った小さな硝子瓶。折れた白花の髪飾り。香の染みた布。そして、銀の挟みに押さえられた札。
清らかな祈りに、古い誓約の影が差しませんように。
字は綺麗だった。綺麗すぎて、もう嫌になる。綺麗な字で人の名前を汚すな、と思う。思ったところで、胸の奥がまた熱を持つ。
ディアナは左手を握らないようにした。握ると、そこを見られる。見られると、また何かを拾われる。
すでに拾われている気はする。
それでも、ジークムントは追ってこなかった。
それが、少しだけ余計に怖い。
「広間での続きを、聞くつもりはないよ」
不意に、ジークムントが言った。
ディアナは息を止めた。小箱を見ていたはずなのに、視線だけが勝手にジークムントへ動く。銀白色の髪が窓から差す光を拾って、細い金の気配を一瞬だけ混ぜた。
「……聞かないんですか」
「君が言うまで待つよ。奪った答えでは、君は私を見ないだろうからね」
甘い。
甘いのに、逃がす声ではなかった。欲しいものを、欲しい形で受け取るために、今は手を出さないと決めている声だった。
怖い人だ。
怖いのに、こういうところだけ、覚えている。
「意外そうだね」
「……少し」
「私も意外だ」
ジークムントは、封じられた白い小箱へ視線を落とした。
「けれど、今見るべきものは君の答えではない。箱と札と、マルチェントの名を使った者の手だ」
「はい」
ディアナは息を吸った。胸の奥に残っている赤い熱は消えない。けれど、今ここでそれに飲まれている場合ではない。
仕事だ。
盗賊娘は、震えていても見る。
小応接室には、ジークムント、サディアス、ディアナ、リュクス、カイル、ミロ、ガロ、バルド、ダンテがいる。押収品は白い布の上に分けて置かれ、サディアスがすでに簡単な記録を作っていた。
準備がいい。やっぱり王子側近は怖い。
「粉は白花を汚すためのものです。香は白花施療院の甘香に近い。殺すためではない。場を壊すためのものです」
サディアスが、香の染みた布を指した。
「リリア嬢が箱を開けて、手に粉がついて、白花を汚して、香でふらつく」
ジークムントが穏やかに言った。
「綺麗な絵になるね」
「言い方」
「違う?」
「違わないから嫌なんです」
リュクスが低く舌打ちした。
「綺麗な場所でやるから、汚れが目立つってわけか」
「そういうことだろうね」
ジークムントの声は静かだった。怒っていないわけではない。ただ、怒りをそのまま出すより先に、盤面へ置いている。
バルドが香布へ顔を近づけすぎない距離で止まり、眉間に皺を寄せる。
「強く嗅ぐなよ。人を治す匂いじゃねえ。場所の空気を作る匂いだ」
「空気を作る」
「祈りの場に置けば、ありがたい匂いに思わせられる。騒ぎが起きれば、不吉な匂いにもなる。便利だな。腹立つくらいに」
場所の空気を作る匂い。
白い広間。白い花。祈り札。リリア。イレーネの名。古い誓約。
全部、置かれていた。
誰かが、きれいに並べた。
「紙はどうだ」
リュクスがガロを見る。
ガロは札の端をじっと見ていた。指先で触れず、目だけで追う。
「上等すぎる。王妃宮へ運ぶものとしては不自然じゃないが、マルチェント侯爵家の正式な紙とは違う。端の切り方も、家で保管する文書じゃなくて、写しを作る時の紙に近い」
「つまり?」
「昔の文言を、別の紙へ写した可能性がある」
写し。
ディアナの背中に、冷たいものが落ちた。
作り話ではない。誰かの頭で今作っただけの言葉でもない。古い何かから引き写された言葉。そう思うと、札の綺麗な字が急に閉じた扉の隙間に見えてくる。
「古い誓約の影」
カイルが静かに言った。
「クリス様とイレーネ様の婚約をそう呼ばせたいだけなら、もっと分かりやすい言い方をするはずだ」
「うん」
ジークムントが頷いた。
「この札は、社交の嫌がらせとしては少し古い」
「古い、ですか」
「言葉の置き方だね。今の王妃宮や慈善会の婦人たちに響かせるには、やや回りくどい。それでも効くのは、場が勝手に意味を補うからだ」
ジークムントの視線が、月桂の葉へ落ちる。
