第三十九話 クリス殿下は、イレーネを見る
翌日の午後、ディアナは王城西棟の小書庫へ連れてこられた。
小書庫、と呼ばれているらしい。けれど、盗賊娘の感覚では十分に広い。壁一面に帳簿棚が並び、細い窓から入る光が長机の上へ斜めに落ちている。白花施療院の寄付名簿、茶会の招待控え、慈善会の会計写し。表向きは善意で積まれた紙束が、今日はやけに物騒に見えた。
軽い紙ほど、よく運ばれる。
「今日は盗る日ではないよ」
隣に立つジークムントが、静かに言った。
「見る日だ」
「盗賊に一番向かない仕事をさせますね」
「向いているよ。君は盗る前に、よく見る」
言い返しかけて、やめた。
盗る前に見る。鍵穴、蝶番、見張りの足、荷の重さ、相手の息。盗賊団で叩き込まれたことだ。目の前の人間を見ることも、本当は同じなのかもしれない。
でも、それが一番難しい。
長机の向こうでは、サディアスが名簿を整えていた。今日ここへ来ることになった理由は、白花施療院への寄付名簿の確認だ。茶会で出た噂、王妃宮から白花施療院へ抜けた荷、聖務慈善会の木札。その線を表から確かめるには、名簿の照合という口実がちょうどよかった。
そして、クリスとイレーネは、その確認に呼ばれている。
ディアナは胸の奥を少し押さえたくなった。
見る。
クリスが、イレーネをどう見ているのか。
昨日、ジークムントはそう言った。棘だけではなく、手も見落とすなと。
扉が開いた。
先に入ってきたのはクリスだった。柔らかな金の髪に、いつもの明るい笑み。華やかな社交場にいる時と同じようで、少し違う。今日は人に見せるための笑顔が薄い。代わりに、目だけが静かに机上の紙束を拾っている。
その半歩後ろに、イレーネがいた。
黒絹の髪をきちんと結い、落ち着いた色のドレスを着ている。派手さはない。けれど、どこも崩れていない。背筋、指先、扇の角度、視線の置き方。どれも正しく、隙がない。
隙がない、というより。
隙を見せないようにしている。
イレーネの視線が、一瞬だけディアナへ流れた。
ほんの小さな会釈。
それだけだった。けれど、ディアナには十分だった。胸の奥が少しだけ温かくなる。こちらも慌てて会釈を返す。大きく動いてはいけない。ここは旧訓練棟ではないし、相手は友人である前に、マルチェント侯爵令嬢だ。
でも、目が合った。
それだけで、少し息がしやすくなる。
「兄上。お待たせしました」
「時間通りだよ。むしろ、こちらが少し早く呼びすぎた」
「クリス様が書類を早めに確認したいと仰る時は、大抵、後で人に囲まれるご予定がある時ですもの」
イレーネが静かに言った。
クリスは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「ばれていたか」
「何年、クリス様の予定の乱れを拝見していると思っていらっしゃるのです」
「手厳しいな」
「事実です」
軽い。
会話そのものは、軽い。けれど、初めて交わす軽さではなかった。相手の言葉の受け方、流し方、少しだけ刺し返す角度。どこまでなら踏み込んでいいかを、二人とも知っている。
ディアナは、黙ってそれを見た。
知っていた筋書きの中で、クリスはイレーネを見る人ではなかった。明るく、優しく、誰の心にも入り込む第二王子。やがて別の誰かへ笑いかけるはずの人。
でも、目の前のクリスは、イレーネを見ている。
イレーネも、ただ王子の婚約者として立っているだけではない。
サディアスが名簿を二冊、机の中央へ置いた。
「白花施療院の寄付名簿、直近三年分です。クリス殿下、マルチェント嬢には、茶会で扱われた寄付分と実際の帳簿の差異をご確認いただきます」
「ありがとう。イレーネ、こちらを」
「はい」
二人は長机の同じ側へ並んだ。近すぎない。離れすぎてもいない。婚約者として不自然ではない距離。恋人の甘さはない。けれど、互いの作業範囲を邪魔しない距離を、当たり前のように知っている。
イレーネが名簿を開いた。紙面へ落ちる視線が早い。日付、寄付者名、品目、仲介した慈善会の名前。指先がすっと動き、ある行で止まる。
「こちら、茶会の控えでは『聖務慈善会を通した白花施療院への支援』となっていました。ですが、名簿上では白花施療院ではなく、施療院併設の祈りの間への奉納品扱いです」
「寄付ではなく、奉納」
「はい。品目も薬草ではありません。香布、白花飾り、礼拝用の小箱。医療支援というより、祈りの支度に近いかと」
「善意の名前を着替えさせているわけだね」
クリスの声は軽かった。けれど、目は笑っていない。
イレーネは次の頁をめくる。扇は閉じたまま、机の端に置かれている。その指先が、一度だけ止まった。
本当に一度だけだった。
けれど、クリスは気づいた。
「イレーネ」
「はい」
「早い」
「何がでしょう」
「返事」
イレーネの睫毛がわずかに伏せられた。
ディアナは息を止めた。
それは、たぶん社交の場では誰も拾わない変化だった。イレーネは乱れていない。声も震えていない。姿勢も美しい。けれど、クリスは返事の速さを拾った。
長い時間をかけて、見てきた人の拾い方だった。
