第四十話 リリア、女神役にされる
祈りは、声に出した瞬間から、誰かのものになる。
翌日の午後、ディアナは王妃宮南廊へ続く回廊にいた。白い石床は磨かれ、壁には女神オールトの小さな聖画が等間隔に掛けられている。窓辺には白花が飾られ、甘すぎない香が薄く漂っていた。白花施療院の祈りの間と、王妃宮の茶会場。その間にある廊下だと聞いた瞬間、ディアナはだいたい嫌な予感がした。
名前のついた廊下は、だいたいろくでもない。
「今日は盗るなと言ったよ」
隣を歩くジークムントが、前を向いたまま言った。
「まだ何もしてません」
「考えた」
「考えるだけなら無罪です」
「君の場合、考えた後に手が動く」
「信頼がひどい」
ジークムントは笑っただけだった。銀白色の髪に窓の光が触れ、淡い金の気配が一瞬だけ差す。王妃宮に近い場所だからだろうか。いつもの黒い騎士服が、今日はやけに異物に見えた。白い花、白い壁、白い祈り。その中で、古代竜の血を引くと囁かれる第一王子だけが、影を持ったまま歩いている。
けれど、その影に誰も正面から触れない。触れないくせに、避ける。
すれ違う侍女たちは深く頭を下げた。礼は正しい。けれど、顔を上げるのが少し遅い。目を合わせないための遅さだった。ディアナは見なかったことにした。見なかったことにしただけで、見えていないわけではない。
「昨日の女官たちが言っていた“祈り”ですか」
「そうだね。広めると言うなら、どこで、誰に、どう広めているのかを見る必要がある」
「祈りの見学ですか」
「表向きは」
「表向きって言葉、本当に便利ですね」
「便利なものは使うべきだよ」
最悪だ。正論みたいな顔をした最悪だ。
サディアスが少し前を歩き、王妃宮付きの女官と短く言葉を交わしている。今日はジークムントの視察という形らしい。白花施療院への奉納品、聖務慈善会の活動、王妃宮で広がっている祈りの会。その確認。
表向きは、よく整っている。
整いすぎたものは、盗賊娘にはだいたい怪しい。
回廊の奥から、人の声が聞こえた。控えめな笑い声、布擦れ、祈りの文言をなぞるような低い声。角を曲がると、小さな広間があった。茶会場ほど華やかではない。けれど、窓辺に白花が並べられ、中央の長卓には刺繍入りの布、白い小箱、細い蝋燭、祈り札が置かれている。令嬢たちと侍女、慈善会の婦人たちが集まり、誰かを囲んでいた。
囲まれていた少女が、顔を上げた。
菫色の瞳。
リリアだった。
淡い色のドレスを着て、白い花の飾りを胸元につけている。派手ではない。むしろ控えめだ。けれど、その控えめさごと、周囲が勝手に意味を与えていた。白花の前に立つ菫色の瞳の少女。女神に愛されたと囁かれる少女。そこにいるだけで、周囲が勝手に絵を作る。
ディアナの胸が、少しだけ冷えた。
リリア本人は、困っているように見えた。
「あの、私はまだ、こういうことに慣れていなくて」
リリアが小さく言う。声は柔らかい。人を傷つけないように、できるだけ角を落とした声だった。
周囲の婦人が、うっとりと微笑む。
「まあ、なんてお慎み深いのでしょう」
「ご自分が選ばれた方だなどと、少しも誇らないのね」
「だからこそ、女神様はお目を留められたのではありません?」
違う。
ディアナは、喉の奥でその言葉を飲み込んだ。今のは遠慮だ。誇らないのではなく、置かれた場所が分からなくて戸惑っているだけだ。自分の言葉がどう受け取られるか分からなくて、慎重に言葉を選んでいるだけだ。
けれど、周囲はそれを美談にする。
謙虚。清らか。女神にふさわしい。
言葉が、次々にリリアへかぶせられていく。
「リリア様、こちらの祈り札に一言いただけませんか」
「私が、ですか?」
「ええ。白花施療院の子どもたちへ。あなた様のお言葉なら、きっと励みになります」
「でも、私は……」
リリアの指が、祈り札の前で止まった。その瞬間、周囲の視線が一斉にやわらかくなる。やわらかいのに、逃がさない視線だった。
「ご無理はなさらないで」
「そのお優しい戸惑いだけで、十分でございます」
「清らかな方ほど、ご自分の尊さにはお気づきにならないものですわ」
リリアは一瞬、困ったように笑った。
その笑みが痛い。
断りたいわけではない。誰かの役に立てるなら、きっと何かしたいのだろう。けれど、自分が何として扱われているのか分からない。分からないまま、善意の名前をした手に囲まれている。
昨日、クリスとイレーネの積み上げた時間が義務に折られるのを聞いた。今日は、リリアの戸惑いが女神の謙虚さに折られている。
折る手は、同じだ。
「……少しだけなら」