「月桂の葉が二枚。白花の印。古い誓約。マルチェント侯爵令嬢の名。さて、これは誰の言葉かな」
「黒幕の言葉じゃないんですか」
「黒幕の言葉でもある。けれど、もっと前からある言葉を借りている気がする」
もっと前。
ディアナは唇を結んだ。
もっと前。前世のゲームより前。この国の神話より奥。女神と古代竜と旅人と、何度も形を変えて語られてきたもの。
嫌な予感がする。
嫌な予感はだいたい当たる。盗賊娘の勘は、嬉しくない方向にだけ優秀だ。
「盗賊の目で読めるものは、だいたい読んだ」
ジークムントが言った。
「ここから先は、古い家の目がいる」
「古い家の目?」
ミロが首を傾げた。
その時、小応接室の扉が叩かれた。
サディアスが扉へ向かう。開かれた先に立っていたのは、アディンセル子爵だった。落ち着いた色の上着。年齢を重ねた背筋。穏やかな顔。けれど目だけは、紙や印や人の沈黙を読み慣れた貴族のものをしている。
おじいちゃん。
そう呼びかけそうになって、ディアナは喉の奥で止めた。
ここは小応接室で、白い小箱が置かれていて、古い誓約の話をしている場所だ。
「お呼びいただき、参りました」
アディンセル子爵はジークムントへ礼を取った。
「急に呼び立ててすまないね」
「殿下が急に呼ぶ時は、たいてい急いだ方がよい話です」
「賢明だ」
ジークムントがわずかに笑う。
アディンセル子爵は、白い布の上へ視線を移した。小箱。紐。粉の瓶。折れた髪飾り。香布。札。そして月桂の葉。
その目が、月桂の葉の上で止まる。
「……二枚か」
「何か分かる?」
「今の社交で月桂といえば、勝利、栄誉、祝意。多くはその程度に受け取るでしょう」
アディンセル子爵は、ゆっくり近づいた。
「だが、この重ね方は少し古い。片方が上向き、片方が伏せてある。祝意ではなく、見届けの置き方です」
「見届け」
「誓約の証人を立てる時に使われた形に近い。古い家の婚約文書や、祭礼の記録で見ることがあります」
ディアナは月桂の葉を見た。
同じ葉が二枚。ただ綺麗に重ねられているようにしか見えなかった。それが、見届け。証人。誓約。
知らないものが、急に意味を持つ。
それが怖い。
「清らかな祈りに、古い誓約の影が差しませんように」
アディンセル子爵が、札の文字を静かに読んだ。
「この文は、今の茶会や慈善会の言い回しではありません。礼拝文を真似ている。しかも、かなり古い型です」
「心当たりがあるんだね」
「断言はできません」
アディンセル子爵は、すぐには頷かなかった。
その慎重さが、逆に重い。
「この国の子どもでも知っている話だ。古代竜、女神、妖精、旅人。祭礼では、そう語られる」
「……はい」
ディアナは小さく頷いた。
知っている。
知っているはずの話だ。
それなのに、白い布の上に置かれた月桂の葉と札のせいで、ただの神話には見えなくなっている。
アディンセル子爵は、月桂の葉を見た。
「古い家の記録では、その“妖精の役”に近いものが、いくつかの家へ割り振られている。旅人の道を開く。女神の祈りを竜の影から守る。森の加護、精霊の手、妖精の助け。呼び名は時代で変わる。だが、表向きはどれも名誉だ」
「表向きは」
ジークムントが言う。
「その通りです」
アディンセル子爵の声は穏やかだった。
「だが、古い文書は時に残酷です。名誉と書かれたものが、本人たちにとって名誉だったとは限らない。家に残された役目は、祝福よりも命令に近いことがある」
家に残された役目。
その言葉が、ディアナの胸を強く打った。
役目。
役割。
その言葉は嫌いだ。人に貼られる札みたいだからだ。リリアへ白い中心を押しつけるもの。イレーネを悪役令嬢の場所へ運ぼうとするもの。ジークムントを古代竜の血だと囁いて、悪いものの側へ置こうとするもの。
そして、かつての自分を断罪台へ運んだもの。
そこまで考えて、息が詰まった。
「ディアナ」
リュクスの声がした。
ディアナは顔を上げる。
父が見ていた。心配と怒りと、今すぐどこかの誰かを殴りたい気配を全部押さえた顔で。
