第四十一話 盗賊娘、贈り物の罠を見る
白い小箱は、まだ開いていない。
だからこそ、嫌だった。
蓋には白花の印。飾り紐の端には月桂の葉が二枚、きれいに重ねられている。札に書かれた文字は、整いすぎていた。
マルチェント侯爵令嬢より、祈り深きリリア様へ。
綺麗な字だ。綺麗な箱だ。綺麗な言葉だ。あまりにも綺麗で、箱の周りだけ空気が作りものめいている。
「触らない」
ジークムントの声が落ちた。
リリアの指先が、小箱の手前で止まる。若い侍女は小箱を持ったまま、どうしていいか分からない顔で周囲を見た。慈善会の婦人たちも一瞬だけ戸惑ったが、すぐにそれぞれ違う反応をした。
リリアを心配するように眉を寄せる者。美しい物語の続きを待つように微笑む者。イレーネの名を聞いて、わずかに目の色を変える者。黙って、王妃宮付きの女官の顔色をうかがう者。
同じ方向を見ているようで、少しずつ違う。
だから余計に、たちが悪い。
「殿下。これは、リリア様への贈り物でございます」
年配の婦人が、やんわりと言った。
「誰からの?」
「マルチェント侯爵令嬢からと……札には」
「札はそう言っているね」
ジークムントは穏やかに返した。穏やかなのに、その一言で広間の温度が少し下がる。
札はそう言っている。
それだけで、送り主も、中身も、意図も信じる者だけが、こういう罠にかかる。
ディアナは左手を握ったまま、小箱を見た。箱を持つ侍女の指先。飾り紐の結び目。札の紙質。蓋の縁。白花の印の線。月桂の葉の重なり方。
盗る前に、見る。
けれど、今は盗るより先に止めなければならない。
「リリア様」
ディアナは、できるだけ声を荒げないようにした。
「その箱、開けないでください」
「ディアナ様……?」
「イレーネ様が本当に贈ったものか、まだ分かりません」
広間の空気が、はっきりと変わった。
今の一言は、綺麗な物語に泥を落とす言葉だったからだ。
白花の前に置かれた少女へ、婚約者のいる侯爵令嬢が贈り物をする。仲直り。慈悲。祈りの輪。そういう美しい絵を待っていた人たちが、いっせいにディアナを見る。
リリアは小箱ではなく、ディアナを見ていた。
「イレーネ様が、ですか」
「はい」
「でも、札には……」
「札は、誰でも結べます」
少し強かったかもしれない。
リリアの肩が、ほんの少し揺れた。責めたかったわけではない。けれど、リリアはもうずっと、何を信じればいいのか分からない場所に置かれている。
ディアナは息を吸い直した。
「リリア様を疑っているわけではありません」
「……はい」
「イレーネ様の名前を、勝手に使われているかもしれないと言っているんです」
リリアの目が揺れた。
その時、箱を持っていた若い侍女が、小箱を長卓へ移そうとした。白い布の上に置くために、ほんの少し腕を伸ばす。その拍子に、飾り紐の端が祈り札のそばの白花をかすめた。
結び目から、細かな粉が落ちる。
白い花の縁が、淡く灰色に滲んだ。
誰かが小さく息をのんだ。
まだ、何も起きていない。花弁の端が少し色を変えただけだ。けれど、それだけで十分だった。白花の前に置かれた少女。マルチェント侯爵令嬢からの贈り物。触れる前に汚れた花。
美しい場は、一瞬で断罪の形を取りかけた。
「まあ……」
「花が」
「まさか、マルチェント侯爵令嬢が」
早い。
あまりにも早い。
まだ箱は開いていない。中身も見ていない。送り主も確かめていない。それなのに、もうイレーネの名前は疑いの中に置かれている。
違う。
その一言だけが、胸の奥で跳ねた。
イレーネは、そんな人ではない。
声に出しかけた言葉を、歯の奥で噛み殺す。叫べば、庇っているように見える。庇えば庇うほど、疑いは形になる。分かっている。分かっているのに、指先が熱い。
白金色の輪に、赤が差した。
細い線だった。輪の縁をなぞるように、血ではなく、熱のような赤が沈む。光ではない。けれど白い広間の中で、その色だけが妙にはっきり見えた。
ジークムントの視線が、ほんの一瞬だけ落ちる。
見られた。
分かっている。分かっていても、左手を握り込むのが遅れた。
