第三十八話 盗賊娘、噂の出所を盗む
紙片は、長机の中央に置かれた。
菫色の瞳の少女は、女神に愛された証。
王城はその清らかな方を守るべき。
婚約に縛られた古い家の令嬢が、女神の道を妨げぬよう祈る。
短い文だった。けれど、短いからこそ始末が悪い。誰かの名前はない。命令でもない。祈りの形をしている。だから責められた時には、善意の顔で逃げられる。
最悪だ。
「祈る、ねえ」
ミロが椅子の背にもたれ、紙片を指先で軽く弾いた。
「ずいぶん便利な言葉だな。誰かを邪魔者にしたい時にも使えるんだから」
「紙じゃねえ」
リュクスが低く言った。
長机の周囲で、盗賊団の空気が少し変わる。カイルは黙って紙片を見下ろし、ガロは窓辺で外の足音を拾っていた。ダンテは壁際に立ったまま銃帯の位置を確かめ、バルドは紙片をつまみ上げて匂いを見ている。
ジークムントは椅子に腰を下ろしたまま、穏やかにその光景を眺めていた。サディアスは斜め後ろに控え、茶会名簿と木札を整えている。
「紙が通った手を盗る」
リュクスの指が、紙片の端を叩いた。
「噂を盗るってのは、言ったやつを捕まえることじゃねえ。誰の口を通れば本当らしく聞こえるのか、そこを盗るってことだ」
盗賊団の頭の声だった。
ディアナは紙片の文字を見た。冷たい。可愛げがない。縛る。妨げる。茶会で聞いた言葉と同じ向きに刺さる棘。
自然に広まった陰口なら、もっと汚い。人は好き勝手に悪口を言う。矛盾もするし、個人的な嫉妬も混じる。けれど、これは違う。綺麗に整いすぎている。
誰かが、先に形を作っている。
「バルド、紙は」
「高い紙だ。貴族が手紙に使うほどじゃねえが、安い配り紙でもねえ。匂いは薄い。白花香油そのものじゃないが、同じ系統の甘さが少し残ってる」
「茶会の花の匂いじゃなく?」
「花だけならもっと散る。これは紙に移ってる。保管場所か、包んでた布か、そのへんだな」
「つまり、まとめて同じ場所に置かれていた」
「だろうよ。吸いすぎるなよ。前の甘い香と親戚なら面倒だ」
「親戚」
「匂いの話だ。血縁図を作るな」
少しだけ空気が緩んだ。緩んだだけだ。紙片の文字は消えない。
ミロが懐から木札を二枚出した。
「茶会帰りの女中から拾った。女神奉賛会の卓の近くを片づけてた子だ。中身までは読んでねえ。ただ、白い花の印が入った紙を、盆の下に挟まれてたって言ってた」
「誰に」
「そこはまだ。女中の口ぶりだと、主催の婦人じゃなくて、手伝いに来た侍女筋っぽい」
「王妃宮か」
「近い。断言はまだ」
「断言できるところまで盗る」
リュクスが言うと、ミロはにやりと笑った。
「了解。口の軽いやつから順に撫でてくる」
「撫でるだけにしろ。噛むな」
「俺を何だと思ってんの」
「放っておくと余計な芸をするやつ」
「ひどいなあ、当たってるけど」
ガロが窓辺から離れた。
「茶会の後、王妃宮の裏門から出た馬車が三台。うち一台は女神奉賛会の婦人の紋。もう一台は白花施療院へ寄る道を取った。最後の一台は使用人だけを乗せて西の通用門へ抜けた」
「白花施療院」
ディアナの指先が、紙片の端を押さえる。
線にするにはまだ早い。けれど、見ないふりをするには多すぎる。
「盗るものは決まったね」
ジークムントが静かに言った。
穏やかな声なのに、その場の全員が自然に口を閉じる。
「紙。口。足。見るべきものは、その三つだね」
「殿下、ずいぶん盗賊向きの言い方をするようになったじゃねえか」
リュクスが皮肉を投げる。
ジークムントは涼しい顔で笑った。
「いい教師がいるからね」
「うちの娘を悪い手本にするな」
「悪い手本ほど役に立つ」
最悪な褒め方である。
ディアナは反論しかけて、やめた。今は紙片だ。イレーネへ向かう棘だ。推しの性格の悪さにいちいち反応している場合ではない。
でも腹は立つ。
リュクスが木札を分けた。
「寝かせるな。噂は夜を越すと育つ。育つ前に根を見る」
短い命令に、空気が締まる。