「座るか」
「座らない」
「そうかよ」
それだけ言って、リュクスはそれ以上聞かなかった。
ありがたい。
聞かれたら、たぶん少し崩れる。
アディンセル子爵も、ディアナを見た。けれど、問い詰める目ではなかった。
「苦しいなら、下がってよい」
「聞きます」
短い返事だった。
おじいちゃんは、それ以上は言わなかった。ただ、ディアナの声を受け取るように一度だけ頷き、白い布の上へ視線を戻す。
逃げるなら止めない。
けれど、聞くと決めたのなら、目を逸らすな。
そう言われた気がした。
血筋ではない。家に残された役目。
ディアナはその言葉を、胸の奥で何度も噛んだ。
「マルチェント侯爵家は、その祭礼文と関係があるのか」
カイルが尋ねた。
アディンセル子爵は、少しだけ目を伏せた。
「古い家には、表の系譜とは別の記録が残る。祭礼、誓約、誰がどの役を担ったか。そういうものだ。マルチェント家は、王家の古い祭礼に近い場で名が出る」
ふいに、あの日の子どもたちの声が耳の奥でよみがえった。
『古代竜は、女神様を枯れた土地に閉じ込めました!』
『妖精たちは、旅人様にお願いしました!』
『旅人様は剣で竜をやっつけて、女神様を助けました!』
薄い紙の竜。黒い墨で描かれた角と翼。石畳に置かれた竜を、子どもが木の枝で叩いていた。
あの時は、ただ気味が悪いと思った。
今は、その気味の悪さに名前がつき始めている。
「妖精の役、ですか」
ディアナの声が、自分でも驚くほど低く出た。
アディンセル子爵は、すぐには答えなかった。
「近いもの、と言うべきだろう。断じるには記録が足りない。だが、女神の祈りを守る側、旅人の道を整える側。そのいずれかに名を残している可能性はある」
可能性。
それだけなのに、重い。
ディアナは、左手の指を動かした。指輪は今、何の色も見せていない。けれど、輪郭だけが硬くそこにある。
命令。役目。誓約。古い家。女神。竜。旅人。妖精。マルチェント。
悪役令嬢。
言葉が、嫌な形で並び始める。
イレーネが悪役令嬢にされるのは、ただ社交界で嫌われるからではないのかもしれない。クリス様の婚約者だからでも、リリアの邪魔者だからでも、それだけではないのかもしれない。
マルチェントの名そのものが、古い物語の中で何かを背負わされている。
だとしたら。
前々世の自分は。
そこまで考えて、胸の奥がひゅっと縮んだ。
冷たい石。
白い視線。
聞き慣れた名が、罪の形に変わっていく音。
自分ではない誰かが決めた話の中で、立つ場所だけがもう決まっている感覚。
やめて。
今は、まだ。
「ディアナ」
今度はジークムントだった。
声は低い。近すぎない。けれど、聞き逃せない。
「息」
「……しています」
「浅い」
ひどい。
見ている。
けれど、聞かない。
さっきの言葉通り、ジークムントはディアナの中身を奪いに来ない。ただ、崩れないように外側だけを押さえている。
それが余計に、胸にくる。
ディアナは息を吸った。深く。少しだけ苦しい。けれど、吸える。
「大丈夫です」
「そう」
「続けてください」
ジークムントの目が、ほんの少し細くなった。
けれど彼は、問い詰めなかった。
「アディンセル子爵。つまり、この札はクリスとイレーネ嬢の婚約だけを刺しているわけではない」
「そう見ます」
アディンセル子爵は頷いた。
「古い誓約の影、という言葉は、今の婚約を影と呼ぶだけなら大げさです。むしろ、マルチェント家に残る古い役目を、現在の婚約へ重ねようとしている。リリア嬢を清らかな祈りの中心に置き、マルチェント侯爵令嬢をその影に置く。そういう言葉です」
「イレーネ様を、最初から影の側へ置くための札」
ディアナは言った。
声が震えなかったことに、少しだけ驚いた。
「そうだね」
ジークムントが静かに返す。
「そして影は、光が強いほど濃くなる」
「リリア様を白い中心に置けば置くほど、イレーネ様の影が濃くなる」
「だから、白い中心を作る者と、影を作る者は同じ盤面にいる」