リリアはそう言って、祈り札へ視線を落とした。婦人たちの表情が明るくなる。誰かが小さく「やはりお優しい」と囁いた。リリアの指先が筆を取る。白い紙の上に、細い文字が置かれていく。
白花の香が、薄く揺れた。
「誰かの痛みが、少しでも軽くなりますように」
リリアがそう書いた時、彼女の目元がほんの少しだけ濡れた。きっと、緊張していたのだと思う。自分の言葉が誰かの役に立つのか分からなくて、けれど傷つけたくなくて、精一杯選んだ言葉だったのだと思う。
だが、隣にいた年若い侍女が息をのんだ。
「女神様の慈悲のよう……」
リリアの手が止まった。
違う、とディアナは思った。
それはリリアの言葉だ。目の前の少女が、精一杯選んだだけの言葉だ。
なのに、もう奪われている。
彼女が悪いわけではない。
それなのに、白花の前に立つだけで、イレーネの立つ場所が少しずつ削られていく。清らかな少女が置かれれば、正しく立ってきた令嬢は古い婚約に縛られた冷たい人になる。戸惑いが謙虚にされれば、落ち着きは頑なさにされる。涙が慈悲にされれば、涙を見せない強さは冷たさにされる。
嫌えたら、楽だった。
そう思ってしまって、ディアナは少しだけ自分が嫌になった。リリアもまた、置かれている。それが分かるから、余計に痛い。
「殿下」
サディアスが低く声をかけた。
広間の中にいた者たちが、ようやくこちらに気づく。空気が一瞬で変わった。慈善会の婦人たちは慌てて礼を取り、侍女たちは白花の小箱を整える。リリアも顔を上げた。
菫色の瞳が、ジークムントを捉える。
ほんの一瞬、広間の音が薄くなった。
白花の前に立つ菫色の少女。窓の光を受ける銀白色の髪の王子。古代竜の血を引くと囁かれる男と、女神に愛されたと囁かれる少女。周囲が息をのむのが分かった。
誰かが、勝手に絵を見ている。
神話の絵だ。
ディアナの胸の奥が、鈍く痛んだ。
リリアの頬に、薄く色が差す。彼女はすぐに目を伏せた。伏せたのに、周囲はそれすら意味にする。
「まあ……」
「なんてお慎ましい……」
やめて。
声に出さない。出したら、リリアを責める言葉に聞こえてしまう。
ジークムントはリリアを見た。見た、と思う。
けれど、周囲が見たがっている絵の中心から、ジークムントの視線だけが外れた。
ディアナの方へ。
「ディアナ」
呼ばれた名前に、息が止まりかける。
広間の白い空気も、周囲の期待も、勝手に作られた神話の絵も。その全部から半歩外すように、ジークムントはディアナを見ていた。
「何を見た?」
低い声だった。
リリアではなく。周囲の期待でもなく。ジークムントは、ディアナが見たものを問うている。そう分かってしまって、ひどく困った。
ここで安心するのは、ずるい。リリアはまだ囲まれている。イレーネはまだ悪い側へ押されている。そんな中で、自分だけ少し息がしやすくなるなんて、ずるい。
でも、息がしやすくなった。
「……リリア様が、置かれていました」
ディアナは小さく答えた。
「誰に」
「祈りの中に。白花の前に。あの方の遠慮も、困っている顔も、勝手に綺麗な意味にされていました」
「うん」
「リリア様は、誰かを押しのけようとしているわけではありません」
「そうだね」
「でも、あの方が綺麗な祈りの中へ置かれるほど、イレーネ様は冷たい場所へ押されます」
言ってから、胸が痛んだ。そこに置かれているだけで誰かが傷つく。それを口にする自分も、少しだけ嫌だった。
ジークムントは責めなかった。慰めもしなかった。ただ、ディアナの答えを受け取るように、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく見たね」
「褒められても、嬉しくないです」
「だろうね」
「ジーク様は、リリア様を見ないんですか」
聞いてしまってから、しまった、と思った。
これは仕事の質問ではない。少なくとも、仕事だけの質問ではない。
ジークムントはすぐには答えなかった。深い青灰色の瞳が、ディアナの目元を一度だけ拾う。逃げたくなる前に、逃げ道を塞がれた気がした。
「見たよ」
「……そうですか」
「けれど、今必要なのは君の目だ」
声は穏やかだった。甘いと言うには、少し冷たい。冷たいと言うには、少し近い。
「私が見れば、盤面になる」
「……」
「君が見ると、人が残る。厄介なほどにね」
その言い方は、ずるい。ずるいのに、反論できなかった。
「そういう言い方、ずるくないですか」
「君が気にするからね」
また、そういう言い方をする。
ディアナは左手を握った。白金色の輪が掌の内側へ硬く当たる。ただ、それだけだ。それだけなのに、なぜか指先まで熱い。