「ミロは口。どの茶会で同じ言い回しが出てるか拾え。ガロは足。王妃宮、白花施療院、女神奉賛会を行き来した馬車と使用人を見ろ」
「バルドは紙と匂い。ダンテは裏手だ。護衛崩れや金で動く連中が噛んでねえか見てこい」
「ディアナは?」
カイルが短く聞いた。
「出る」
リュクスが即答した。
「噂の流れを盗みに行くなら、こいつの手が一番早い。カイル、お前がつけ」
「分かった」
カイルが頷いた瞬間、ジークムントの視線がわずかに動いた。
本当にわずかだった。
けれど、ディアナは気づいた。リュクスも、たぶん気づいた。カイルも一拍だけ黙った。
「護衛だ」
リュクスが先に言った。
「うちの娘は足が速いが、今は指輪つきの見世物でもある。ひとりで出す気はねえ」
「私も、ひとりで出すつもりはないよ」
ジークムントは笑っていた。穏やかで、上品で、逃げ道を塞ぐ笑みだった。
「だから、確認する」
確認。
嫌な予感がした。
「ディアナ」
「はい」
「左手を」
やっぱり嫌な予感は当たった。
旧訓練棟の長机を囲む視線が、一斉にこちらへ集まる。やめてほしい。見ないでほしい。いや、見られているのは顔ではない。手だ。手を見られているだけだ。
それでも十分嫌だ。
「今ですか」
「今だからだよ」
「紙片の話をしていました」
「指輪も今日の証拠だ」
言い方がうまい。
断れない形にしてくる。本当にこの人は逃げ道の消し方がうまい。
ディアナは渋々、左手を差し出した。
ジークムントは当然のようにその手を取った。指先が触れる。熱くはない。けれど冷たくもない。落ち着いた体温が、素肌から伝わってくる。茶会で赤を帯びた指輪の縁に、彼の親指が軽く触れた。
リュクスも、カイルも、ミロもいる。サディアスまで控えている。
分かっているのに、指輪へ触れる親指の動きだけが妙にはっきりした。
「赤は沈んでいるね」
「……確認、終わりましたか」
「まだ」
「何を確認しているんですか」
「色」
さらっと言った。
ディアナは思わず手を引きかけた。けれど、ジークムントの指が離さない。強く押さえつけているわけではないのに、逃げるには少しだけ不自然な力だった。
「あの時は、彼女のために赤くなった」
「その言い方、嫌です」
「では、今はどうだろうね」
ジークムントの親指が、もう一度、指輪の縁をなぞった。
何を試しているのか、分かってしまった。
分かってしまった瞬間、心臓が一つ余計に跳ねる。
白金色の輪は、赤くならなかった。
ならなかった、はずなのに。
触れられたところだけ、熱を覚えた気がした。
「……赤くなりません」
「そうだね」
ジークムントは短く笑った。
残念そうにも、面白がっているようにも聞こえた。
「残念」
「何がですか」
「秘密」
「最悪です」
「知っているよ」
ジークムントはようやく手を離した。
指輪は白金色のままだった。茶会で見た赤はもうない。けれど、指先には彼の親指が触れた感覚だけが残っている。
この人は平然と、別のものまで盗んでいく。
「お嬢」
ミロがにやにやしそうな口元を、わざとらしく手で隠した。
「手、戻ってきた?」
「ミロ」
「はいはい、仕事ね。仕事の話に戻しますよ」
軽口に救われたような、腹が立つような、どちらとも言えない気分になる。
カイルは何も言わなかった。ただ、ディアナの隣に立つ位置を少し変えた。護衛の位置だ。けれど、それだけではない何かも少し混じっている気がした。
リュクスが机を指で叩いた。
「根を抜くな。根まで抜けば、土の下の道が見えなくなる。まずは、どこへ伸びてるか盗る」
「分かった」
ディアナは頷いた。
盗るものは、噂の流れ。
紙片を配った手。言葉をなぞった口。白い花の印を運んだ足。その全部を、目に見える形にする。
日が傾く前に、ディアナたちは王妃宮の外壁沿いへ戻った。
表の庭園は、茶会の華やかさをもう片づけ始めている。花は抜かれ、卓布は畳まれ、茶器は銀の籠へ戻されていた。けれど、本当に見るべきものは、花が飾られていた場所ではない。