ジークムントの言葉に、小応接室が沈んだ。
白い中心。
リリア。
影。
イレーネ。
それは、前世のゲームで見た構図とあまりにも近い。けれど今はゲーム画面ではない。現実の紙、現実の香、現実の粉、現実の白い花、現実の女の子たちがそこにいる。
リリアは、自分の言葉で拒んだ。
イレーネは、まだ知らない場所で名前を使われている。
どちらも、勝手に置かれている。
「胸糞悪いな」
リュクスが言った。
遠慮がない。
でも、今はその遠慮のなさが救いだった。
「家だの誓約だの言って、娘一人を影に置くのか」
「一人では済まないよ」
ジークムントの声は穏やかだった。
「リリア嬢も置かれている。イレーネ嬢も置かれている。クリスも、おそらくね」
「殿下も、ですか」
カイルが言った。
小応接室が一瞬、静かになる。
ジークムントは笑った。
「どうだろう。私を置くなら、もう少し丁寧に置いてほしいものだね」
「置かれたままになる気はないくせに」
「当然だよ」
その当然が、ジークムントだった。
置かれた場所を壊す人。役目を手札に変える人。悪だと言われた血さえ、盤面へ乗せる人。
だから怖い。
だから、今は頼もしい。
「マルチェント家の記録を見たい」
ジークムントが言った。
「侯爵家の正式な記録。婚約文書。祭礼に関わる古い写し。王家側に残っている分も確認する」
「簡単には出ないでしょう」
サディアスが言う。
「だから、出させる」
「表からですか」
「表からも。裏からも」
そこで全員の視線が、なぜかディアナと盗賊団へ向いた。
「なぜこちらを見るんですか」
「盗賊娘なので」
「ジーク様が言うと腹立ちますね」
「事実だよ」
「事実だから腹立つんです」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
けれど、白い布の上の札は緩まない。月桂の葉も、粉の瓶も、折れた髪飾りも、そこにある。小さな断罪未遂の形をしたまま。
アディンセル子爵が、静かにディアナを見た。
「ディアナ」
「はい」
「お前は、マルチェント侯爵令嬢を守りたいのだな」
「はい」
そこは迷わない。
「覚えておけ。古い家の名は、本人より先に歩く」
「本人より先に」
「ああ。本人が何を言うかなど、待ってはくれない。祝福も、罪も、役目も、家名に貼りついたまま先を歩く」
ディアナは喉の奥をきゅっと締めた。
イレーネが何を言う前に、マルチェントの名が意味を持つ。
前々世の自分が何を言う前に、悪役令嬢の場所が用意されていたように。
「その名を守りたいなら、本人だけを守っても足りん。名に貼りついた古い意味を剥がさねばならない」
「剥がす」
盗む、ではなく。
剥がす。
けれど、少し似ている。
誰かが勝手に貼ったものを、指先で探って、隙間を見つけて、破かずに剥がす。盗賊の仕事に似ている。鍵を壊すより難しい。力任せでは失敗する。
「そのために、古い記録がいるんですね」
「そうだ」
アディンセル子爵は頷いた。
「そして、古い記録を見るなら、お前は苦しくなるかもしれない」
「……どうして、そう思うんですか」
問い返してから、しまったと思った。
おじいちゃんは、すぐには答えなかった。かわりに、ディアナの顔を見た。白い小箱ではなく、左手でもなく、ただディアナを見た。
「お前は、マルチェントの名が傷つく時、ただ心配している顔をしない」
息が止まりかける。
ジークムントは何も言わなかった。
リュクスも、カイルも、ミロも、誰も口を挟まない。
おじいちゃんは続けた。
「知っている者の顔をしている」
「……」
「今ここで答えなくてよい。だが、自分の顔が何を語っているかは、覚えておけ」
その言い方に、胸が痛んだ。
ジークムントと同じだ。
聞かない。奪わない。
でも、見ていないふりはしない。
逃げ道を完全に塞がれるより、ずっと苦しい。自分で選べる場所を残されると、逃げるか進むか、自分で決めなければならない。
ディアナは、ゆっくり息を吸った。
「ありがとう」