「……仕事中です」
「今日は一回目だね」
「数えないでください」
「効き具合を見ている」
「薬みたいに言わないでください」
ジークムントが小さく笑った。
その笑い声で、ようやく少しだけ足元が戻った。
広間では、リリアが祈り札を書き終えていた。慈善会の婦人が、それを大事そうに受け取る。受け取り方まで、まるで聖遺物みたいだった。
リリアはその様子に困ったように瞬いた。
「そんな、大げさなものでは……」
「ご自分では、そうおっしゃるのですね」
「だからこそ、尊いのですわ」
「王妃様も、きっとお喜びになります」
リリアの言葉が、また奪われる。
ディアナは唇を噛まなかった。
噛む代わりに、見る。
婦人の手。祈り札を挟む白い布。布の端に刺された白花と月桂の葉。昨日の紙片と同じ意匠。小箱の蓋。控えている侍女の袖口。慈善会の婦人が、誰の方を見てから頷いたか。
盗る前に、見る。
リリアを中心へ押し出す手は、優しい顔をしている。
だから余計に、たちが悪い。
「ディアナ様」
不意に呼ばれて、ディアナは顔を上げた。
リリアだった。
周囲が少しざわめく。リリアがこちらへ一歩近づいたからだ。ディアナは反射で姿勢を正した。王城の広間で、祈りの中心に置かれかけている少女に名を呼ばれる。どういう顔をすればいいのか分からない。
だが、リリアの目は、周囲ではなくディアナを見ていた。
「あの……先日は、ありがとうございました」
小さな声だった。
謝罪の時とは違う。誰かに聞かせるための言葉ではない。けれど、周囲はすぐに聞こうとする。空気がこちらへ寄る。
リリアはそれに気づいて、少しだけ肩を硬くした。ディアナは一歩だけ近づいた。
「こちらこそ。祈り札、お疲れ様です」
「私、うまく書けたか分からなくて」
「綺麗な字でした」
「字だけ、ですか?」
言ってから、リリアは少し困ったように笑った。
その笑い方が普通で、ディアナは胸を突かれた。女神ではない。普通の少女だ。緊張して、困って、それでも誰かを傷つけないように笑う、普通の少女。
「言葉も、リリア様のものでした」
リリアの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
言ってから、ディアナは自分でも驚いた。言いすぎたかもしれない。けれど、引っ込める気にはなれなかった。周囲が勝手に女神の慈悲にするなら、せめて一度くらい、本人の言葉だと言っておきたかった。
リリアは、祈り札を持つ婦人の方を見て、それからディアナへ視線を戻した。何かを言おうとして、一度だけ唇を結ぶ。
「……ありがとうございます」
その声は、さっきより少しだけ、リリア本人のものに聞こえた。
けれど、すぐに慈善会の婦人が明るく割って入った。
「まあ、お二人がお話しになるなんて。女神様のお導きかしら」
「リリア様は本当に、どなたにもお優しいのですね」
「祈りの輪が広がっていきますわ」
輪。
その言葉に、ディアナの左手がわずかに強張った。輪は便利だ。人をつなぐと言いながら、逃げ道を狭めることもできる。
リリアの表情がまた少し遠くなる。
その時、広間の入口から若い侍女が駆け寄ってきた。白い小箱を両手で抱えている。蓋には細い飾り紐がかけられ、小さな札が結ばれていた。
「リリア様。こちらを」
「私に、ですか?」
「はい。マルチェント侯爵令嬢からのお品だそうです」
ディアナの息が止まった。
リリアも、少し驚いたように瞬く。
「イレーネ様から……?」
小箱は白く、蓋には白花の印がある。そして飾り紐の端には、月桂の葉が二枚、きれいに重ねられていた。
作られすぎている。
ディアナの指先が、勝手に動きかけた。
隣で、ジークムントの声が低く落ちる。
「触らない」
静かな制止だった。
けれど、その一言だけで、広間の空気が薄く震えた。
リリアが小箱を見つめている。慈善会の婦人たちは、期待に満ちた顔でそれを見ている。イレーネから、白花の前に置かれた少女へ贈り物。きっと、それだけでも美しい話になる。美しい話に見える。
だからこそ、罠の匂いがした。
ディアナは左手を握り込んだ。白金色の輪が掌の内側へ硬く当たる。
イレーネの名前が、勝手に誰かの手の中で使われている。リリアが、勝手に受け取る位置へ置かれている。そして周囲は、もう美しい続きを待っている。
ディアナは、小箱の札を見た。
そこには、きれいな文字でこう書かれていた。
マルチェント侯爵令嬢より、祈り深きリリア様へ。
綺麗すぎる字だった。
ディアナは息を吸った。
盗賊娘は、綺麗すぎるものを信用しない。