「マルチェント侯爵令嬢がそのようなことをなさるとは、私には思えません」
リリアが言った。
小さな声だった。けれど、さっきまでよりも少しだけ芯がある。
ディアナはリリアを見た。
リリアは小箱の前で、唇を結んでいた。怖くないはずがない。自分宛ての贈り物に罠があるかもしれない。周囲はもう、イレーネを疑う方向へ傾きかけている。ここでイレーネを庇えば、自分まで何かに巻き込まれるかもしれない。
それでも、リリアは言った。
「イレーネ様は、きちんとご自分の言葉でお話しになる方です。こういう形で、誰かを困らせるとは……思えません」
慈善会の婦人たちが、少しだけ顔を見合わせた。
まずい、と思った。
リリアの言葉は優しい。けれど、今の場所ではまた奪われる。
「まあ……リリア様は本当にお優しい」
「ご自分が危険な目に遭うかもしれませんのに」
「お相手をかばわれるなんて」
リリアがイレーネを一人の人として見ようとした言葉まで、清らかな慈悲にされる。イレーネへの信頼が、リリアの美談に変えられていく。
ディアナは一歩、前へ出た。
「サディアス様」
サディアスは、すでに動いていた。若い侍女から小箱を奪うのではなく、手に持たせたまま、箱の下へ薄い銀の板を差し入れている。触れずに支えるためのものだろう。視察の名目は、こういう道具を持ち込むためにも便利らしい。
準備がいい。王子側近は怖い。
「箱を卓の上へ。蓋には触れないように」
サディアスが言う。
「は、はい」
侍女の声は震えていた。
震えている。けれど、恐怖の向きが少し違う。
ディアナは侍女の足元を見た。右足に重心が寄っている。小箱を持つ前から緊張していた人間の立ち方だ。自分が罠を仕掛けたというより、渡されたものを運ばされて、途中で後悔し始めた者の足に近い。
黒幕ではない。
たぶん、運ばされた手だ。
小箱が長卓に置かれる。白い布の上で、箱だけが妙に静かだった。花弁の端は、もう少しだけ灰色を濃くしている。
「殿下。開封いたしますか」
「まだ」
ジークムントは短く言った。
深い青灰色の瞳が、広間をゆっくり見る。令嬢たち、婦人たち、侍女たち、窓辺の白花、祈り札、リリア、そしてディアナ。
最後に、小箱へ戻る。
「この箱は、誰が受け取った」
「王妃宮の裏口でございます。白花施療院からの奉納品と一緒に」
「誰から」
「運び手から、としか……」
「名は」
「控えには、マルチェント侯爵家の使いと」
サディアスが視線だけで控えの女官へ確認する。女官は青ざめながら、小さな帳面を差し出した。
ジークムントは帳面を受け取らない。サディアスが受け取り、開く。紙をめくる音だけがやけに大きく聞こえた。
「少なくとも、マルチェント侯爵家が公式に使う名ではありません」
サディアスの声が落ちる。
広間がざわめいた。
「では、偽物……?」
「でも、箱は侯爵家からと」
「やはり、何か事情があるのでは」
事情。
便利な言葉だ。
悪意と言うには早い。誤解と言うには遅い。その間へ、イレーネの名前を落とすための言葉。
ディアナは小箱を見た。
白花の印。月桂の葉。綺麗すぎる札。そして、蓋の縁に残る薄い粉。先ほど落ちたものと同じものだ。
「ジーク様」
「何を見た?」
「蓋の縁です。白い粉が、ほんの少し」
「香か」
「たぶん。花粉に見せているけど、箱に花粉がつく位置じゃありません」
ジークムントの視線が一瞬だけ鋭くなる。
「サディアス」
「はい」
サディアスが小さな硝子瓶を取り出した。瓶の口を蓋の縁へ近づけ、直接触れず、銀の細い匙で粉をわずかにすくい取る。白い粉は瓶の中で薄く濁り、すぐに淡い灰色へ変わった。
「毒ではありません」
「では」
「もっと悪質です。白花を汚すためのものかと」
広間の中で、誰かが息をのむ。
サディアスは続けた。
「水分を含んだ花弁に付けば、色を変えます。先ほど花の縁が変色したのも、おそらく同じ粉です。開封時に手指へ付着すれば、もっと広範囲に移ります」
リリアの顔から血の気が引いた。
白花。