「礼を言うところではない」
「でも、言う」
おじいちゃんの目が少しだけ柔らかくなった。
「そういうところは、マデリーナに似ている」
「母さんに?」
「ああ。苦しい時ほど、礼を言うところが」
「……それ、いいところ?」
「扱いにくいところだ」
リュクスが小さく噴き出した。
「分かる」
「父さん」
「似てるぞ」
「今それ言う場面?」
「言う場面だろ。お前、ちょっと顔が死んでた」
「死んでない」
「死んでた」
「盗賊娘は簡単に死なない」
「そうだな」
短いやり取りなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
ジークムントがそれを見ていた。見ているだけだった。
けれど、ディアナはなぜか、その視線を嫌だと思わなかった。以前なら、また何かを拾われたと思ったはずだ。今も拾われている気はする。けれど、それをすぐに奪いに来ないと分かっているだけで、少し息ができた。
少しだけ。
本当に、少しだけ。
「方針を決めよう」
ジークムントが言った。
空気が仕事へ戻る。
「一つ。押収品は警衛騎士団側で保管し、王妃宮の記録にも残す。ただし、広くは流さない」
「流せば、イレーネ様の疑いも広がるからですね」
「そう。二つ。白花施療院、慈善会、王妃宮の運び手を追う。これはサディアスと盗賊団」
「おう」
「三つ。マルチェント侯爵家の正式記録と、王家側の祭礼記録を確認する。これは私とアディンセル子爵で表から動く」
「表から、ですか」
「もちろん裏からも動くよ。表だけで足りるなら、君たちは今ここにいない」
その通りすぎて、言い返せない。
「四つ」
ジークムントの視線が、ディアナへ戻った。
「ディアナは、次にイレーネ嬢と会う準備をしておく」
「イレーネ様と」
「彼女本人に、罠の全てを伝えるわけにはいかない。けれど、何も知らせずに置けば、次はもっと大きく来る。君なら、どこまで言えば彼女が立てるか見られるだろう」
「私が、ですか」
「君は彼女を見る目だけは信用できる」
だけ。
だけって言った。
でも、今はそこに引っかかっている場合ではない。
「……分かりました」
ディアナは頷いた。
イレーネに会う。
何を言う。どこまで伝える。彼女を不安にさせすぎず、けれど何も知らないまま舞台に立たせないために。
難しい。
でも、やる。
イレーネを悪役令嬢の場所へ運ばせないために。
「ディアナ」
ジークムントが、少しだけ声を低くした。
「はい」
「君が言わないことを、私はまだ聞かない」
まだ。
そこにちゃんと棘がある。
「けれど、次に触れる記録は、君が痛む場所に近いかもしれない」
「……はい」
「下がるなら、今だよ」
「下がりません」
返事は、考えるより先に出た。
ジークムントの唇が、わずかに動く。笑ったのかどうか分からないくらいの変化だった。
「だろうね」
「分かっていて聞きましたね」
「確認は大事だ」
腹立つ。
でも、嫌ではなかった。
ディアナは白い布の上を見た。月桂の葉。壊れた髪飾り。古い誓約の影。
かつての断罪は、ただ一人の令嬢が悪女にされた事件ではなかったのかもしれない。家の名。古い役目。女神を中心に置くための影。旅人の道を開くもの。白い祈りのそばで、誰かを影にする仕組み。
その中に、マルチェントの名があったのだとしたら。
前々世の自分が断罪された理由は、自分が悪役令嬢だったからだけではない。
そこに、立たされたのかもしれない。
自分で選んだ覚えのない場所へ。
最初から。
胸の奥で、閉じ込めていたものが軋んだ。
ディアナは左手を握りかけて、やめた。今は、握り潰さない。隠さない。色が出ているわけではない。ただ、指輪の硬い輪郭だけがある。
それでいい。
今はまだ、言えない。
けれど、言わないままでは進めないところまで来ている。
次に盗るものは、古い誓約の記録だと思っていた。
違う。
ディアナが次に差し出さなければならないのは、盗品ではない。
胸の奥に沈めてきた、かつての名前だった。




