第三十七話 盗賊娘、噂の棘を見る
噂は、香より軽く、毒より早い。
旧訓練棟の長机には、朝から紙片と木札が広がっていた。茶会の名簿、寄付筋の控え、王妃宮へ出入りする馬車の覚え書き。その端々に、同じ言葉が何度も出てくる。
菫色の瞳の少女。
女神に愛された少女。
王城へ招かれた、特別な少女。
そして、その隣に、別の言葉が貼りつき始めていた。
冷たい婚約者。
可愛げのない令嬢。
女神に愛された少女を、快く思わない誰か。
紙の上の文字だけなら、破れば済む。けれど噂は紙ではない。人の口に乗り、扇の陰で育ち、笑みの端に刺さっていく。
「お嬢、これ」
ミロが木札を一枚、指先で弾いた。小さな札には、今日の茶会の場所と招待客の名が書かれている。王妃宮に近い小庭園の茶室。女神奉賛会の慈善茶会。名簿の中には、リリアの名も、イレーネの名もあった。
「女神奉賛会って、前からあった?」
「名前だけなら前からあったらしい。けど、最近やけに表に出てきた」
「最近」
「菫色の瞳の少女が王城に来てから、だな」
リュクスが腕を組んだまま言った。声は低い。怒っているというより、獲物の匂いを嗅いでいる時の声だった。
「殿下はどう出る」
「王妃宮周辺の人の流れを見る名目で、茶会の外側に立つって」
「中へ入るのは?」
「私」
リュクスの目が、少しだけ細くなった。
「また見世物か」
「うん」
「腹立つか」
「立つ。でも、見世物は見世物で、見る側の目も見えるから」
言うと、リュクスが少しだけ口元を歪めた。
「いい返しだ」
「父さんの娘なので」
「そこは盗賊団の頭の娘と言え」
「どっちも同じでしょ」
「違わねえな」
雑な会話で、少し息が戻る。
けれど、胸の奥にはまだ、白い柱と朝の光が残っていた。ジークムントの知らない笑顔。リリアが恋に落ちた顔。あの光景を見ても、逃げないと決めた。だからこそ今、リリアを見なければいけない。イレーネを見なければいけない。
誰かが誰かをどこへ置こうとしているのか。
そこを、見逃さないために。
茶会の小庭園は、王妃宮に近い場所にあった。白い石畳、低く整えられた生け垣、季節の花で飾られた丸卓。女神奉賛会の慈善茶会というだけあって、卓の中央には白い花が活けられている。香りは薄い。けれど、どこかで嗅いだ甘さの名残が、鼻の奥に引っかかった。
ディアナは、ジークムントの半歩後ろを歩きながら、扇の陰と視線の流れを拾っていた。
今日は薄い灰青のドレスを着せられている。銀白色の髪を持つジークムントの隣に立っても色が寄りすぎず、指輪も埋もれない色。ロザリア先生なら「よく選びました」と言いそうだ。選んだのは自分ではないので、褒められても困る。
左手の中指には、偽オールトの指輪。今日は手袋をつけていない。指輪を見せるための装いだと、説明されなくても分かる。
見世物にするためのもの。逃がさないためのもの。社交界へ投げ込むための爆弾。
それだけだったはずなのに、最近は、そう言い切れなくなっている。
「緊張している?」
「しています」
「正直だね」
「嘘をつく余裕がないので」
「なら、よく見なさい。余裕がない時ほど、目は働く」
「悪い教えですね」
「君向きだろう?」
反論できないのが腹立たしい。
ジークムントは穏やかに笑っている。けれど、深い青灰色の瞳は茶会の中をゆっくり見ていた。笑みの温度と目の温度が合っていない。いつものことだ。だから少し安心してしまう。
怖いのに、安心する。
自分でも、だいぶ手遅れだと思う。
茶会の人々は、ジークムントを見ると一度息を止め、次にディアナの左手を見た。指輪。盗賊娘。第一王子の隣。そこまでは、これまでと同じだった。
違ったのは、そのあとだ。
視線が、リリアへ流れた。
リリアは庭園の中央近くにいた。淡い白のドレスに、菫色の瞳。周囲の令嬢たちに囲まれ、少し困ったように微笑んでいる。悪意に囲まれているのではない。むしろ、彼女の周りには好意の形をしたものが多かった。
「本当にお綺麗な瞳ですわ」
「女神様に愛された方は、やはり違いますのね」
「王城へ招かれるのも当然ですわ。菫色の瞳なんて、神話そのものですもの」