広間の中心には、リリアが先ほど触れていた白花がある。祈り札の横にも、白い花弁。もしリリアが箱を開け、粉のついた手で花に触れたら、白花は汚れる。
祈りの場で、リリア宛ての贈り物が、イレーネの名で届く。その箱を開けた途端、白花が汚れる。中に壊れた祈り具か、侮辱の札でも入っていれば、それだけで話は完成する。
マルチェント侯爵令嬢からの贈り物で、リリア様の祈りの花が汚された。
それだけで十分だ。
ディアナの指が、また熱を持つ。
赤が深くなる。
痛い。
これは怒りだ。怒りのはずだ。イレーネの名前を勝手に使われたことへの怒り。リリアを罠の受け皿にされたことへの怒り。そう思いたいのに、胸の奥でもっと古い場所がきしむ。
白い花。
白い広間。
誰かの視線。
聞き慣れたはずの名が、汚れていく音。
冷たい石の感触。
やめて。
今は、思い出すな。
「ディアナ」
ジークムントの声がした。
低く、近い。
ディアナは瞬きをした。いつの間にか、息が浅くなっていた。左手を握りすぎて、指が痛い。
ジークムントは小箱ではなく、ディアナを見ていた。
「見えているものだけ言えばいい」
「……はい」
その言い方が、少しだけずるかった。
見えていないものまで抱え込むな、と言われた気がした。違うかもしれない。ジークムントはそこまで優しい言葉を選んだわけではないのかもしれない。けれど、今はそう受け取っておく。
ディアナは息を整えた。
「これは、イレーネ様がリリア様を傷つけたように見せるための箱です」
「根拠は」
「札が綺麗すぎます。侯爵家の正式な使いの名も違う。蓋の粉は、箱を開けた後に白花を汚すため。たぶん中身にも、リリア様が傷ついたように見えるものが入っています」
「たとえば」
「壊れた祈り具。白花を踏んだ布。リリア様を侮辱する札。あるいは、香です。リリア様が気分を悪くして倒れれば、もっと話が大きくなる」
「うん」
ジークムントは小さく頷いた。
「開けよう」
広間がまた揺れた。
「殿下、本当に」
「開けなければ、中身は分からない。ただし、リリア嬢には触れさせない。マルチェント侯爵令嬢の名も、この場ではそれ以上汚させない」
この場では。
その言い方に、ディアナは少しだけ息を飲んだ。
完全に守るとは言わない。疑いを消すとも言わない。今ここで、これ以上汚させない。それがジークムントの線引きだった。
サディアスが銀の器具で飾り紐を外す。紐の結び目から、またかすかに白い粉が落ちた。婦人の一人が小さく悲鳴を上げる。
「ご覧の通り、結び目にも粉があります。箱を開ける者の指につくように仕込まれている」
サディアスが淡々と言う。
蓋が持ち上がった。
中に入っていたのは、小さな白花の髪飾りだった。
壊れている。
白い花弁は一部が折れ、中央の飾り石には細い傷が入っていた。添えられた布には、薄く香が染みている。甘すぎない、けれど白花施療院で嗅いだものより少し重い香。
そして、もう一枚の札。
サディアスがそれを銀の挟みで取り上げた。字は、外の札と同じく綺麗だった。
「清らかな祈りに、古い誓約の影が差しませんように」
誰かが息をのんだ。
古い誓約。
それが何を指すのか、ここにいる者たちは考えなくても分かる。
クリスとイレーネの婚約。
古くから続く家同士の誓約。
それを影と呼んでいる。
「まあ……」
「マルチェント侯爵令嬢が、このような」
「リリア様を、古い誓約の邪魔者と……?」
「違います」
今度は、リリアの声だった。
広間が静まる。
リリアは青ざめていた。けれど、視線は下げていない。小箱の中の壊れた髪飾りを見て、それから札を見た。次に、ディアナを見る。
「私は……」
リリアの声は一度、白い広間に消えた。
周囲が続きを待つ。待たれていることに気づいて、リリアの指が震えた。けれど彼女は、震える指を祈り札の上に重ねるようにして、もう一度息を吸った。
「これは、イレーネ様の言葉ではないと思います」
声は大きくない。
けれど、届いた。
「イレーネ様なら、言うべきことを、もっとご自分の言葉でおっしゃると思います」
リリアはそこで少しだけ唇を結んだ。