花を片づける手。
茶器を運ぶ盆。
使い終えた卓布が集まる洗い場。
馬車へ積まれる木箱。
華やかな茶会の裏側は、驚くほど忙しい。だからこそ、入り込む隙がある。
「お嬢、右の銀籠」
ミロが、通りすがりの下働きへ軽く手を振りながら小さく言った。
「盆の裏に白花の小札。三枚」
「見える」
「左の木箱は女神奉賛会の荷。触るな。近くに侍女が二人」
「了解」
ディアナは使用人用の通路を、何食わぬ顔で歩いた。薄い灰青のドレスは目立つ。目立つが、ジークムントに連れられて茶会へ出た後なら、迷い込んだ客人にも、咎めにくい厄介者にも見える。
見世物にされた立場は腹立たしいが、見世物には見世物の使い道がある。
カイルは少し後ろを歩いている。護衛に見える距離。けれど、ディアナの足が止まればすぐ動ける距離でもある。
茶器を積んだ銀籠が、二人の下働きによって運ばれてきた。
通路は狭い。向こうから侍女が来る。下働きが一瞬だけ足を止める。銀籠が傾く。
そこだった。
ディアナは半歩ずれて、落ちかけた茶匙を拾うふりをした。指先が銀籠の縁を掠める。盆の裏に貼られた白花の小札を一枚剥がし、袖口へ滑り込ませる。
同時に、カイルが自然に体をずらし、下働きの視線を遮った。
「落ちましたよ」
「あ、ありがとうございます」
下働きが慌てて礼を言う。
ディアナは笑って、何も盗んでいない手で茶匙を返した。
盗んだ手は、袖の中にある。
久しぶりに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
やっぱり、盗賊娘は動いている方がいい。
「一枚」
「見事」
カイルが低く言った。
「褒めるの早い」
「今のは褒めるところだろ」
「そうだけど」
褒められると、少し落ち着かない。
ジークムントに褒められるのとは違う。カイルの褒め方は、昔から知っている。足場を踏み外さなかった時、屋根から静かに降りられた時、鍵を音もなく開けた時。そういう時の声だ。
昔から知っている声だった。
それに安心しかけた瞬間、遠くで白い布をかけた木箱が馬車へ積まれるのが見えた。
白花の印。
女神奉賛会の荷ではない。印の形が少し違う。花弁の横に、小さな月桂の葉が二枚添えられている。
「ミロ」
「見えてる。あれ、茶会の卓にあった印と違うな」
「女神奉賛会じゃない?」
「少なくとも、表の印は違う」
木箱を運ぶ使用人の腰には、短い木札が下がっていた。茶器係でも花係でもない。荷運びの札。行き先を書く札だ。
ディアナは足を止めなかった。止めれば怪しまれる。歩きながら、すれ違いざまに木札の紐へ指をかける。結び目の癖を見る。緩い。王城の使用人はこういうところが甘い。盗まれる前提で動いていない。
一歩、すれ違う。
指先が動く。
木札はディアナの手の中に落ち、袖の中へ消えた。代わりに、ミロが用意していた似た重さの小札が紐へ戻る。
相手は気づかない。
ディアナはそのまま角を曲がった。
「二つめ」
「お嬢、今日手癖いいねえ」
「褒め言葉として受け取る」
「盗賊団では最大級の褒め言葉だよ」
角を曲がった先で、カイルが木札を受け取った。裏に短い記号が刻まれている。
王妃宮南廊。
白花施療院経由。
聖務慈善会控え。
「聖務慈善会?」
ディアナが小さく読むと、カイルの目が少し細くなった。
「教会系だな」
「女神奉賛会だけじゃない」
「みたいだな」
袖の中の木札が、急に重くなった気がした。
ただの令嬢たちの陰口ではない。いくつもの善意の名前を借りて、茶会から茶会へ運ばれている。
その時、洗い場の方から女中たちの声が聞こえた。
「次の茶会でも同じようにお配りするそうよ」
「また、あの文を?」
「ええ。女神様に愛された方をお守りするためだって。婚約者を庇うお言葉も、義務というものがあるからって」
「まあ、そうよね。古い家の令嬢を無下にはできないもの」
ディアナの足が止まりかけた。
カイルの手が、そっと肘に触れる。止まるな、という合図だった。