神話そのもの。
リリアの指先が、ほんの少しだけ強張った。
笑っている。礼もしている。けれど、喜んでいるようには見えなかった。まるで、自分の上に薄い布を何枚もかけられていくのを、どう受け止めればいいのか分からない顔だった。
女神に愛された少女。
綺麗な言葉だ。けれど、綺麗な布は時々、人の口を塞ぐ。
ディアナは扇を持つ指に力を込めた。
そこへ、イレーネが来た。
黒髪をきっちり結い、淡い藤色のドレスをまとっている。派手ではない。けれど、立ち姿だけで空気が整う。背筋、顎の角度、扇を持つ手。どれも正しく、隙がない。
隙がないから、可愛げがないと言われる。
何度見ても、腹が立つ。
「イレーネ様」
リリアが先に気づき、少しほっとしたような顔で頭を下げた。
イレーネはやわらかく礼を返した。
「リリア様。本日もお元気そうで何よりです」
「はい。イレーネ様も、お変わりありませんか」
「ええ。ありがとうございます」
短いやり取りだった。正しい。丁寧。棘はない。少なくとも、目の前で見ればそう分かる。
けれど、扇の陰で誰かが笑った。
「ご婚約者がいらっしゃる方は、やはり余裕がおありですのね」
「ええ。けれど、女神様に愛された方の前では、少しはお心を開かれてもよろしいのに」
「マルチェント様は、昔から少し冷たく見えますもの」
「正しすぎる方って、時に人を遠ざけますわね」
言葉は柔らかい。声音も高い。けれど、刺す場所を知っている。
イレーネの扇の角度が、ほんの少しだけ変わった。
傷ついた。
泣かない。顔色も変えない。背筋も折らない。それでも、傷ついたことだけは分かった。
ディアナの左手が、熱を持った気がした。
素肌の左手で、指輪の輪郭が硬く返る。視線を落とすには不自然な場面だった。けれど、どうしても気になって、ディアナは扇を持つ右手で口元を隠しながら、左手をわずかに動かした。
白金色の輪に、かすかな赤が差していた。
赤。
ディアナは息を止めた。
菫色ではない。女神系の欠片に触れた時の色でもない。もっと薄く、けれど目を逸らせない色だった。
どうして。
イレーネが傷ついた。それを見た。ただ、それだけで、指輪が赤を帯びた。
ジークムントの視線が、一瞬だけディアナの左手へ落ちた。
「赤くなったね」
声は低かった。茶会のざわめきに紛れるほど、静かだった。
「……見えましたか」
「見えたよ。君が隠すには、少し遅かった」
ジークムントの視線が、イレーネの去った方へ流れる。
「彼女のためか」
責める声ではない。けれど、ただの確認でもなかった。
「分かりません」
それは本当だった。赤なんて知らない。菫色ではない。女神系の欠片に触れた時の色でもない。もっと薄く、けれど目を逸らせない色だった。
ジークムントは短く笑った。
「だろうね」
穏やかな声だった。けれど、ほんの少しだけ棘がある。
「君が彼女を気にする理由は、知っているつもりだったけれど」
彼の目が、また指輪へ戻る。
「……指輪まで、か」
ディアナは左手を下ろした。胸の奥がざわつく。赤の意味は分からない。今考えたら、茶会の真ん中で足を止める。だから、目の前へ戻る。
イレーネは扇を閉じなかった。声も荒げなかった。ただ、静かに微笑んだ。
「ご心配をありがとうございます。私は、私に求められている務めを誤らないようにしているだけですわ」
「まあ。やはりお堅いのね」
「堅さが必要な場もございます。柔らかさが必要な場も。どちらか一方だけで、社交は成り立ちませんもの」
正しい。
正しすぎるほど、正しい。
令嬢たちの笑みがわずかに薄くなる。その中で、リリアだけがイレーネをまっすぐ見ていた。菫色の瞳が揺れている。イレーネが責められていることに気づいている顔だった。でも、どう入ればいいのか分からない顔でもあった。
リリアも、悪い子ではない。
それがまた、厄介だった。
「でも、クリス様はお優しい方ですもの」
別の令嬢が、甘い声で言った。
「イレーネ様があまりに正しくお立ちになると、クリス様も窮屈ではございません?」
「そうですわね。女神様に愛された方のように、自然に周囲を明るくなさる方もいらっしゃるのに」