「だから、これは、イレーネ様からの贈り物ではないと思います」
広間の空気が割れた。
美しい物語は、そこで少しだけ崩れた。
完全に壊れたわけではない。誰かはまだ疑っている。誰かはまだ、リリアの言葉さえ美談へ戻そうとしている。けれど、少なくとも今この場で、イレーネがリリアを傷つけたという形にはならなかった。
ジークムントが静かにリリアを見る。
「リリア嬢」
「はい」
「今の言葉を、この場の記録に残していい?」
「……記録に、ですか」
「そう。君自身の言葉として」
リリアは一瞬、戸惑った。
周囲が見ている。慈善会の婦人たちも、令嬢たちも、侍女たちも。ここで頷けば、リリアは女神の慈悲ではなく、自分の意思でイレーネを庇ったことになる。
リリアは小さく息を吸った。
「はい。残してください」
震えている。
けれど、逃げていない。
「この箱は、イレーネ様からの贈り物ではないと思います。私の名前を使って、イレーネ様を疑わせるためのものです。だから、私はこれを、イレーネ様からの贈り物として受け取りません」
広間のざわめきが、今度こそ形を変えた。
盗り返せたのは、今この場の形だけだ。
黒幕には届いていない。箱を渡した手の奥にいる者も、白花の祈りを誰がどこまで動かしているのかも、まだ見えない。
けれど、型は見えた。
リリアを白い中心に置く。
イレーネの名前で棘を送る。
周囲に疑わせる。
疑いが十分に広がれば、本物の断罪に近づいていく。
本番ではない。
それでも、道順は同じだった。
ディアナは左手を握った。赤は、胸の奥の痛みと一緒に深く沈んでいる。
「サディアス。箱、札、粉、髪飾り、布。すべて押さえて」
「承知しました」
「この場にいた者の名も」
「はい」
「リリア嬢には、別室で休んでもらう。白花の香を少し吸っているかもしれない」
「私は、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、こちらで見る」
ジークムントの言い方に、リリアは少しだけ目を丸くした。それから、静かに頷く。
「……お願いいたします」
婦人たちが不安げに囁き始める。けれど、もう先ほどのような勢いはない。リリア本人が受け取らないと言った。その事実だけは、この場に残る。
ディアナは、少しだけ息を吐いた。
その瞬間だった。
「ディアナ」
ジークムントに名を呼ばれた。
嫌な予感がした。
仕事の確認なら、さっき終わったはずだ。箱も押さえた。リリアも庇えた。イレーネの名前も、少なくともこの場では守れた。
だから、次に来るのは仕事ではない。
ディアナはゆっくり顔を上げた。
ジークムントは、近くにいた。
いつ近づいたのか分からない。白い広間のざわめきから半歩外れた位置。周囲には聞こえないくらいの声で、けれどディアナには逃げ場がない距離。
「君は、イレーネ嬢の名が傷つくと、そうなるんだね」
息が止まった。
ディアナは、とっさに左手を握った。
遅い。
白金色の輪には、まだ赤が差している。
「違います」
「まだ何も聞いていないよ」
ジークムントの声は穏やかだった。穏やかなのに、少しだけ近い。近いのに、優しいとは言い切れない。
「ただ、面白くないと思っただけだ」
「……何がですか」
「君がそこまで痛む理由を、私はまだ知らない」
深い青灰色の瞳が、ディアナの左手ではなく、ディアナ自身を見た。
「そして、その理由が私ではないこともね」
何も言えなかった。
指輪の赤よりも、握り込んだ掌の方が熱い。
ジークムントはそれ以上、追わなかった。追わないことが、かえって逃げ道を残されているようで、息苦しい。
広間の向こうでは、サディアスが白い小箱を封じている。リリアが侍女に付き添われ、別室へ向かう。慈善会の婦人たちはまだ囁いている。イレーネの名前は、完全には綺麗になっていない。
罠は潰した。
けれど、道は塞げていない。
誰かが、イレーネを悪役令嬢の場所へ運ぶための道を、もう一度敷こうとしている。
ディアナは左手を握ったまま、息を吸った。
握り込んだ左手の奥で、赤だけがまだ、熱を持っていた。