分かっている。
分かっているけれど。
クリスがイレーネを庇った言葉まで、もう歪める準備がされている。
花の話は楽しいものですが、根のない話まで育てると、庭が荒れますよ。
あの軽くて明るい針を、義務にする気だ。婚約者だから庇っただけだと、古い家の令嬢を無下にできないだけだと、そういう形にして流す気だ。
次は、クリスの言葉まで使われる。
「……盗る」
ディアナは小さく言った。
カイルが隣で頷く。
洗い場の端には、濡れた卓布を入れる籠があった。その横に、小さな封筒の切れ端が落ちている。女中が足で寄せたそれを、ディアナは通りすがりに拾った。
落ちていたものを拾っただけだ。
袖の中へ入れた時点で、盗品になったけれど。
切れ端には、短い文が残っていた。
婚約者の優しさは、古い誓約への義務。
女神の道を妨げぬよう、清らかな祈りを広めること。
その横に、白い花と月桂の葉が二枚。
月桂の葉。
ディアナは、息をひそめた。
月桂は勝利の葉だ。けれど、この印の置き方は、ただの飾りではない気がする。女神奉賛会の印にしては古くさい。教会の印にしては貴族めいている。
旧訓練棟へ戻る頃には、外はすっかり夕方になっていた。
長机の上に、盗ってきたものが並ぶ。
盆の裏に貼られていた白花の小札。
荷運びの木札。
封筒の切れ端。
ミロが拾ってきた、別の茶会の口上控え。
ガロが追った馬車の行き先。
バルドが確認した、紙束に移っていた甘い香。
紙片一枚だった噂に、道が生えた。
ジークムントはそれらを見て、ゆっくりと笑った。
「見事だね。相手はまだ、噂を自分たちの手に置いているつもりだ」
「盗ったのは、流れの一部だけです」
「だからいい。全部盗れば、相手が気づく」
悔しいけれど、正しい。
リュクスが木札を拾い、月桂の葉の印を見た。
「妙に古いな」
「父さん?」
「裏の印じゃねえ。貴族の古い遊びだ。こういう飾り方は、俺たちより、古い家の人間の方が読む」
「古い家」
その言葉に、ディアナは一人だけ思い浮かべた。
盗賊団の足ではなく、古い家の目で物を見る人を。
まだ、まっすぐ頼れるほど近くはない。けれど、盗賊団の足では届かない場所を、あの人の目なら読めるかもしれない。
今、頼る場所ではない。
けれど、この道はいつか、あの人のいる場所へ伸びる気がした。
「で、次はこれか」
ミロが封筒の切れ端を指で押さえた。
婚約者の優しさは、古い誓約への義務。
「茶会でクリス様がイレーネ様を庇ったことまで、もう曲げる気なんだ」
「そう見えるね」
ジークムントの声は穏やかだった。
けれど、深い青灰色の瞳は少しも穏やかではなかった。
「なら、次に見るべきものは決まった」
「クリス様ですか」
「正確には、クリスとイレーネ嬢だ」
ジークムントの指が、封筒の切れ端を軽く押さえる。
「彼が義務で庇ったのか。それとも、彼女を見て言葉を選んだのか。そこを見誤れば、噂の形に飲まれる」
ディアナは、茶会で見た二人の背中を思い出した。
クリスが軽く笑い、イレーネが正しく礼をして、その場を離れた。派手な恋ではない。分かりやすい甘さでもない。
でも、あの二人の間に何もないとは思えなかった。
それを見たい。
見なければいけない。
イレーネを、かつての断罪の場所へ運ばせないために。
「見ます」
ディアナは言った。
「クリス様が、イレーネ様をどう見ているのか」
ジークムントが、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく見なさい、ディアナ」
「はい」
「君は、彼女に向く棘だけはよく拾う。なら次は、彼女へ向いている手も見落とさないことだ」
棘だけではない。
手も。
イレーネを刺す手。イレーネを支える手。その違いを見誤れば、こちらまで噂の筋書きに乗せられる。
ディアナは左手を握った。
指輪は赤くならない。
それでも、胸の奥には、盗るべきものだけが残っていた。