「婚約というものは、時に人を縛りますもの」
縛る。
その言葉に、ディアナの指先がぴくりと動いた。
同じだ。
朝見た控えにあった言い回しと同じ。冷たい。可愛げがない。縛る。妨げる。女神に愛された少女。
自然な陰口なら、言い方はもっと散らばる。人は好き勝手に悪口を言う。もっと雑で、もっと個人的で、もっと矛盾する。けれど、これは違う。
同じ言葉が、同じ向きで刺さっている。
誰かが、言葉を配っている。
イレーネは少しも崩れなかった。
「クリス様が窮屈に思われるかどうかは、クリス様ご本人にお尋ねになるのがよろしいかと存じます」
その場に、薄い沈黙が落ちた。
強い。
綺麗だ。
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。前々世の自分が、あの場所で立てなかったことも、今のイレーネが自分とは別人として立っていることも、全部まとめて痛かった。
だからこそ、守りたい。
今のイレーネを、前世で見たあの筋書きの中へ押し込めたくない。
「イレーネ」
軽い声が、茶会の端から入った。
クリスだった。
伯爵家の次男として招かれている顔。けれど、その立ち方と視線の配り方は、ただの次男ではない。彼はにこやかに笑いながら、イレーネの隣へ自然に立った。
「こちらにいたんだね。探したよ」
「クリス様」
「少し、席を外しても? 白花施療院の寄付名簿について、君に確認したいことがあるんだ」
「ええ。失礼いたします」
イレーネは、誰かに助けられたという顔をしなかった。正しく礼をして、正しくその場を離れる。
けれど、クリスが去り際に令嬢たちへ向けた笑みは、やわらかいだけではなかった。
「皆様、花の話は楽しいものですが、根のない話まで育てると、庭が荒れますよ」
軽い。明るい。けれど、針がある。
令嬢たちの笑みが、さらに薄くなった。
クリスとイレーネが離れていく。その背中を、リリアが見ていた。何かを言いたそうに唇を動かしかけ、けれど結局、声にはしない。
ディアナはその横顔を見た。
リリアも、置かれかけている。
女神に愛された少女。神話そのもの。周囲を明るくする方。クリス様を縛る婚約者と並べられる、柔らかくて特別な少女。
そんな席に、本人の意思を確かめる前から置かれている。
腹が立つ。
イレーネを刺すために、リリアまで道具にしている。
「ディアナ」
ジークムントの声が、低く落ちた。
ディアナははっとして、扇の陰から顔を上げる。
「はい」
「手」
「……手?」
ジークムントは笑っている。いつもの穏やかな笑みだ。けれど、目は笑っていない。
「扇の骨が折れそうだよ」
見ると、右手に持った扇の骨が、ぎしりと嫌な音を立てていた。
危ない。ロザリア先生に怒られる。いや、それより茶会の真ん中で扇を破壊する盗賊娘はだいぶまずい。
ディアナは力を抜いた。
「すみません」
「謝る相手は私ではないね」
「扇に謝ります」
「そういうところだよ」
ジークムントの視線が、ほんの一瞬、左手の指輪へ落ちた。赤はもう薄く沈みかけている。完全に消えたのか、光の加減で見えないだけなのか分からない。
「今の言葉、聞いた?」
「はい」
「どう思った」
「陰口にしては、言葉が揃いすぎています」
「続けて」
「冷たい、可愛げがない、縛る、妨げる。朝見た控えにあった言い回しと同じです。普通の噂なら、もっと汚く散らばります。これは、たぶん誰かが形を作っています」
「誰かが?」
「はい」
ディアナは、イレーネが去った方を見た。
もう姿はない。けれど、さっきの扇の角度だけが目に残っている。傷ついても、折れずに立つ姿。
「あの方を、そういう令嬢に見せるために」
あの筋書きの名前が、喉元まで上がってくる。
けれど、ここでは飲み込んだ。
ジークムントは、少しだけ目を細めた。
「君は、彼女に向く棘だけはよく拾うね」
「拾います」
「隠さないね」
「隠しても、たぶんばれるので」
「賢明だ」
穏やかな声だった。
けれど、そこに少しだけ別の温度が混じった気がした。面白がっているのか、試しているのか、それとも別の何かなのかは分からない。