「問題ございません」
「本当に問題ない時の君は、まず僕の予定を心配する」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。今日の君は、自分の返事を先に整えている」
クリスはそれ以上、踏み込まなかった。大げさに心配もしない。ただ、イレーネの手元に温かい紅茶のカップを寄せる。
「一口だけ。名簿は逃げない」
「書類は逃げませんが、クリス様のご予定は逃げます」
「ほら。いつもの返事に戻った」
イレーネはわずかに眉を動かした。
「からかわれましたか」
「半分は」
「残りは?」
「安心した」
短い言葉だった。
それ以上、甘い言葉は続かない。クリスは名簿へ視線を戻し、イレーネもカップを一口だけ口元へ運ぶ。人前で寄り添うような空気ではない。けれど、その一口を飲ませるために、クリスがどこまで言えばいいかを知っていることは分かった。
イレーネが無理をしている時、返事が早くなる。
クリスは、それを知っている。
ディアナは、胸の奥がぎゅっと狭くなるのを感じた。
これは、紙片に書けるものではない。
婚約に縛られた古い家の令嬢。
義務で庇う婚約者。
そんな短い言葉に押し込められるものではない。
「この行も同じですね」
イレーネが名簿を指した。
「聖務慈善会を経由して、白花施療院へ。けれど、実際には祈りの間の飾りと香布」
「茶会の寄付報告では?」
「施療院の子どもたちへ、と読まれていました」
「言い方が違う」
「善意を疑うようで、口にしづらい部分ですわ」
「だから使われる」
クリスの指が、次の行で止まる。
「この寄付者名に見覚えは?」
「王妃宮の茶会で、お母様方と親しくされていたご婦人のお名前です。女神奉賛会の卓にもいらっしゃいました」
「君は覚えていると思った」
「記憶力を便利にお使いですのね」
「頼りにしていると言ってほしいな」
「それは、仕事を終えてからにいたします」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
イレーネの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。笑みと呼ぶには淡い。けれど、確かに緩んだ。
クリスはそれを見ていた。
見逃さなかった。
そして、見つけたことを大げさに言わなかった。
その静けさが、ディアナには一番刺さった。
「君が確認してくれると、こういうずれが残らない」
「褒め言葉として受け取ってよろしいのですか」
「もちろん。君は僕より、帳簿の綻びを見逃さない」
「クリス様は、人の心の綻びを拾う方がお得意ですもの」
「褒められている?」
「もちろんです。ただし、忠告も含みます」
「忠告?」
「ご自分の言葉まで軽く扱われる必要はありません」
クリスが、少しだけ黙った。
イレーネの声は落ち着いていた。けれど、その言葉には、ただの礼儀ではないものがあった。クリスが笑って場を丸めることを。軽く言って、自分の本音まで軽く見せてしまうことを。たぶん、イレーネはずっと見ていた。
クリスがイレーネを見ているように。
イレーネも、クリスを見ている。
「忠告は受け取っておくよ」
「受け取るだけでは困ります」
分かりやすく甘いわけではない。
頬を染めるでも、甘く見つめ合うでもない。けれど、積み上げてきたものがある。互いの立場だけではなく、癖を知っている。弱さを隠す方法を知っている。相手がどうやって場に立っているのかを、少しだけ分かっている。
それは、昨日拾った紙片の言葉とはまるで違った。
そんな言葉で片づけるには、この二人の間には積み上がった時間がある。
「よく見ているね」
隣から、ジークムントの声が落ちた。
ディアナはびくりとしそうになって、耐えた。
「見ろと言ったのはジーク様です」
「うん。だから褒めている」
「褒め方が静かすぎて怖いです」
「大きな声で褒めた方がいい?」
「やめてください」
ジークムントは小さく笑った。
その笑い方に、少しだけ意地悪な色が混じる。
「羨ましい?」
「何がですか」
「積み上げた時間」
言葉が、思ったより深く刺さった。
ディアナはすぐには返せなかった。長い婚約者の距離。何年もかけて知った癖。言葉の軽さの奥にあるもの。そういう時間は、盗めない。
盗賊娘でも、盗めないものがある。
「……盗れないものですね」
「そうだね」
「なら、見るしかありません」
「君にしては、ずいぶん大人しい答えだ」
「盗れないものを無理に盗ろうとして失敗したら、父さんに怒られます」
「では、盗る以外の方法を覚えようか」
「何をですか」
「積むこと」
声が、低すぎるわけではなかった。
甘すぎるわけでもない。
それなのに、心臓が変な跳ね方をした。
積む。
時間を。距離を。言葉を。
盗るのとは違う何かを、この人は当たり前みたいに差し出してくる。
考えてはいけない気がした。考えたら負ける。何に負けるのかは分からないが、たぶん今、負けると指先に出る。息にも出る。この人はそういうものを拾う。
ディアナは名簿を見るふりをした。