ジークムントは、茶会の奥へ視線を流した。リリアを囲む令嬢たち。王妃宮に近い侍女。白い花の飾られた卓。女神奉賛会の印をつけた婦人。
「なら、盗るものが決まったね」
「物ではありません」
「盗賊娘にとっては、物だけが獲物ではないだろう?」
「……はい」
その通りだ。
盗るものは、噂の出所。
誰が同じ言葉を配っているのか。どの茶会で同じ話が出るのか。どの家の使用人が運んでいるのか。白花施療院、女神奉賛会、王妃宮。そのどれが、どこで繋がるのか。
茶会の終わり際、ディアナはもう一度リリアを見た。リリアは令嬢たちに囲まれながら、どこか落ち着かない顔をしている。褒められているのに、喜びきれない。持ち上げられているのに、足元が見えていない。
イレーネの姿は、少し離れた柱の影にあった。クリスが何かを話し、イレーネが静かに頷いている。背筋はまっすぐだ。泣かない。崩れない。
それでも、傷ついていないわけではない。
ディアナの左手が、またほんの少しだけ熱を持った。
今度は見ない。今見たら、表情が崩れる気がした。
代わりに、ディアナはまっすぐ前を見た。
まずは、イレーネ様へ向かう棘を盗る。
その棘をリリア様の花冠に見せかけている手も、盗る。
旧訓練棟へ戻る馬車の中で、ジークムントはしばらく何も言わなかった。サディアスも黙っている。馬車の車輪が石畳を拾う音だけが続く。
沈黙に耐えかねたのは、ディアナだった。
「あれ、偶然じゃありません」
「そうだね」
「同じ言葉が、同じ向きで刺さっていました」
「うん」
「イレーネ様を、そう見せるために」
言葉にした瞬間、胸の奥が冷えた。
前々世で、自分に貼られたもの。ゲームでイレーネに貼られていたもの。綺麗に飾られた処刑台への道。
「その噂を追います」
ディアナは言った。
「追うだけ?」
「盗ります」
「何を」
「噂の流れを」
ジークムントが、少しだけ笑った。
いつもの笑みだった。逃げ道を塞ぐ時の、綺麗で悪い笑み。
「いいね」
「楽しそうにしないでください」
「無理だね。君が面白いことを言うから」
「私はかなり真面目です」
「知っているよ」
その声が少しだけ低かった。
ディアナは言葉を止める。
ジークムントは窓の外へ視線を向けた。銀白色の髪に、馬車の窓から入る光が淡く触れている。朝の渡り廊下で見た笑顔は、もうない。けれど、それを知らないふりもできない。
胸が痛い。
でも、今はそれを置く。
「リリア様も、置かれかけています」
「そう思う?」
「はい。本人が望んで女神様の席に座っているようには見えませんでした」
「君は欲張りだね」
「言われました」
「もう一度言っておこうと思って」
「いりません」
「イレーネ嬢も、リリア嬢も、両方盗るつもりか」
「必要なら」
ディアナは左手を握った。
「盗賊娘なので」
ジークムントは、すぐには返さなかった。
馬車の中に、短い沈黙が落ちる。見られている。深い青灰色の瞳が、ディアナの言葉の奥まで拾おうとしている。
記憶視ではない。
それでも、この人は見る。
「なら、まずは出所だ」
ジークムントが言った。
「噂は人が運ぶ。人が運ぶなら、足跡がある」
「盗賊団の仕事ですね」
「そう。君たちの仕事だ」
馬車が旧訓練棟の前で止まった。
扉を開けると、ミロが待っていた。なぜか得意げな顔をしている。嫌な予感がした。
「お嬢、茶会の土産」
「お菓子?」
「だったらよかったんだけどね」
ミロは、懐から小さな紙片を出した。
端には、白い花の印。
女神奉賛会の茶会で、卓の中央に飾られていた花と同じ形だった。
ディアナは紙片を受け取り、そこに並んだ短い文を読んだ。
菫色の瞳の少女は、女神に愛された証。
王城はその清らかな方を守るべき。
婚約に縛られた古い家の令嬢が、女神の道を妨げぬよう祈る。
息が止まった。
同じ言葉だ。
冷たい。
縛る。
妨げる。
茶会で聞いた棘は、誰かの口から自然に生まれたものではなかった。
配られている。
イレーネを、かつての断罪の場所へ運ぶための道が、もう敷かれ始めている。