「……今は仕事中です」
「そうだね」
「仕事中です」
「二回言った」
「自分に言い聞かせています」
ジークムントはそれ以上、追わなかった。
追わなかったのに、逃げ道だけはしっかり塞がれた気がした。
最悪だ。
名簿確認は、それから半刻ほど続いた。
聖務慈善会を経由した寄付のうち、いくつかは施療院の医療費ではなく、祈りの間や茶会の飾りへ流れていた。女神奉賛会の名は表に出たり出なかったりする。王妃宮の侍女筋が関わったと思われる記載もあった。白花の印、月桂の葉、祈りの文言。昨日盗ったものと、今日表に出た名簿が少しずつ重なる。
善意の紙束は、思ったより厚い。
そして、厚い紙束ほど、人を押し潰す時に音がしない。
「今日はここまでにしよう」
ジークムントの一言で、確認は終わった。
クリスは名簿を閉じ、イレーネの方へ向き直った。
「イレーネ。今日はありがとう」
「お役に立てたのであれば」
「立ったよ。とても」
クリスは軽く言わなかった。
イレーネも、それを分かったように目を伏せた。
「……それなら、よかったです」
それだけだった。
それだけなのに、ディアナには十分だった。
小書庫を出る時、イレーネの視線がまたディアナへ向いた。
ほんの一瞬。
ディアナは、思わず小さく手を振ってしまった。
振ってから、しまった、と思う。
ここは王城西棟の小書庫で、目の前にいるのはマルチェント侯爵令嬢で、周囲にはクリスもジークムントもサディアスもいる。友達にまたねとするみたいに手を振っていい場所ではない。
終わった。
ディアナが内心で固まった、その時。
イレーネの目元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。扇を持つ指が小さく動く。それは手を振り返した、というには控えめすぎる仕草だった。
でも、ディアナには分かった。
返してくれた。
胸の奥が、ひどく単純に温かくなる。
よかった。
そう思ってしまった。
「ディアナ」
隣から声が落ちた。
しまった。
「はい」
「今のは?」
「……手が勝手に」
「君の手癖は、よく勝手に動くね」
「今のは盗ってません」
「知っているよ」
ジークムントの声に、笑いが混じる。
ディアナは前を向いたまま答えた。
「仕事中です」
「三回目だ」
「効きが悪いので」
ジークムントは笑っただけだった。
その笑い方が、妙に機嫌よく聞こえたのが腹立たしい。
小書庫を出たクリスとイレーネは、回廊の先を並んで歩いていく。クリスが何かを言う。イレーネが首を振る。クリスが笑う。イレーネが扇で軽く制する。
派手な恋ではない。
けれど、何もないわけではない。
その時、回廊の向こうから二人の女官が歩いてきた。声は小さい。けれど、盗賊娘の耳はこういうものを拾うためにある。
「クリス様、本当にお優しいわね」
「ええ。古い婚約を無下にはできませんもの」
「マルチェント様も、お幸せよね。あそこまで庇っていただけるなんて」
「でも、女神様に愛された方が王城にいらっしゃるなら、いつまでも今のままではいられないでしょう?」
「だから、今のうちに祈りを広めるのだと聞いたわ」
足元が冷えた。
さっき見たものが、もう別の形に折られている。
クリスの言葉が、義務にされる。イレーネの正しさが、古い婚約の鎖にされる。二人の間に積み上がった時間が、都合のいい紙片の文に押し込められる。
違う。
声に出しそうになって、ディアナは唇を噛んだ。
今ここで怒鳴っても、噂は止まらない。女官を責めても、根はそこではない。昨日リュクスが言った通りだ。根を抜くには早い。まずは、どこへ伸びているか盗る。
でも、見た。
棘だけではない。手も。
支える手を見た。
だからこそ、それを棘に変えようとする流れも見えた。
「ディアナ」
ジークムントの声が、すぐ近くで落ちた。
振り返ると、彼はいつの間にか隣に立っていた。銀白色の髪に窓の光が触れ、淡い金の気配が一瞬だけ差す。深い青灰色の瞳は、回廊の向こうではなく、ディアナを見ていた。
「見えた?」
「はい」
「何が」
「クリス様は、義務だけでイレーネ様を庇ったわけじゃありません」
「うん」
「イレーネ様も、庇われるだけの方ではありません」
「そうだね」
ジークムントは満足そうには笑わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「では、次に盗るものも分かるね」
「はい」
ディアナは左手を握った。
指輪は赤くならない。けれど、胸の奥の熱は消えなかった。
「誰が、どこで、クリス様の言葉を義務に折ったのか。それを盗ります」
勝手に義務へ折られる前に。
勝手に悪役と女神の道具へ変えられる前に。
目の前にいる二人が、何を見て、何を選んで、何を言ったのか。
その形を、盗らせないために。
「今度は、こちらが盗ります」
ディアナは回廊の先を見た。
女官たちの小さな声は、もう遠ざかっている。けれど、噂の足音は残っている。
クリスとイレーネが積み上げた時間を、義務の一言で奪わせない。
盗賊娘は、今度こそ、その形を盗らせない。




